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第43話:収集日の前夜と、逃げるゴミの足音

 古書店の前に着いた。


 灯りが、店の窓から漏れている。人影が、ガラス越しに見えた。


 一人ではない。


(二人いますわよ。……フロード補佐官と、もう一人。エルナ様でしょうかしら)


 扇子を腰の位置で持ったまま、シリルを見た。


「二人います」


「はい。……もう一人の人影は、先ほどから動いていません。座っています。フロード補佐官は立っています」


 リタが、すでに書店の周囲を一周していた。音もなく戻ってきて、指を二本立てた。


(書店内に二名。外に人員なし。ということですわよ)


「入りますわよ」


* * *


 扉を開けた。


 古書の紙と革と埃が混ざった匂いが来た。いつもの匂いだ。


 フロード補佐官が、棚の脇に立っていた。書状に書かれていた通りの速度で、今日も補佐官らしい几帳面な姿勢をしている。目の下の皺が、先日より一本増えているように見えた。


 そして——もう一人。


 奥の椅子に座っていたのは、エルナ・ネーベルではなかった。


(これは、初めて見る顔ですわよ)


 五十代ほどの男だ。背が低く、肩幅が広い。外套は質素だが、生地が良い。商人の格好だが、指の節が太く、長年外で仕事をしてきた人間の手をしている。


 男が立ち上がった。


「ヴィクトリア男爵令嬢ですか」


 声が低く、くぐもっている。隣国のなまりが混じっていた。


(隣国のなまり。……でも、言葉はこちらの言葉を流暢に話していますわよ。長年こちら側に滞在している人間のなまりですもの)


「そうですわよ」


 私は答えた。


「あなたはどなたですかしら」


「ベルト・ライスと申します」


 空気が、少し変わった。


 シリルが、私の一歩後ろで静止した。表情は変わっていない。ただ、笑顔の質が、少しだけ変わった。


(フォル・ネビュラの、カラミの口から聞いた名前ではありませんわよ。……ですが、ドレインの上流に近い場所にいる人間として、エルナ様の書状の中に断片的に出ていた名前ですもの。「L」の正体追跡のキーパーソンとして伏線に残っていましたわよ)


 私は扇子を持ったまま、その男を正面から見た。


(焼却の必要は? ……まだ分かりませんわよ。ここへ来たということは、何かを持ってきたか、あるいは届けに来た人間ですもの。判断は、話を聞いてからですわよ)


「ライスさん。……フロード補佐官は、あなたをここに呼んだのですかしら」


「逆ですよ、令嬢」


 フロード補佐官が言った。


「ライス氏から私に接触がありました。……あなたへの橋渡しを頼まれました」


「橋渡し」


「はい。……ライス氏は、こちらの国で動いている人間とは、直接接触する手段を持っていません。私がフォル・ネビュラへの照会文書の担当者だったことを、何らかの経路で把握していたようです」


(フロード補佐官が照会文書の担当者だったことを把握していた。……ドレインの上流に近い場所にいる人間が、王城の内部情報を持っているということですわよ。どこまで見えているか、まだ分かりませんもの)


「ライスさん、座ってくださいませ」


 私は言った。


「立ったまま話すには、少し長くなりそうですもの」


* * *


 古書店の奥、棚で囲まれた一角に、椅子が四脚ある。


 ライスが座った。フロード補佐官が隣に立った。シリルが私の後ろに控えた。リタは扉の内側に立って、外の音を聞いている。


「話していただけますかしら、ライスさん」


「はい。……ただし、先に一つだけ確認させてください」


「なんですかしら」


「カラミは、今どこにいますか」


 私は少し考えた。


(カラミの居場所を確認する人間。……ライスとカラミの関係を、カラミは話していなかったと思いましたわよ。でも名前が出たということは、知っている。カラミが七年間フォル・ネビュラにいたことも、知っているかもしれませんもの)


「安全な場所にいますわよ」


「それで十分です。……生きていると分かれば、私が話すことに変わりはありません」


(カラミが生きているかどうかを確認したかった。……カラミのことを、心配している人間の確認の仕方ですわよ。ドレインの上流にいながら、カラミのことを気にしている人間。この両立は——複雑ですもの)


「話を聞きますわよ」


「ドレインについて、知っていることをお伝えします。……私は、ドレインの外部協力者として、七年間動いてきました。ただし、最初からそのつもりだったわけではありません」


「どういう意味ですかしら」


「最初は商人としての依頼だと思っていました。……商品の輸送の手配、送金の代理、書面の転送。それが、気づいた時にはドレインの物流を担う立場になっていました」


(七年前の書面の転送。……フロード補佐官と、話の構造が似ていますわよ。最初の一回を断れなかった、あるいは気づかなかった人間が、いつの間にか経路の一部になっていたということですもの)


「今日ここへ来たのはなぜですかしら」


「ドレインが、撤収を始めているからです」


 書店の中が、静かになった。


 外の通りから、馬車の音が聞こえた。それだけだ。


「撤収」


「はい。……ガルベス子爵の屋敷から荷馬車が出たことは、ご確認でしょうか」


「知っていますわよ」


「あれは、ドレインの指示です。……ガルベス子爵が独断で動いているわけではありません。上から、今週中に拠点を畳むよう指示が出ました」


(上から。……F-1「ドレイン」の階層構造ですわよ。ガルベス子爵の上に、指示系統があるということですもの。「L」が動いた、ということかもしれませんわよ)


「上、というのは誰からですかしら」


 ライスが、少し目を細めた。


「その名前が、あなたに何か意味しますか」


「ネーベル・アルバ、ですかしら」


 ライスの表情が、わずかに変わった。


(正解ですわよ。……表情で分かりましたもの。G-1の「L」——ネーベル・アルバとの同一性が疑われていた推測が、今夜ここで肯定されましたわよ)


「……よく知っておられる」


「エルナ様のお父上の名前は、知っていますわよ」


* * *


 シリルが、私の後ろで息を吐いた。聞こえないほど小さな息だ。でも聞こえた。


(シリルも、今の確認を処理しましたわよ。……「L」がネーベル・アルバである可能性が、今夜ライスの反応で大きくなりましたもの)


「ライスさん、続けてくださいますかしら」


「はい。……ネーベル・アルバ氏は、七年前からドレインの上位の管理者として動いています。表向きは引退した商人です。ただし、フォル・ネビュラを拠点として、隣国と王都を繋ぐ経路を整備してきました」


「エルナ様は、そのことをご存じですかしら」


「知っています。……ただし、エルナ嬢は父親の活動に加担していません。むしろ七年前に知ってしまったことで、父親と実質的に決別しています」


(エルナがフォル・ネビュラで孤立していた理由ですわよ。……父親がドレインに関わっていることを知りながら、それでも証拠を集め続けていた。「霧は晴れていない、ただし霧の中でも見えているものがある」という書状の意味が、少し変わってきましたもの)


「撤収の具体的な内容は何ですかしら」


「二つです。……一つ目は、ガルベス子爵が今週中に王都を出ます。国境を越えて、隣国の一都市に既に拠点が準備されています。二つ目は、モモ・ダスト様の動きです」


 私は、扇子を少しだけ動かした。


「モモ・ダスト」


「はい。……ダスト侯爵家の令嬢が、カスミ弁護士を経由して何かを動かそうとしています。ガルベス子爵が撤収した後の、王都内の権益の引き継ぎです」


(塵が、撤収する産業廃棄物の後を引き継ごうとしていますわよ。……ガルベス子爵が逃げた後、その利権と影響力をモモ・ダストが吸収する計算ですもの。塵の蓄積が、より大きな規模になりますわよ)


「ガルベス子爵が撤収した後の王都に、モモ・ダスト様が残るということですかしら」


「残るどころか、大きくなると思います。……ガルベス子爵は道具として使い、使い終わったら切り捨てる。そういう設計だったのだと、私は見ています」


(モモ・ダストが、ガルベス子爵を道具として使っていた。……ゴミ箱の中の産業廃棄物が、実は最初から「一時的な容器」として設計されていたということですわよ。捨て場所の上に、さらに大きな汚染源がいたということですもの)


 右手の指が、少し冷たくなった。


 打ち消さなかった。


(感じておきますわよ。……モモ・ダストが、この規模の話の中心にいたということを、今夜この古書店で受け取りますもの)


* * *


「ライスさん、あなたはなぜ今夜この話を私にするのですかしら」


 私は正面から聞いた。


「ドレインの外部協力者として七年間動いてきたあなたが、今日ここへ来た理由を聞かせてくださいな。……情報の提供は、何かとの交換を意味しますわよ。取引をしに来たのでしたら、その条件を先に言ってくださいますかしら」


 ライスが、少し目を伏せた。


「……交換は求めません」


「なぜですかしら」


「カラミが生きているからです」


(カラミが生きているから。……この答えは、予測していませんでしたわよ)


「続けてくださいますかしら」


「カラミは、私が七年前にフォル・ネビュラで最初に会った人間です。……経路の管理者として送り込まれた若者でした。私は外部協力者として書類の手配をしていましたから、何度か仕事上の接触がありました」


「カラミを、知っていたということですかしら」


「七年間、経路の向こう側にいた人間が、まだ生きている。……ドレインに関わった人間が、生きてここにいる。それを確認できた時、私もここへ来ることができると思いました」


(ライスも、撤収する側の人間ですわよ。……でも逃げる方向が、ガルベス子爵とは違いますもの。ガルベス子爵は利権を持って逃げる。ライスは、七年分の荷を下ろしに来た、ということですかしら)


 シリルが、静かに口を開いた。


「ライス氏、一点だけ確認させてください。……今夜の情報提供の後、あなたはどこへ行くつもりですか」


「分かりません」


「分からない、とは」


「行く場所が、まだ決まっていません。……七年分の仕事を終わらせてから考えるつもりでいましたから」


 シリルが、完璧な笑顔のまま言った。


「それは、エコではありませんね。……七年分の荷を下ろした後の入れ物を、先に考えておくべきでしたよ」


 ライスが、少し目を細めた。


「……あなたの言い方は、変わっていますね」


「お褒めの言葉として受け取っておきます」


(シリルは、ライスを使える資源として見ていますわよ。……七年間ドレインの外部協力者として動いてきた人間が持つ情報と人脈は、今後の処理に使えますもの。行く場所が決まっていないのならば——)


「ライスさん」


「はい」


「今夜の情報提供の後のことは、私に任せてくださいますかしら」


「……どういう意味ですか」


「七年分の染みを持って来た人間を、私のところで分別しますわよ。……焼却か、リサイクルか、どちらにするかは私が判断しますもの。ただし今夜の話の内容次第では、リサイクル資源として扱える可能性がありますわよ」


 ライスが、しばらく私を見ていた。


「……令嬢は、掃除人と呼ばれているそうですね」


「隣国で聞きましたかしら」


「カラミから、昔聞いたことがありました。……王都に、炎を使って汚れを焼く人間がいる、と」


(カラミがライスに話したことがあった。……七年間、経路の向こうと手前で働いていた二人の間に、そういう会話があったということですもの)


「私のことを、カラミ様から聞いていたのですかしら」


「名前は聞いていませんでした。……ただ、いつかその人間が来る、とカラミは言っていました。来た時に、自分はどう動くかを、七年間考えていた、と」


(カラミが七年間考えていたことですわよ。……私が来るまで、ドレインの経路管理者として耐え続けながら、「来た時にどう動くか」を考え続けていたということですもの。フォル・ネビュラで私に二択を提示したあの瞬間は、七年分の準備の結果だったということですわよ)


 右手の指先が、また少し冷たくなった。


 打ち消さなかった。今夜は、打ち消しませんわよ。


* * *


「ガルベス子爵が今週中に動くとして、具体的には何日ですかしら」


 私は話を戻した。


「三日以内です。……荷馬車の量から見て、明後日か明々後日になると思います」


「国境の越え方は」


「正規の商人としての通関を使います。ガルベス子爵には、複数の商会名義の通関証明があります。王都から見れば、商人の一団が国境を通るだけに見えます」


「セドゥン商会も使いますかしら」


 ライスが、少し眉を動かした。


「……セドゥン商会を、ご存じですか」


「送金の経路として確認しましたわよ」


「であれば、理解が早い。……セドゥン商会は使いません。あれは今は動かさない方が得策だと、ガルベス子爵は判断しているはずです。別の商会名義を使います」


「商会名は分かりますかしら」


「二つ持っています。……ドルム商会とネッセル商会です」


 シリルが、後ろで書き取っている音がかすかにした。


(シリルが記録していますわよ。……ドルム商会とネッセル商会。商業記録所で照合が必要ですもの。架空の商会である可能性が高いですわよ)


「通関を通る日程を、事前に押さえることはできますかしら」


「私が直接押さえることはできません。……ただし、ガルベス子爵が使う通関担当者の傾向は把握しています。担当者に照会をかければ、前日には日程が分かります」


「照会の方法を、シリルに伝えていただけますかしら」


「かしこまりました」


 ライスがシリルに向いた。シリルが、笑顔のまま一歩前に出た。


「詳しく聞かせていただきますよ」


「はい。……ただし、私の名前を使わないことを条件としてください。まだドレイン側は、私がどこへ行ったか把握していないはずですから」


「それは当然の条件ですよ。……肥料になる前に、鮮度を保ってもらわなければ困りますから」


 ライスが、シリルをしばらく見た。


「……本当に、変わった言い方をしますね」


「感謝しています」


* * *


 フロード補佐官が、少し遅れて口を開いた。


「クレア様、王子の件について、申し上げます」


「ええ、聞きますわよ」


「王子が、今週の審議に出席しない意向を示したという話が、昨日王城内で出ました。……理由は、体調不良です。ただし」


「ただし」


「ガルベス子爵の予算審議は、王子の署名がなくても、規定の委員数が揃えば成立します。……今週中に委員数を確保する動きが、ガルベス子爵側で進んでいます」


(王子が審議を欠席するということですわよ。……王子周辺の変化、というのはこのことですもの。ゴミ箱が、いよいよ不要品扱いになりつつあるということですわよ。使える間は使い、不要になったら置いていく)


「モモ・ダスト様は、王子の欠席に関与していますかしら」


「……おそらく、はい」


 フロード補佐官が少し間を置いた。


「体調不良の原因が、不自然です。王子は先週まで元気でした。急に体調不良を理由に審議を欠席するということは、欠席させる理由を誰かが作ったということだと思います」


(モモ・ダストが、王子を審議から遠ざけた。……使い終わったゴミ箱を、自分で片付けさせないように蓋をしたということですわよ。審議を通した後、王子は役目を終えた「不燃ゴミ」として処理される計算かもしれませんもの)


(それは——まずいですわよ。王子の処分は、私が判断することですもの。モモ・ダストに先に動かれるのは、美学に反しますわよ)


「委員数の確保を止める手段は、今夜の段階でありますかしら」


「一つだけあります。……委員の中に、私の方から接触できる人間が二名います。どちらも、ガルベス子爵側の圧力に迷いがある様子を見せています」


「迷いがある委員に、今夜中に接触できますかしら」


「できます。……ただし、その委員が動く理由が必要です。漠然とした反対では動きません」


「理由を、私が用意しますわよ」


 シリルが、後ろから言った。


「お嬢様、少し具体的に申し上げてもいいですか」


「どうぞ」


「委員が動く理由として、セドゥン商会を経由した資金の流れのうち、委員の関連事業への接触記録を、明日の朝までに整理します。……スラッジ書記官の証言とフロード補佐官の財務記録差分を突き合わせれば、委員の一名に対して具体的な記録を示せると思います。それが燃料になります」


「それは、脅しになりませんかしら」


「情報の共有ですよ。……こういう記録があるが、それが審議の場に出る前に身を引いた方がいいかどうか、ご判断ください、という丁寧な確認です。エコでしょう」


(シリルらしいですわよ。……脅しではなく「丁寧な確認」。でも効果は同じですもの)


「フロード補佐官、シリルの用意した内容を、明日の朝に受け取っていただけますかしら。……その後、委員への接触をお願いしたいですわよ」


「承知しました。……ただし」


 フロード補佐官が、少し背筋を正した。


「もし委員二名の説得が間に合わなかった場合、予算審議は通過します。その後ガルベス子爵が撤収すれば、国内での証拠提出の機会が限られます」


「分かっていますわよ」


 私は答えた。


「間に合わなかった場合の手も、並行して考えますもの。……掃除は、一本の手順だけで進めませんわよ。詰まった時の別の経路も、最初から用意しておきますもの」


(並行手順。……ガルベス子爵が国境を越える前に止めるか、国境を越えた後に追うか。どちらも選べるように準備しておきますわよ。国境を越えた後に追う手段は——第2章がまだ続いているということですもの)


* * *


 古書店を出たのは、二十一時を過ぎた頃だった。


 ライスには、今夜の宿の手配をシリルが引き受けた。明日、屋敷に来てもらって、通関担当者への照会方法の詳細を確認する手はずだ。


 フロード補佐官は、足早に戻っていった。明日の朝、シリルからの書面を受け取ってすぐ委員への接触に動く。


 夜の王都を、馬車で戻った。


 リタが、窓の外を確認し続けている。


(尾行はありませんわよ。……リタの表情が、それを教えてくれますもの)


「シリル」


「はい」


「今夜の整理を、頭の中でしますわよ。声に出して確認させてくださいな」


「どうぞ」


「ガルベス子爵が三日以内に撤収する。ドルム商会かネッセル商会名義の通関を使う。モモ・ダストが王都に残って利権を引き継ぐ計算でいる。王子の審議欠席は誰かが仕組んだ可能性が高い。委員二名に迷いがある。明日の朝、シリルが燃料を用意して、フロード補佐官が委員に接触する」


「はい、その通りです」


「不足している情報はありますかしら」


「二点あります。……一点目、ドルム商会とネッセル商会の実態確認。商業記録所での照合が必要です。今夜の段階ではライス氏の証言しかありません。二点目、モモ・ダストが具体的に何を動かしているか。カスミ弁護士を経由して何かを動かそうとしているという情報はありますが、内容が不明です」


「カスミ弁護士の二週間の猶予は、まだ残っていますわよね」


「あと十一日です。……ただし、ガルベス子爵が三日以内に動くとなれば、カスミ弁護士も連動して動く可能性があります。十一日という余裕は、今夜の情報で変わったかもしれません」


(余裕が縮んだということですわよ。……塵が、積もる速度を上げていますもの。今夜ここで情報を得たことで、こちらも速度を上げなければなりませんわよ)


「明日の段取りを整えてくださいな、シリル」


「はい。……既に、七点ほど頭の中に並んでいますよ」


「七点」


「商業記録所への照会依頼。フロード補佐官への書面。委員二名の関連記録の整理。ライス氏の宿と明日の屋敷への訪問手配。カラミ様に財務記録差分を確認してもらう件。国王への帰国報告——これは今日まだ済んでいません。それから、E-1の資料館への閲覧申請、これも今日まだ途中です」


「七点、ですわよ」


「はい。……エコではありませんが、並行して進めれば二日で整います」


(二日。……ガルベス子爵の撤収が三日以内ならば、二日で並行整理は、ぎりぎりですわよ。一点でも詰まれば間に合わないかもしれませんもの)


「詰まった時の経路を、各点について考えておいてくださいますかしら」


「既に考えていますよ。……七点それぞれに、詰まった場合の迂回路を一本ずつ用意します。エコとは言えませんが、今は量より確実性ですよ」


「そうですわよ」


 私は窓の外を見た。


 夜の王都が、灯りを抜けて暗くなっている。屋敷の方角に、街路灯の列が続いている。


(掃除は、最初から全部見えている必要はありませんわよ。……次の一手が、今夜は分かりました。三日以内に、何かが動きますもの)


* * *


 屋敷に戻ったのは、夜が深くなってからだった。


 マルダが出迎えた。


「カラミ様は、夕食を召し上がって休んでおられます。……お嬢様方のご帰還に気づいて、起きようとされましたが、お休みいただくよう申し上げました」


「ありがとうですわよ、マルダ。……正しい判断ですもの」


 シリルが、外套を受け取りながら言った。


「明日、カラミ様に確認していただく件がありますから、今夜は休んでいただいた方がよろしいですよ」


「ええ。……今夜は、もう一つだけ確認しますわよ」


「何ですかしら」


「リタ」


 リタが私を見た。


「今夜の古書店で、ライスさんを見てどう感じましたかしら」


 リタが、少し間を置いた。


 それから、右手の人差し指を立てた。


(一、ということですわよ。……危険なし、一名、安全、ということかしら)


「危険な人間ではない、ということですかしら」


 リタが頷いた。それから、胸の位置で掌を下向きにして、ゆっくり下ろした。


(重い荷を、降ろしてきた人間、ということですかしら。リタの所作は、言葉より正確なことがありますわよ)


「そうですわよ。……今夜ライスさんが持ってきたのは、七年分の荷でしたもの」


 リタが、小さく頷いた。


* * *


 書斎に入らずに、直接サロンへ向かった。


 シリルが、先回りしてランプを点けていた。


 夜のサロンは、昼より落ち着いた光の中にある。カーテンが引かれていて、窓の外は見えない。ランプの明かりだけが、部屋を照らしている。


「今夜のティータイムは何ですかしら」


「帰りが遅くなりましたから、軽いものにしました。……セルバン・ドックで手配した乾燥香草の茶です。カモミールに近い性質の草ですが、少し渋みが混じります。夜に飲んでも、眠りの妨げになりにくい種類です」


 白いカップに、淡い黄緑色の茶が注がれている。湯気が細く上がっている。


「菓子は」


「屋敷の厨房に残っていた薄焼きのビスケットです。……バター風味だけのシンプルなものですよ。今夜はこれで十分と判断しました」


 カップを両手で持った。


 香草の、草のような、少し青い香りがした。フォル・ネビュラの霧花茶とも、王都のロワール・ダークとも違う香りだ。


 一口飲んだ。


(草の香りの後に、かすかな渋みが来ますわよ。……苦みに近い渋みですが、嫌みではありませんもの。夜の仕事の後に飲む茶の味がしますわよ)


 ビスケットをひとつ手に取った。さくりと割れた。バターの香りが鼻に来た。素朴な、飾りのない菓子だ。


(今夜の会話に、合っていますわよ。……ライスさんの話は、複雑な構造を持った話でしたもの。でも人間の話としては、素朴な部分があった。七年分の荷を持って、カラミが生きていると確認できたから来た、という、それだけのことですわよ)


「シリル」


「はい」


「ライスさんが、七年間ドレインの外部協力者として動いていたことと、今夜ここへ来たことは、矛盾しませんかしら。……あなたの目から見て」


 シリルが、カップを持ったまま少し考えた。


「矛盾はしませんよ」


「なぜですかしら」


「ゴミ箱も、中身が一定量を超えると、自分から蓋を開けることがありますから」


(ゴミ箱が蓋を開ける。……シリルらしい表現ですわよ。でも、言い得て妙ですもの。ライスさんは、七年間、自分がゴミ箱の一部として機能していることを知りながら、容量の限界まで来た時に、蓋を開けに来たということですわよ)


「カラミが生きていたことが、その限界になったということかしら」


「そうだと思います。……処分される前に、自分で持ってきた方が、多少なりとも選択肢が残ります。ライス氏は、その計算も持っていると思いますよ」


「計算があるとしても、今夜の情報が本物であることは変わりませんわよ」


「はい。……偽の情報で私どもを動かしても、ライス氏に利はありません。動かした先で何かを仕掛ける余裕も、今のドレインにはないと思います」


「ドレインが撤収を急いでいるとすれば、工作に使う資源も少ないということですわよ」


「その通りです。……撤収と工作を同時にする体力は、今のドレインにはないと私は判断しています」


 私は茶をもう一口飲んだ。


(今夜は、ガルベス子爵が三日以内に動くと分かりましたわよ。モモ・ダストが王都に残る計算でいることも。「L」がネーベル・アルバである可能性が高まったことも。……そして、ライスという人間が、荷を持って来たことも)


(収集日の前夜に、ゴミの足音が聞こえてきましたわよ。……三日以内ですもの。手順を整えて、丁寧に動きますわよ)


 右手の手袋を、少しだけ見た。


 引き下げなかった。


(今夜は、引き下げませんわよ。……まだ、やることがありますもの)


「シリル、明日の最初の仕事は何時から始めますかしら」


「七時を提案します。……カラミ様が起きた頃に財務記録差分の確認を始めれば、八時台にはフロード補佐官への書面が整います」


「七時ですわよ」


「では、お嬢様は今夜はお休みになってください。……明日は長い一日になります」


「あなたは」


「私は、今夜あと一時間だけ書類を整えます。……七点の並行作業の順序を、紙に落としておきたいですよ」


「灯りが足りますかしら」


「十分ですよ。……エコを心がけますが、視力はエコにできませんから」


(この従者は、今夜も最後まで動きますわよ。……私が休んでいる間も、七点の作業の順序を整えているということですもの。こういう従者を持てたことが、私の掃除を成立させている一つの理由ですわよ)


「ありがとうですわよ、シリル」


「仕事ですよ」


「仕事でも」


「……受け取っておきます」


 私は、薄焼きビスケットを最後の一枚口にした。


 シンプルなバターの香りが、夜の口に広がった。


(今夜の仕事は、ここまでですわよ。……古書店で聞いた話を、全部受け取りました。三日以内に、ゴミが動きますもの。こちらも動きますわよ)


(でも今夜は、この草の香りの茶を飲み終えてから、休みますもの。……掃除人は、疲れたまま手を動かすと、汚れを広げることがありますわよ。明日のために、今夜は休みますもの)


 カップを置いた。


 残った茶の香りが、サロンに薄く漂っていた。


 夜が、静かに続いていた。

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