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第44話:三日以内の大掃除と、ゴミが逃げる前に

 夜明け前に、目が覚めた。


 カーテンの隙間から、まだ暗い空が見えている。


(七時から、ですわよ。……まだ時間がありますもの)


 でも、もう一度眠れなかった。


 天井を見た。白い天井だ。


(三日以内、ですわよ。……ガルベス子爵が動く。モモ・ダストが利権を引き継ぐ計算でいる。「L」がネーベル・アルバである可能性が高まった。ライスさんという七年分の荷を持った人間が、今夜は屋敷の近くに泊まっている。カラミ様は屋敷にいる。フロード補佐官は明日の朝を待っている)


 指先を見た。


 白い指だ。部屋が暗いから、少し薄く見える。手袋は外している。眠る時には、外すものだから。


(掃除の道具は、使わない時に収めておきますわよ。……手袋も、その一つですもの)


 でも今夜は。


(今夜ライスさんの話を聞いた時に、右手の指先が冷たくなりましたわよ。……モモ・ダストの名前が出た時に、少し冷たくなりましたもの。打ち消さないと決めたから、そのまま受け取りましたわよ)


 指先を握った。


 冷たくはない。今は。室温が保たれた屋敷の部屋の中で、指先は普通の温度をしている。


(消えている時は何も感じませんわよ。……感じるのは、焼く時ではなくて、焼く前と焼いた後ですもの。炎を出している瞬間は、不思議と何も感じないのですわよ)


(でも今夜は、炎を使いませんでしたもの。ライスさんの話を聞いて、受け取って、それだけでしたわよ。なのに指先が冷たくなりましたもの)


 打ち消さなかった。


 指先の感覚を、そのまま手の中に持ったまま、夜明けを待った。


* * *


 七時になった。


 書斎に入ると、シリルがすでに机の上に書類を並べていた。


「おはようございますよ、お嬢様」


「おはようですわよ、シリル。……昨夜は休みましたかしら」


「少しだけ」


「少しだけ、ということは」


「三時間半です。……十分ですよ。書類の整理は今朝の五時に終わりました」


(三時間半。……シリルは昨夜の一時間で書類を整え終わらず、深夜まで続けたということですわよ。でも本人は十分と言いますもの。この従者には、過労を心配することが難しいですわよ)


「七点の並行作業の順序は整いましたかしら」


「はい。……机の左端に、順番に並べています。上から順に処理すれば、作業が重ならず、詰まった時に迂回できる順序になっています」


 私は机の左端の書類束を見た。


 一番上に、フロード補佐官への書面の下書きがある。


「一番最初がフロード補佐官への書面、ということですわよね」


「はい。……委員への接触は今日の午前中に行ってもらう必要があります。書面が早く届くほど、補佐官の動ける時間が増えます。一番最初に仕上げて、今日の七時半に使い走りで届けます」


「七時半では、朝早すぎませんかしら」


「フロード補佐官は五時には起きています。……七年間、一人で記録を副本に取り続けてきた人間は、早起きの習慣がついているものです」


(根拠のある推測ですわよ。……シリルは人間の習慣を、仕事の癖から読む。フロード補佐官の几帳面な書き方と、記録の積み重ね方から、早起きを推測しているということですもの)


「では、フロード補佐官への書面から始めますわよ」


「はい。……確認しながら進めてください。下書きを作りましたが、内容の最終判断はお嬢様に」


 書面を受け取った。


 シリルの小さな字で、びっしりと内容が書いてある。


---


 フロード補佐官様


 昨夜の情報を、以下の通り整理しましたよ。


 本日午前中に、委員A様およびB様への接触をお願いしたいですよ。添付の記録は、セドゥン商会を経由した資金移動のうち、委員A様の関連事業への接触が確認された三件の概要です。


 「この記録が審議の場に出る前に、ご判断いただけますか」という形でご提示をお願いします。


 委員B様については、直接の接触記録はありませんが、審議日程を延期する動議を出せる立場にいます。「日程の再検討」だけをお願いする形で十分です。


 午後に状況をご連絡いただければ、次の手順を整えます。


---


(この書面は、シリルが書きましたが、内容は昨夜の会話の通りですわよ。……「この記録が審議の場に出る前に」という一文が、穏やかで丁寧で、かつ意味が明確ですもの。脅しではない、情報の共有であることを守りながら、効果を持たせている書き方ですわよ)


「シリル、この書面はこのままで構いませんわよ」


「ありがとうございます。……では使い走りを呼びます」


 書面を封して、使い走りに持たせた。七時三十分。


* * *


 二番目の作業は、カラミとの照合だった。


 カラミが書斎に入ってきたのは、七時四十分を少し過ぎた頃だった。


 フォル・ネビュラで会った時より、少し顔色がいい。一夜、屋敷で休めたということだろう。


「おはようございますわよ、カラミ様」


「……おはようございます。ご迷惑をおかけしました、昨夜は」


「迷惑などではありませんわよ。……昨夜はよく休めましたかしら」


「はい。……久しぶりに、ちゃんと眠れました」


(久しぶりに。……フォル・ネビュラで七年間、カラミが眠れなかった夜は何夜あったでしょうかしら。七年間の漁網を解きながら、眠れない夜を過ごしてきた人間が、王都のこの屋敷で「久しぶりにちゃんと眠れた」と言っているということですもの)


「座ってくださいな。……今日お願いしたいことがありますわよ」


「はい」


 カラミが椅子に座った。


 シリルが、フロード補佐官からの財務記録差分の資料と、フォル・ネビュラで持ち帰った台帳の複写を、机の上に並べた。


「この二つを、見比べていただけますかしら。……王都側の財務記録と、フォル・ネビュラの台帳の数字が、どこで繋がっているかを、カラミ様の目で確認していただきたいですわよ」


 カラミが資料を見た。


 数秒で、目が変わった。


 フォル・ネビュラにいた七年間の記憶が、目の奥に戻ってきているような目の変わり方だ。


「……この数字」


「見えますかしら」


「はい。……これは、三年前の十一月の移動ですね。フォル・ネビュラの台帳だと」


 カラミが台帳の複写のページを探した。素早い。


「このページです。……同じ金額が、同じ日付で記録されています。王都側がセドゥン商会名義で出て、フォル・ネビュラ側でカラミ・ルートの受け取りとして記録されている」


「カラミ・ルート」


「私が管理していた経路の、内部での呼び方です。……七年間で、このルートを通った金額が、台帳に記録されています」


(カラミ・ルート。……カラミが自分の名前で呼ばれていた経路を、七年間管理させられていたということですわよ。自分の名前がついた排水溝の管理者として、ということですもの)


 シリルが、照合の進捗を記録している。


「カラミ様、照合できた件数を数えていただけますかしら。……フロード補佐官の財務記録差分の十一件と、台帳の記録の一致を確認していただきたいですわよ」


「分かりました。……少し時間をください」


 カラミが、二つの資料を交互に見ながら、指で追い始めた。


 私は書斎の窓の外を見た。


 朝の光が、庭に差し込んでいる。昨夜の夜よりずっと明るい。


(今朝は晴れていますわよ。……フォル・ネビュラは霧の港でしたもの。こちらでは、朝から全部見えますわよ)


「八件、一致します」


 カラミが言った。


「八件」


「はい。……十一件のうち八件は、台帳の数字と照合できます。残りの三件は、台帳に対応する記録が見当たりません。……別のルートを通ったか、台帳に記録されなかったものです」


「三件は一致しない、ということですかしら」


「一致しないのではなくて、対応が見当たらない、ということです。……別の経路が存在する可能性があります」


(別の経路。……カラミ・ルート以外の経路が、ドレインにはあったということですかしら。ベルト・ライスさんが外部協力者として動いていた経路とは別のものかもしれませんもの)


「シリル、三件の不一致を、別途記録しておいてくださいな」


「既にしていますよ。……別の経路への調査線として保管します」


「カラミ様、八件の照合が取れたということで、法廷証拠の形としては」


「七年間の台帳と三年分の財務記録差分で、同一の資金移動が八件確認された、という形になります。……私の証言と合わせれば、かなり強い証拠になると思います」


「ありがとうですわよ、カラミ様」


 カラミが、少し顔を上げた。


「……私の証言は、信用されますか。七年間、ドレインの経路管理者として働いていた人間の証言が」


(この問いは、自分への懐疑ですわよ。……七年間、経路の内側にいた人間が、法廷で証言する時に、証言の重みを自分で疑っているということですもの)


「信用しますわよ」


 私は答えた。


「……なぜですか」


「七年間、台帳を捨てなかったからですわよ。……台帳は、あなたが持ち続けたものですもの。証言は、証拠と一緒にあれば、信用の形が変わりますわよ。証拠だけでは足りない部分を、証言が補う。証言だけでは足りない部分を、証拠が補う。カラミ様の証言と、この台帳と、フロード補佐官の財務記録差分が、三本で立っていますもの」


 カラミが、少し間を置いた。


「……三本、ですか」


「ええ。一本より三本の方が、倒れにくいですわよ」


* * *


 八時を過ぎた頃に、三番目の作業に移った。


 シリルが商業記録所への照会依頼の書面を仕上げて、別の使い走りで送った。ドルム商会とネッセル商会の登記書類の確認依頼だ。


「商業記録所の返答は、いつ頃来ますかしら」


「今日の午後、早ければ正午には。……特急の閲覧依頼として出しましたから、通常より早く動きます。ただし」


「ただし」


「架空商会である場合、登記書類自体が偽造または存在しない可能性があります。その場合でも、「記録なし」という返答が証拠になります」


「ゴミが、自分の痕跡を残していなかったことが、逆に証拠になるということですわよ」


「正確にはいえば、不法投棄業者が正規の手続きをしていない事実が証明される、ということですよ。……清潔に見せるために書類を整えなかった、あるいは整えられなかった実態が、返答の形で証明されます」


(なるほどですわよ。……「記録なし」という返答も、証拠の一つになりますもの。掃除の目から見れば、ゴミが隠れた場所を探す時、「ここにはない」という確認も、全体像を埋める一ピースになりますわよ)


* * *


 四番目は、ベルト・ライスの訪問だった。


 九時に、ベルト・ライスが屋敷にやってきた。


 昨夜の古書店と同じ質素な外套だ。でも表情が、少し違う。昨夜より、少し軽い。


(七年分の荷を、昨夜下ろしたからですわよ。……一夜明けた人間の表情は、荷の重さが変わった分だけ変わりますもの)


 応接室に通した。


 シリルが、通関担当者への照会方法の詳細を聞き取った。私は扇子を持ちながら聞いていた。


「ガルベス子爵が使う通関担当者は、王都東の国道の第三検問所を管轄しています。……担当者の名前はヴォルフと申します。ガルベス子爵が通関する前日の夕刻に、商会名義での通関申請が出ます。申請書は検問所の副本控えとして残ります」


「ヴォルフ担当者は、ガルベス子爵側の人間ですかしら」


「いいえ。……取引の相手として使っているだけで、ヴォルフ自身はドレインと関係ありません。正規の手続きで通関申請が来れば、通すだけです」


「なるほど。……ということは、申請が出た時点で私どもに連絡が来れば、通関前に対応できるということですわよね」


「はい。……私が、ヴォルフに直接連絡を取ることは難しいです。ただし、申請書の副本控えに開示請求をかければ、申請が出た翌日には手元に書類が来ます」


 シリルが、書き取りながら言った。


「開示請求のための書式と、必要な権限の種類は」


「国境監視の名目で出せます。……通常は軍の権限が必要ですが、国王の特命があれば民間からでも出せるはずです」


(国王の特命。……C-2で確保した特命を、ここで活用しますわよ。申請に使える形があるかどうかは、国王への報告の時に確認が必要ですもの)


「シリル、国王への帰国報告の時に、特命の範囲について確認を加えてくださいな」


「すでに項目に入れていますよ」


(当然ですわよ)


「ライスさん、もう一点だけ」


「はい」


「モモ・ダスト様が、カスミ弁護士を経由して動かそうとしているものについて、具体的に何かご存じですかしら」


 ベルト・ライスが、少し目を細めた。


「……一つだけ、聞いたことがあります。詳細は知りません」


「お聞かせいただけますかしら」


「ダスト侯爵家が、王城の審議権限の一部を取得しようとしているという話です。……具体的には、特定の委員会における審議の発議権です。ガルベス子爵が持っていた影響力を、正式な権限として引き継ぐ計算だと、ネーベル・アルバ氏から聞きました」


(審議の発議権。……これが、モモ・ダストが狙っていたものですわよ。ガルベス子爵は不正な圧力で委員を動かしていましたが、モモ・ダストは正式な権限そのものを取ろうとしているということですもの。塵が、堆積してゴミ山になるのではなく、法的な形で居場所を確保しようとしているということですわよ)


 右手の指先が、またかすかに冷たくなった。


(感じておきますわよ。……モモ・ダストのやり方が、ガルベス子爵より巧みだということは、最初から分かっていましたもの。ただ、これほど「正式な形」での移行を狙っているとは、昨夜まで全体像が見えていませんでしたわよ)


「ありがとうですわよ、ライスさん」


「……お役に立てましたか」


「ええ」


 私は扇子を、ゆっくりと開いた。


「ライスさん、一つお聞きしてよろしいかしら」


「はい」


「七年間、ドレインの外部協力者として動いてきた。その間、ご自分のしていることが何かは、分かっていたのですかしら」


 ベルト・ライスが、少し間を置いた。


「……最初の一年は、分かりませんでした。二年目に、分かりました」


「二年目から五年間、分かったまま続けたのですかしら」


「はい」


「なぜですかしら」


「商売の経路が、すでにドレインと混ざっていたからです。……抜けようとすれば、自分の商売ごと終わりになる。それが怖かった。正直に言えば、それだけです」


(正直に言えば、それだけです。……ライスさんは、今日の話でも昨夜の話でも、飾らない言い方をしますわよ。七年間の怖さを、「それだけ」と言える人間は、今日ここに来ることができた人間ですもの)


「ありがとうですわよ。……ライスさん、しばらくこの王都にいられますかしら」


「……今は、行く場所がありませんから」


「では、今夜から数日、こちらの屋敷の一室をお使いいただけますかしら。カラミ様もいますわよ。お二人とも、しばらくここで過ごしていただいた方が、私どもとしても作業が進みますもの」


 ベルト・ライスが、少し目を丸くした。


「……屋敷に置いてくれるということですか」


「証人も、使える道具の一つですわよ。……ただし、道具として使う以上、壊れないよう管理しますもの」


 シリルが、完璧な笑顔で付け加えた。


「お部屋は清潔ですよ。……肥料になる前に、鮮度よく保管しますから」


 ベルト・ライスが、シリルを見た。


「……昨夜も思いましたが、あなたは本当に変わった言い方をしますね」


「感謝しています」


(感謝しています、は昨夜も言っていましたわよ。シリルはこの返し方が気に入っているようですもの)


 ベルト・ライスが屋敷に落ち着いた後、シリルが私のそばに来て小声で言った。


「一点、追加でご報告があります。……第三検問所の担当者から、昨夜の時点でヴォルフ氏に非公式の確認を入れておきました。ガルベス子爵が今夜から明日の夕刻にかけて、農道経由で検問所に向かう可能性があります。正規の国道を避けて、東の農道を使うルートです。リタには、今夜から農道の出口付近に入ってもらっています。子爵が動いた段階で、国境越えの手前で拘束できるよう、王城の騎士団との連携も手配済みです」


(農道。……正規の国道を避けて移動しようとしているということですわよ。審議延期を知ってから急いだ、あるいは最初から目立たない経路を選んでいた、どちらかですもの)


「追跡の準備は」


「リタが今夜から農道の出口付近に張っています。……申請書が出る前に移動が確認できれば、通関の手前で止めることができます」


「国内で、ということですわよ」


「はい。……国王陛下のご意向に沿う形で動けます」


(農道のゴミは、農道で止めますわよ。……国境を越えさせない、それが今夜の課題ですもの)


* * *


 五番目の作業、国王への帰国報告は、午前十一時に入れていた。


 王城への訪問だ。


 リタが護衛につく。シリルは一歩後ろに控えて同行した。


 王城の応接室は、いつも通り整えられていた。


 国王が待っていた。


「クレア嬢、無事の帰国、ご苦労だった」


「ありがとうございますわよ」


「フォル・ネビュラの件は、どこまで」


「フォル・ネビュラの澱は、大部分を引き上げてまいりましたわよ。……ただし、根本の管理者についてはまだ確認の段階ですもの。今日王都で、証拠の照合作業を進めています」


 国王が少し目を細めた。


「ガルベス子爵が動いているという話は、聞いているか」


「知っていますわよ」


「予算審議が、今週中に動くかもしれない。……私も止める手段を考えていたが、直接介入すると王家の政治的立場に関わる。クレア嬢に動いてもらう方が」


「フロード補佐官を通じて、委員二名に接触を依頼していますわよ。……今日の午前中に、補佐官が動いてくださっているはずですもの」


「フロード補佐官を動かしていたか」


「補佐官が自ら動きたいとおっしゃっていましたもの。……私は方向を示しただけですわよ」


(正確には、シリルが燃料を用意して私が方向を示した、ということですもの。でも今は細かいことより、国王に次の確認をすることが先ですわよ)


「陛下、一つお願いがありますわよ」


「聞こう」


「C-2の特命の範囲について確認させてくださいますかしら。……王都東の第三検問所における通関申請の副本控えへの開示請求を、特命の権限で出せるかどうかを知りたいですわよ」


 国王が、シリルを一度見た。


「……開示請求の書式と、対象の商会名は」


「ドルム商会とネッセル商会でございます」


 シリルが答えた。


 国王が、少し間を置いた。


「特命の範囲内だ。……国境監視に関わる通関書類であれば、特命状を添付した開示請求が通る。書式は王城の記録室で発行できる」


「ありがとうございますわよ」


「ガルベス子爵が国境を越えようとしているということか」


「三日以内と見ていますわよ」


 国王が、少し沈黙した。


「……三日以内に。……クレア嬢」


「はい」


「ガルベス子爵の件は、国内で決着をつけることはできるか」


(国内で、という言い方をしましたわよ。……国王は、ガルベス子爵が国境を越えてから処理することを望んでいないということですもの。国内の貴族が隣国に逃げれば、外交問題に発展する可能性がありますわよ)


「間に合わせるよう、動きますわよ」


「頼む」


(間に合わせるよう、と言いましたが、保証はできませんわよ。……三日以内で、今日一日の作業がどこまで進むかにかかっていますもの)


 私は扇子を持ち直した。


「陛下、もう一点よろしいですかしら。……スラッジ書記官が証言できる状態かどうかを確認させてください。今日の午後に保護施設でお会いできますかしら」


「できる。……今日の午後に手配しよう」


「ありがとうございますわよ」


* * *


 王城の記録室で、特命状への追記と開示請求の書式を受け取った。


 シリルが書式に必要事項を書き込んで、記録室の担当者に提出した。


「返答はいつですかしら」


「今日の夕刻には来ると思います。……特命状が付いていれば、通常の書式より優先的に処理されます」


「ガルベス子爵が今日中に申請を出せば、今夜か明日の朝には分かるということですわよ」


「はい。……申請が出ていない場合は、検問所側に照会をかけるだけ空振りになりますが、空振り自体は損ではありません。日程を押さえる意味では、今日動いておく方が確実です」


(空振りも、掃除の一部ですわよ。……汚れがないことを確認することも、全体の状況を知るために必要なことですもの)


* * *


 王城から屋敷に戻ったのは、正午を少し過ぎた頃だった。


 商業記録所からの返答が、すでに届いていた。


 マルダが玄関で書面を持って待っていた。


「お嬢様、こちらが届いておりました」


「ありがとうですわよ」


 封を開けた。シリルが隣から覗き込む。


「ドルム商会は?」


「登記なし、ですわよ」


「ネッセル商会は」


「……三年前に登記があります。ただし」


 続きを読んだ。


「廃業届が、二年前に出ていますわよ。廃業後の商会名義での通関申請は、本来できないはずですもの」


「廃業した商会名義で通関しようとしている、ということですか」


「書類の偽造か、担当者の見落としを利用するつもりですわよ。……どちらにしても、申請が出た段階で不正が確認できる形ですもの」


 シリルが、少し笑顔の形を変えた。


「廃業ゴミが、本体が逃げるための梱包材に使われていた、ということですね。……不法投棄業者が、すでに朽ちた容器に荷を詰めようとしている」


「そして今日、その容器の状態が確認できましたわよ」


(廃業した商会名義での通関申請。……これが申請書として第三検問所に出れば、開示請求の書類と突き合わせることで、偽造または不正の証拠になりますわよ。ガルベス子爵が国境を越えようとする前に、申請書が出た段階で止められますもの)


「シリル、この返答を記録に加えてくださいな。……スラッジ書記官の証言は今日の午後に確認できますもの。フロード補佐官の財務記録と、カラミ様の照合と、商業記録所の返答で、三方向からの確認が揃ってきましたわよ」


「はい。……E-1の水路図が、これで王都側から完成しつつあります」


* * *


 午後二時に、スラッジ書記官との面会があった。


 国王が手配した保護施設の一室で、書記官は待っていた。


 三十代後半の男だ。フロード補佐官と同じ年代に見えるが、印象がずいぶん違う。フロード補佐官は疲れを背負って立っている人間の姿だった。スラッジ書記官は、疲れが全部外に出てしまっているような、削れた印象がある。


(意識を取り戻してから数日、ということですわよ。……D-3の件で失踪・意識不明の状態で発見されていた人間ですもの。まだ本調子ではないはずですわよ)


「スラッジ書記官、本日はお時間をいただいてありがとうございますわよ」


「……いいえ」


 声が、少し掠れている。


「フロード補佐官から、お名前は伺っていました。クレア・ヴィクトリア様ですね」


「そうですわよ」


「私の話を、聞いていただけますか」


(「聞いていただけますか」と言ってきましたわよ。……こちらが聞きに来たのですが、ご自分から話したいという意志を持っているということですもの)


「もちろんですわよ」


 スラッジ書記官が、少し体を起こした。


「三年前から、ガルベス子爵側の人物から接触を受けていました。……最初は、審議の日程を一日教えるだけでした。「誰にも言わなければ分からない」と言われて、断り切れませんでした」


「最初の接触で、断れなかった理由はありますかしら」


「家族、です。……妻と、子どもが一人います。その二人の名前が、最初の接触の時に出ました。何も言わなくても、意味は分かりました」


(家族の名前。……ベルト・ライスさんの「商売の経路が混ざっていた」とは違う理由ですわよ。スラッジ書記官は、家族を守るために三年間続けさせられていたということですもの)


 右手の指先が、少し冷たくなった。


 打ち消さなかった。


「三年間、情報を提供し続けていた間、ご自分がどうすれば止められるかを考えていましたかしら」


「……考えていました。でも、どこへ持っていけばいいか、分からなかった。王城の財務部門の上長が、ガルベス子爵側の人間だと途中で分かって。申告先がなくなりました」


(申告先がなくなった。……フロード補佐官の七年前の選択と、同じ状況ですわよ。上に持っていけない、横に持っていける人間もいない、一人で抱えるしかなかったということですもの)


「スラッジ書記官、失踪される前夜に、何かありましたかしら」


「……ガルベス子爵側の人物から、今度は別のことを頼まれました。審議の日程ではなく、国王陛下へ提出される予定の監査報告書の一部を、差し替えるよう言われました」


「差し替え」


「はい。……そこで、初めて断りました。日程を教えることと、書類を差し替えることは、違うと思いましたから。断った次の朝に、意識を失いました」


(断ったから、消されそうになったということですわよ。……スラッジ書記官は、三年間続けた後、最後の一線で断ることができた人間ですもの。それで命の危険が生じた)


「セドゥン商会という名前を、聞いたことがありますかしら」


「あります。……報酬の支払いに使われた名義です。私の口座ではなく、私の妻の旧姓で開設された別の口座に、セドゥン商会名義で振り込みがありました」


(妻の旧姓の口座。……スラッジ書記官本人が直接受け取らない形で、報酬が支払われていたということですわよ。証拠として残りにくくする工夫ですもの。ただし——)


「その口座の記録は、今も確認できる状態ですかしら」


「……妻が、記録を全部取っていました。不安で、何があっても証明できるように、と。私は知らなかったのですが、妻が独断で」


(奥様が記録を取っていた。……スラッジ書記官が知らないところで、奥様が証拠を保全していたということですわよ。台帳を持ち続けたカラミと、記録を副本で取り続けたフロード補佐官と、口座記録を全部取っていた書記官の奥様。……誰かが必ず、記録を手放さなかったということですもの)


「奥様の記録を、お借りできますかしら」


「はい。……妻に連絡を取ってもらえれば」


「シリル」


「今日の午後に手配します。……書記官様、奥様のお名前と、連絡先を教えていただけますか」


* * *


 スラッジ書記官との面会を終えて、廊下に出た。


 シリルが、書き取った内容を確認しながら歩いている。


「お嬢様、D-3の件は」


「スラッジ書記官は、染み抜きの対象ですわよ」


「焼却ではなく」


「家族を守るために動かされていた人間を、焼却する理由がありませんわよ。……それに、最後に断ることができた人間ですもの」


「最後の一線、ですか」


「書類の差し替えは、できなかったということですわよ。……三年間、一線の手前で続けて、一線を越えそうになった時に断った。その一点が、今日の証言を可能にしていますもの」


(一線を越えなかったことが、今日ここへ来られた理由ですわよ。……一線を越えてしまった人間は、今日の話ができなかったと思いますもの)


「奥様の口座記録が確認できれば、セドゥン商会との接続がさらに強固になります。……スラッジ書記官の証言と合わせると、被害者側から見た証拠になります」


「加害者側から見た証拠と、被害者側から見た証拠が両方揃うということですわよ」


「珍しく、材料が揃ってきましたね」


「ゴミを捨てるには、分別しないといけませんもの。……今日は、分別作業をしていますわよ」


* * *


 六番目の作業、E-1の資料館への閲覧申請は、シリルが王城の記録室で済ませていた。


 カスミ弁護士の封蝋を含めた三点照合の申請だ。フォル・ネビュラで確認したエストの封蝋、ダスト傍系の紋章、そして帰国後に手元に届いたカスミ弁護士の脅迫書面の封蝋。


「閲覧申請の返答は」


「明日の午前中には届くと思います。……資料館での照合作業自体は、今日中に担当者が動き始めます」


「E-1の水路図の、最後の照合ですわよ」


「はい。……三点が一致すれば、カスミ弁護士が単なる顧問弁護士ではなく、ガルベス子爵とダスト侯爵家双方の経路を管理する実働管理者だったことの、文書的な証明になります」


(文書的な証明。……証言と書類と封蝋が揃って、初めて法廷で使える形になりますわよ。難燃性の染みには、多めの光を当てることが必要ですもの)


* * *


 七番目は、夕刻に来た。


 第三検問所からの開示請求の返答ではなく、フロード補佐官からの書面だった。


 封を開けると、短い文章が書いてある。


---


 委員Aは、午前中に審議への参加取り消しを提出しました。


 委員Bは、日程延期の動議を準備しています。本日の議会定刻前に動議が出れば、今週の審議は延期されます。


 記録は確かに燃料になりました。


 フロード


---


(委員Aが参加取り消し、委員Bが動議の準備。……これで今週中の審議は通過しないということですわよ)


 私は書面を机に置いた。


「シリル」


「はい」


「今週の予算審議は、延期されますわよ」


 シリルが、一瞬だけ笑顔の形を変えた。普段の完璧な笑顔ではなく、少し別の形だ。


「……間に合いましたね」


「ええ」


(間に合いましたわよ。……ガルベス子爵が急いでいた予算審議が、延期されますもの。三日以内という時間に、こちらも速度を合わせて動いた結果ですわよ)


「ガルベス子爵は、今夜どう動きますかしら」


「審議の延期を知れば、撤収の判断を変えるか、あるいはさらに急ぐか、どちらかです。……予算を通す目的で今週動こうとしていたのであれば、延期によって計画が崩れます。計画が崩れた時の行動は、人間によって違います」


「ガルベス子爵はどちらだと思いますかしら」


「さらに急ぐ方だと思います。……計画が崩れた時に冷静に立て直せる人間は、七年間こういう手口を続けながらも、カラミ・ルートの台帳を捨てさせなかったような人間です。ガルベス子爵は、証拠を散らかしたまま外に出ようとしていますから、計画が崩れると焦る可能性が高い」


「焦ったゴミは、散らかりながら逃げますわよ」


「そして散らかった痕跡は、追跡しやすくなります」


(逆に言えば、ガルベス子爵が焦って動けば、こちらが追いやすくなりますわよ。……計画通りに静かに動く敵より、計画外れで慌てる敵の方が、痕跡を残しますもの)


「今夜、第三検問所からの返答があれば、明日の申請が出た段階で止められますわよ」


「はい。……ただし、申請が出なかった場合は、別の経路で国境を越えようとする可能性があります」


「その時は、追いますわよ」


 私は扇子を持ち直した。


(国内で決着がつけば、それが一番きれいですわよ。……でも、国境を越えてから追うことになっても、追う経路は確保できていますもの。第2章は、まだ続いているということですわよ)


* * *


 夜になった。


 第三検問所からの返答は、まだ来ていなかった。


 明日の朝以降の可能性が高い。


 シリルが、今日一日の七点並行作業の状況を整理した。


「フロード補佐官への書面と委員接触:完了。委員Aの参加取り消しと委員Bの動議準備が確認。審議延期が確定見込み」


「カラミ様との照合:完了。八件一致、三件不一致。三件は別の経路の可能性として記録」


「商業記録所への照会:完了。ドルム商会登記なし、ネッセル商会は廃業届提出済み。通関申請に使えない名義であることが確認」


「ベルト・ライスとの詳細確認:完了。通関担当者の情報を取得。農道移動の可能性を確認。屋敷に宿泊手配」


「スラッジ書記官との面会:完了。証言確認。奥様の口座記録の取得を手配」


「E-1閲覧申請:完了。明日の午前に返答予定」


「国王への帰国報告:完了。特命の範囲確認と開示請求書式の取得」


「第三検問所への開示請求:送付完了。返答待ち」


「……七点、全部動きましたよ。お嬢様」


(七点、全部動きましたわよ。……今日は朝から夜まで、順序通りに丁寧に動きましたもの。一点も詰まらなかったということですわよ)


「詰まらなかったのは、迂回路を用意していたからですかしら」


「迂回路が必要な詰まり方が一度もなかったです。……七点が全部、正面から通りました」


「珍しいですわよ」


「今日の材料の質が良かったです。……カラミ様の照合、スラッジ書記官の証言、ベルト・ライスさんの通関情報、フロード補佐官の動き。全部が今日の一日に揃ったのは、昨日ベルト・ライスさんが来たからですよ」


(ライスさんが七年分の荷を持って来たことが、今日の七点を可能にしましたわよ。……ゴミ箱の蓋が開いた時に、中身が整理できる状態だったということですもの)


「今日は、一日の掃除がよく進みましたわよ」


「はい。……ただし」


「ただし」


「ガルベス子爵は、まだ動いています。明日に通関申請が出るかどうかが分かりません。農道の監視は今夜から続けています。モモ・ダストの審議権限取得の動きも、具体的な内容がまだ不明です。「L」がネーベル・アルバだとしても、確定の証拠はまだありませんよ。——農道でガルベス子爵を捕捉できれば、国内での決着が整います。リタと騎士団が動ける状態にあります」


「分かっていますわよ」


 私は窓の外を見た。


 夜の庭が、暗い。ランプの光が窓ガラスに映っている。


(今日の七点は、全部進みましたわよ。でもゴミはまだ動いていますもの。明日も、動きますわよ)


* * *


 カラミとベルト・ライスに夕食を用意した後、私はサロンに入った。


 シリルがすでに、ティータイムの準備をしていた。


「今夜は何ですかしら」


「王都の菓子屋から、今日届いたものがあります。……ヴルム・マドレーヌです」


「初めて聞きますわよ」


「王都南区の菓子屋が作っている焼き菓子です。……茶色いくるみ形をしていまして、中に胡桃と蜂蜜を練り込んだ生地が入っています。見た目より、ずっとしっかりした味です」


 皿の上に、小さな茶色の菓子が三つ並んでいる。確かにくるみに似た形をしていた。


「茶は」


「ロワール・ダークですよ。昨日と同じです。……ただし、今日は少し薄めに淹れました。今夜は昨日より、仕事の後の落ち着きの時間に向けた加減にしています」


「薄めに淹れると、味が変わりますかしら」


「渋みが抑えられます。……蜂蜜の甘みが先に来るようになります。昨日は渋みが先でしたが、今日は甘みが先ですよ」


 カップを持った。


 一口飲んだ。


(甘みが先に来ますわよ。……渋みではなく、蜂蜜のような甘みが最初に来て、後から少しだけ渋みが追ってきますもの。同じ茶葉でも、淹れ方で先に来るものが変わるということですわよ)


「今日は、甘みが先でしたわよ」


「七点が全部動いた日ですから。……今夜は、渋みより甘みを先にしました」


(シリルらしいですわよ。……今日の仕事の結果を、茶の淹れ方で表現していますもの。言葉より先に、茶が今日の評価をしてくれていますわよ)


 ヴルム・マドレーヌをひとつ手に取った。くるみ形の小さな菓子が、指に収まった。


 口に入れた。


 外の生地がさくりと割れて、中から胡桃と蜂蜜の甘みが広がった。蜂蜜の甘みが濃く、胡桃の香ばしさが後から来る。外側は素朴だが、中身が豊かな菓子だ。


(外見はくるみ形の素朴な菓子ですわよ。……でも中身は、蜂蜜と胡桃が詰まっていますもの。見た目と中身が違うということは——今日この屋敷に来た人間たちのことのようですわよ。ベルト・ライスさんも、スラッジ書記官も、外から見れば汚れた人間ですもの。でも中に、七年分の何かが詰まっていましたわよ)


「シリル、今日一日で、何人の人間が自分の汚れを持ってきましたかしら」


「カラミ様、ベルト・ライスさん、スラッジ書記官、フロード補佐官。……四人ですよ。それぞれが、自分の方から整理しに来た形です」


「全員が、リサイクル資源ですわよ」


「今日の屋敷は、分別センターのようでしたね」


「……上品な言い方ではありませんわよ」


「失礼しました。では、本日は自ら持ち込みをされた方々の、受付窓口を担わせていただいた一日でしたね」


(それも十分上品ではありませんわよ、シリル。……でも、言い得て妙ですもの)


 私は少し、口の端だけ動かした。


「ええ。……受付窓口でしたわよ。今日は、焼却ではなくて、受け取りの一日ですもの)


 茶をもう一口飲んだ。


 甘みが、今夜は渋みより先に来た。


(明日は、ガルベス子爵の動きが見えるかもしれませんわよ。第三検問所からの返答が来れば、通関申請の有無が分かりますもの。E-1の閲覧申請の返答も来ますわよ。スラッジ書記官の奥様の口座記録も)


(三日以内、と言っていましたわよ。……今日が一日目が終わりましたもの。明日が二日目ですわよ)


 ヴルム・マドレーヌをもう一つ手に取った。


 外はくるみ形の素朴な見た目。でも中は、蜂蜜と胡桃が詰まっている。


(掃除は、外側だけ見てもいけませんわよ。……中に何が詰まっているかを確認してから、処理方法を決めますもの。今日は、四人の中身を確認した一日でしたわよ)


 菓子を口にした。甘みが広がった。


 今夜は、渋みより甘みが先だ。


 明日も、丁寧に、順序通りに。


 ゴミが逃げる前に、こちらも動きますわよ。

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