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本についての話と師匠の異変

 ボクの周囲は、にわかに騒がしくなってきた。

 行方不明とされていたヴァル領主、モンダギュー。

 彼の死が正式に断定され、主を失った領地が国の直接管理下に置かれることになったからだ。


 監査官のワルターさんは、領地情報の引き継ぎや戦後処理に奔走し、文字通り首も回らないほどの忙しさらしい。

 館へ報告に現れた際も、泥のように疲れ切った顔で延々とぼやきを零していた。


 一方で、この館の中も妙な活気に包まれている。

 師匠はどういう風の吹き回しか、館にある心水をすべて飲み干すほどの痛飲を繰り返し、ボクの方はといえば、師匠の論文に研究成果が引用されたせいで、意見を求める魔導学者たちが次々と訪ねてくるようになった。


 息をつく暇もない。ボクが過ごす今年の梅雨は、そんな喧騒の中で幕を開けた。


「……」


 師匠は珍しく、錬金術について記された古書を貪るように捲っている。

 珍しいというのは、錬金術という分野そのものではない。

 師匠は極度の多読家であり、魔導書はもとより歴史、経済、戦術、哲学と、あらゆるジャンルの深淵を渉猟する人だ。


 真の専門家とは、己の領分だけを知ればいいわけではない。

 他分野の深淵に触れてこそ、己の立ち位置を正しく理解できる――それが師匠の持論だ。

 もっとも、単純に師匠が度を超した『愛書狂』であることも大きいだろう。

 この館が足の踏み場もないほど本で埋め尽くされているのは、彼が手段を選ばず蒐集し続けている結果に他ならない。


 今、アイテリウスにおいて本の価値は激しく流動している。

 かつて紙は金と同等に高価なものであり、書物を所有することは高貴な身分の証左であった。

 だが、そこには「言語」への狂信的な信仰を持つ、教団領大陸特有の力学が働いていた。


 メリクリウス教団は聖なる言葉を普及させるため、本や紙に関する取引の税を一切免除したのだ。紙やインクの改良、写本職人の組織化、さらには印刷技術の普及。これらがわずか数十年という短期間に重なり、本の価値は劇的に変貌した。


 個人的には、その普及の裏側にある「俗な事情」が面白いと思っている。

 かつて富豪しか持てなかった高価な書物が市場に溢れ出した理由――それは、屋敷を去る使用人たちが、行き掛けの駄賃代わりに本を盗み出すことが多発したからだという。


 不名誉な窃盗を公表できぬ貴族たちは、盗まれた本を追跡することも叶わなかった。結局、それらは価値のわからぬ遍歴商人に二束三文で売り払われ、至高の知恵は雑多な日用品に混ざって街へと流れていったのだ。


 もっとも、巷に流れるのはあくまで写本の類だ。専門書や稀覯本きこうぼん、ましてや「原本」ともなれば、その価値は今なお天を突く。原本を所有することは家宝に等しく、中には一冊の本を守るためだけに専用の騎士を雇う者さえいたという。


 そんな貴重な書物を次々と手に入れる師匠は、特級騎士であると同時に、いかなる学閥にも属さない孤高の魔導学者でもある。

 特級騎士の俸給は破格だが、彼にはそれ以外にも複数の『魔術特許』による莫大な副収入があった。


 魔術特許――それは、魔導学者が編み出した術式の濫用を防ぐための厳格な法的制度だ。

 魔術は使い方一つで広大な河川を汚染し、農耕地を壊滅させる犯罪の道具と化す。ゆえに現代では、新たな術式を発表すると同時に認可を得なければ、その発動を禁じる特許制度が確立されている。

 師匠は自ら生み出した数々の魔術を登録しており、各地の防衛にその術式が利用されるたび、莫大な使用料が転がり込んでくる仕組みになっているのだ。


 かと言って、資金さえあれば目当ての本が手に入るほど、この世界は単純ではない。

 所有者が本を手放す唯一の状況――それは、貴族の『没落』だ。

 家名の再興のためか、あるいは不祥事の賠償金として差し押さえられるか。本が動くとき、そこには必ず誰かの破滅が付き纏っている。


 だからこそ、師匠は一種の『金融業』を営んでいる。

 現代において、金を扱う職業は決して良い目では見られない。だが師匠が行っているのは、書物を担保にした貸付――その実態は、困窮した人々への救済に近い。


 借りに来るのは、竜害で領土を焼かれた領主や、不作で特許料が払えなくなった組合などだ。

 貸した金は大抵返ってこない。けれど師匠は取り立てもせず、そのまま担保の本を買い取ることで幕を引く。金貸しという皮を被り、彼は法外な高値で本を保護しているのだ。

 ワルターさんは「七聖剣が政治に介入してはいけない」という暗黙の了解を口にするが、師匠はこの不器用な方法で、報われない者たちに自らの報酬を分け与えていた。

 

 さて、話は師匠が読んでいた本に戻る。

 師匠はどんな駄作であっても、必ず最後の一行まで目を通す規律正しい読書家だ。読後に「時間を無駄にした」と不機嫌になることはあっても、途中で投げ出すような真似は一度もなかった。


 そんな師匠が今、読みかけの本を机に置いたまま、錬金術の古書を狂ったように読み漁っている。


 ボクは師匠の思考を無遠慮に詮索したりはしない。けれど、あの人がこれほどの異状を見せるということは、何かが起きようとしているか――あるいは、すでに何かが起きてしまったということだ。


 窓の外には、重苦しい鉛色の雲がどこまでも広がっている。

 気が滅入るような湿り気が肌にまとわりつき、空気がずっしりと重い。

 雨が降り出す直前特有の、あの鼻を突く匂いが部屋に流れ込んできた。


 それはまるで、避けられない災厄がすぐそこまで来ているという、不吉な前兆のようだった。


――――


 錬金術――それは化学、医学、哲学、そして魔術が高度に融合した「工業魔術」である。

 鉱石や物質の組成を変容させるだけに留まらず、その本質は「魂」をも操作の対象とする、極めて危うい技術だといわれていた。

 

 かつては、卑金属を黄金へと変えるという王命の元に産声を上げた魔術。

 しかし、その研鑽の裏で真の錬金術師たちが追い求めたのは、物質と魂の「浄化」と「進化」であった。


 服用すれば永遠の若さを保つという至高の霊薬、エリクサー。

 フラスコの中に生命の起源を封じ込め、科学的に再現しようと試みた人造人間、ホムンクルス。

 そして、万物に等しく奇跡を強いる、究極の触媒――賢者の石。


 かつて、錬金術師たちはそれら三つの頂を目指して突き進んだ。だが、その大望がついぞ結実することはなかった。

 やがて国家は、それらがもたらす破滅を恐れ、厳格な三箇条の禁忌タブーを以て錬金術を封じ込めたのだ。


 一、人を作るべからず。

 ――生命を人の手で紡ぐことは、神の領域への冒涜である。

 一、永遠の命を望むべからず。

 ――生死の理を歪め、人類の総数を操作してはならない。

 一、金を作るべからず。

 ――無価値な石を黄金に変えれば、経済の均衡は瞬時に崩壊する。


 これらは現代の魔術師にとっても、魂に刻むべき「鉄の掟」である。

 いかに特級の地位にあろうとも、この原則を違えれば、待っているのは教団からの破門と、国家による抹殺のみだ。


 

 賢者の石――それは、メリクリウス神が人間に見せた「至高の奇跡」である。


 それは金属であり、同時に液体である。

 物質でありながら、霊そのものでもある。

 氷のように冷たいが、同時に火として燃え盛り、万物を蝕む毒でありながら、あらゆる病を癒やす妙薬でもある。


 相反する諸対立を一つに結びつける「対立物の合一コインキデンティア・オッポジトールム」の象徴。


 教団の教義によれば、かつてメリクリウス神はこの石を用いて水をワインに変え、荒れ果てた野を黄金の麦畑へと変えたという教団の象徴。


 セウロハ王国は、教団を国教として受け入れている国だ。

 メリクリウス教会の象徴である「賢者の石」を特別視するのは、信徒として至極当然の反応と言えるだろう。


 だが、あの日アレクシスが耳にした、元老院議員の最期の言葉――それは単なる信仰心などではなく、明確に「賢者の石」そのものを手中に収めようとする強烈な執着であった。

 

 元老院が、メリクリウス教団の内部と何らかの繋がりを持っている。

 その不吉な予感は、教団が決して一枚岩ではないという現実をアレクシスに突きつけていた。


 教団国家セウアマリロ。神の恩恵に感謝を捧げる聖者の集いといえば聞こえはいいが、その実態は「言語の統一」を武器に、かつて大陸全土を事実上の支配下に置いていた覇権国家である。

 現代でこそ領土は当時の三分の一以下に縮小しているが、今なお諸国の安定を司る特別な上位国家として、君臨し続けている。


 その聖域の中には、謙虚な聖人ばかりがいるわけではない。「自分たちこそが選ばれた優れた種族である」という傲慢な選民思想を抱く者も少なくないのだ。

 一部の元老院と教団が結託し、隣国セウアズールを滅ぼして再び大陸の絶対的支配者となる……。

 

 そんなものは、ありふれた陰謀論に過ぎない。

 絶え間ぬ竜害に喘ぐこの国で、国家間の大規模な戦争に興じる余裕などあるはずがないのだ。せいぜい、悪徳貴族が己の領土で小賢しい悪政を敷く――現実はその程度の矮小なものだ。


 正義を糧にした諍いなど、この世界では日常茶飯事だ。

 けれど、アレクシスはただ独り、来たるべき最悪に備えて冷たき刃を研ぎ澄ませている……。

 


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