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第39話:出立の朝と、塩袋の縫い目

 朝が、今日も晴れた。


 フォル・ネビュラに来て五日目の朝だ。昨日から霧がなく、今朝も金色の光が窓から差し込んでいる。


 私は早めに目が覚めた。出立前の朝はそういうものだ。起き抜けに荷を確認して、窓の外を一度眺めた。


 港が、光の中に広がっている。


 霧がない港は、四日間私が知っていた港とは別の場所のように見える。それでも、石積みの岸壁の形と、灯台の位置と、漁師亭の斜め向かいの屋根の角度は同じだ。霧の中で一歩ずつ確認しながら覚えた地形が、今朝は全部一度に見えている。


(見えすぎるくらい、見えますわよ。……霧の中の方が、必要なものだけに集中できましたもの)


 右手の手袋を手に取った。


 嵌めた。指の先まで、丁寧に。


(今日は出立の日ですわよ。……王都まで、仕事の続きを持ち帰りますもの)


* * *


 食堂に降りると、シリルとリタがすでに朝食を食べ終えていた。


「早いですわよ、二人とも」


「ネリカの確認は、南の埠頭の早朝の市が始まる前が適切と判断しました。……お嬢様が起きる前に出発するつもりでしたが、間に合いませんでしたよ」


「間に合わせましたわよ、私が」


「ご明察です」


 シリルが書類鞄を持ち直した。今日の南埠頭への接触で必要な書面が、既に整えられている。


「ネリカさんへのお話の方針は、昨夜お伝えした通りですわよ」


「はい。……本人に罪がないことを先に確認した上で、経路として使われていた事実を告げる。塩袋の縫い目を本人に確認させた上で、書面で事実を証言してもらう。経路の切断は、ネリカが次に塩を届ける際に別の封をして渡すことで、ドレイン側に察知されない形で行います」


「ネリカさん自身が危険にならない形で、ということですわよ」


「はい。……無自覚な枝管は、詰めるのではなく、切り替えるだけで十分です」


(切り替えるだけ。……詰めると、別の枝管が生まれますもの。ドレインは、使える経路を探している組織ですわよ。ネリカという人間を守ることが、次の無自覚な中継者を出さないことに繋がりますもの)


「リタ」


 チャキッ。


 リタが立ち上がった。今朝は外套を着ている。移動の準備が整っている。


「行ってくださいな。……私は荷の最終確認をしておきますわよ」


 シリルが、扉の前で一度振り返った。


「お嬢様、一点だけ。……昨日の夜から、港の外れで人の動きが一件あります。漁師亭の主人から今朝早く報告がありましたよ」


「どういう動きですかしら」


「ガント組合の管轄外の小型船が、今朝の夜明け前に入港しています。昨夜ネリカの件をカラミに確認した際、カラミが言っていた『次の便の前に別の連絡が来る場合がある』という話と時期が合います」


(別の連絡。……ドレインからの、エスト経由ではない直接の接触の可能性がありますわよ。昨日、保管庫の閉鎖とカラミの消息が漏れていれば——)


「どこから入りましたかしら、その船は」


「南の埠頭の外れです。……ネリカが来る場所と、方角が近い」


 私は扇子を開いた。


「ネリカさんへの接触を、急いでくださいな」


「かしこまりました。……リタ、行きますよ」


 チャキッ。


 二人が食堂を出た。


* * *


 私は食堂に残った。


 漁師亭の主人が、今朝の朝食を運んでくれた。昨日と同じドゥーラ茶と、薄いパンと、干し魚の炒め物だ。


「昨夜の船の件、ありがとうございましたわよ」


「いいえ。……あの船、帆に何も書いていませんでしたわよ」


 主人が言った。無記名の帆。それは昨夜ではなく、昨日の朝の報告と同じ特徴だ。


(同じ特徴の船が、また入港しましたわよ。……昨日はカラダム方面へ出た船でしたもの。今日は南の埠頭の外れに入ってきた船ですわよ。別の船か、同じ船が戻ってきたか)


「入港した場所を、具体的に教えていただけますかしら」


「南の埠頭の、ガント組合の係留場より外れた場所ですわよ。組合の管轄外の細い岸壁がありましてね。昔から、訳ありの船が使う場所なんですわよ」


(訳ありの船が使う場所。……港の人間は、そういうことを普通に知っていますわよ。霧の港で七年間生きてきた人間の常識ですもの)


「主人、その場所を地図で示していただけますかしら」


「ええ、少し待ちますわよ」


 主人が厨房の奥に入って、折りたたんだ紙を持ってきた。港の簡単な見取り図だ。インクが古く、角が擦れている。何度も使われてきた地図らしい。


「ここが組合の係留場で、ここが外れの細い岸壁ですわよ」


 指で示された場所を、頭に入れた。


(南の埠頭の、組合係留場より三つ外の岸壁。……シリルとリタがネリカに接触する場所の近くですわよ。方角が近い、というシリルの言葉の意味が、今分かりましたもの)


「ありがとうございますわよ。少々お借りしてもよろしいですかしら」


「どうぞ」


 地図を手に取って、食堂のテーブルに広げた。


 朝食を食べながら、港の地形を確認した。


(シリルとリタが先に動いていますわよ。……私がここにいるのが、最善かどうかを考えますもの)


 干し魚の炒め物を一口食べた。


 今朝は少し塩が強い。磯の香りの後に、塩気が来る。


(塩気が今朝は強いですわよ。……主人が緊張しているのかもしれませんもの。この人は、港の変化を体で感じる人間ですわよ)


 ドゥーラ茶を飲んだ。磯の旨みが、口の中の塩気を穏やかに整えた。


(整いますわよ、旨みは塩気を包みますもの。……今朝の港も、同じように整えますわよ)


 私は立ち上がった。


* * *


 外套を羽織って、扇子を手に持った。


 主人が食堂の入り口に立っていた。


「お出かけですかしら」


「少しですわよ。……留守番をお願いしますもの。お部屋の荷は施錠してありますから、木箱には触れないでいてくださいな」


「分かりましたわよ。……気をつけて」


 主人の声に、余計なことが何もなかった。漁港の人間の、簡潔な気遣いだ。


(ありがとうですわよ)


 口には出さずに、小さく頷いた。


* * *


 港の朝の光の中を、南の埠頭へ向かった。


 霧がない朝の護岸は、よく見える。人の顔が、遠くから分かる。荷台の形も、船の旗も、はっきりと見える。


 ただし、見えるということは、こちらも見えているということだ。


(外套の色が、今日は港の人間と少し違いますわよ。……王都の仕立ての服は、漁港では浮きますもの。でも、今更変えても手遅れですわよ。むしろ、堂々と歩いた方が、怪しまれませんもの)


 背筋を伸ばした。


 扇子を、腰の位置で軽く持った。


(男爵令嬢が朝の散歩をしているだけですわよ。……ただし、散歩先で何かが起きた場合は、散歩ではなくなりますもの)


* * *


 南の埠頭に着いた頃、朝の市が始まりかけていた。


 魚の入った木箱が積まれて、漁師たちが値段の交渉をしている。海老の匂いと、塩の匂いが混じっていた。


 シリルの姿を、市の外れで見つけた。


 リタが傍にいる。二人の向かいに、小柄な女性が立っていた。干し魚の入った籠を持っている。


(あれが、ネリカさんですわよ。……シリルがもう接触できましたもの)


 近づかずに、少し離れた場所から観察した。


 シリルが何かを話している。ネリカが籠を持ったまま固まっている。リタが横に立って、無言でいる。


 ネリカが、籠の中から塩の袋を一つ出した。


 シリルが受け取って、縫い目を確認している。


(中を確かめていますわよ。……今日、ネリカが持ってきた塩袋に、書面が縫い込まれているかどうかを確認していますもの)


 シリルが少し立ち止まった。


 袋を返さずに、持ったままだ。


(書面がありましたわよ。……ネリカさんが今日も書面を運んできているということは、ドレインからエストへの経路が今朝も生きているということですもの)


 その時。


 埠頭の外れで、人が動いた。


 組合の係留場より外側の方向から、二人の男が歩いてくる。市の人間ではない。外套の形が違う。荷を持っていない。朝の市に来た人間の歩き方ではない。


(無記名の帆の船から来た人間ですわよ。……目的は何かしら)


 二人の目線を追った。


 シリルの方向を見ている。


 いいえ。シリルではなく、その横に立っている人間を。


 ネリカを。


(ネリカさんを見ていますわよ。……経路の中継者に何かを確認しに来たか、あるいは塩袋の書面を直接回収しに来たか。どちらにせよ、今朝の接触は想定外だったはずですわよ。私たちがネリカに先に接触したことで、経路が止まっていることに気づきつつある)


 私は扇子を少し開いた。


 歩き方を変えた。


 市の喧騒の中を、自然に、シリルとネリカの方向へ向かった。


* * *


 二人の男が、市の人間に混じりながら近づいてきた。


 片方は背が高く、外套の下に荷を持っている様子がない。もう片方は中背で、帽子を目深に被っている。


(荷なし、帽子で顔を隠している。……市場に買い物に来た人間の格好ではありませんわよ。不法投棄業者の集荷担当、といった風情ですもの)


 私はシリルの真後ろに、ちょうど間に合う角度で出た。


「おはようございますわよ、シリル」


 シリルが振り返った。


 一瞬だけ目が合って、シリルが後ろの二人の位置を視線で教えてくれた。


「お嬢様、散歩が早かったですね」


「朝の光が気持ちよかったですもの。……ネリカ様でいらっしゃいますかしら」


 ネリカが、私を見た。四十代ほどの女性で、顔が日に焼けている。手が大きい。何年も荷を運んできた人間の手だ。


 目が、怯えていた。


(怯えていますわよ。……シリルから塩袋の件を聞いて、何が起きているか分からない状態のはずですもの)


「驚かせてしまって、申し訳ありませんわよ。私はクレア・ヴィクトリアと申します。ネリカ様には、何も悪いことをしていただいていませんのよ。ただ、塩袋の縫い目についてお話しさせてくださいな」


 ネリカが、少し固まったまま頷いた。


「縫い目のこと、知らなかったと思いますわよ」


「……知らなかったです。七年間、ソルさんに塩を売ってきただけで」


「ええ。そうですわよ。ネリカ様は何もしていませんもの」


 その時、背後で足音が近づいた。


 市場の喧騒と混じった、けれども明確な足音だ。二人分。


 リタが、音もなく半歩前に出た。


 チャキッ。


(リタが前に出ましたわよ。……ということは、二人の距離が縮まっているということですもの)


「シリル」


「はい」


「ネリカ様を、市場の奥の物陰にご案内してくださいな」


「かしこまりました。……ネリカさん、こちらへどうぞ。少し場所を移りますよ」


 シリルがネリカを連れて、市場の奥の木箱の積まれた場所へ向かった。


 私はその場に残った。


 二人の男が、数歩先で止まった。


* * *


 背の高い男が、私を見た。


 外套の下で、何かを持っている。形から推察すると、短い得物だ。


(見せびらかしていますわよ。……脅しのつもりですもの。市場の喧騒で、周りの人間に気づかれないように見せているのでしょうけれど)


 私は扇子を、ゆっくりと開いた。


(燃えないゴミ、ですわよ。……市場で無用な騒ぎを起こしたくはありませんもの。でも、このまま行かせるわけにもいきませんわよ)


「朝の散歩中に、お声がけいただく前に一つ確認しますわよ」


 私は言った。


「ネリカさんに用があるのでしたら、もう間に合いませんもの。それから、その得物を使うお考えでしたら、少し考え直された方がよろしいですわよ」


「何の権限で」


 背の高い男が言った。隣国の訛りがある。


「男爵令嬢が何の権限で介入しますか」


(男爵令嬢だと知っていますわよ。……こちらを事前に調べている人間ですもの。ということは、昨日の保管庫の件も、エストへの報告が届いているかもしれませんわよ)


「権限の話をするのでしたら」


 私は扇子を一度閉じた。


「王家の掃除人としての依頼の範囲内ですわよ。……ただ、そういう説明が必要な状況にしたくはありませんもの」


「……掃除人、ですか」


 帽子の男が、初めて口を開いた。こちらは訛りが少ない。国内育ちか、あるいは長く国内にいた人間だ。


(二人の役割が違いますわよ。背の高い方が実行担当、帽子の方が判断担当ですもの。判断担当が口を開いたということは、状況を計算し直しているということですわよ)


「カラミという人間を、昨日から見ていますかしら」


 私は聞いた。


「……何のことか」


「保管庫の件は、もうエストに伝わっているかしら、という確認ですわよ。……伝わっているなら、この二人をここに寄越したことの説明がつきますもの。伝わっていないなら、少し違う意味になりますわよ」


 二人が、視線を交わした。


(図星ですわよ。……エストへの報告が届いて、ネリカの塩袋の書面を回収か、あるいはネリカ自身を始末しに来たかのどちらかですもの)


「ネリカさんには、もう何の用事もありませんわよ」


 私は言った。


「塩袋の縫い目の書面は、私が持っておきますもの。……エストへのご報告に、それも加えていただけますかしら」


 背の高い男が、一歩踏み出した。


 その瞬間。


 チャキッ、という音。


 男の首元に、リタの刃が添えられていた。


 音一つ、なかった。


 リタは市場の喧騒に完全に紛れて、背後から移動していた。


(当然ですわよ、リタですもの。……この子は、動く時に音がしませんわよ)


 帽子の男が、固まった。


「得物を出す前に」


 私は続けた。


「フォル・ネビュラは今日が晴れですわよ。昨日まで霧で見えなかったものが、今日は全部見えますもの。……皆さんも同様に、見えていますわよ」


(見えている、という言葉に、複数の意味を込めましたわよ。……組合の人間も、市場の人間も、今朝はこの場を見ています。霧の日ならいざ知らず、晴れの日に市場で乱暴を働けば、港中に知れますもの)


 帽子の男が、ゆっくりと両手を見せた。


「……話を聞きます」


「賢明なご判断ですわよ」


 私は扇子を開いた。


「二点だけ、お伝えしますもの。……一点目、ネリカさんはこの港の行商人ですわよ。経路に組み込まれていたことを本人は知りませんでしたもの。不法投棄場所として無断で使われていた土地と、同じ扱いですわよ。……今日以降、その経路は使えませんもの」


「……二点目は」


「エストへのご伝言ですわよ」


 私は言った。


「保管庫の台帳と手帳と証言書面と、ヴァッハの通信記録七年分は、既に王都への照会に出ていますもの。セルバン・ドックへの移転を急がれることをお勧めしますわよ。……ただし、移転先もすでに把握していますもの」


 帽子の男の顔が、わずかに動いた。


(セルバン・ドックの名前で、反応しましたわよ。……ドレインの内部の情報を持っていることを確認していますもの。ただし、これ以上ここで言葉にする必要はありませんわよ。材料は渡しましたもの)


「お二人は、今日中にこの港からお出になることをお勧めしますわよ」


 私は扇子を閉じた。


「ゴミ収集の日を間違えると、回収されてしまいますもの。……今日は今朝早くに、既にひとたび収集しておりますわよ」


 帽子の男が、一つ間を置いた。


「……名前を、聞いてもいいですか」


「クレア・ヴィクトリアですわよ。お伝えしましたもの」


「ドレインへの、伝言ですか」


「エストへの、ですわよ。……正確に届けていただけますかしら。肩書き込みで、王家の掃除人からと」


 リタが、刃をゆっくりと引いた。


 チャキッ。


 背の高い男が、首元を押さえながら、帽子の男の方へ下がった。


 二人が、市場の外れへ向かった。


 人混みに紛れて、岸壁の方へ歩いていく。


 その後ろ姿を見ながら、私は一度だけ息を吐いた。


(燃えなくてもよかったですわよ。……今日は、煙が上がる前に出て行ってもらいましたもの。市場に火の手が上がっては、港の人間に申し訳ありませんわよ)


* * *


 シリルとネリカが、木箱の物陰から出てきた。


 シリルが状況を確認した。


「お嬢様、問題ありませんでしたか」


「ありませんでしたわよ。……帰りましたもの、あの二人は」


「エストへの伝言をお願いしましたか」


「ええ。……こちらが把握しているものを、正確に伝えてもらいましたわよ。セルバン・ドックの件も含めて」


 シリルが、少し目を細めた。


「……セルバン・ドックを明かすのは、早くありませんでしたか」


「早い方がよかったですわよ、今回は」


 私は答えた。


「ドレインが移転を急げば、王都への照会が届く前にセルバン・ドックに入ります。入った先で、こちらが待っていれば済みますもの。……自分から入ってくる不法投棄者は、持ち込み禁止の看板の前で捕まえればいいですわよ」


(移転先に誘導する。……逃がして追うより、向かわせて待つ方が、労力が少ないですもの。セルバン・ドックの情報はすでに王都への照会に含めていますわよ。エストが急いで動けば、動いた先で証拠が揃う形になっていますもの)


「エコですね」


「燃料の無駄遣いは好みませんわよ」


 ネリカが、二人の会話を聞きながら、少し顔色が戻ってきた。


「……私は、どうすれば」


「今日は、いつも通りの行商を続けてくださいな」


 私はネリカに言った。


「ソルさんへの塩の納品は、今日は書面なしで普通に行ってくださいな。縫い目のない塩袋でいいですわよ。……ソルさんが書面がないことに気づいたら、なかったと答えればよろしいですもの」


「それだけで、いいですか」


「それだけですわよ。……ネリカ様は、七年間、真面目な行商人でしたもの。これからも、真面目な行商人のままでいてくださいな。それが一番ですわよ」


 ネリカが、少し目を赤くした。


(七年間知らずに使われていた人間が、今朝初めてそのことを知って、今朝のうちに経路から出ていきますわよ。……無自覚な枝管の、静かな切り替えですもの)


「シリルが書面を一枚お渡ししますわよ。……ネリカ様の証言書面ですもの。保険として持っておいてくださいな。何かあったら、ガント組合のライスさんのところへ行けばよろしいですわよ」


「ライスさんを、ご存じですか」


「少し、ご一緒しましたわよ」


 ネリカが、書面を受け取った。


「……ありがとうございます」


「こちらこそですわよ。朝早くから、ありがとうございましたもの」


 ネリカが、籠を持ち直して、市場の中へ戻っていった。


(塩の行商人が、今朝の出来事をどう感じるかは、ネリカさん自身が決めることですわよ。……私は、今朝ここに来て、塩袋の縫い目を確認できてよかったですもの)


* * *


 三人で漁師亭に戻った。


 帰り道、霧のない護岸を歩きながら、シリルが口を開いた。


「今朝の二人組の報告を、カラミとライスに入れておきますか」


「入れておいてくださいな。……ドレインがネリカさんに接触しようとしたことは、ライスさんに知っておいていただいた方がいいですもの」


「ヴァッハへも」


「ええ。……もし別の接触が来たら、記録して通報してもらう、という約束でしたもの。今朝の二人組は通信所には来ていないかもしれませんが、念のためですわよ」


「カラミの安全は問題ありませんでしたか」


「漁師亭に残っていましたもの。……部屋から出ないように昨夜お伝えしてありますわよ。カラミは、今朝自分が狙われる可能性があることを理解している人間ですもの」


 シリルが、少し考えた。


「エストへの伝言の件ですが、一点確認させてください」


「なんですかしら」


「掃除人の仕事を、ドレインに向けて明確に名乗ることで、今後エストが警戒を強める可能性があります。……第二章の清掃において、むしろ不利になる局面があるかもしれません」


(シリルの懸念は正しいですわよ。……ただ)


「その計算は、しましたわよ」


 私は答えた。


「ドレインはすでに、私たちがこの港にいることを知っていますもの。カラミが証言者になったことも、通信記録が抜かれたことも、時間の問題で伝わりますわよ。……隠れて動ける局面は、もう終わっていますもの」


「それでも名乗ることは、敵に準備の時間を与えますよ」


「与えますわよ。……ただし、準備の方向を誘導できますもの。セルバン・ドックへ急いで移転すれば、こちらが先に待てますわよ。慌てて動く人間は、痕跡を残しますもの」


(掃除の時間軸を、こちらが決めますわよ。……ドレインが急げば急ぐほど、取りこぼしが出ますもの。丁寧な作業ほど時間がかかりますわよ、汚れを落とすのも、汚れを隠すのも)


「……なるほど。誘導の方が、追跡より効率的ということですか」


「ゴミ収集車を、ゴミの方から引き寄せる方が早いですもの。……エコですわよ」


「お嬢様が使う言葉ではありませんよ、それは」


「あら。あなたが最初に使いましたわよ」


「失礼しました」


 シリルが笑顔のまま言った。


 リタが、二人の後ろで無言のまま歩いている。


 チャキッ、という音が一つした。


(同意、ということかしら。……リタの意見が一致したのは初めてかもしれませんわよ)


* * *


 漁師亭に戻ると、カラミが食堂のテーブルで書面を確認していた。


 昨夜から渡していた証言書面のコピーを、自分で読み直していたようだ。


「おかえりなさい」


「ただいまですわよ、カラミ様。……今朝、少し来客がありましたわよ」


「……南の埠頭の方向に、船が入っていましたね」


「気づいていましたかしら」


「窓から見えましたわよ」


 カラミが書面をテーブルに置いた。


「ネリカは、大丈夫でしたか」


「問題ありませんでしたわよ。……今日も行商を続けていただいていますもの」


「そうですか」


 カラミが少し息を吐いた。


「七年間、ネリカのことが気になっていました。知らないままで経路に使われていた人間ですから」


(カラミは、無自覚な中継者のことを、七年間気にしていましたわよ。……経路の管理者として知っていながら、止める手段がなかったということですもの。それも、七年分の重荷の一つだったかもしれませんわよ)


「今日で、ネリカさんの経路は終わりましたわよ。……縫い目のない塩袋で、今日の仕事を続けてもらいますもの」


「ありがとうございます」


「こちらこそですわよ。……ネリカさんのことを教えてくださったのは、カラミ様でしたもの」


 カラミが、書面を折りたたんだ。


「今日の出立の準備を、始めていいですか」


「ええ。……午後の便ですわよ。ガント組合の手配で、昼過ぎに出ますもの」


「分かりました」


* * *


 午前中は、荷の最終確認と出立の準備に充てた。


 木箱の封を確かめた。台帳三冊、手帳、証言書面三部、ヴァッハの通信記録、もう一冊の名簿。その全てが、封蝋をして木箱の中に収まっている。


 シリルが木箱に荷札を付けた。


「王都への照会は、昨夜のうちに出済みです。……フロード補佐官への状況報告も、今朝の便で届いているはずです」


「フロード様への内容は」


「今週末にフォル・ネビュラを出立する、という件だけです。帰国後に面会の時間をいただきたい、という一行を添えましたよ。……手帳の件は含めていません」


(帰国後に直接確認しますわよ。……フロード様の顔を見ながら話しますもの。書面でやり取りすることではありませんわよ)


「ライスさんへの挨拶は、昼前にしますわよ」


「ライスさんが、漁師亭に来るとのことです。……組合の証言録の控えを渡しに来てくださるとのことです」


「丁寧な方ですわよ」


「七年間、副本を取り続けた人間の習慣ですよ。……控えを渡すことも、副本の概念の延長線上だと私は思います」


(シリルが詩的なことを言いましたわよ。……フォル・ネビュラの空気は、まだここにありますもの)


* * *


 昼前にライスが来た。


 控えの書類を、きちんと紙で包んで持ってきた。


「スルッツ組合長と話しましたわよ。……証言録の件については、王都からの正式な保護申請が届くまで、組合内でも情報を絞るとのことです」


「ありがとうございますわよ、ライスさん。お手配を感謝しますもの」


「こちらこそですわよ。……七年分の副本の使い道が見つかったのは、あなた方が来てくださったからですもの」


 ライスが、控えを渡した後、少し間を置いた。


「カラミという方は、王都で安全に過ごせますかしら」


「できる限りのことをしますわよ。……王家への報告の中で、証人保護の申請をしますもの」


「そうですか。……七年間、この港にいた人間ですからね。外の空気に慣れるまで、時間がかかるかもしれませんわよ」


(七年間、港に閉じこもっていた人間。……霧の中でしか動けなかった人間が、霧の外に出ることへの心配を、ライスさんはしていますわよ)


「ライスさん」


「はい」


「カラミ様のご心配をしていただいて、ありがとうございますわよ。……昨日、北の埠頭を一緒に歩いてくださったこと、カラミ様には大きな意味がありましたもの」


「いいえ。……私も、霧の晴れた日に北の埠頭を歩いたことがなかったので、よい機会でしたわよ」


 ライスが、笑った。


 控えめな笑顔だが、本物の笑い方だ。


(帳簿の人間の笑顔は、地味ですがそれだけ確かですわよ)


* * *


 昼過ぎ、出立の準備が整った。


 漁師亭の主人に挨拶した。


「お世話になりましたわよ。四日と少しの間、良いお宿でしたもの」


「光栄ですわよ。……また霧の晴れた日に、おいでくださいな」


「必ず参りますわよ」


 主人が、小さな紙袋を差し出した。


「道中に、どうぞ。……ビスカ・ウェーヴを少し多めに焼きましたわよ」


(また焼いてくださいましたわよ。……昨夜の一日早い旅立ちの菓子が、今日は本物の旅立ちの菓子になりましたもの)


「ありがとうございますわよ」


 紙袋を受け取った。


 温かかった。焼きたてだ。


* * *


 ガント組合の係留場に、出立の便が待っていた。


 スルッツ組合長が、岸壁で見送りに来ていた。昨日とは打って変わって、今日は普段着だ。組合長の礼装ではなく、漁師の仕事着に近い服装だ。


「お気をつけて、お嬢様」


「ありがとうございますわよ、スルッツ様。……組合のことは、正式な手続きが届くまで、くれぐれもよろしくお願いしますもの」


「承知しておりますわよ。……七年分の副本の分、しっかり届けてくださいな」


「必ずですわよ」


 ライスが、少し後ろで頭を下げた。


 カラミが、岸壁に立ちながら港を一度振り返った。


(振り返りましたわよ。……七年間いた場所を、最後に見ていますもの。打ち消しませんわよ、その時間は必要ですもの)


 カラミが、船に乗った。


 シリルが木箱を確認した。リタが荷を持った。


 私は最後に乗り込む前に、港をもう一度見た。


 霧がない。石積みの岸壁。灯台。漁師亭の屋根。南の埠頭の方向。


(澱は、引き上げましたわよ。……全部ではないかもしれませんもの。底にまだ残っているものがあるかもしれませんが、今日のところは十分に引き上げましたわよ)


(セルバン・ドックには、別の澱が待っていますもの。でも今日は、この港の話ですわよ)


 右手の手袋を、一度だけ見た。


 白い。


 今日は引き下げなかった。


(王都で、向き合いますわよ。……今は、この港を出ることですもの)


 なお、エストについては、出立の前に王城の関係者へ引き渡しを済ませてありますわよ。


 船に乗った。


* * *


 船が港を出た。


 岸壁が遠くなっていく。スルッツとライスの姿が、小さくなっていく。


 霧がないから、遠くまで見える。いつまでも見える。


(霧がなければ、別れがはっきりと見えますわよ。……霧の中の別れより、こちらの方が、長く見えますもの)


 カラミが、船の縁から港を見ていた。


 私は、同じ方向を見た。


「どんな港でしたかしら、カラミ様にとって」


 しばらく間があった。


「……濡れた場所でした」


「霧で、ということですかしら」


「それもありますし。……七年間、乾いたことがなかった気がしますわよ。記録も、書面も、指先も、ずっと湿っていましたもの」


(七年間、乾かなかった場所。……澱の溜まった港の中に、七年間いたということですわよ)


「今日は、どうですかしら」


 カラミが、自分の手を見た。


「……少し、乾いてきました」


(打ち消しませんわよ、今日は)


 私は扇子を閉じたまま、港が小さくなっていくのを見た。


 灯台が、光を回している。


 正午の光の中で、白く光った。


* * *


 船の船室で、シリルがトレイを持ってきた。


 船室は小さかった。木の匂いがする。窓が一つ、外の海に向いている。


「今日のティータイムは、少し早いですわよ、シリル」


「昼食の代わりですよ。……出立が昼過ぎでしたので、次の食事まで時間があります。船の揺れで食欲が落ちる前に、少し補充しておいた方がいいですよ」


「合理的ですわよ」


「はい、常に」


 トレイに載っていたのは、小さなポットと、カップが三脚。それから、漁師亭の主人の紙袋が開かれて、ビスカ・ウェーヴが皿に並んでいた。


「茶は何ですかしら」


「ドゥーラ茶です。……ただし、今日は港の水ではなく、持参した水で淹れています。フォル・ネビュラの磯の旨みは少し薄まりますが、船の揺れの中でも飲みやすい、穏やかな味になっています」


(穏やかになったドゥーラ茶。……港の水ではない茶は、この港の旅の終わりの味ですわよ)


 カップを受け取った。


 湯気が、船室の中に立ち上がった。


 磯の香りが、ほんのりとある。強くはない。でも、確かにある。


 一口飲んだ。


(穏やかですわよ。……旨みが来て、塩気がなくて、最後に少しだけ磯の名残が残りますもの。この港の味を、少しだけ持って帰れる、という感じですわよ)


「ビスカ・ウェーヴは、主人が焼きたてを持たせてくださいましたわよ」


「はい。……温かいうちに、どうぞ」


 一枚口にした。


 さくり。バターの香り。塩気。波型の溝の部分の、香ばしい薄焼きの食感。


(旅立ちの菓子を、本当の旅立ちで食べましたわよ。……昨夜一日早かったものが、今日ちょうどよくなりましたもの)


 カラミにも、カップを渡した。


「ドゥーラ茶ですわよ。……お口に合いますかしら」


 カラミが受け取った。


「……七年間、毎日飲んでいましたわよ」


「そうでしたかしら」


「この港の人間は、みんな飲みますもの。磯の旨みが、夜の仕事に向いていましてね」


(夜の仕事。……七年間の夜の仕事の記憶が、この茶の中にありますわよ。カラミにとって、このドゥーラ茶は、七年分の澱の味でもありますもの)


「今日の味は、どうですかしら」


「……少し、薄い気がします」


「港の水ではなく、持参した水で淹れましたもの。港を離れましたから、少し変わりますわよ」


「そうですね」


 カラミが、カップをゆっくり持ち直した。


「……薄くなった方が、飲みやすいかもしれませんわよ。七年間、少し濃すぎた気がしますもの」


(七年間、少し濃すぎた。……それは、茶の話だけではありませんわよ。カラミが、自分の七年間を、茶の濃さで表現しましたもの)


 私は、それ以上何も言わなかった。


 シリルも何も言わなかった。


 リタが、船室の隅で音もなくビスカ・ウェーヴを一枚食べた。


 チャキッ、という音が一つした。


(美味しい、ということかしら。……あるいは、ただの食感の音かもしれませんわよ。どちらでも、いいですもの)


* * *


 窓の外に、海が広がっていた。


 フォル・ネビュラの霧の外に出ると、海が急に広くなった気がする。霧がなければ、ずっと先まで水平線が続いている。


 カップを両手で持ちながら、窓の外を見た。


(王都には、まだ仕事が待っていますわよ。フロード補佐官への直接確認。もう一冊の名簿で止まったページ。エストの封蝋照合。セルバン・ドックへの次の大掃除。……手帳の中に残っているものは、まだ全部片付いていませんもの)


(でも今は、この船室の中で、薄くなったドゥーラ茶を飲みながら、ビスカ・ウェーヴを食べている時間ですわよ)


 茶を一口飲んだ。


 磯の名残が、最後にほんのりと来た。


(フォル・ネビュラの、最後の一口ですわよ。……また来ますもの。霧の晴れた日に)


 カップをソーサーに置いた。


 窓の外で、海が光っていた。


 船が、王都への航路を進んでいた。

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