未完の館と、汚濁した湖
――イメージは、汚濁した湖だ。
かつては清冽であったはずの湖に、誰かが一片の汚れを投げ込む。
「あいつもやったのだから」と罪悪感は連鎖し、やがて誰もが競うように毒を注ぎ始める。
初期であれば、汚れを掬い取り、元に戻すこともできただろう。
けれど、汚す側の力ばかりが膨れ上がった湖は、やがて取り返しのつかない終焉へと濁っていく。
――――
「ニャー」
キャスパリーグの鳴き声と、頬を叩く肉球の柔らかな感触で意識が浮上した。
昨日から没頭していた古代魔導学書の解読。
少しだけ仮眠を取るつもりが、結局、机に突っ伏したまま朝を迎えてしまったらしい。
無理やり背筋を伸ばすと、固まった関節が小気味よい音を鳴らす。案外、頭の芯は冴え渡っていた。
「おはよう、ベルル。ようやくお出ましかな」
声のする師匠の私室へ向かうと、そこにはワルターさんの姿があった。
「話している」のは、教団監査官であるワルターさんだけだ。
師匠は彼が持ち込む事務的な報告を、ただ静かに聞き流している。
「ヴァル領の戦後補填についてだが……」
整った礼装に金髪碧眼。
その容姿は絵物語の王子様のようだが、二国間の均衡を監視する職務は、彼に相当な心労を強いているらしく眉間には、消えない深い皺が刻まれていた。
対する師匠は、椅子に深く腰掛けたまま報告書に目を通している。
やがて師匠はその紙束をつまみ上げると、重さを量るように一度だけ揺らし、興味の失せたゴミでも捨てるかのように無造作に机へ放った。乾いた紙の音が、不機嫌に室内に響く。
「……すみません。寝過ごしました」
「見れば分かる。まずはその寝癖を直したまえ。君まで師匠に似てきてどうする」
ボクが恐縮して声をかけると、ワルターさんはため息混じりに視線を向けた。
元々が癖っ毛なので誤魔化せると思ったが、エリート役人の目は鋭い。
ボクは「はーい」と軽く応じて一度部屋を出た。鏡の前で身なりを整え、ついでに二人の分の珈琲を淹れることにする。
この広大な館に住むのは、ボクと師匠の二人きり。
師匠は誰に命じられてここにいるわけでもない。
彼曰く、この館は「余っている所持金を使い切るため」に買い叩いたものだという。無数にある部屋のほとんどは、今や図書館のごとく魔導書で埋め尽くされていた。
ボクがここへ来て、もうすぐ一年。
……もっともボクの場合は、とある事情で師匠に「買い取ってもらった」身なんだけどね。
あの日、色町に現れた竜を退治したドラゴンスレイヤー。
その噂だけを頼りに、ボクは師匠の身元を調べ回った。
色町で生き抜くには、誰かの役に立つ情報を握らなければならなかったから。
探偵の真似事は、ボクにとって唯一の生存戦略だった。
分かったのは、師匠が徹底した世捨て人であること。
特級騎士という肩書きを持ちながら、本人は一介の魔導学者を自称し、執筆した学書は無償で修道女へ譲り、子供たちの教育に役立てさせている。
名声も報酬も拒み、ただ趣味として真理を綴る姿に、当時のボクは「よほどのお人よしか、救いようのない道楽者か」と毒づいたものだ。
けれど興味は抑えられず、ボクはついにこの住処を突き止めた。
それは館の形をした「異物」だった。人の気配が絶え、文明の前提そのものがボクたちの知る世界とは決定的に乖離している空間。
ボクは師匠の前に現れ、震える声を押し殺して自分を買い取ってほしいと嘆願した。
「ボクを買ってください。必ず役に立ちますから」
師匠はボクを受け入れた。そればかりか、魔術を教え、給料まで出してくれている。
師匠曰く、魔術の適性には、肌で魔力を感じる「感覚タイプ(魔法使い)」と、理論で術式を編む「理論タイプ(魔導師)」があるという。
ボクには後者の才能があり、さらに「真実を探る者」としての資質がある、と彼は言った。その言葉の真意は、今もまだ霧の中だけど。
「――おっと、いけない」
シュンシュンと鳴る蒸気の音で我に返る。考え始めると時間を忘れるのは、悪い癖だ。
――――
竜。その生態は、既存の生物学では推し量れない。
古来より議論されてきたその正体について、研究者たちが辿り着いた結論は――竜とは「負の化身」である、というものだ。
災害の権現として現れることもあれば、悪政の蔓延る地獄へと舞い降りることもある。竜は、人の放つ濁った感情に引き寄せられるのだ。
「悪政を敷いていたヴァル領主、モンダギューは、あの騒動の直後に行方をくらました」
淹れたての珈琲を運ぶと、ワルターさんが報告を続けていた。
彼の淡々とした口調は、一点の狂いもない精密な術式のようだ。言語の再現性の高さは有能な魔術師の証だが、彼の言葉もまた、完成されたシステムの一部に見えた。
「どうして、己の行いが悪政であることを顧みなかったのでしょうか」
ボクが漏らした素朴な疑問。
あの館には、鏡の一枚もなかったのだろうか。
人の心は、その顔に出る。
色町の姐さんたちは言っていた。
己の身に毒が回ろうとも、醜い現実を隠すために白粉を塗りたくるのだと。虚飾の美を造り上げなければ、生きていけないからだと。
ワルターさんは苦り切った顔で首を振った。それは正視に耐えぬ惨状を幾度も見てきた、現場の男の顔だった。
「ヴァル家は代々、あの地を搾取し続けてきた。継いだ領主は自分が『悪』だという自覚すらなく、それが当然の権利だと信じ込んでいる。あれはある種の病だよ」
「……」
師匠は答えず、手元の珈琲から立ち上る湯気をじっと見つめている。
おそらく、師匠にはモンダギューの行方に心当たりがあるのだろう。
あの傲慢という名の病は、死ななければ決して治らない。その残酷な真理を誰よりも知っているのは、目の前の物静かな師匠自身なのだから。




