第47話:証拠の整理と、塵が積もる前に
夜が明けた。
目が覚めた時、部屋の外がすでに白んでいた。
昨夜、シリルに「今日の続きは明日ですよ」と言われて、素直に床についたのは久しぶりのことかもしれない。
手袋を嵌める前に、手を見た。
白い指だ。
(今日は、昨日の整理をする日ですわよ。……ガルベス子爵の証言記録、E-1の水路図の最終確認、モモ・ダストへの次の手。それと、「L・A」がネーベル・アルバだという証言を、国王に正式に上申しなければなりませんもの)
指先が、少し冷たい。
打ち消さなかった。
(ガルベス子爵の取調べの時に、冷たくなりましたわよ。……あの男が「炎で焼かないのか」と聞いてきた時ですもの。焼かない理由を説明しながら、自分が焼くことを当然の手段として話していることに気づいて、少し冷たくなりましたわよ)
(打ち消さないと決めましたもの。……感じたままにしておきますわよ)
手袋を嵌めた。
* * *
書斎に入ると、シリルがすでに机の前に座っていた。
昨夜仕上げた証言記録の横に、今朝新しく揃えられた書類が三種類置いてある。
「おはようですわよ、シリル。……今夜は眠りましたかしら」
「三時間です。……十分ですよ」
(また三時間ですわよ。……この従者の睡眠は、どこかで固定されているのかもしれませんもの)
「おはようございますよ、お嬢様。今日の作業の整理をしてあります」
「聞かせてくださいな」
「三点です。……一点目、ガルベス子爵の証言記録と書状下書きを国王に上申する書面の最終整理。二点目、E-1の水路図の完成版の作成。これを国王上申の添付書面として使います。三点目——」
シリルが少し間を置いた。
「三点目ですかしら」
「今朝、王城からの使い走りが来ました」
私は書類を見た。
三種類のうちの一枚が、王城の封蝋を持つ書面だ。
「読みましたかしら」
「はい。……読んでいただいた方がよいと思いますよ」
封を開けた。
---
ヴィクトリア令嬢。
昨日の審議管理局での保留申請について、本日早朝、追加の申請書が提出された。
申請代理人は、カスミ弁護士ではなく、別の弁護士事務所名義に変更されている。
審議管理局の判断では、新しい代理人には問題がないとのことで、本日午前中に申請が受理される可能性がある。
念のためお知らせする。
フロード
---
(来ましたわよ。……モモ・ダストが、昨日一夜で代理人を変えてきましたもの)
扇子を持った。
(塵ですわよ。……塵は、一箇所を払っても、すぐに別の経路から積もってきますもの。カスミ弁護士が使えなくなれば、別の弁護士を一夜で手配してくる。それがモモ・ダストのやり方ですわよ)
「シリル、別の弁護士事務所への牽制は、どう打てますかしら」
「カスミ弁護士個人は問題がありますが、新しい弁護士事務所そのものには現時点で問題がありません。……代理人の変更自体は、手続きとして正当ですよ」
「正当な手続きを、こちらが止める根拠はありませんわよ」
「はい。……申請が受理される場合、今日の午前中に保留が解除されます」
(一日分の時間を買いましたわよ。……でも一日で、モモ・ダストは代理人を変えてきましたもの。審議発議権の申請そのものを止める方法が、今の段階では限られていますわよ)
「申請が通った場合、何が起きますかしら」
「ダスト侯爵家が特定委員会の審議発議権を正式に取得します。……その後、委員会の人員構成が変わる可能性があります。ガルベス子爵が非公式の圧力で行っていたことを、モモ・ダストが正式な権限として引き継ぐ形になります」
(ガルベス子爵は、腐敗した庭師でしたわよ。……勝手に植えたものを、モモ・ダストが今度は登記して正規の所有権を取ろうとしているということですもの。不法投棄の跡地に、正式な権利書を出させる計算ですわよ)
「申請が通る前に、手を打てますかしら」
「……一点だけ、あります」
シリルが書類の一枚を指した。
「スラッジ書記官の証言の中に、審議日程の情報提供先について、具体的な受け取り人の名前が含まれていましたよ。……ガルベス子爵側の人物として、議会委員会の書記を通じて情報が流れていた経路の記録です」
「その委員会が、今回の審議発議権の対象となっている委員会ですかしら」
「同じ委員会です。……スラッジ書記官の証言が、この委員会の過去の審議に不正な情報提供があったことを示しているとすれば、発議権の申請に関わる委員会の正当性そのものが問われる可能性があります」
(なるほどですわよ。……申請する権利ではなく、申請先の委員会の過去の運営に問題があったことを示す。委員会の足元を、先に掃いておくということですもの)
「スラッジ書記官の証言記録を、今日の午前中に審議管理局に提出できますかしら」
「できます。……昨日の保留申請の補足書面として、追加提出が可能です。問題は」
「問題は」
「書記官の証言記録は、まだ国王の確認を経ていません。……正式な証拠書類として審議管理局に提出するには、国王の認証印が必要です。今日の午前中に、国王の認証を取ってから提出する段取りが必要です」
(段取りが必要ですわよ。……まず国王のところへ行って、証言記録の認証を取る。それを持って審議管理局へ行く。その間に、申請が受理されなければ、止められますもの)
「国王は今日の朝、何時から動いていますかしら」
「八時には執務を始めているはずです。……今、七時十分ですよ」
「四十五分以内に書面を整えて、八時に王城に向かいますわよ」
「承知しました。……既に書面の草稿を作っています」
(当然ですわよ。……この従者は、私が考えることの少し先に、いつも準備を整えていますもの)
* * *
四十分で書面が整った。
国王への上申書に、スラッジ書記官の証言記録の認証申請を合わせた形だ。ガルベス子爵の証言記録と、書状下書きの証拠封印確認書も添付した。
シリルが束を整えながら言った。
「今日の書面の量は、昨日より多いですよ」
「昨日の仕事が積み重なっているということですわよ。……分別した結果が、書類になって重くなりますもの」
「掃除の成果は、紙の重さで分かりますね」
(それは言い得て妙ですわよ、シリル。……正確に言えば、集めた証拠の量が、書類の厚さになって積み上がっているということですもの)
* * *
八時前に、カラミが書斎の扉をノックした。
「おはようございます。……少し、よろしいですか」
「ええ、どうぞ」
カラミが入ってきた。
いつもより、少し表情が固い。
「昨夜、考えていたことがあります。……申し上げてもよいですか」
「お聞かせくださいませ」
カラミが、椅子に座って少し間を置いた。
「ガルベス子爵の取調べで、L・Aがネーベル・アルバだという証言が出たということでしたね」
「ええ」
「……ネーベル・アルバは、フォル・ネビュラでは知られている名前です。表向きは港湾商人として、長年動いています。でも私は、七年間経路管理者として動いていた間、ネーベル・アルバに直接会ったことは一度もありませんでした」
(直接会ったことがない。……カラミは七年間、Lの設計した経路の中で動いていたのに、Lに会ったことがないということですわよ。Lは、自分を見せない構造を維持していたということですもの)
「名前は、どこかで聞きましたかしら」
「物流の書類に、荷の受け取り先として一度だけ書いてあるのを見たことがあります。……その時は、普通の商人の名前だと思いました。でも今から考えると、それが」
「Lへの最初の接続だったかもしれない、ということですかしら」
「……そうかもしれません」
カラミが、少し目を細めた。
「一つ、お伝えしたいことがあります。……役に立つかどうか分かりませんが」
「どうぞ」
「フォル・ネビュラに、セドゥン商会の倉庫が今も残っているはずです。……私が台帳を作成していた頃、一度だけ倉庫の鍵の管理を頼まれたことがありました。倉庫の中に、物流の記録が別途保管されているという話を聞きましたが、確認したことはありませんでした」
(セドゥン商会の倉庫。……J-3「セドゥン商会の送金先」の回収に向けて、まだ確認していない物理的な場所がありましたわよ)
「その倉庫の場所は、今でも分かりますかしら」
「はい。……フォル・ネビュラの南岸、今は使われていない倉庫群の一角にあります。鍵は、七年前に返却しましたが、場所は覚えています」
「ありがとうですわよ、カラミ様」
(これは、覚えておく必要がありますわよ。……今日の優先順位には入りませんが、フォル・ネビュラに残っているセドゥン商会の倉庫が、物流記録を持っているとすれば、後で重要な意味を持つかもしれませんもの)
「シリル、記録に追加しておいてくださいな」
「既にしていますよ」
* * *
八時ちょうどに、馬車を出した。
リタが護衛につく。シリルが書類を抱えて同行した。
馬車の中で、シリルが一点確認した。
「国王への今日の上申は、ガルベス子爵の証言記録の認証と、E-1の水路図の添付と、スラッジ書記官の証言記録の審議管理局提出への認証。この三点ですよ」
「ええ」
「ガルベス子爵の証言で、L・Aがネーベル・アルバだという点は、国王はどの程度把握しているかと思いますかしら」
(国王が、ネーベル・アルバという名前をどこまで知っているか。……B-4「ガルベスの隣国との繋がり」を国王に報告してきましたが、Lがネーベル・アルバだという具体名は、昨日の取調べで初めて出ましたわよ。今日の上申が、最初の正式な報告になりますもの)
「今日が、最初の正式報告になりますわよ。……国王がこの名前を知っているかどうかは、今日の顔を見れば分かりますもの」
「もし国王が既にこの名前を知っていた場合は」
「それはそれで、教えていただかなければなりませんわよ。……王家が把握している情報と、私どもが集めた情報を照合した方が、全体像が見えますもの」
「国王が把握しているが動けなかった情報、という可能性もありますよ」
(動けなかった情報。……C-1「国王がクレアを恐れる理由」の深い部分に触れるかもしれませんわよ。国王は私を、王家直属の掃除人として扱っていますもの。その意味は、私が「動ける」という点にあるはずですわよ)
「そうかもしれませんわよ。……今日は、聞いてみますもの」
* * *
王城の応接室に通されると、国王がすでに待っていた。
机の上に、今日届いたという書面が何枚かある。
「クレア嬢、昨日の取調べの件は」
「証言記録を持参しましたわよ。……認証をお願いしたいことがありますもの」
シリルが書類を差し出した。
国王が受け取って読んだ。
読む速度が、途中で落ちた。
(止まりましたわよ。……L・Aの件を読んでいる箇所だと思いますもの)
「……ネーベル・アルバ、か」
国王の声が、少し低くなった。
(反応しましたわよ。……この名前を、国王は知っていますもの)
「陛下、この名前をご存じですかしら」
国王が、書類を机の上に置いた。
少し間があった。
「……知っている。七年前から、国境を越えた不正な物流に関わっている可能性のある商人として、耳に入っていた名前だ」
「七年前から」
「ただし、証拠がなかった。隣国の人間だということと、名前だけが情報として上がっていたが——動かせるものが何もなかった」
(七年前から知っていて、動けなかった。……シリルの予測通りでしたわよ。国王が把握していても、隣国の人間を動かすには証拠と外交的根拠が必要ですもの。それがなかったから、七年間名前だけが浮かんでいましたわよ)
「陛下、今日ガルベス子爵の証言記録に認証をいただければ、隣国の人間への働きかけに使える、正式な証拠の形になりますわよ」
「ガルベス子爵が直接話したのか」
「ええ。……昨日の取調べで、本人の口から出ましたもの。荷馬車の書状下書きと、証言が一致していますわよ」
国王が、もう一度書類を手に取った。
「……七年間、動けなかったものが、ここに来て形になりつつある、ということか」
「ガルベス子爵を動けなくした後に、Lへの接続が見えてきましたわよ。……上流を辿るには、まず下流を止めることが先でしたもの」
(排水管の清掃ですわよ。……詰まった下流の汚れを取り除いてから、上流の問題に手が届くようになりますもの。ガルベス子爵という詰まりを取ったことで、Lの輪郭が見えてきましたわよ)
「認証する」
「ありがとうございますわよ」
「スラッジ書記官の件も、今日の審議管理局への提出を認める。……クレア嬢」
「はい」
「ネーベル・アルバへの対処は、どこまで考えているか」
(どこまで、という問いですわよ。……今日の段階では、証言と書類が出た段階ですもの。隣国の人間への対処は、外交的な手続きも必要になりますわよ。国王が今日この問いを出すということは、その先を想定し始めているということですもの)
「今日はまだ、証拠の整理ですわよ。……ネーベル・アルバへの対処は、フォル・ネビュラに残っているセドゥン商会の倉庫の確認と、ガルベス子爵の証言の補足を経てからになりますもの。今すぐ動ける段階ではありませんわよ」
「倉庫の件は」
「今朝、証人から情報を得ましたわよ。……物流の記録が保管されている可能性があります。フォル・ネビュラへの再確認が必要ですもの」
「また隣国に行くということか」
「そうなりますわよ。……ただし、今日ではありませんもの。今日は、今ここにある証拠を整理する日ですわよ」
国王が少し頷いた。
「……段階的に、丁寧に進めているのだな」
「掃除は、順序を守りますもの」
* * *
王城の審議管理局に向かったのは、九時を少し過ぎた頃だった。
廊下を歩いていると、昨日とは違う何かが空気の中にある。
(人の動きが、昨日より多いですわよ。……何かが朝から動いていますもの)
「シリル、今日の管理局の雰囲気が昨日と違いますわよ」
「……気づいています。今朝のダスト侯爵家の申請が、既に処理に入っている可能性があります」
受付に近づいた。
昨日と同じ書記が窓口にいた。こちらを見て、少し表情が固くなった。
「令嬢様、昨日はご来訪ありがとうございました」
「本日もまいりましたわよ。……昨日の保留申請の補足書面を、追加提出したいですもの」
「……実は、今朝方、別の申請書が提出されておりまして」
「ええ、存じておりますわよ。フロード補佐官からご連絡をいただきましたもの」
書記が少し目を細めた。
「補足書面の内容は」
「二点ですわよ。……スラッジ書記官の証言記録と、国王の認証印をいただきましたE-1の水路図の要約版です。添付してよろしいですかしら」
シリルが書類を差し出した。
書記が受け取った。
読んでいる。
(今日の書類の方が、昨日より重いですわよ。……スラッジ書記官の証言が、委員会への情報提供という具体的な内容を含んでいますもの。審議管理局の書記が、これを読んで委員会の正当性に疑義が生じたと判断すれば、新しい申請への影響が出るかもしれませんわよ)
書記が顔を上げた。
「……これは、当該委員会の過去の審議への情報提供が、不正な経路で行われていたという証言、ということでよろしいですか」
「はい。……国王の認証を経た書類ですもの。審査のご参考にしていただけますかしら」
書記が、少し間を置いた。
「……上に確認いたします。少々お待ちを」
(また上に確認しに行きましたわよ。……昨日と同じ流れですもの。でも今日の書類の方が重い。上の判断が、昨日と変わる可能性がありますわよ)
廊下に、また私とシリルが残った。
シリルが小声で言った。
「今朝の新しい申請が既に受理されていた場合は、補足書面の効果が限定的になりますよ」
「受理前であれば」
「申請の適格性の確認が、今日再び始まります。……委員会そのものの正当性という問題が加わったとすれば、単純な代理人変更では通らなくなりますよ」
「モモ・ダストが、一夜で弁護士を変えてきたことは、想定内ですわよ。……ただし、委員会の足元を掃っておくことは、昨日の段階では準備できていませんでしたもの。今日の補足書面が、昨日より重い理由はそこですわよ」
(そうですわよ。……昨日はカスミ弁護士という代理人の問題を持っていきましたもの。今日はスラッジ書記官の証言という、委員会自体の汚れを持っていきましたわよ。掃除の対象が、一段深くなりましたもの)
* * *
書記が戻ってきたのは、十五分ほど後だった。
昨日より少し時間がかかった。
「……本日午前中に提出された申請について、改めて当委員会の審議適格性の確認手続きを開始することになりました。確認が完了するまでは、申請の受理を保留といたします」
「確認には、どの程度お時間がかかりますかしら」
「……委員会の過去の審議記録の確認が必要になりますので、最低でも三日、長ければ一週間ほどかかるかと存じます」
(三日以上、ですわよ。……昨日の一日ではなく、今日の補足書面が委員会そのものの確認を引き起こしましたもの。一日分ではなく、一週間分の時間を買えましたわよ)
「ありがとうございますわよ。……確認作業に必要な資料がございましたら、いつでもお声がけくださいませ。こちらでご協力できることがありますもの」
「承りました、令嬢様」
* * *
審議管理局を出た廊下で、シリルが言った。
「一週間、ですか」
「一週間あれば、ガルベス子爵の取調べをもう二度は進められますわよ。……モモ・ダストとカスミ弁護士の合意内容の詳細も、ガルベス子爵が補足してくれれば、申請が通る前に法廷で通用する証拠が完成しますもの」
「B-1「モモ・ダストの正体と真の目的」に向けて、かなり詰めが進みましたね」
「ええ。……塵は、一箇所払っても別の場所から積もってきますわよ。でも、積もる台自体を掃けば、どこからも積もれなくなりますもの。今日の補足書面は、台を掃いた形ですわよ」
(台を掃く、ですわよ。……モモ・ダストが申請先の委員会を使おうとしている。その委員会の足元が、スラッジ書記官の証言によって汚染されていたことが明らかになった今、委員会自体の正当性が問われますもの。台が傾けば、その上にどんな申請を持ってきても、積み上がりませんわよ)
* * *
王城を出る前に、もう一か所だけ寄った。
王城の一角にある、拘置室に隣接した記録室だ。
シリルが、今日の国王認証済みのガルベス子爵証言記録を正式に記録室へ提出する手続きを行った。
証言記録が、王城の記録室に正式に保管された。
(これで、ガルベス子爵の証言は公式記録になりましたわよ。……どこかで消されることがない形に、収まりましたもの。掃除の結果を、ちりとりに入れてから処理するような感覚ですわよ。ちりとりに入れてしまえば、風で飛ばされませんもの)
「シリル、今日の王城での作業はこれで全部ですかしら」
「はい。……三点、全部終わりましたよ。国王への上申と認証取得、審議管理局への補足書面提出、証言記録の正式保管」
「三点が、今日の午前中で終わりましたわよ」
「昨日より早いですね」
「昨日の昼間に動いた分が、今日の朝に使えましたもの」
(掃除の道具の手入れが、翌日の作業の質を決めますわよ。……昨日の動きが、今日の速度を作りましたもの)
* * *
王城を出る廊下で、リタが素早く前に出た。
チャキッ。
私の三歩前で止まった。
(何かいますわよ。……廊下の先に、リタが警戒している何かがありますもの)
廊下の角の向こうから、声が来た。
低い、年配の男の声だ。
「ヴィクトリア令嬢。……少し時間をいただけるかな」
角の向こうから出てきた男を見た。
六十代ほど。ダスト侯爵家の紋章を胸に付けている。ゆったりした外套で、顔に余裕の表情を作っている。
(ダスト侯爵本人ですわよ。……モモ・ダストの父上ですもの。第9話以来、直接の接触はありませんでしたわよ)
リタが私の前に立ったまま動かない。
「ダスト侯爵様。……おはようございますわよ」
「おはよう。……少し立ち話を、よろしいかな」
声が穏やかだ。表情も穏やかだ。
(穏やかすぎますわよ。……モモ・ダストの父上が、一人で廊下に出てきてこちらを待っているということが、穏やかではありませんもの)
「伺いますわよ」
「先日のわが家の件では、ご迷惑をおかけした。……娘が不要な動きをしているようで、父として頭を痛めておるよ」
(不要な動き。……ダスト侯爵が、今朝の審議管理局への申請をそう評価していますわよ。父が知った上で言っているのか、娘が独断で動いていると思っているのか、どちらかですもの)
「娘様のことは、侯爵様がよくご存じですわよね」
「……うむ。知っておるよ」
侯爵が少し間を置いた。
「ヴィクトリア令嬢、一つだけ聞かせてくれるかな。……娘は、まだ間に合うかな」
(間に合う、という問いですわよ。……侯爵が、娘モモ・ダストの「処理」についてこちらに確認してきましたもの。第9話の時に侯爵が「娘を別邸で謹慎させ、調査に協力する」と言っていましたわよ。あの時と、同じ立場で来ていますもの)
私は扇子を持ったまま、少し考えた。
(間に合うかどうか。……今日の段階では、モモ・ダストは審議発議権の申請を一週間保留された状態ですわよ。ガルベス子爵の証言で、カスミ弁護士を経由した合意内容の一部が明らかになっていますもの。しかし、モモ・ダスト自身への証拠は、まだ「塵が積もった」という状態であって、「証拠が完成した」という状態ではありませんわよ)
「侯爵様、一週間ですわよ」
「一週間」
「審議管理局の確認作業に、最低一週間かかりますもの。……その間に、侯爵様が娘様の動きを止めてくださるのであれば、こちらの対処の仕方が変わる可能性がありますわよ」
侯爵が、目を細めた。
「止める、とは」
「審議発議権の申請の取り下げ、カスミ弁護士との関係の清算、それだけですわよ。……それ以上のことは、今日は申し上げませんもの」
(塵は、積もる前に払えば、大掃除が要りませんわよ。……モモ・ダストという塵が、正式な権限を持つ前に自ら引いてくれるなら、こちらが全てを出し切る必要はありませんもの。少なくとも、今日の段階では)
「……ありがとう、令嬢。考えてみよう」
侯爵が、頭を小さく下げた。
(頭を下げましたわよ。……ダスト侯爵が、令嬢に頭を下げましたもの。第9話の時から、この人間はモモ・ダストの暴走を止めたい気持ちがあるということは、分かっていましたわよ。今日また、その確認ができましたもの)
「では、失礼しますわよ」
廊下を進んだ。
リタが、一歩先に出た。チャキッという音が、廊下に消えた。
* * *
王城の外に出たところで、シリルが言った。
「ダスト侯爵の判断次第で、モモ・ダストの動きが変わりますね」
「ええ。……でも、変わらない可能性も同様にありますわよ」
「はい。……ただし、侯爵が娘の動きを止めようとすれば、カスミ弁護士との関係に侯爵自身が介入することになります。介入の痕跡が残れば、それ自体が証拠の補強になりますよ」
(どちらに転んでも、こちらにとって動きが見えるということですわよ。……ダスト侯爵が動けば、モモ・ダストの周辺が揺れますもの。その揺れが、新しい情報を出してくるかもしれませんわよ)
「今日は、ダスト侯爵に動いてもらうことで、一週間の待機中にこちらへ情報が入ってくる可能性がありますわよ」
「……侯爵を、情報源として活用する形ですか」
「そうですわよ。……塵を払うのに、外から風を送るより、台の下から揺さぶる方が早いことがありますもの」
シリルが、完璧な笑顔のまま少し笑顔の質を変えた。
「台の揺れを待つ、ということですか。……エコですね」
「そうですわよ」
(ダスト侯爵という内側からの揺れを、今日仕込みましたわよ。……一週間で何が出てくるかは、今は分かりませんもの。でも台が揺れれば、積もっていた塵の場所が見えてくることがありますわよ)
* * *
屋敷に戻ったのは、正午前だった。
マルダが出迎えた。
「お嬢様、今朝、一通書面が届いております。差出人の名前はございませんでしたが、王城の使い走りではない方からのご持参でしたようで」
「名前なし、ですかしら」
「はい。……こちらです」
受け取った。
封を開けた。
シリルが後ろから覗き込んだ。
---
フォル・ネビュラのセドゥン商会倉庫の鍵は、現在も南岸の宿屋「ケルミ亭」の主人が預かっている。
七年前から変わっていない。
C
---
(「C」。……誰かのイニシャルですわよ。フォル・ネビュラの情報を、匿名で送ってきた人間がいますもの)
「シリル、差出人の『C』に心当たりはありますかしら」
「……フォル・ネビュラで接触した人物の中に、Cで始まる名前の人間がいましたか、確認しています。……少し待ってください」
シリルが書類を素早く確認した。
「フォル・ネビュラでの接触記録の中に、港湾の立会人として一度名前が出た人間がいます。……チェルマ・ヴォースという人物です。セドゥン商会の荷の受け取りに立ち会ったことがある、とカラミ様が言及していました」
(チェルマ・ヴォース。……Cで始まりますわよ。カラミ様の話の中に出てきた人間が、今日こちらに情報を送ってきた可能性がありますもの)
「カラミ様に確認していただけますかしら」
* * *
カラミを書斎に呼んだ。
書面を見せた。
カラミが読んで、少し目が変わった。
「……チェルマさんだと思います。フォル・ネビュラで、荷の立会人を長年やっていた人間です。私より先から、セドゥン商会の倉庫の周辺で働いていました」
「信用できる人間ですかしら」
「……七年間、一度も話が漏れたことはありませんでした。口が固い人間です。なぜ今、こちらに送ってきたのかは分かりませんが」
「ガルベス子爵が拘束されたという話が、フォル・ネビュラにも届き始めているのかもしれませんわよ。……動きが変わった時に、長年抱えていたものを手放そうとする人間が出てきますもの」
(ベルト・ライスが七年分の荷を持って来た時と、同じですわよ。……澱が動く時には、底から揺れて、上から順番ではなく、いくつかが同時に浮かんでくることがありますもの)
「カラミ様、チェルマさんに返信を送れますかしら。……倉庫の確認に、近いうちにフォル・ネビュラを訪れることをお伝えしていただけますかしら」
「……私が書いてよいですか」
「ええ。カラミ様の名前で送る方が、チェルマさんには伝わりやすいと思いますわよ」
カラミが少し頷いた。
「……分かりました。書きます」
* * *
昼食を取った後、書斎でシリルと今日の整理をした。
「今日の動きを確認しますわよ」
「はい。……国王への上申と証言記録認証、完了。審議管理局への補足書面提出——委員会の適格性確認が開始され、一週間の保留が確定。証言記録の正式保管、完了。ダスト侯爵との廊下での接触——一週間以内の動きに期待。セドゥン商会倉庫の鍵の所在確認——フォル・ネビュラ再訪への伏線が整いました」
「今日は、昨日より少ない動きですわよ。……でも、昨日と同じ密度ですもの」
「昨日は証拠を集めて動かす日でした。今日は集めた証拠を正式な形に整えて、次の動きへの足場を作る日でしたよ。……掃除でいえば、昨日は汚れを落とす日、今日は落とした汚れを分別して、処分の手順を整える日ですね」
(そうですわよ。……汚れを落とした後、ちゃんとゴミ袋に入れて、分別して、収集日に出せる状態にする。今日はその日でしたもの)
「シリル、フォル・ネビュラへの再訪は、いつ頃を見ていますかしら」
「ガルベス子爵の二度目の取調べが終わってから、二日以内に出発できれば、倉庫の確認と物流記録の回収が、一週間以内に完了します。……審議管理局の確認作業の一週間と、ほぼ並行して進められます」
「二つの時間を、一緒に使うということですわよ」
「効率的です。……エコですよ」
(シリルはエコという言葉が好きですわよ。……毎回、少し違う文脈で使っていますもの。でも確かに、二つの待機時間を重ねて使うことは、効率的ですわよ)
「分かりましたわよ。……ガルベス子爵の二度目の取調べを、明日の午前中に設定してくださいな」
「承知しました。……国王に申請します」
* * *
夕刻になった頃、ベルト・ライスが書斎に顔を出した。
「少し、よろしいですか」
「どうぞ」
ベルト・ライスが入ってきた。手に、小さな包みを持っている。
「……これを、お渡ししたいと思っていたのですが、なかなか機会がなくて」
「何ですかしら」
「フォル・ネビュラの港で、七年間買い続けていたものです。……帰る時に、持ってきました。荷を整理していたら出てきましたので」
包みを受け取った。
開けると、小さな乾燥した茶葉の袋が三つ、入っていた。
「霧苺というんです。……フォル・ネビュラの霧の中でしか育たない果実で、乾燥させると茶葉として使えます。酸味が強いですが、夕方に飲むと体が温まります」
(霧苺。……J-1「フォル・ネビュラ(霧の港)」でしか採れない果実ですわよ。ベルト・ライスさんが七年間、港で買い続けてきたものですもの)
「七年間、ずっと買っていたのですかしら」
「……フォル・ネビュラを離れる日が来ても、この茶だけは持って帰ろうと思っていました。それが七年間続いてしまいましたが」
「ありがとうですわよ、ライスさん」
ベルト・ライスが少し表情を変えた。
「……役に立てたかどうか、まだ分かりませんが。農道の件は、少し貢献できたと思っています」
「農道の件だけではありませんわよ。……七年間の情報が、この数日でたくさんの場所を開きましたもの。ライスさんが持ってきてくださったものが、証拠の一部になっていますわよ」
ベルト・ライスが、少し下を向いた。
「……七年間、嫌なことを続けてきた記憶しかなかったのですが。最後に、少し使えたものがあったとすれば」
「ありますわよ。確かに」
* * *
夜になった。
今日の動きを改めて頭の中で整理した。
(今日は、整理の日でしたわよ。……昨日集めたものを、正式な形に整えて、次の動きへの足場を作りましたもの。モモ・ダストへの一週間の猶予を作り、ダスト侯爵を揺さぶり、フォル・ネビュラ再訪への道を開きましたわよ)
(ガルベス子爵はまだ拘置室にいますわよ。……明日の取調べで、もう少し話してくれるはずですもの。Lへのアプローチが、少しずつ形になってきましたわよ)
右手の指先を見た。
(今日は、冷たくなりましたわよ。……ダスト侯爵に「間に合うか」と聞かれた時ですもの。「間に合うかどうか」という問いは、処理される側から来た問いですわよ。間に合わない場合に何が起きるかを、こちらが判断する立場にいるということで)
(打ち消しませんわよ。……感じたまま、持っておきますもの)
* * *
サロンに入った。
シリルが、ランプを点けて待っていた。
テーブルの上に、今夜の茶の準備が整っている。
「今夜は、ライスさんにいただいたものですかしら」
「はい。……霧苺の果実茶です。先ほどお渡しいただいたものを、夕刻から少し蒸らしておきました。フォル・ネビュラ産の乾燥果実は、時間をかけて蒸らすと、酸味が柔らかくなります」
カップに、深い赤紫色の茶が注がれている。
昨日の赤より、少し濃い色だ。
「菓子は」
「霧苺の茶に合わせて、屋敷の材料で作れるものをマルダに頼みました。……今夜は、焼きりんごです。しぼんだ林檎に砂糖と蜂蜜を塗って焼いたものです。北の国の菓子の作り方を、マルダが昔覚えていたそうで」
小皿に、小さな焼きりんごが一つ乗っている。
焼いた林檎の表面が、蜂蜜でつやつやと光っている。
(隣国から来た茶と、北の国の菓子の作り方ですわよ。……今夜のサロンは、いろんな場所からのものが集まっていますもの)
カップを持った。
一口飲んだ。
(酸味が柔らかいですわよ。……フォル・ネビュラの霧の港の味、という感じがしますもの。霧の中で育った果実が、乾燥して、ここまで運ばれてきて、今夜のカップの中に入っていますわよ)
「ベルト・ライスさんが七年間買い続けた茶ですわよ。……七年分の荷の中に、これが入っていましたもの」
「七年間の記憶がある茶、ということですね。……今夜いただくのは、贅沢な気持ちがしますよ」
シリルが、珍しく少しだけ本音のような言い方をした。
(シリルも、感じていますわよ。……七年間の荷を持ってきた人間の茶を、今夜飲んでいるということを)
焼きりんごをひとつ、フォークで切った。
中が柔らかく蒸れている。砂糖と蜂蜜の甘みが、りんごの酸味と混ざって、口の中に広がった。
(外側は焦げた色をしていますわよ。……でも中は、柔らかく甘いですもの。焼くことで、外と中が変わる菓子ですわよ)
(今日のダスト侯爵も、外側は穏やかでしたもの。中に何が入っているかは、一週間で分かりますわよ)
「シリル、今日は焦げませんでしたわよ」
「どちらのことですか」
「今日の仕事ですもの。……全部、焦がさずに進みましたわよ」
「昨日焦げたものがなかったから、今日も焦げませんでしたよ。……前日に焦がした汚れが残っていると、翌日の作業も焦げやすくなりますから」
(道具の手入れですわよ。……焦げ付きのない鍋は、次の料理も焦げませんもの。昨日と今日が、そういう関係でしたわよ)
「明日は、ガルベス子爵の二度目の取調べですわよ」
「はい。……今日よりも少し深い話になりますよ。準備はしています」
「ではまた、明日に向けて今夜は早めに」
「……珍しいですね、お嬢様から言うのは」
「シリルが昨夜三時間しか眠っていませんもの。今夜はもう少し眠ってくださいな」
シリルが、完璧な笑顔のまま少し間を置いた。
「……ありがとうございますよ、お嬢様」
霧苺の茶を、もう一口飲んだ。
酸味が来て、後から甘みが追ってくる。
(昨日は甘みが先でしたわよ。今夜は酸味が先に来て、甘みが後から来ますもの。同じ蜂蜜を使っていても、茶葉が変われば順序が変わりますわよ)
(フォル・ネビュラの霧の味が、今夜は先に来て、甘みが後から来る。……明日もまだ、酸味が先に来る日が続くかもしれませんわよ。でも最後には、甘みが来ますもの)
焼きりんごをもう一口食べた。
外の焦げ色の部分が、中の柔らかさを守っていた。
(そういう構造もありますわよ。……外が焦げることで、中が守られますもの)
ランプの光が、サロンの壁に揺れている。
明日は、ガルベス子爵が二度目の話をしてくれますわよ。
一週間で、台を揺さぶった結果が出てきますわよ。
フォル・ネビュラの倉庫の鍵は、南岸の宿屋に七年前から変わらずありますわよ。
全部、丁寧に。順序通りに。
霧の港の茶が、今夜のカップの中で温かかった。




