第40話:王都の手前で、染みを確かめる
船が、内陸水路に入ったのは夕刻だった。
海の揺れが、川の流れに変わる。その境目に、少しだけ船体が揺れた。
カラミが、船室の窓から外を見ていた。水路の両岸に、葦が続いている。霧のない夕方の葦原は、金色に光っていた。
「フォル・ネビュラと、全然違いますわよ」
私は言った。
「……海と、川は、全然違いますね」
「当たり前のことを言っていますわよ、二人とも」
シリルが、書類を整えながら言った。
リタが、船室の隅で扉に寄りかかっていた。チャキッ、という音が、揺れのたびにかすかにした。
(フォル・ネビュラを出て、丸一日経ちますわよ。……この内陸水路を抜ければ、明日の朝には王都が見えてきますもの)
私は書類の束を膝の上に乗せた。
手が、少し止まった。
(「もう一冊の名簿で止まったページ」——王都に帰ったら向き合う、と決めていましたわよ。でも今夜、水路の上でもう一度確認しておく必要がありますもの。王都に着いてから驚くより、着く前に整理しておく方が、掃除人の美学に叶いますわよ)
「シリル」
「はい」
「名簿の照合を、今夜行いますわよ」
シリルが手を止めた。
「……止まったページの件ですか」
「ええ。船の上で、二人だけで確認しておきますもの。王都に着いてから慌てるより、今夜整理しておいた方がよろしいですわよ」
「カラミ様は」
「先に休んでいただきますわよ。……今夜の話は、カラミ様に聞かせる内容ではありませんもの」
カラミが、窓から視線を戻した。
「……私は、席を外した方がいいですね」
「恐れ入りますわよ、カラミ様」
「いいえ。……七年分の名簿に、何が入っているかは、私が一番よく知っています。あなた方が確認しなければならないことが、あの名簿にあることも」
(知っていますわよ、カラミは。……止まったページに何があるか、カラミには分かっているかもしれませんもの。だから何も言わずに、席を立とうとしていますわよ)
「一つだけ聞きますわよ、カラミ様」
「はい」
「名簿の中の人間で、私が確認した時に驚くと思って、あなたが予測していた名前が、何人かいましたかしら」
カラミが、少し間を置いた。
「……何人か、いました」
「その内の一人が、止まったページにいますかしら」
「……はい」
「ありがとうございますわよ。それで十分ですもの」
カラミが立ち上がった。
「隣の船室を使ってよろしいですかしら」
「ええ。リタが廊下に出ますわよ」
チャキッ。
リタが扉を開けた。カラミが出ていく。扉が静かに閉まった。
* * *
船室が、私とシリルの二人になった。
水路の流れる音が、船底から伝わってくる。揺れは、海より穏やかだ。
シリルが名簿を取り出した。
革表紙の書類束。フォル・ネビュラでカラダム漁村から回収した、もう一冊の名簿だ。
「照合の方法ですが」
シリルが言った。
「まず、お嬢様が止まったページをお示しください。……私がフロード補佐官の手帳の記録と照合します。該当があれば、その後の判断はお嬢様に委ねます」
(フロード補佐官の手帳の記録。……第7話でカラミの手帳に入っていたフロード補佐官の名前を確認したという話を、シリルはまだ覚えていましたわよ。私が止まったページに、フロード様の名前があるかどうか——)
私は名簿を受け取った。
ゆっくりと開いた。
最初のページ。名前が縦に並んでいる。一人ずつ、提供した内容と日付と金額が添えられている。
ページをめくった。
三ページ目で、一度指が止まりかけた。
打ち消した。
続けた。
七ページ目。
止まった。
(ここですわよ。……昨夜の照合で止まったページ。名前が、二つ並んでいますもの。一つは知らない名前。もう一つは——)
私は名簿をシリルに渡した。
七ページ目を開いたまま。
シリルが受け取って、一度だけ目を通した。
笑顔が、少しだけ変わった。笑顔のまま変わるのが、シリルの緊張の表れだということを、私は知っている。
「……照合します」
「ええ」
シリルが、内側の胸ポケットから小さな手帳を取り出した。フォル・ネビュラで整理した記録の写しだ。
ページを探した。
止まった。
「お嬢様」
「なんですかしら」
「照合の結果を、申し上げる前に一点確認させてください」
「どうぞ」
「この名前を、どう扱うかの方針を、先にお決めになっていますか」
(方針。……フォル・ネビュラを出る前に、「帰国後に直接向き合う」と決めましたわよ。それは変わっていませんもの)
「変わっていませんわよ」
「証拠として先に確認するより、本人に直接確認することを優先するということですね」
「ええ。……ただし、今夜この船の上で、照合の結果だけは確認しておきますもの。王都に着いてから、顔色一つで揺れたくはありませんわよ」
(揺れないために、今夜確認しますわよ。……揺れることは、この手袋を引き下げることと同じですもの。今夜ここで揺れておけば、王都では動けますもの)
「かしこまりました」
シリルが、照合結果を告げた。
声が、いつもより一段低かった。
「七ページ目の二番目の名前——フロード補佐官の記録は、カラミの手帳の記録と、内容が一致します。……三年前、一回、少額の物品提供。提供した内容は、書面一通の転送です」
船室が、静かになった。
水路の流れる音だけが続いていた。
「書面の転送、というのは」
「カラミの名簿の記録では、ドレインの書面の一通を、別の受取人へ届けることに協力した、という内容です。……本人が意図的に行ったのか、別の形で利用されたのか、記録からは判断できません」
(判断できない。……カラミの名簿は、提供した事実の記録ですもの。動機は書かれていませんわよ。フロード様が意図してドレインに協力したのか、騙されて書面を届けたのか——それは、本人に直接聞かなければ分かりませんもの)
私は扇子を手に取った。
開かなかった。
閉じたまま、持っていた。
(A-1の汚れが、また底を叩きますわよ。……フロード様の記録が、七年分の名簿の中にある。それが今夜分かりましたもの。この重さは——)
(打ち消しませんわよ。今夜、ここで受け取っておきますもの。受け取った上で、動きますわよ)
「シリル」
「はい」
「フロード様への面会の依頼を、帰国後すぐに出しますわよ」
「書面でよろしいですか」
「書面ではなく、直接シリルに行っていただけますかしら。……王城への報告より前に」
シリルが、少し間を置いた。
「王城への報告より前に、ということは」
「名簿の件を、正式な書面として提出する前に、フロード様に直接お話しする機会を作りますもの。……本人の口から聞いた上で、判断しますわよ」
「それは、証拠として名簿を活用するタイミングが遅れる可能性があります」
「分かっていますわよ」
私は答えた。
「ただし、フロード様がこの七年間どういう立場だったかを確認せずに、書面一枚で判断するのは——私の美学に反しますもの。汚れの分別は、丁寧にしますわよ」
(産業廃棄物と、一時的な染みは、処理方法が違いますもの。……フロード様が七年前に何をしたのかを、私は今夜の段階ではまだ分かっていませんわよ。分からないままで焼却はしませんもの)
シリルが、手帳を閉じた。
「……承知しました。帰国後、私が直接フロード補佐官に接触します。書面ではなく、口頭で面会の依頼を伝えます」
「ありがとうですわよ、シリル」
「一点だけよろしいですか」
「なんですかしら」
「お嬢様は、フロード補佐官を信頼していらっしゃいますか。今この段階で」
私は少し考えた。
(信頼しているかどうか。……フロード様は、第6話から私たちに情報を届けてくださいましたわよ。財務記録の差分。王城内の不正への抵抗。それは全部、本物だと思っていますもの。……でも、七年前の一件が、その信頼とどう重なるか、今夜の段階では整理できていませんもの)
「信頼していますわよ。……ただし、信頼していることと、確認することは、別のことですもの」
「なるほど」
「信頼しているから、直接聞くのですわよ。疑っているなら、書面で済ませますもの」
シリルが、笑顔で言った。
「……七年前に一回、書面を届けてしまったことは、誰にでもあり得ることですよ」
「ヴァッハが最初の一回を断れなかったのと、同じかもしれませんわよ」
「そうかもしれません。……ヴァッハはその後七年間、証拠を積み上げましたよ。フロード補佐官も、同じようなことをしていたかもしれません」
(フロード様が、この三年間、王城内で単独で不正と戦っていたことは事実ですわよ。……財務記録の差分を届けてくださったのも、スラッジ書記官の件への関与も、全部事実ですもの。七年前の一件と、この三年間の行動が、同じ人間の中にある——)
(それが、掃除人としての私が向き合うことですわよ。打ち消しませんもの)
* * *
名簿を閉じた。
シリルが書類をまとめて木箱に戻した。
封蝋をして、鍵をかけた。チャキッ、という音ではなく、カチン、という金属の音だ。
(鍵がかかりましたわよ。……今夜の照合は、終わりですもの。これ以上、今夜船の上で考えることはありませんわよ)
「シリル、今夜の照合に付き合ってくださったこと、感謝しますわよ」
「仕事ですよ」
「仕事でも、感謝しますもの」
「……では、受け取っておきます」
シリルが、完璧な笑顔のまま言った。
「一つだけ申し上げていいですかしら」
「どうぞ」
「フロード補佐官への直接確認の前に、E-1の照合——ダスト侯爵家の封蝋の件と、エストの送金経路の件も、帰国後すぐに動く必要があります。フロード補佐官の件と並行して、E-1の確認が法廷証拠の形になるかどうかの判断も急ぎます」
(E-1。……ダスト侯爵家の傍系紋章とエストの封蝋の七割一致の件ですわよ。モモ・ダストとドレインが繋がっている可能性が、帰国後の最初の大きな課題の一つですもの)
「E-1の実物確認は、どこでできますかしら」
「王都の資料館に、ダスト侯爵家の紋章登録の記録があります。……ただし、閲覧には手続きが必要です。フロード補佐官への確認が終わってから、手続きを取れば、そこから照合できます」
「フロード様への確認を先に済ませれば、E-1の照合もすぐに動けるということですわよ」
「はい。……順序を整えれば、二つが並行できます」
(順序を整える。……掃除の手順は、順序が大事ですもの。手順を間違えると、汚れを広げますわよ。今夜の船の上で、王都帰還後の動き方を整理できましたもの)
「ありがとうですわよ、シリル。……今夜の仕事はここまでにしますわよ」
「かしこまりました。……お嬢様、お休みになる前に、一点だけ」
「なんですかしら」
「今夜、手が冷たくなりましたか」
私は少し止まった。
(また聞きますわよ、この従者は。……でも今夜も、本当のことを答えますもの)
「なりましたわよ」
「そうですか」
「……なりましたけれど、打ち消しませんでしたもの」
「それで十分ですよ」
シリルが、それだけ言った。
* * *
翌朝、船が王都の水門に差し掛かった。
水門の両側に、王都の石造りの建物が見え始めた。霧は出ていない。朝の空が、高く青い。
カラミが、船の縁から王都を見ていた。
「大きいですね」
「フォル・ネビュラより、ずっと大きいですもの」
「……七年ぶりに、王都を見ます」
七年ぶり、という言葉が、船室に静かに置かれた。
(七年前、カラミはここを出てフォル・ネビュラへ行ったということですわよ。ドレインの経路管理者として、七年間港に閉じこもっていた人間が、今日王都に戻ってきますもの)
「どんな気持ちですかしら、カラミ様」
「……まだ、分かりません」
カラミが答えた。
「昨日の夜から、ずっと考えていましたが。……七年前に出た時と、同じ川を通っているはずなのに、全然違う水に見えます」
「同じ川の水ですわよ。……でも、流れていますもの。七年前の水と、今日の水は違いますわよ」
「そうですね」
水門をくぐった。
王都の川沿いの建物が、両岸に並んでいる。朝市の荷台。洗濯物を干す路地。川の上を渡る小橋。
霧のない王都は、はっきりと見える。
(王都に、戻ってきましたわよ。……ここには、まだ仕事が残っていますもの。フロード様への確認。E-1の照合。もう一冊の名簿の整理。スラッジ書記官の証言。そして——)
(モモ・ダストと、ガルベス子爵の件が、まだ手付かずですわよ。あの二人は今も王都で動いていますもの)
扇子を、腰の位置で持った。
(急ぎませんわよ。……まず、手順通りに動きますもの)
* * *
船着き場で、シリルが馬車を手配していた。
王都に着いた報告を、屋敷へ先に送ってある。荷の受け取りも、手順が整っている。
カラミが、船着き場の石畳に初めて足をつけた。
少し、よろめいた。
(長い船旅の後、陸に戻った時のよろめきですわよ。……体が、久しぶりの陸の感覚を取り戻そうとしていますもの)
「カラミ様、大丈夫ですかしら」
「……大丈夫です。少し、慣れていないだけです」
「お急ぎになる必要はありませんわよ」
リタが、何も言わずにカラミの隣に立った。
チャキッ。
倒れても支える位置に、そっと立った。
カラミが、リタを横目で見た。
「……ありがとう」
リタは何も言わなかった。チャキッ、という音も、しなかった。
(リタが無音で受け取りましたわよ。……珍しいですもの。「どういたしまして」は言えませんが、受け取ることはできるということですわよ)
* * *
馬車が、王都の石畳を走った。
屋敷への帰り道を、窓から眺めた。
王都の朝の道は、いつも通りだ。商人が荷を運んでいる。子どもが走っている。貴族の馬車が角を曲がっていく。
(何も変わっていませんわよ、王都は。……でも、私が持ち帰ったものの重さは、五日前とは全然違いますもの)
「シリル」
「はい」
「帰り着いたら、まず二つ手配してくださいな」
「フロード補佐官への面会依頼と、E-1の資料館への閲覧申請ですね」
「それと、もう一つ」
「……なんでしょうか」
「カラミ様の住まいの手配ですわよ。王都に七年ぶりに戻られた方が、すぐ動けるように。屋敷の一角ではなく、外の安全な宿を一つ確保してくださいますかしら。……ベルト・ライスさんに連絡を取れる経路も合わせて」
「かしこまりました。……フォル・ネビュラとの連絡経路は、ガント組合の正規便を使えば確保できます」
「ありがとうですわよ」
カラミが、向かいの座席から言った。
「……ヴィクトリア家に世話になるのは、どこまでが限度ですかしら」
「今のところ、限度はありませんわよ」
私は答えた。
「カラミ様は、まだ仕事の途中ですもの。証言録は書きましたが、照合と確認がまだ残っていますわよ。……仕事が終わるまでは、私の案件の中に入っていますもの」
「案件の中、というのは」
「分別が終わっていない案件は、私の手を離れませんもの。……今のカラミ様は、まだ分別の途中ですわよ」
(分別の途中。……リサイクルか、それとも別の形か。七年分の証言を持った人間を、どう位置づけるかは、まだ確定していませんもの。でも今この段階では、手放す理由がありませんわよ)
カラミが、少し目を細めた。
「……掃除人の案件に入ることが、どういう意味かは分かっています」
「それでよろしいですかしら」
「……はい」
* * *
屋敷に着いた。
門を入ると、庭の石畳が朝の光に照らされていた。
屋敷の窓が、いくつか開いている。風が通っている。
(五日間、留守にしていましたわよ。……屋敷は、いつもと同じ顔をしていますもの。それが、少し心地よいですわよ)
右手の手袋を、一度だけ見た。
白い。指先まで、きちんとしている。
(汚れていませんわよ、今日も。……でも、中にあるものは五日前と少し違いますもの。それでいいですわよ。掃除人は、外を綺麗に保ちながら、中で向き合うものですもの)
「シリル、手配を頼みますわよ」
「はい。……フロード補佐官への面会依頼、E-1の閲覧申請、カラミ様の宿の確保、三点、今日中に動かします」
「ありがとうですわよ。……私は、まず書斎で照合の整理をしますもの」
「お嬢様」
「なんですかしら」
「帰着の祝いに、何かご用意しますかしら」
(帰着の祝い。……シリルらしくない表現ですわよ)
「何か、お勧めはありますかしら」
「昨日の船上でのティータイムが少し質素でしたので、今朝はきちんとしたものをと思っていますよ。……フォル・ネビュラで持ち帰った茶葉が一袋、まだ残っていますから、それと屋敷の菓子を合わせればよろしいかと」
「フォル・ネビュラの茶葉で、王都の菓子、ということですかしら」
「はい。……隣国の素材と、国内の素材を合わせることで、第2章の仕事の区切りになると思います。エコで丁度よい祝い方ですよ」
(エコ。……この従者は、こういう時だけその言葉を使いますわよ。本当にフォル・ネビュラの空気に当てられましたもの)
「分かりましたわよ。……書斎の整理が一段落したら、声をかけますもの」
* * *
書斎に入った。
五日間、誰も入っていない部屋の空気が、少し止まっていた。
窓を一つ開けた。朝の風が入ってきた。
机の上に、一通の書状が置かれていた。
(留守中に届いたものですわよ。……シリルに先に確認してもらえばよかったですが)
差出人を見た。
フロード補佐官からの書状だ。
(フロード様から。……シリルが面会依頼を出す前に、向こうから手紙が来ましたわよ。タイミングが——)
私は扇子を閉じたまま、書状を手に取った。
封を開けた。
一枚の紙に、短い文章が書かれていた。
---
クレア・ヴィクトリア様
帰着の折に、早急にご面会の機会を頂きたく存じます。
E-1の件について、申し上げなければならないことがございます。
七年前の書面の件も含め、直接ご報告させてください。
フロード
---
(七年前の書面の件。……フロード様が、自分から言ってきましたわよ。昨夜の照合で分かった、名簿の記録の件を。こちらが聞く前に、自分から申し出てきましたもの)
書状を、一度机に置いた。
右手の手袋を、指先まで見た。
引き下げなかった。
(フロード様は、知っていましたわよ。……名簿の中に自分の名前があることを。だから、私が戻る前に、自分から書状を送ってきましたもの。告白より先に確認される前に、自分で明かすことを選んだ人間ですわよ)
(これは——掃除の仕方を、知っている人間の選択ですもの)
私は、書状を折りたたんだ。
(直接会いますわよ、フロード様に。……今日中に)
* * *
書斎を出て、シリルを呼んだ。
「フロード補佐官から書状が来ていましたわよ」
シリルが受け取って、読んだ。
「……E-1の件について申し上げたいことがある、ですか」
「七年前の書面の件も、自分から書いてきましたわよ」
「……先手を打ってきましたね」
「先手ではなくて、自分から清算しに来ましたわよ。……先手と清算は、意味が違いますもの。シリルはどちらだと思いますかしら」
シリルが少し考えた。
「……清算だと思います。フロード補佐官が先手を打つ必要があるとすれば、名簿の存在を知っているはずがなく、それがなければ七年前の件を先に書く理由がありません。知っているから、書いてきましたよ」
「名簿の存在を、どこで知りましたかしら」
「フォル・ネビュラへの照会文書を受け取る立場にある人間ですから、何らかの形で……」
シリルが止まった。
「……あるいは、最初から知っていたかもしれません。七年前の記録が名簿に入っていることを」
(最初から知っていた。……フロード様が、七年間、自分の名前が名簿に残っていることを知りながら、それでも王城内で不正と戦い続けていたとすれば——)
(それは、汚れを拭きながら歩き続けた人間の話ですわよ)
「今日中に面会しますわよ、シリル。手配してくださいますかしら」
「はい。……E-1の資料館への閲覧申請は、面会の後にした方がいいですか」
「フロード様の話を聞いてから判断しますもの」
「承知しました」
* * *
午前の作業が落ち着いた頃、シリルがティータイムの準備を整えた。
書斎ではなく、サロンに移った。
五日ぶりのサロンは、カーテンが少し閉まっていた。リタが開けた。窓から、庭の光が入ってきた。
トレイの上に、小ぶりのポットと、白いカップが二脚。それから、小さな皿に菓子が並んでいた。
「今日のティータイムは何ですかしら、シリル」
「フォル・ネビュラで持ち帰った霧花茶の最後の一袋です。……ただし、今日は国内の水で淹れています。港の水ではなく、王都の水ですから、味が変わります。花の香りが少し立ちやすくなっているはずです」
カップを受け取った。
湯気が上がった。淡い花の香りが、サロンの空気に広がった。フォル・ネビュラで飲んだ時より、香りが軽い。霧の港の水が持っていた重さがない分、花の香りだけがすっと来る。
一口飲んだ。
(軽いですわよ。……でも、香りは本物ですもの。フォル・ネビュラの花の香りが、王都のサロンで咲いていますわよ。不思議な感じがしますもの)
「菓子は何ですかしら」
「王都の菓子店で、今朝屋敷の者に手配させました。……アンブル・タルトです」
皿の上に、小さな丸いタルトが並んでいた。縁が少し焦げ色になっていて、中に琥珀色の詰め物が入っている。
「アンブル・タルトは初めてですわよ」
「王都の老舗の菓子ですよ。……蜂蜜と干し果実を煮詰めて詰めたタルトで、仕上げに少量の塩を振っています。甘みと塩気が、同時に来る菓子です」
一つ口にした。
タルト生地のさくりとした食感。次に、蜂蜜と干し果実の深い甘み。最後に、塩気が引き締めた。
(甘みと塩気が、一つの菓子の中に入っていますわよ。……甘いだけでもなく、塩辛いだけでもなく、両方が重なっていますもの。フォル・ネビュラで飲んだ蜂蜜入りのドゥーラ茶を、菓子にしたような味ですわよ)
「霧花茶に、合いますかしら」
「合います。……隣国の花の香りと、王都の塩蜂蜜の菓子は、喧嘩しませんよ。水がちがっても、香りは届くということですよ」
(水が違っても、香りは届く。……シリルが、また詩的なことを言いましたわよ。フォル・ネビュラの名残がまだ消えていませんもの)
「シリル、今日のティータイムはよろしいですわよ」
「ありがとうございます」
「フォル・ネビュラの最後の茶葉で、王都の菓子を合わせることを思いついたのは、あなたの珍しい丁寧さですわよ」
「……霧の空気は、なかなか抜けないようですよ」
「少しだけ、抜けなくていいですもの」
私は言った。
(少しだけ、フォル・ネビュラの香りを持っておきますわよ。……王都の仕事が、また始まりますもの。でも今日は、この霧花茶の最後の一杯を飲みながら、少しだけ港のことを思っていてもいいですわよ)
カップを、両手で包んだ。
花の香りが、サロンに薄く残っていた。
午後には、フロード補佐官と会う。
その前に、この一杯を飲み切りますわよ。
タルトをもう一つ、口に入れた。
甘みが先に来て、塩気が後から引き締めた。
(この順序は、今の私の仕事の順序と、少し似ていますわよ。……甘みと塩気が、どちらも必要ですもの)
霧花茶の最後の一口を、静かに飲んだ。




