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薄暗い通路と追い詰められた男

 あの青年が修道院を去る際、司祭に「ある人物」を探していると漏らしたらしい。

 聞き及んだところでは、知人が危険な連中と関わって悪質な商売に手を染めてしまい、そこから逃げ回っているのだという。



 青年は高価な服を脱ぎ捨て、修道士の身なりに擬装してどこかへと消えた。

 ボクはアンナと心水を飲み交わし、その残りを館に持って帰った。

 ボクが屋敷へ戻ると、王都へ向かった師匠からの伝令鳩がちょうど舞い戻ってきたところだった。

 

 どうやら探すべきは、例の「噂の花婿」で間違いなさそうだ。

 向こう側にどれほどの情報が渡っているかは不明だが、師匠の推測も概ねボクと同意見のようである。

 翌日の早朝、ボクはようやく青年が追っていた人物の潜伏先にたどり着いた。

 ――ややこしいな。もう、彼のことはサイアスと呼ぶことにしよう。


 司祭がサイアスから聞き出した断片的な情報。一人の人間が移動できる限界範囲。

 宿屋や酒場で、高価なアルコール――「心水」を煽っているか、身なりのわりに妙に羽振りのいい客がいないか。それらを丹念に絞り込むことで、ようやくこの「地下路」を見つけ出した。


 ここはボク達の館ではなく、また別の貴族の屋敷の話になるが、仕える使用人たちは主公とは別の専用通路を歩く。

 サイアスが追っている相手が「使用人」であるという点から、屋敷の奥に隠し階段や専用の動線があるはずだと踏んでいたが、ようやく正解に辿り着いたわけだ。


「ロアンさんだね。君を迎えに来た」


 移動のためだけに作られた通路には、飾り木一つなく、窓もない。

 その上、地下に位置するため陽光は届かず、ただ薄暗いだけの虚無的なトンネルが続いていた。


 その突き当たりに、ひどくやつれた男が蹲っていた。

 傍らには心水と薬物の空瓶が転がっている。

 空気に混じるこの倦怠感――これは現実から逃避するために、あえて酒と薬物で「絶望」を捏造するダウン系の薬だ。

 黒胆汁の均衡を意図的に崩し、精神をドリップさせる。そんな悍ましい代物だった。


「勘違いしないでくれ。ボクは別に助けに来たわけじゃない。ただの聴取だ」


 彼は薬の助けなど借りずとも、とうに正気を失いかけている。

 おそらくは、よほどの惨劇を目の当たりにしてしまったのだろう。

 この暗闇の中に自分を閉じ込めることで、かろうじて壊れかけた精神を繋ぎ止めている。薄氷を踏むようなやり方だが、結局のところ、彼は心水と薬物に依存することでしか、その危うい均衡を保てないのだ。


「俺はここから出ない……外に出れば殺されるッ!」


「ここにいても殺されるよ。いずれね」


 無理やり気を失わせて連れ出そうとしても、か細い精神の糸がぷつりと切れて、そのまま再起不能なほど発狂してしまうかもしれない。


「――そうだ、少しだけ独り言に付き合ってくれないか。とある領主がセウ・アマリロの監査教団へ向かう途上で、行方不明になったという。その道中には襲撃の痕跡があり、三つの遺体も残されていた……」


 男は、先ほどとは質の異なる怯えを露わにした。

 これから起こることへの恐怖ではない。今まで自分が加担してきた罪を、白日の下に晒されることへの恐怖だ。


「その領主はその後、修道院を訪れたそうだ。宿と尋ね人の情報を得るためにね。だが、事件が起きたにもかかわらず、修道院には詳細を一切語らなかった。……ねぇ、君は本当に何も知らないのか?」


「知らない! 俺は……俺はそんなこと知らないんだ!」


「そうか。じゃあ、とりあえず修道院にでも行こう。騎士団に連絡して、身柄を引き渡してあげるよ」


「そんなの俺のせいじゃない! 出来るはずがないんだ、あんな、あんなことを……!」


 錯乱した彼は、ついに溜め込んでいた澱を吐き出し始めた。

 

「あの人は、やっぱりまともじゃない。――バケモノだったんだ!」


 自ら口にした言葉で、当時の光景を鮮明に思い出したのだろう。

 彼は両手で頭を抱え込むと、血が滲むほどに自らの頭皮を激しく掻きむしり始めた。


 「……あいつ、急に豹変して、人間業とは思えない魔力を放ち始めたんだ! そしたら、もう事切れてる連中の死体を、何度も、何度も切り刻んで……ッ!」


 彼の言葉が真実なら、それはあまりに異常だ。

 極限状態での錯乱だとしても、死体を執拗に損壊するほどの狂気。襲撃され、殺されかけた報復としては理解できなくもない。だが、その執着はもはや正気の沙汰ではない。

 果たして、あの修道院に現れた端正な青年と、ロアンの語る「怪物」は同一人物なのだろうか。


 ――その疑問は、一旦保留しておこう。

 それよりも、今は看過できない情報があった。


「その――サイアスも、薬を常用していたのか?」


「サイアス様は幼い頃から持病を抱えていて、ずっと投薬を続けていたと聞く。だが、エルギット様が領主の座に就けば、俺の立場も良くなると言われたんだ……! 坊ちゃん一人を仕留めるだけの簡単な仕事のはずだったのに、どうして、どうしてあんな……!」


 エルギット。その名には聞き覚えがある。

 

「……もういい、黙っていろ」


 ボクは短く告げ、これ以上の醜態を遮断した。

 これ以上話を聞くとボクもボクでいられる自信がなかった。


「事情は分かった。騎士団に知り合いがいる、そこへ保護させよう。……もっとも、今更無罪でいられるなどと思うなよ」


「やだ……殺される、殺されるッ!」


 その言葉に、妙な違和感を覚えた。

 罪を暴かれ「捕まる」ことへの恐怖ではない。問答無用で「殺される」と断じている点に、決定的な食い違いがある。

 ボクは、空瓶の傍らに一通の手紙が落ちていることにようやく気づいた。


「――なるほど。騎士団の中にも、そのエルギットという男の手の者が紛れ込んでいるのか」


 拾い上げた紙面には、彼を「用済み」と断じ、処理を命じる指示が冷徹に記されていた。

 表の組織に引き渡せば、待っているのは裁判ではなく、口封じのための死。

 そんな末路を予想できなかったのは彼の落ち度だが、これならばむしろ、こちらにとって「最善の手」が打てる。

 

「安心しろ。君をどこへも引き渡さない。ボクが知る限り、この大陸で最も安全な場所へ連れて行く」


 エルギットという男の悪事を暴くには、生きた証人が不可欠だ。

 そのためには、師匠とボクの手で、この壊れかけた男を守り抜くしかない。


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