淹れたての珈琲と、失われた声
アイテリウス大陸北部、セウアマリロ。
二つの国家の境界に位置するその地は、メリクリウス教団の総本山である。
その中でもローレライ修道院が治めるこの場所は豊かな自然以外にこれといった特徴のない田舎である。
そして境界の辺境にポツンと建つ館には、ある不穏な噂が根付いていた。
――あそこには、魔王が住んでいる、と。
「……」
「起きましたね、師匠」
だけど実際に住んでいるのは二十代の青年と、十七歳の少女――ボクの二人だけだ。
その青年こそ、先月ヴァル領で竜の群れを殲滅した『慟哭の聖剣』、アレクシス・ボルクその人である。
大陸最強の一角と謳われる師匠だが、その素顔は驚くほど幼い。
膨大な魔力を有する者は細胞の劣化が鈍く、実年齢より若く見えることが多いという。
弟子のボク、ベルルも実年齢より幼く見られるけれど……ボクの場合はただの幼児体型だ。
けれど師匠のそれは、若さというより、どこか世俗を拒絶したような透明感に満ちている。
師匠はいつも、館の日当たりのいい場所を猫のように移動しては、静かに書を紐解いている。
気ままな性格で、ボクでさえ一度もその声を聞いたことがない。
最強の英雄。神の教えに背く無言の魔術師。
そして、陽だまりを愛する物静かな人。
それが、ボクの師匠だった。
師匠は、類まれな魔力量と才を授かる代償として、自らの何かを強制的に捧げる『犠牲者』という宿命を背負って生まれてきた。
彼が失ったのは、その「声」だ。
言葉こそが力であるこの大陸において、声なき魔術師は異端であり、忌むべき欠陥品でしかなかった。
自由な研究環境を勝ち取るためには、誰にも文句を言わせない圧倒的な実績を積み上げるしかなかったのだ。
そこで師匠が選んだのは、ルーン魔術。
詠唱ではなく、虚空や物質に「文字」を刻むことで神秘を発現させる古の術だ。
「言語は神の特権」と信じ込む人々からは、とっくに忘れ去られ廃れていたその分野を、師匠はわずか数年で実用レベルまで引き上げてしまった。
『魔術基板の再構築』。
『非言語による魔術概念の確立』。
その業績は魔術史を塗り替えるほどに巨大だったが、あまりに強すぎる力は教団にとって脅威でしかなかった。
彼を野放しにすることを恐れたメリクリウス教団は、「ドラゴンスレイヤー」という英雄の座を与え、『七聖剣』としてその身を管理下に縛り付けたのである。
――――
「師匠。珈琲、淹れますね」
「……」
師匠は肯定するとき、小さく会釈する。
音こそしないが、その仕草には独特の「色彩」のようなニュアンスが宿る。
ボクはここに来てから一度も師匠の声を聞いていないが、今ではその微かな身振りから、彼の言葉を汲み取れるようになっていた。
「ニャー」
キッチンへ入ると、窓から忍び込んだ猫が我が物顔で鎮座していた。
師匠曰く、飼っているわけではないが、餌と快適な空間を求めて勝手に居着くようになったらしい。名はキャスパリーグ。
ある時代には修道院の友とされ、またある時代には魔女の眷属と蔑まれる。人間側の価値観がどう変わろうと、猫の気ままな本質は変わらない。
「また来たんだね」
餌を与えると、愛嬌を振りまいて満足げに去っていく「お客さん」を見送る。ボクは師匠の分と自分の分の珈琲を手に、解読中の古代魔導学書が待つ机に戻った。
この大陸で珈琲は労働者の活力源とされ、女性や貴人が好むものではない。けれど師匠は読書のお供にそれを嗜むし、ボクもその苦い習慣に、いつの間にか心地よさを感じていた。
師匠は、ボクの恩人だ。
両親の顔も知らない色町出身のボクは、あの日、あの喧騒の中で師匠を見つけた。
女が男を誘い、男が誘われるままに闇へ消えていく。そんな卑俗な街の中で、師匠の姿はあまりにも浮き上がっていた。
色町には似つかわしくない端正なローブを纏った少年が、周囲など眼中にないといった様子で歩いていく。その足取りには一切の淀みがなく、女たちの甘い誘惑に視線を向けることすらない。
透き通るような色白の肌。銀髪に青いメッシュの入った長い前髪。
その隙間からのぞく瞳は、抜き放たれた刃のように鋭かった。
華奢なその横顔は、周囲のどんな女たちよりもずっと綺麗だ、と子供心に思った。
けれど、何よりボクの心を捉えて離さなかったのは、その瞳の奥に宿る「何か」だ。
氷の鳴る音よりも静かで、それでいて不可思議な圧を放つ気迫。
この世のものではない何かを常に見据えているような立ち居振る舞い――それこそが、ボクの知る師匠のすべてだった。




