第41話:七年前の染みと、その落とし方
午後の光が、屋敷の書斎の窓を斜めに切っていた。
フォル・ネビュラから持ち帰った木箱は、まだ廊下に置いてある。中身の整理は、面会が終わってからにしようと決めていた。
(順序が大事ですわよ。……台帳を開く前に、フロード様の書状を確認しますもの。読んでから、並べるものを並べますわよ)
書斎の机の上に、フロード補佐官からの書状が一枚、置いてある。
折りたたんだまま。
開かなかった。もう読んだから、開く必要はない。でも捨てなかった。
(「七年前の書面の件も含め、直接ご報告させてください」。……この一行を、自分から書いてきた人間がいますわよ。明日にでも、顔を見て話を聞かなければなりませんもの)
扇子を手に取って、窓の外を見た。
庭の木が、午後の風に少し揺れている。フォル・ネビュラの霧の中ではなく、王都の屋敷の庭だ。全部が見える。どこに何があるか、一目で分かる。
(見えすぎる庭ですわよ。……霧があった方が、必要なものだけに集中できることがある、と思いましたもの。でも今日は、全部見えた方がいいですわよ)
「お嬢様」
シリルが書斎の扉を開けた。
「カスミ弁護士からの書状が届いています。……フロード補佐官からの使者が持参しましたよ」
「書斎に持ってきてくださいな。……フロード様からの使者には、受け取った旨をお伝えしてくださいもの」
「かしこまりました」
* * *
シリルが封書を持って戻ってきた。
封が、まだされている。
(開けていない封書ですわよ。……フロード様が、封を開けずにこちらへ回してきましたもの)
「差出人は」
「裏の封印で分かりました。……ナジュミ・カスミ弁護士です」
(カスミ弁護士。……ガルベス子爵とダスト侯爵家双方の顧問弁護士ですわよ。ガルベスとモモ・ダストを繋ぐ「水路」として機能している人間ですもの)
「フロード様は、なぜ封を開けずに回してきましたかしら」
「使者からの言伝によれば——」シリルが一度だけ間を置いた。「『開封の事実が残れば、後から内容を変えたという疑いをかけられる可能性がある。クレア様の前で開けた方が、証拠の形として正しい』とのことです」
(証拠の形として正しい。……この人間は、七年間、証拠の保全方法を一人で考えてきましたわよ。記録を副本で持ち続けてきた人間の習慣が、ここにも出ていますもの)
「シリル、証人として立ち会ってくださいな。封蝋を記録しておいてくださいもの。開封前に」
「はい、既にしています」
(既に。……当然ですわよ、シリルですもの)
「では、開けますわよ」
私は封書を受け取った。
封蝋に指をかけた。
割った。
チャキッ。
扉の外から音がした。リタも感じているということだ。
* * *
一枚の書面が入っていた。
整った字で、短い文章が書かれている。
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フロード・補佐官殿
このたびの財務記録の調査において、貴殿が関与されているとの情報を得ました。
つきましては、ご一考いただきたいことがございます。
七年前の書面の件について、貴殿が関与した事実の記録は、弊方にも保管されております。
この記録の取り扱いは、貴殿のご判断次第で、柔軟に対応できます。
近日中にご連絡をいただければ幸いです。
ナジュミ・カスミ
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(脅迫ですわよ。……言葉は丁寧ですが、内容は明確な脅迫ですもの。「七年前の記録はこちらにもある、だから調査から手を引けば記録の取り扱いを考える」ということですわよ)
私は書面を机に置いた。
シリルが、一度読んだ。
「……脅しですね。カスミ弁護士らしい表現で、法的には直接的な脅迫の言葉を使っていません。でも意味は明確です」
「フロード様は、カスミ弁護士へ連絡するおつもりはないから、こちらに回してきたのでしょうかしら」
「使者の言伝には『連絡するつもりはない。ただし一人で持ち続けることが適切だとも思えなかった』とありました」
(最も正しい処理。……フロード様は、自分が使える手段の中で、最も掃除の美学に近い選択をしてきましたわよ。今日もそれをした人間ですもの)
「シリル」
「はい」
「この書面は何ですかしら。おそうじ用語で言いますと」
「証拠ですよ。……カスミ弁護士が、七年前の書面の記録を保有していることを自ら認め、かつそれを取引材料として使おうとした証拠です。カスミ弁護士が単なる顧問弁護士ではなく、証拠隠滅と脅迫の当事者であることを示す材料になります」
「不法投棄業者が、自分の手で不法投棄の証拠を持ち込んできましたわよ」
「エコですね。……こちらが動かずに、証拠が集まりました」
(カスミ弁護士は、フロード様を脅して調査から遠ざけようとしましたわよ。でもフロード様は脅しに乗らずに、書面ごと私のところへ回してきてくださいましたもの。汚れを運んでくる人間が、汚れを落とす場所に持ち込んでくれるとは——思いがけない効率ですわよ)
「この書面は、お預かりしますわよ。……カスミ弁護士への連絡は、フロード様からではなく、私の方から別の形でいたしますもの」
* * *
それから間もなく、シリルがもう一点を書斎に持ち込んだ。
「フロード補佐官からの書状に、別紙が同封されていました。……財務記録の差分です」
折りたたんだ紙を開くと、数字が並んでいた。
シリルが受け取って、一度だけ素早く目を通した。
「……ダスト侯爵家の傍系事業の帳簿に、カスミ弁護士の事務所を経由した移動が、過去三年で十一件確認されています。カラミの証言録と突き合わせれば、法廷証拠の形に整います。カスミ弁護士が水路として機能していることの、数字的な証明ですよ」
(E-1の水路図が、今日この書斎で完成に近づきましたわよ。……カスミ弁護士を経由した移動が十一件、ダスト侯爵家の傍系事業と接続しています。フォル・ネビュラで確認したエストの封蝋と、今日のカスミ弁護士の書面の封蝋——三点が揃えば、水路の全体像が見えますもの)
「シリル、整理しますわよ」
「はい」
「まず、カスミ弁護士の書面。……脅迫の意図を持った書面が、当事者自らフロード補佐官経由でこちらの手元に届きました。開封は私どもが証人として立ち会った形で行っています。封蝋も記録済みです」
「フォル・ネビュラで確認したエストの封蝋との照合は」
「帰国後の資料館への閲覧申請が必要でしたが、今日の書面で照合対象が一つ増えました。……申請の内容を、カスミ弁護士の封蝋も含める形に修正します」
「急いでくださいな」
「はい。……次に、財務記録の差分十一件。カラミの証言録との突き合わせは、明日以降で進められます。カラミ様はまだ王都にいますから、確認は可能です」
(カラミが王都にいる。……フォル・ネビュラで七年分の絡まった漁網を解いてきたカラミが、今日の財務記録の差分を確認できる位置にいますもの。経路の内側を知っている人間が、外から来た数字を見れば、どこで経路が分岐しているかが分かりますわよ)
「カラミ様に、明日確認をお願いしますわよ」
「かしこまりました。……ただし、カラミ様の宿の手配がまだ途中です。今夜はこちらの屋敷に一室お使いいただく形でよろしいですか」
「構いませんわよ」
「それから、スラッジ書記官の件」
(D-3。……スラッジ書記官が意識を取り戻していましたわよ。証言を得る段階に入っているはずですもの)
「スラッジ書記官は、今どちらにいますかしら」
「国王の管轄下の保護施設です。……フォル・ネビュラ出立前に確認した状態では、意識の回復が確認されていました。帰国後に国王への報告を行う必要があります」
「国王への報告は、明日の午前に入れてくださいな。……カラミ様との照合と、封蝋の閲覧申請と、国王報告の三つが、明日の仕事ですわよ」
「かしこまりました。……E-1の資料館への閲覧申請も含めると四つですよ」
「四つですわよ。……丁寧に、順序通りに、ですもの」
「それから——フロード補佐官との直接面会を、近日中に設けますか」
(フロード様の書状には「直接ご報告させてください」と書いてありましたわよ。……今日は書面と使者の言伝で受け取りましたもの。七年前の染みの詳細は、顔を見て話を聞く必要がありますわよ)
「入れてくださいな。……書面だけでは、足りないことがありますもの」
(フォル・ネビュラで引き上げてきた澱が、今日王都の書斎に並びましたわよ。台帳と証言録とヴァッハの通信記録に、フロード様の七年分の記録とカスミ弁護士の脅迫書面が加わりましたもの。これで、ガルベスとモモ・ダストを繋ぐ水路の地図が、かなり埋まりましたわよ)
(でも、カスミ弁護士はまだ動いていますもの。……脅迫書面を出したということは、まだ経路を守ろうとしているということですわよ。脅しが効かなかったと分かった時、次にどう動くかが問題ですもの)
「シリル、カスミ弁護士が次に動く可能性は」
「フロード補佐官から連絡がない場合、二週間以内に別の手段で圧力をかけてくると思います。……カスミ弁護士の手口は、証拠霧散と時間稼ぎが中心ですから。次の一手は、フロード補佐官の上長への働きかけか、あるいは財務記録の差分資料への正式な異議申し立てではないですかしら」
「二週間以内に、法廷証拠の形を整えますわよ」
「少し急ぎですね」
「難燃性の染みには、多めに光を当てますもの。……時間をかけるより、一気に当てた方が、落ちることがありますわよ」
「なるほど」
シリルが、書類を整えながら言った。
「一点だけ確認させてください。……フロード補佐官の七年前の件は、今後どう扱いますか。名簿の記録として残ります」
(フロード様の染み。……七年前、書面を届けたことの記録が、カラミの名簿にある。これをどうするかを、シリルは確認していますわよ)
「名簿の記録は、そのまま残しますわよ。……染みがあったことは、事実ですもの。事実を消すことは、しませんわよ」
「ただし」
「フロード様が書面を封を開けずにこちらへ回し、脅迫書面ごと届けてくださったことも、記録として残しますわよ。染みと、染み抜きの作業が、両方記録に残ることが正しい形ですもの」
シリルが、少し笑顔の形を変えた。
「……フロード補佐官を、リサイクル資源として扱うということですね」
「燃やすより、使える資源の方が価値がありますわよ。……しかも自分から分別窓口に持ち込んできた資源ですもの。断る理由がありませんわよ」
(自分から分別窓口に来た人間を、焼却するのは美学に反しますわよ。……フロード様は、七年間一人で副本を持ち続けた後、今日書面ごとここへ届けてくださいましたもの。その選択を、私は受け取りましたわよ)
* * *
書斎の整理が、夕刻前に終わった。
机の上が、また片付いた。
書状が一通、端に置いてある。フロードの書状だ。
(今日はもう捨てませんわよ。……記録として保管しますもの。染みと染み抜きの記録は、両方揃っていなければなりませんもの)
右手の手袋を、一度だけ見た。
引き下げなかった。
(今日は、王都の書斎で、七年前の書面と脅迫書面を受け取りましたわよ。……フロード様の話は、まだ顔を見て聞いていませんもの。今日の仕事は、今日の分だけですわよ)
「お嬢様」
シリルが扉から声をかけた。
「カラミ様が、少しお疲れのご様子でしたので、夕食前に休んでいただいています。……リタが部屋の前についています」
「ありがとうですわよ」
「それから、ティータイムの準備が整っています。……書斎ではなく、今日はサロンにしましたよ」
「サロンで構いませんわよ」
* * *
サロンに入ると、窓から夕方の光が差し込んでいた。
朝より角度が低い。庭の木の影が、床に長く伸びている。
トレイの上に、今日のティータイムが並んでいた。
「今日は何ですかしら」
「王都の品で揃えました。……帰国初日ですし、フォル・ネビュラの茶葉は昨日で使い切りましたので」
白いカップに、濃い琥珀色の茶が注がれている。
「ロワール・ダークですよ。……王都の老舗の茶葉で、しっかりとした渋みと、後から来る蜂蜜のような甘みが特徴です。フォル・ネビュラの磯の旨みとは全然違う、まっすぐな味です」
カップを受け取った。
湯気が立つ。渋みの強い香りが来た。磯の香りも花の香りもない、まっすぐな茶の香りだ。
一口飲んだ。
(渋みが最初にきますわよ。……フォル・ネビュラの茶と全然違いますもの。でも、後から甘みが来ますわよ。渋みが引いた後に、ゆっくりと)
「菓子は何ですかしら」
「クルマ・フィングルです。……王都の焼き菓子で、胡桃と黒糖を練り込んだ小さな一口菓子です。渋みの強い茶に合わせる伝統的な組み合わせですよ」
皿の上に、小さな茶色の菓子が並んでいた。丸い形で、胡桃の欠片が表面に見えている。
一つ口にした。
黒糖の深い甘みが来た。胡桃の香ばしさが、咀嚼のたびに広がる。砂糖の甘さではなく、煮詰めた糖の複雑な甘みだ。
(これは、今日の話にちょうどいい菓子ですわよ。……渋みの強い茶に、深みのある甘みの菓子ですもの。今日は渋みのある話ばかりでしたから、甘みが後から来るものが合いますわよ)
「シリル、今日のティータイムはよろしいですわよ」
「ありがとうございます。……今日は、フォル・ネビュラの痕跡を一度全部置いて、王都の味に戻る日だと思いましたので」
「置いてきたわけではありませんわよ」
私は言った。
「……持ち帰ってきましたもの、あの港のものは。茶葉が終わっただけで、あとは全部ここにありますわよ」
シリルが、完璧な笑顔のまま頷いた。
「……失礼いたしました。では、フォル・ネビュラの仕事の続きを、王都の茶で進めるということですね」
「そうですわよ」
(フォル・ネビュラの台帳と証言録は、廊下の木箱の中にありますわよ。ヴァッハの通信記録も。カラミも、今夜はこの屋敷にいますもの。霧の港で引き上げたものが、全部ここに来ていますわよ。……今日はそこに、フロード様の七年分とカスミ弁護士の書面が加わりましたもの)
(フォル・ネビュラの澱は、王都の書斎に置いてありますわよ。……明日から、分別して整えますもの)
クルマ・フィングルをもう一つ口にした。
黒糖の甘みが、渋みの中に溶けた。
(今日は、七年前の染みの書面を受け取りましたわよ。……染みは、自分から持ってきた人間が落としやすいですもの。七年間、一人で持ち続けてきたフロード様の染みが、今日少し浮き上がってきましたわよ。染み抜きは、顔を見て話を聞いてから始まりますもの)
茶をもう一口飲んだ。
渋みが先に来て、蜂蜜のような甘みが後からゆっくりと広がった。
今日の味だ、と思った。
先に渋みが来て、後から甘みが来る。
その順序が、今日の仕事の順序と同じだ。
(明日は四つの仕事がありますわよ。カラミ様との照合。封蝋の閲覧申請。国王への報告。スラッジ書記官の証言。……丁寧に、順序通りに、ですもの)
夕方の光が、サロンの床に長く伸びた影を、少しずつ動かしていた。
王都に帰ってきましたわよ。
まだ仕事が残っていますもの。
でも今夜は、この渋みと甘みの茶を飲み終わってから、明日の分を考えますわよ。




