薬と消えた婚約者の行方
他家へ嫁ぎ、地位が劇的に変化することに伴う煩雑な手続きを終え、ようやく私が呼び寄せた「待ち人」と相まみえる。
抜き身の刃を思わせる白銀の髪。過酷な魔術行使の後遺症だろうか、混じり合う紫のメッシュがひどく目を引く。
無表情ゆえに人間味を欠いたその貌は、実年齢より幼い造作も相まって、よりいっそう精巧な人形めいた趣を増していた。
メリクリウス教団が任命した特級騎士――『七聖剣』の一人、アレクシス・ボルク。
その地位は大司教に匹敵し、竜害が絡めば枢機卿や侯爵にさえ物申す権利を有する。当の本人は世捨て人のように振る舞っているようだけれど、兄様の噂は大陸の果てまで届いているわ。
元は、ボルク公伯爵家の嫡男として生を受けた、ごく普通の貴族。
けれど、生まれ持った膨大な魔力と引き換えに何かを失う。
サクリファイス。
稀代の魔術師として生きる宿命を背負わされた兄様は、貴族社会という澱の中では息をすることさえままならない。
だからこそ、我が家は長男であった彼を、次男として教団へ出家させた。
人道的には非道と言えるけれど、貴族としては至極真っ当な選択。
宮廷という魔窟において、何かが欠落した人間が真っ当に生きていけるはずもないのだから。
「意外と女性に好かれるのね。お見合い話の一つや二つ、届いていてもおかしくないのかしら?」
私が戯れに水を向けると、兄様はひどくつまらなそうな顔をした。
惚れた晴れたなど、自分の生き方には無縁だと思っているのでしょうね。
正直、私としては愛しの兄様ともう少し熱を帯びたお話をしたいのだけれど――当の兄様は、早く要件を言えという態度を隠そうともしない。
声を発せられないというのに、どうしてこれほどまで表現が豊かなのかしら。
「――用件はシンプルよ。私の『婚約者』について、調べてほしいの」
もちろん、この婚約によって自身の経歴に傷がつくようなら、破棄しても構わないと思っているわ。
家格はこちらの方が上なのだから、あちらの落ち度に仕立て上げることも、あるいは「遠縁ゆえの婚姻無効」という筋書きを仕込むことも、今の私なら造作もないこと。
「ステンノさんは、この婚約を無効にしたいのですか?」
ふふ、なんとも気の利いた助け船だこと。
複雑な盤面を進めるには、こうして急所を突いてくれる相槌が必要不可欠だわ。
「貴族の令嬢ですもの。好き嫌いで添い遂げる相手を選んだりはしないわ。……けれど」
兄様は察したようね。
この縁談の裏に、我が家にとって看過できぬ「不利益」が潜んでいることを。
そして――やはり兄様も、ボルクの血を引く貴族なのだわ。
肌を刺すような、この冷たい緊張感。
選民思想など反吐が出るけれど、この感覚ばかりは、貴族として生まれ堕ちなければ理解し得ない。
血の通わぬ策謀と、静かなる殺意。
これこそが私の故郷。私が、私として生きるために守り抜いてきた場所なのだから。
「まずは、何のお話から始めましょうか。そうね、兄様――薬の『正』と『誤』。その境界は、一体どこにあるとお思いかしら?」
私の問いに応じ、兄様は滑らかな手つきで論理を綴り始めた。
王立学院の教授陣すら凌駕する速度。虚空に定着していく言語の美しさは、もはや芸術の域に達している。
『――四体液説。人体は四つの体液で構成されており、その調和が崩れることを「病」と定義する』
「確か、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四つだったかしら」
『――然り。元は地、水、火、風の四大元素説に端を発するとされている』
兄様の指先が、それぞれの性質を鮮やかに列挙していく。
血液:多血質(熱・湿)。陽気で活動的。
粘液:粘液質(冷・湿)。冷静、あるいは不活発。
黄胆汁:黄胆汁質(熱・乾)。短気、かつ積極的。
黒胆汁:黒胆汁質(冷・乾)。心配性、あるいは憂鬱。
『――崩れた均衡を回復させるには、過剰なエネルギーを体外へ排出するのが定石だ』
続けて綴られるのは、古来より伝わる医術の理。
血管を切り、溜まった悪血を抜くことで体温を下げ、熱のバランスをリセットする瀉血。あるいは強力な薬草を用い、体内の粘液を強制的に排出させる誘導法。
熱い病には冷やしたものを処方するといった、属性の対比による食事療法。
『属性の概念は魔術の根幹と密接に結びついている。「温」と「冷」、「乾」と「湿」。食材に新たな属性を付与する工程は、魔導の儀式そのものだ。――ちょうど、そこにあるコンポートのようにな』
私が所望してミクルに作らせていた菓子が、まさかこれほど鮮やかな教材に仕立てられるとはね。
この大陸において、「冷」の属性を帯びた生の果実は体内で腐敗を招くと忌まれている。だからこそ、熱とスパイスを加えて属性を反転させ、安全な「糧」へと造り替える必要があるのだ。
「でも現代においては、精製された薬物によってそのバランスを強制的に整えるのが、最も一般的な手段とされていますね」
ミクルの静かな指摘に、兄様の手が止まる。
人体の構造が「神秘」のベールに包まれているからこそ、回復魔術という奇跡は成立する。けれど、もし万能薬が完成し、肉体の理が白日の下に晒されてしまえば……それは回復術という神秘の終焉を意味すると、いつかの講義で語られていたわ。
「結局、技術が進歩すれば、人間はより安易で『便利』なものへ流れるものよ。……それが毒か薬かも分からぬままにね」
『薬の「流通」か』
「その通りよ。本来、薬の流通といえば『病に伏した民へ救いを届ける』と言えば聞こえはいいわ。けれどその実、毒にも等しい何かを撒き散らしている可能性を否定できないのよ」
「え……?」
傍らのミクルが小さく息を呑む。
輿入りを控えた私の元には、出所不明の手紙が次々と届くの。厳重に封蝋されたそれらを紐解くたびに、どす黒い疑惑が積み上がっていく。
複数の領主が合同で進める大規模な計画――。
利権に群がる者たちの思惑が絡むのは必然だけれど、これほどまでに薬に関する黒い噂が絶えないのは異常だわ。
火のないところに煙は立たない。その格言を鵜呑みにするわけではないけれど、用心に越したことはないもの。
『大事なのは均衡だ。血液が過剰になれば狂気と愛欲に侵され、粘液が過ぎれば倦怠に沈む。黄胆汁は憤怒と野心を燃え上がらせ、黒胆汁は人を絶望の淵へと突き落とす――』
兄様が綴る文字は、まるでこれから起こる惨劇を予言しているかのよう。
「そしてさらに――私の婚約者が『行方不明』になったという凶報が、たった今届いたのよ」
おかしいとは思わないか、と問いかける前に兄様は小さく頷いた。
失踪と断定し、報告を上げるまでの時間が早すぎる。まるで、あらかじめ用意されていた筋書きをなぞっているかのように。
「伯爵家を相手にするにしては杜撰な暗躍だけれど、これを看過するわけにはいかないわ。だからこそ、兄様に『真実』を調べてほしいと頼んでいるの」




