第42話:染み抜きの前に、もう一度だけ確かめること
翌朝の書斎は、静かだった。
昨日、カスミ弁護士の脅迫書面を受け取って、E-1の水路図がほぼ完成に近づいた。それだけの仕事をした後のサロンで、ロワール・ダークと胡桃と黒糖の菓子を飲み食いして、シリルと今後の段取りを確認した。フロード補佐官との面会準備が整いましたわよ。
その続きが、今朝から始まるということだ。
(三つの仕事が待っていますわよ。……カラミ様との照合。封蝋の閲覧申請。国王への帰国報告。順序通りに、丁寧に、ですもの)
右手の手袋を嵌めながら、机の前に立った。
シリルが書斎の扉をノックしたのは、ほぼ同時だった。
「おはようございますよ、お嬢様。早いですね」
「あなたの方が早いでしょうに」
「三十分だけ先でしたよ。……今朝の整理が終わっていましたから、お嬢様をお待ちしていました」
シリルが机の上に書類束を置いた。
昨日カスミ弁護士の脅迫書面を受け取った時の封蝋記録。フロード補佐官の財務記録差分の写し。そして、カラミが照合作業に使う台帳の複写。
「今日の最初は、カラミ様との照合ですわよ」
「はい。……カラミ様は既に起きています。朝食を済ませて、こちらへ来る準備ができているとのことです」
(早いですわよ、カラミ様も。……この屋敷に来て、久しぶりに「ちゃんと眠れた」とおっしゃっていましたもの。ならば今朝は早く目が覚めるはずですわよ。七年間溜まった澱が、少しずつ動き始めている人間の朝の目覚め方ですもの)
「通してくださいな」
* * *
カラミが書斎に入ってきたのは、七時少し前だった。
昨日より、少し顔色がいい。フォル・ネビュラで初めて会った夜の、翳りのある表情とはだいぶ違う。まだ完全ではないが、少しずつ乾いてきているということだ。
「おはようございますわよ、カラミ様」
「おはようございます。……昨夜も、よく眠れました」
「それはよかったですわよ」
シリルが二つの資料を机に並べた。フロード補佐官の財務記録差分十一件の写しと、フォル・ネビュラで持ち帰った台帳の複写だ。
「カラミ様に、この二つを見比べていただきたいですわよ。……王都側の財務記録と、フォル・ネビュラの台帳の数字が、どこで繋がっているかを確認していただけますかしら」
カラミが資料に目を向けた。
数秒で、目が変わった。フォル・ネビュラの七年間が、目の奥に戻ってきているような目の変わり方だ。経路の管理者として台帳を睨み続けてきた時の目だ。
(この目を見ると、七年間というものの重さが分かりますわよ。……カラミ様は、七年間この数字を生きてきたということですもの)
カラミが台帳の複写のページを手早く開いた。
「……これは、三年前の十一月の移動ですね。フォル・ネビュラ側だとこのページです」
指が、複写の中の一行を示した。同じ金額が、同じ日付で記録されている。王都側がセドゥン商会名義で出て、フォル・ネビュラ側でカラミ・ルートの受け取りとして記録されている。
「カラミ・ルート」
「……私が管理していた経路の、内部での呼び方です。七年間で、このルートを通った金額が全部台帳に記録されています」
(カラミ・ルートという名前が、カラミ様の口から出ましたわよ。……自分の名前がついた排水溝を七年間管理させられていた、ということですもの。その呼び方を今日、こうして別の意味で使えるということが、台帳を捨てなかったことの意味の一つですわよ)
シリルが照合の進捗を記録しながら言った。
「照合できた件数を、数えていただけますか。……十一件全部と比較してください」
「分かりました」
カラミが、二つの資料を交互に見ながら指で追い始めた。
私は書斎の窓の外を見た。
朝の光が、庭に差し込んでいる。フォル・ネビュラの霧の中とは全然違う、くっきりとした光だ。
(王都の朝は、全部見えますわよ。……霧がなければ、必要なものだけに集中できない代わりに、全体像が一度に見えますもの)
「八件、一致します」
カラミが顔を上げた。
「八件」
「はい。十一件のうち八件は、台帳の数字と照合できます。残り三件は、台帳に対応する記録が見当たりません。……別のルートを通ったか、台帳に記録されなかったものです」
「三件は対応が見つからない、ということですわよ」
「はい。別の経路が存在する可能性があります」
(別の経路。……カラミ・ルート以外の経路が、ドレインにはあったということかもしれませんもの。それは今後の調査線として残しておきますわよ)
「シリル、三件の不一致は別途記録してくださいな」
「既にしていますよ」
(当然ですわよ)
「カラミ様、八件の照合が取れたということで——」
「七年間の台帳と三年分の財務記録差分で、同一の資金移動が八件確認された、という形になります。私の証言と合わせれば、かなり強い証拠になると思います」
カラミが先に答えた。
(分かっていますわよ、カラミ様は。……七年間、数字を生きてきた人間ですもの。証拠の形になるかどうかの判断は、私よりも速いかもしれませんわよ)
「ありがとうございますわよ、カラミ様」
カラミが少し顔を上げた。
「……私の証言は、信用されますか。七年間、ドレインの経路管理者として働いていた人間の証言が」
(この問いは、自分への懐疑ですわよ。……台帳を持ち続けてきた人間が、それでも自分の言葉を疑っているということですもの)
「信用しますわよ」
「……なぜですか」
「七年間、台帳を捨てなかったからですわよ。台帳は、あなたが持ち続けたものですもの。証言は、証拠と一緒にあれば信用の形が変わりますわよ。カラミ様の証言と、この台帳と、フロード補佐官の財務記録差分が、三本で立っていますもの」
カラミが、少し間を置いた。
「……三本、ですか」
「ええ。一本より三本の方が、倒れにくいですわよ」
* * *
八時を過ぎた頃、E-1の封蝋閲覧申請の手配に移った。
シリルが申請書式を取り出した。フォル・ネビュラで確認したエストの封蝋、ダスト家傍系の紋章、そして昨日手元に届いたカスミ弁護士の脅迫書面の封蝋。三点の照合を王都の資料館に依頼する内容だ。
「封蝋の記録は昨日のうちに取っておきましたわよね」
「はい。開封前に記録済みです。申請書に添付できる形に整えてあります」
「資料館への申請は、どの経路で出しますかしら」
「国王への帰国報告の時に、同時に手続きを取るのが最短です。……王城の記録室経由で出せば、通常の申請より処理が早い。今日の国王報告に合わせて動かします」
(同時に動かす。……二つの仕事を一つの移動で済ませることができますわよ。シリルの段取りは、常にこういう形ですもの)
「国王への報告は、何時に入れていますかしら」
「午前十一時です」
「十一時に国王報告、記録室での封蝋申請を合間に、ということですわよね」
「はい。……この並びが、今日の後半の動きです」
(今日の午前中で、残り二つの仕事が全部動きますわよ。……フォル・ネビュラから持ち帰ったものを、王都で形にする最初の一日ですもの。丁寧に、順序通りに、ですわよ)
* * *
カラミが書斎を出た後、シリルが少し声のトーンを変えた。
「お嬢様、一点だけ申し上げてもいいですか」
「なんですかしら」
「今日の国王への報告に、フロード補佐官の件をどこまで含めるかの判断が必要です」
(フロード様の件。……明日、直接お会いしてお話を聞きますわよ。でも今日の国王報告に、その内容を含めるかどうかは、また別の判断ですわよ)
「含めませんわよ」
「報告から外す、ということですね」
「フロード様から直接お話を聞く前に、今日すぐ国王に報告するのは早いですわよ。……内容を整理してから、改めて書面で提出しますもの」
シリルが少し笑顔の形を変えた。
「分かりました。……では、今日の国王報告はフォル・ネビュラの清掃完了報告とE-1の照合依頼に絞ります」
「ええ。……順序通りにしますわよ」
(明日、フロード様にお会いしますわよ。その内容は、面会の後で一日かけて整理しますもの。国王への報告は、整理が終わってからですわよ)
* * *
十一時に、国王への帰国報告を行った。
応接室に通されると、国王がすでに席に着いていた。
「クレア嬢、帰国の労を取ってくれた。フォル・ネビュラの件は、どこまで進んだか」
「フォル・ネビュラの澱は、大部分を引き上げてまいりましたわよ。……カラミという人物の証言録と台帳、ヴァッハの通信記録七年分を持ち帰りました。ドレインの経路の一部が、具体的な名前と数字と共に明らかになっています」
「ドレインという組織の全体像は」
「まだ全部ではありませんわよ。……ただし、エストという中間管理者の確認と、カスミ弁護士が水路として機能していることの証拠が揃いつつあります。E-1の照合を本日資料館に依頼する予定ですもの」
「E-1とは」
「ガルベス子爵とダスト侯爵家を繋ぐ水路の全体像の確認です。……フォル・ネビュラで確認したエストの封蝋と、ダスト家傍系の紋章と、昨日こちらの手元に届いたカスミ弁護士の書面の封蝋を、三点照合いたしますわよ」
(三点照合。……資料館が答えを返してくれれば、水路の全体像が、法廷で使える証拠の形になりますもの)
国王が少し目を細めた。
「カスミ弁護士の書面が手元にあるとは、どういう経路で」
「フロード補佐官が、一昨日届いたものをそのまま持参してくださいましたわよ。……カスミ弁護士が調査から手を引くよう、フロード様に圧力をかけようとしたものです。封を開けずに、証人立会いのもとで開封しましたもの」
「フロード補佐官が動いているか」
「三年間、一人で財務記録の差分を取り続けていた方ですわよ。……七年分の記録と書面を届けてくださいましたもの」
国王が、短く沈黙した。
(国王は、フロード補佐官のことをどこまでご存じかしら。……今は、余分なことは言いませんわよ。帰国報告の範囲で、順序通りに話しますもの)
「陛下、一つお願いがありますわよ。……E-1の照合依頼を、王城の記録室経由で出すことの許可をいただけますかしら。通常の申請より処理が早くなりますもの」
「許可する。……記録室の担当者に話を通しておく」
「ありがとうございますわよ」
「他にあるか」
「ガルベス子爵の動きについて、一点だけ。……今週の予算審議について、何かお耳に入っていますかしら」
(先に聞きますわよ。……こちらが知っていることを全部出す前に、国王側でどこまで把握されているかを確認しますもの)
国王が、少し間を置いた。
「審議を通そうとする動きがあることは分かっている。……止める手立てを考えていたが、直接介入すると王家の立場に関わる」
「では、委員への接触は」
「難しい状況だ。……腐敗貴族連合の圧力が、委員のいくつかに及んでいる可能性がある」
(委員への圧力。……委員の中に迷いがある人間がいれば、その迷いを使えるかもしれませんわよ。でもそれは、今日の帰国報告の範囲を超えますもの。今日はここまでにしておきますわよ)
「分かりましたわよ。……状況が進展したら、改めてご報告いたします」
「頼む。……クレア嬢、フォル・ネビュラでの清掃、ご苦労だった」
「いいえ。……澱を引き上げることは、掃除人の仕事ですもの」
* * *
記録室で、E-1の封蝋照合依頼の書式を提出した。
担当者が、国王からの話が届いていたと見えて、受け取り後すぐに処理を始めた。
「返答はいつになりますかしら」
「明日の午前中には、鑑定結果をお届けできます」
「ありがとうございますわよ」
(明日の午前中。……E-1の三点照合の結果が、明日には分かるということですわよ。水路図が法廷証拠の形になるかどうかの、最後の確認が明日の午前に来ますもの)
廊下を歩きながら、シリルが口を開いた。
「今日の三つの仕事のうち、二つが完了しました。カラミ様との照合、国王への帰国報告と封蝋申請。……残りは、フロード補佐官の件の整理ですよ」
「帰りましたら、書斎で整理しますわよ」
「承知しました」
* * *
屋敷に戻ったのは、昼少し前だった。
マルダが玄関で出迎えた。
「お嬢様、昨日届いた分の書類がございます。フォル・ネビュラからの確認照会への返信書面が一通」
「ありがとうですわよ、マルダ」
外套を脱ぎながら、書類を受け取った。
書斎へ向かった。
* * *
書斎でシリルと向き合った。
机の上に、今日一日で集まった書類を並べた。カラミの照合記録。E-1の申請書控え。そして、フロード補佐官との面会に向けて今日中に整理しておくべき事項を書き留めた一枚の紙だ。
「シリル、明日のフロード様との面会の前に、確認しておくべき件を整理しますわよ」
「はい。……七年前の書面の件、ということですね」
「ええ。面会でどこまで伺うかを、今日中に固めておく必要がありますわよ。今日の午後はそこに使いますもの」
(七年前の染み。……フロード様は、自分からお話しくださると言ってきましたわよ。明日、書斎で向き合って、話を聞きますもの。聞く前に、今日こうして整理しておきますわよ。焼却する前に、何度でも確かめますもの)
* * *
ティータイムは、午後の整理が一段落した後になった。
シリルがトレイを持ってきた。
「今日のティータイムは何ですかしら」
「帰国後の初めての本格的なティータイムとして、王都の菓子を用意しました。……茶は、ロワール・ダークです。昨日と同じですが、今日は少し渋みが先に来るよう、濃いめに淹れています」
カップを受け取った。湯気が立つ。渋みの強い香りが来た。
一口飲んだ。
(渋みが、最初にきますわよ。……昨日は甘みが先の日でしたもの。今日は渋みが先の日ですわよ。明日、フロード様の話を聞く前日の味ですもの)
「菓子は何ですかしら」
「アンブル・タルトです。……先日も出しましたが、今日も同じ菓子にしました。蜂蜜と干し果実のタルトで、仕上げに塩を振っています。甘みと塩気が一緒に来る菓子ですよ」
(甘みと塩気が、一つの菓子の中に入っていますわよ。……昨日も食べましたもの。でも今日は違う味がするかもしれませんわよ)
一つ口にした。
タルト生地のさくりとした食感。蜂蜜と干し果実の深い甘み。最後に、塩気が引き締めた。
(昨日と同じ菓子のはずなのに、今日は少し違いますわよ。……渋みのある茶と合わせているからかもしれませんもの。昨日は甘みが先の茶と合わせていましたから、甘みが重なっていた。今日は渋みが先の茶と合わせているから、甘みが引き立って、塩気が後から別の形で来ますわよ)
「シリル」
「はい」
「明日、フロード様から伺う内容——明後日、国王への報告書として整理しますわよ。今夜は」
「今夜はよろしいですよ。……今日の仕事は、今日の分だけですから」
(シリルが言いますわよ。……昨夜の船の上で私が言った言葉を、今日はシリルが返してきましたもの)
「今日は、自分から汚れを持ち込もうとしている人間がいましたわよ」
「はい。……カラミ様、そしてフロード補佐官。それぞれの形で、今日と明日に持ってきますよ」
「全員、リサイクル資源ですわよ」
「ですね。……今日の屋敷は、持ち込み窓口のようでしたよ」
(上品ではありませんわよ、シリル。……でも、言い得て妙ですもの)
「窓口を開けておくことが、今日の仕事でしたもの。……明日の午前中には、E-1の三点照合の結果が届きますわよ。水路図が完成するかどうかは、明日分かりますもの」
「はい。……そして、フロード補佐官の件の続きも」
「明日に向き合いますわよ」
茶をもう一口飲んだ。
渋みが先に来て、後からゆっくりと甘みが広がった。
(今日は渋みが先の日でしたわよ。……でも、甘みは後から来ますもの。今夜は、それを知っていれば十分ですわよ)
アンブル・タルトをもう一つ口にした。
甘みと塩気が、また一緒に来た。
明日持ち込まれる染みたちが、整理されて、水路図の最後のピースと一緒に形になりますわよ。
今日はここまでですわよ。明日の仕事は、明日にしますもの。




