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第38話:澱のない港で、出立の準備をする

 朝の霧が、今日はほとんどなかった。


 窓から差し込む光が、白ではなく、まっすぐな金色だ。フォル・ネビュラに来てから初めて見る、本来の朝の色だと思った。


(霧が晴れましたわよ。……四日と少し、ずっと白い空気の中にいましたもの。今朝の光は、少し目に刺さりますわよ)


 私は漁師亭の窓際に座って、港の方を眺めた。


 霧がない港は、思ったより広かった。岸壁の石積みの向こうに、朝の海が光っている。船の帆が白く見える。灯台の形が、霧越しではなくはっきりと見えた。


 昨夜遅くまで書類を見ていたシリルは、まだ食堂に降りてきていない。リタは保管庫に残ったままだ。


 ドゥーラ茶を頼んで、一人で飲んでいた。


(今日の午前中に、ヴェルミの証言の最後の部分を終わらせますわよ。エストへの書面の経路。それが済めば、今夜から荷造りを始めて、明日の便で港を出ますもの)


 右手の手袋を、指の付け根まで見た。


 白い手袋。昨夜も、一度だけ引き下げて、また戻した。


(もう一冊の名簿の、止まったページ。……打ち消しませんわよ。王都に帰ったら、向き合いますもの)


 ドゥーラ茶を一口飲んだ。


 今朝の茶は、いつもより少し温度が低かった。磯の旨みが、穏やかに来た。


* * *


 シリルが食堂に降りてきたのは、朝の光が食堂の壁まで届き始めた頃だった。


「おはようございますわよ、シリル。よく眠れましたかしら」


「四時間ほど頂きました。十分です」


「人間の四時間を十分と言い切れますのかしら」


「機能上の問題はありませんよ」


 シリルが席に着いた。漁師亭の主人が、朝の定食を運んでくる。昨日と同じ構成だが、今朝は焼いた白身魚が一枚加わっていた。


「港を出る日が決まったからと、主人がおまけを出してくださったようです」


「あら。明日出立することを、お伝えしましたかしら」


「昨夜遅くに、部屋のまとめ賃と合わせて精算しておきました。主人は少し残念そうでしたよ。……この宿に、こういう客が来ることは珍しいようです」


(こういう客、というのは、何を指しているのかしら)


「どういう意味ですかしら」


「帳簿の付け方が丁寧で、荷を散らかさず、扉を静かに開閉する客、という意味でおっしゃっていました。……あとは、食事を残さない客だとも」


(掃除人として褒められているのか、ただの良い客として褒められているのか、判断が難しいですわよ)


「シリル、その話は?」


「完璧に本気でおっしゃっていましたよ。……掃除人としての評価ではなく、旅人としての評価です。お嬢様は、どちらの場でも丁寧なのだと思います」


 私は焼き魚を口にした。


(白身に塩が馴染んでいて、焼き目がしっかりついていますわよ。……主人は、料理が丁寧な人間ですもの。そういう人間が経営する宿が、澱の溜まった港の中で四日間、私たちの足場になってくれましたわよ)


「出立の前に、主人に挨拶しておきますもの」


「かしこまりました」


* * :


 朝食を終えて、保管庫へ向かった。


 シリルが書類を整えて持ち、リタへの食事も持っていく。私は扇子を手に、霧のない朝の護岸を歩いた。


 昨日まで白く塗られていた石畳が、今日は色が見える。灰色と、砂色が混じった石だ。ところどころに、藻が張り付いている。


(霧があった時には、一歩先しか見えませんでしたわよ。……今日は、護岸の端まで見えますもの。遠くまで見える分、何がどこにあるかを整理しながら歩けますわよ)


 保管庫の扉の前に着いた。


 扉を開けると、リタが扉の内側に立っていた。


 チャキッ。


 異常なし、という音だ。目が、いつもと変わらない。一晩保管庫で過ごして、疲れた様子が一切ない。


(リタは、いつも「今いる場所にいる」人間ですわよ。……昨夜の番小屋で考えた「守る対象が明確な人間は腐らない」という話が、今朝また当てはまりますもの)


「お疲れ様ですわよ、リタ。朝食はシリルが持ってきましたもの。外の光が入る場所で食べてくださいな」


 チャキッ。


 首を横に振った。


「入ってから食べる、ということかしら」


 チャキッ。


 頷いた。ヴェルミの見える範囲にいる、ということらしい。


(リタの判断に任せますわよ。……食べながら見張れる人間だということは、シリルが既に実験済みですもの)


* * *


 ヴェルミは、今朝も昨日と同じ椅子に座っていた。


 ただし、今日は外套を脱いでいた。折りたたんで膝の上に置いている。


(外套を脱いだ。……昨夜から今朝にかけて、何かが変わりましたわよ。拘束者の外套脱ぎは、緊張の緩みを示す場合と、観念した場合の二種類がありますもの。ヴェルミの場合は、どちらかしら)


「おはようございますわよ、ヴェルミ様」


「……おはようございます。今日、霧が晴れましたね」


「ええ、こんな朝の港は初めて見ましたわよ。明るいですもの」


「年に数日あります。……霧魔石の活動が静まると、こういう日が来るのです」


「この港に長くいたのですかしら、ヴェルミ様は」


「七年間、ずっとここでした」


 ヴェルミが窓のない保管庫の壁を少し見た。


「霧が晴れた日の外の様子は、音で分かります。……石畳の乾く音と、船の帆が風を受ける音が、霧の日と違います」


(音で霧を知る人間ですわよ。……七年間、記録と証拠の中に閉じこもって、それでも外の変化を感じていた人間ですもの)


「今日は外の光が入りますわよ。保管庫に、少し採光を」


 シリルが棚の上の採光窓の留め具を外した。


 小さな天窓が開いた。


 光が細く差し込んだ。


 ヴェルミが顔を少し上げた。


(七年分の澱が溜まった保管庫に、今日初めて光が入りましたわよ。……物理的には採光窓ですが、もう少し別の意味のような気もしますもの。打ち消しませんわよ)


* * *


「今日の午前中に、エストへの書面の経路についての証言をいただきますわよ。昨日お伝えした通りですもの」


「はい」


 ヴェルミが背筋を伸ばした。商談の座り方だ。今日もそれは変わっていない。


「書面の経路を、説明します。……エストから来る書面は、必ず三段階の中継を経て届いていました」


「三段階、ですかしら」


「最初の中継は、ネリカという名の女行商人です。週に一度、港を巡回しています。正規の行商人で、本人はドレインの中継をしているという認識がないと思います」


(認識がない中継者。……ドレインは、経路の一部に無自覚な人間を組み込んでいるということですわよ。汚れた管の中に、何も知らない枝管を紛れ込ませていますもの)


「ネリカという人物は、何の行商を」


「干し魚と塩の行商です。……書面は、塩の袋の底に縫い込まれています。ネリカは袋ごと私に売り、私が縫い目を解くと書面が出る形です」


「ネリカは書面の存在を知りませんかしら」


「一度確認しました。知りません。……七年間、塩の行商として本物の商売をしている人間です」


(本物の行商人の荷に紛れ込む書面。……ネリカ自身は汚れていない。ドレインが無自覚な人間を経由させることで、摘発を難しくしているということですわよ)


「二段階目は」


「私がネリカから塩を受け取った後、一日以内に港の船大工の小屋に封書を届けます。……船大工のソルという男が、次の便の使者への中継を担当しています。ソルは認識していますが、ドレインの全体像は知りません」


「三段階目は」


「ソルから、三か月ごとに来る船の使者へ。……使者の名前は知りません。顔も覚えていますが、名前は教えられませんでした」


(名前を教えられなかった。……ヴェルミでさえ、使者の名前を知らないということですわよ。ドレインは、どの部分にも全体が見えないように設計されていますもの。排水溝のように、繋がっているが一点から全体が見えない構造ですわよ)


「逆向きは。……ヴェルミ様からエストへ書面を送る場合は」


「同じ経路の逆です。ソルに封書を渡す。ソルが使者に渡す。……ただし、使者が来る時期が限られているので、急ぎの連絡は別の経路を使いました」


「別の経路があるということかしら」


「はい。……港の北の外れに、魔導通信の中継所があります。表向きは一般の通信所ですが、夜間の一定の時間帯に暗号通信を受け付ける窓口があります。担当は通信所の夜番で、名をヴァッハといいます。ヴァッハは認識者です」


(魔導通信の中継所。……フォル・ネビュラに、正規の通信所に偽装した暗号通信の窓口がありますわよ。これは、大きな発見ですもの)


 シリルが手帳に書き留めながら、一度だけ私と目を合わせた。


(同じことを考えましたわよ、シリルも。……このヴァッハという人物を、出立前に確認する必要があります。保管庫に続いて、もう一か所の拠点ですわよ)


「ヴァッハの夜番の時間帯は」


「夜の四刻から六刻の間です。……普段の通信所の業務が終わった後の時間帯に、別の受付を開ける形です」


「今夜、確認に行けますかしら」


 シリルが、書き留めながら言った。


「今夜の四刻以降であれば可能です。……ただし、ヴァッハが警戒して通信記録を処分している可能性があります。保管庫の件が港に知れていれば、動いているかもしれません」


「情報の速い港ですもの。……ただし、霧が晴れているということは、港が普段より見通しが良い。こちらが動きやすいということは、向こうも動きやすいということですわよ」


「二面性がありますね。霧は隠すだけでなく、守ってもいた」


(霧が晴れた日に、掃除をする。……霧が守っていたものは、汚れだけではありませんでしたわよ。私たちの動きも、霧の中では見えにくかったはずですもの。今日は、どちらも見える日ですわよ)


「今夜、通信所に参りますわよ。リタとシリルと三人で」


「ヴェルミ様の件は」


「今日の午前中の証言が終わったら、昼からヴェルミ様には仮の自由行動を認めますもの。ただし、ライスさんに一名、側で動いてもらいますわよ」


 ヴェルミが少し目を細めた。


「監視ですか」


「保護ですわよ。……ドレインがフォル・ネビュラで何かを察知しているとすれば、今ヴェルミ様が最も狙われやすい立場ですもの。港で七年間顔が知れた人間が単独で動けば、それだけで危険ですわよ」


「ライスという人物は、信頼できますか」


「この港で、七年間、ドレインの荷の帳簿を副本で持ち続けた人間ですわよ。……信頼できるかどうかを判断するのは、ライスさんに会ってからでよろしいですもの。少なくとも、私が知っている七年分のライスさんの行動は、一点の矛盾もありませんでしたもの」


 ヴェルミが、少し間を置いた。


「……一点の矛盾もない、というのは、珍しい評価ですね」


「珍しいのではなくて、滅多にいない人間についての評価ですわよ」


* * *


 証言の続きが、二刻かかった。


 エストへの書面の経路の詳細。中継地点の具体的な位置。暗号の種類とその変更の頻度。七年間で使った偽名の一覧。


 ヴェルミは一つも詰まらずに話した。記憶が精確だ。七年間、この経路の中で生きてきた人間の記憶は、一点一点が鮮明だった。


(ドレインの排水溝の地図が、今朝の証言でほぼ完成しましたわよ。……まだ見えていない部分があるとすれば、エスト自身の所在と、使者の正体ですもの)


 証言の最後に、ヴェルミが一つだけ自分から付け加えた。


「一つ、言い忘れていたことがあります」


「どうぞ」


「ネリカという行商人の経路を、今後も使うつもりであれば——」


「ネリカという人物は、今日以降も経路として機能していますかしら」


「機能しています。……ただし、私が経路を使わなくなれば、エストが別の受け取り手を設定するはずです。次の中継点になる人間が、またネリカを無自覚に使われることになります」


(ネリカを守るためには、ネリカが経路として機能しているという事実を早めに確認して、経路を断ち切る必要がありますわよ。……でも、ネリカ本人には罪がない)


「ネリカという人物の所在を、教えていただけますかしら」


「毎週火曜の朝に南の埠頭に来ます。……今日は木曜ですから、次は四日後です」


「今夜の通信所の件が終わり次第、ネリカさんへの確認を明日中に行いますわよ。出立は明後日に延ばしますもの」


 シリルが書き留めた。


「承知しました。……ネリカへの確認は、私が行います。ヴェルミ様が同席する必要はありません」


「ネリカは私の顔を知っています。……私が同席しない方が、混乱しません」


「では、シリルとリタで参りますわよ」


 ヴェルミが、頷いた。


* * *


 証言録への署名が終わったのは、昼前だった。


 シリルが書面を三部に整えた。原本と写しを二部、それぞれ別の保管先に送る手配だ。


「ヴェルミ様、午後の自由行動についてですわよ」


 私は言った。


「ライスさんが昼過ぎにこちらに来てくださいますもの。ご紹介してから、今夜私たちが戻るまで、ライスさんと一緒に行動していただきますわよ」


「分かりました。……一つだけ、行きたい場所があります」


「どちらですかしら」


「港の北の埠頭です。……七年間で一度も、陽の光の下でその場所に立ったことがありません」


(霧の中でしか行けなかった場所に、霧が晴れた日に行く。……それは、七年間の自分への、一種の清算かもしれませんわよ)


「ライスさんに同行してもらって、行ってきてくださいな」


「……ありがとうございます」


(このヴェルミという人間は、七年間ずっと澱の中で動いていたのですわよ。澱が積み重なることで経路が詰まる、その詰まりの一部として機能していた。でも、自分で手帳を持ち、嘘の報告で一人の命を守り、七年後に証言することを選んだ。……絡まった漁網は、解けましたもの。まだ形が整っているとは言えませんが、少なくとも海に捨てる必要はありませんでしたわよ)


 私は扇子を少し開いた。


(打ち消しませんわよ。今日は打ち消しませんもの)


* * *


 昼食は漁師亭に戻ってとった。


 今日の昼は、煮込んだ豆とハムの皿と、薄いパンが出た。フォル・ネビュラの昼食としては、珍しく陸の食材が多い構成だ。


「主人、今日は魚が少ないですわよ」


「霧が晴れると漁師が沖に出ますので、昼の市場が寂しくなりましてね。……その代わり、今夜の夕食は港一番の鮮魚が並びますわよ」


「ああ、そういう仕組みですかしら」


「霧の日は漁師が港に残りますので、市場が賑わいますの。晴れの日は、逆ですわよ」


(霧が恵みでもある、ということですわよ。……澱の溜まった港でも、その澱の中で生きている人間がいますもの。それを清掃するのが私の仕事ですが、霧そのものが悪いわけではないということは、頭に置いておきますわよ)


「今夜は鮮魚を頂きますもの」


「お待ちしておりますわよ」


 主人が厨房に戻った。


 シリルが、パンを一枚ちぎりながら言った。


「今夜の手順を確認しますか」


「ええ。……整理しておきますわよ」


「夕食後に通信所へ。三人で参ります。ヴァッハへの接触は、私が先に入ります。通信の利用客を装って窓口へ。ヴェルミの証言通りの窓口が機能しているかを確認してから、お嬢様をお呼びします」


「ヴァッハが記録を処分していた場合は」


「処分した事実そのものが証拠になります。……正規の通信所の記録と、夜間の暗号通信の記録の差分が、ヴァッハの関与を示します。正規の通信記録は、今日の昼に公証申請しておきます」


(シリルは、焼却前の分別を済ませてから動きますわよ。……いつも通りですもの)


「ヴァッハが抵抗した場合は」


「リタがおります」


 チャキッ、という音。


 リタが、豆の皿を静かに食べながら、扉の傍で頷いた。


(食べながら戦える人間は、食べながら頷けますわよ)


「一点だけ確認しておきますわよ、シリル」


「はい」


「ヴァッハが無自覚な中継者だった場合の処理方針は」


「その場合は、記録の確保のみで処分は見合わせます。……ヴァッハ自身がドレインの経路への認識を持っているかどうかを、最初に確認しますよ。ヴェルミはヴァッハを認識者と言っていましたが、認識の深さは確認が必要です」


「分別が重要ですわよ」


「はい。……燃やしていいものと、燃やしてはいけないものを、きちんと仕分けてから参ります」


(自分の言葉が戻ってきましたわよ、シリルから。……この従者は、たまに私の言葉を丁寧に保管しておいて、必要な時に返してきますもの)


* * *


* * *


 午後、ライスが漁師亭に来た。


 昨日と変わらない服装で、帳簿を一冊脇に抱えていた。


「カラダムの件は、無事でしたよ。……荷の中身は全部揃っておりましたわよ」


「ありがとうございますわよ、ライスさん。昨日も今日も、本当にお力をお借りしましたもの」


「いいえ。……七年間、帳簿の副本を取り続けながら、どう使えばいいか分からなかったのですわよ。使い道が見つかりましたもの」


(七年間の副本。……その使い道が見つかった、ということを、ライスさんは穏やかに言いますわよ。七年間という言葉の重さを、表に出さない人間ですもの)


「ライスさん、一つお願いがありますわよ」


「なんでしょうかしら」


「ヴェルミという人物のご紹介をしますもの。今日の午後、ご一緒に北の埠頭まで歩いていただけますかしら。保護という意味でのご同行です」


 ライスが少し考えた。


「……ヴェルミという方は、今どういうお立場の方ですかしら」


「証人ですわよ。ドレインの経路について七年分の証言書面にサインした方です。王都への移送が決まるまで、フォル・ネビュラで安全に過ごしていただく必要がありますもの」


「それは」


 ライスが少し目を細めた。


「……七年間、港で顔が知れた人間ということですかしら」


「そうですわよ」


「なるほど」


 ライスが頷いた。


「分かりましたわよ。……七年間、副本を取り続けた帳簿仕事が、今日はお散歩の仕事に変わりましたもの。どちらも大事な記録ですわよ」


(ライスさんは、詩的なことを言う人ですわよ。……帳簿の人間が、「大事な記録」という言い方でヴェルミを表現しましたもの)


「ありがとうございますわよ、ライスさん」


* * *


 ライスとヴェルミが北の埠頭へ出かけた後、私とシリルとリタで夕方の準備を進めた。


 シリルが通信所の公証申請書を作成した。


 リタが荷の整理を始めた。保管庫から確保した証拠書類を、持ち運び用の木箱に分けて入れていく。チャキッ、チャキッ、という音が、規則正しく続いた。


 私は荷の整理を横目で見ながら、扇子を閉じたまま窓の外を眺めた。


 港が、今日は明るい。霧がない午後の港は、普通の港だ。特別に美しいわけでも、特別に寂れているわけでもない、普通の漁港だ。


(四日前にここに来た時は、霧の中でまず足を踏み出す場所を確認しましたわよ。……今日は、遠くまで一度に見えますもの)


 見えるものが増えると、見えなかったものがどこにあったかも分かってくる。霧の中にいた四日間で、一歩一歩確認しながら進んだ道の輪郭が、今日初めてはっきりした。


(七年分の澱が、この港の底に溜まっていましたわよ。台帳と手帳と証言録と、もう一冊の名簿。……それが今、木箱の中に入って、王都への道を待っていますもの)


 右手の手袋を、一度だけ見た。


 引き下げなかった。


(今日は引き下げませんわよ。……この手袋の内側のことは、王都で向き合いますもの。今はまだ、ここにいる時間ですわよ)


* * *


 夕食の前に、ライスとヴェルミが漁師亭に戻ってきた。


 二人の顔色が、出かける前と少し違っていた。ライスは穏やかで、ヴェルミは——何かが、少し軽くなったような顔をしていた。


「北の埠頭は、いかがでしたかしら」


 私は聞いた。


「……初めて見る景色でした」


 ヴェルミが答えた。


「霧の中では見たことがあると思っていましたが、光の下で見ると、別の場所のようでした」


「光の当たり方で、見えるものが変わりますわよ」


「そうですね。……七年間、霧の中で知っていると思っていたものが、今日は全部違う形をしていました」


(霧の中で知っていると思っていたものが、全部違う形をしていた。……A-1の汚れが、また底を叩きましたわよ。ヴェルミの言葉が、少し私自身のことのように聞こえますもの)


(打ち消しませんわよ)


 ライスが、脇の帳簿を少し持ち直した。


「歩きながら、ヴェルミ様と少し話しましたわよ。……七年前の通関記録の件について、私の記憶している範囲を補足していただきましたもの」


「役に立ちましたかしら」


「はい。……副本の欠けていた部分が、少し埋まりましたわよ」


(ライスとヴェルミが、歩きながら七年分の欠けた部分を埋めていましたわよ。……帳簿副本と証言者が、港の陽の光の下で一致していくということですもの。それは、この港での最後の掃除の仕上げかもしれませんわよ)


* * *


 夕食は、主人が言った通り、今夜の市場の鮮魚が中心だった。


 大きな皿に盛られた蒸し魚の一尾が、テーブルの中央に置かれた。レモングラスの香りが、食堂に漂っている。それから、小さな貝の酒蒸し。青菜の炒め物。


 今夜はライスも同席した。ヴェルミも、今夜は保管庫ではなく漁師亭の食堂に席を設けた。


 リタが、今夜初めてテーブルについた。


 チャキッ。


 椅子を引いて、静かに座った。


(リタがテーブルにつきましたわよ。……昨日の夜、今日の昼も立ったままでしたもの。今夜は、食堂で全員が揃ったということですわよ)


 蒸し魚を一切れ口にした。


 身が崩れないほど、ちょうどよく火が入っている。レモングラスの香りが、魚の旨みの上に浮かんでいる。


「今夜の魚は、何という魚ですかしら」


「カミル・フィッシュですわよ」


 主人が答えた。


「霧の日には岸の浅場に来ますが、晴れると沖に出てしまいます。……霧の日に捕れて、晴れた日に食べる魚ですわよ。タイミングが合う日は、珍しいですもの」


(霧の日に捕れて、晴れた日に食べる魚。……今夜のように、全部が揃った日でないと出てこない料理ですわよ)


「美味しいですわよ」


「光栄ですわよ」


* * *


 夕食が終わり、ライスとヴェルミが各自の部屋に引き上げた後、私とシリルとリタで通信所へ向かった。


 港の夜は、今夜も霧がなかった。星が出ていた。フォル・ネビュラに来てから、初めて星を見た。


 北の埠頭の端を曲がって、裏手の路地を入ったところに、通信所があった。


 表の看板に「フォル・ネビュラ通信局」と書かれている。夜の窓口は一つだけ灯っていた。


(正規の通信所ですわよ。……表向きは何の変哲もない施設ですもの。でも、夜の四刻から六刻の間に、別の窓口が開くということですわよ)


 シリルが先に入った。


 私とリタは、通信所の外で待った。


 路地は静かだ。霧がないせいで、遠くの海の音まで聞こえた。


「リタ、警戒は」


 チャキッ。


 頷いた。周囲の確認済み、という意味だ。


(リタが問題なしと言えば、問題なしですわよ。この従者の感覚を、私は信頼していますもの)


 五分ほどで、シリルが出てきた。


「お嬢様、どうぞ」


「ヴァッハがいましたかしら」


「います。……窓口は機能していました。暗号通信の受付を確認しました。ヴァッハは認識者です。七年分の記録も残っていましたよ。処分していませんでした」


「なぜ処分しなかったのかしら」


「聞いてみましたところ、『記録が証拠になると思っていた』とのことです。……ヴァッハもヴェルミと同じで、ドレインへの保険として記録を持っていたようですよ」


(ドレインへの保険として記録を持つ人間が、この港に二人いましたわよ。……港の底には、澱だけでなく、澱に抵抗していた人間も沈んでいたということですもの)


「ヴァッハは今、どういう状態ですかしら」


「少し驚いていますが、落ち着いています。……『七年間、誰かが来るのを待っていた』と言っていましたよ」


(七年間待っていた。……ヴェルミと、ライスと、ヴァッハ。三人が、七年間それぞれの場所で、何かを待っていたということですわよ。澱の底で、それぞれが自分なりの保険を持ちながら)


「参りますわよ」


* * *


 ヴァッハは、五十代の小柄な男だった。


 眼鏡をかけていて、指に墨がついている。通信文の書き取り仕事をずっとしてきた人間の手だ。


 私が入ると、少し立ち上がりかけて、また座った。


「ヴィクトリア家の方ですかしら」


「クレア・ヴィクトリアですわよ」


「……来てくださいましたか」


「参りましたわよ、ヴァッハ様。七年分の記録を、今夜いただいてよろしいですかしら」


 ヴァッハが、机の引き出しから書類束を取り出した。


「全部ここにあります。……七年分の暗号通信の記録と、送信者の仮名の一覧です。全部写しではなく、本物ですわよ。本物の方が証拠になると思って、写しを作らずにいましたもの」


(本物を残していましたわよ。……これは、処分できなかったのではなく、最初から証拠として残す意志があったということですもの)


「ヴァッハ様、一つ確認しますわよ」


「はい」


「七年間、ドレインの暗号通信を中継してきた理由を、教えてくださいな」


 ヴァッハが少し間を置いた。


「最初は断れなかったのですわよ。……七年前、この通信所に異動した直後に、ドレインの人間が来て、利用料を払うと言いました。断ったら、別の形で圧力がかかりました。最初の一回は、そのまま受け入れてしまいましたもの」


(最初の一回。……フロード補佐官の手帳の記録を、思い出しましたわよ。「三年前、一回だけ、少額」という記録ですもの。ヴァッハの場合は、一回で止まらなかったということかしら)


「一回で止まらなかったのは」


「次が来た時、断ろうとしたのですが……記録が既にあると言われましたわよ。最初の一回の証拠を持っていると。それで、断れなくなりましたもの」


(証拠を持たせて、抜けられなくする。……ドレインが道具を管理する手法の一つですわよ。ヴェルミがガルベス子爵を監視しながら管理していたのと、同じ構造ですもの)


「七年間、断れないままでいた」


「はい。……でも、記録は残しましたわよ。いつか、使い道が来ると思って」


(使い道が来ると思って。……ヴァッハの七年間の記録が、今夜使い道を得ましたわよ)


「これで自由になれますかしら」


 ヴァッハが聞いた。


 声が、少し揺れた。七年間分の揺れが、この一言に入っていた。


「なれますわよ」


 私は答えた。


「ただし、王都への報告が完了するまでの間、この通信所で通常業務を続けてくださいな。……ドレインが別の形で接触してきた場合は、すぐにライスさんを通じてご連絡をいただきますもの。もう一人で抱えなくていいですわよ」


 ヴァッハが、眼鏡を外した。


 目の周りが、少し赤かった。


(泣かないように、眼鏡を外しましたわよ。……七年間、誰にも言えないまま記録を持ち続けた人間の、今夜の決算ですもの)


 リタが、書類束を静かに受け取った。


 チャキッ、という音が一つ。


 リタが、ヴァッハに向かって小さく頷いた。


(リタが頷くのは珍しいですわよ。……珍しい夜ですもの。今夜だから、許しますわよ)


* * *


 通信所を出ると、星が相変わらず出ていた。


 霧のない夜に、星の見える港を歩くのは、フォル・ネビュラでは今夜が最初で最後だ。


「シリル、今夜の収穫を整理しますわよ」


「ヴァッハの七年分の通信記録。……ヴェルミの証言と突き合わせれば、ドレインの経路の全体像がほぼ埋まります。エスト宛の通信の記録も含まれていますので、エストの特定に使えます」


「ヴェルミの台帳と、ヴァッハの通信記録が一致すれば」


「それだけで、王都の法廷でも通用する複数証拠の形が整います。……カスミ弁護士が証拠霧散を試みても、二重以上の証拠源があれば難しい」


(カスミという難燃性の染みにも、今夜の記録は効きますわよ。……燃えにくいものに対しては、より多くの光を当てるということですもの)


「ネリカさんの件は、明日ですわよ」


「はい。……午前中に私とリタで行きます。お嬢様は宿で荷の最終確認をお願いできますかしら」


「分かりましたわよ。では、明後日の便で出立ですもの」


「ガント組合の便を押さえています。スルッツ組合長の手配で、早朝出航の予定です」


(スルッツさんも、最後まで手配してくださいますわよ。……組合が証言録に署名して、出立の便まで手配してくださるということですもの。この港の人間たちが、七年分の澱に向き合った夜の、きちんとした結末ですわよ)


 護岸の石畳を歩きながら、私は漁師亭の灯りを見た。


 霧がないから、遠くから灯りが見える。いつもより、早く帰り着く気がした。


(明後日には、この港を出ますわよ。……王都に持ち帰るものが、両手に余るほどありますもの)


 手が、今夜は冷たくなかった。


 少し、温かかった。


* * *


 漁師亭に戻ると、主人が食堂の片付けを終えていた。


「遅いお帰りでしたわよ。夜の港は、霧がなくても気をつけてくださいな」


「ありがとうございますわよ。……明後日の朝、出立しますもの」


「寂しくなりますわよ」


 主人が言った。


「この四日で、ずいぶん客室が賑やかになりましたもの。……何の仕事でお越しかは聞いていませんでしたが、帳簿の精算が丁寧なのと、扉の音がしないのと、食事を残さないのは、良い客の三条件ですわよ」


「ありがとうございますわよ。お世話になりましたもの」


「いいえ。……いつかまたお越しくださいな。霧の晴れた日は、今夜のような魚が出ますわよ」


(霧の晴れた日の魚。……いつかまた来ることが、この港を綺麗にしてから出ていく証拠ですわよ。澱を引き上げた後の港に、また足を踏み入れることを、私は恐れていませんもの)


「また参りますわよ」


 私は言った。


* * *


 部屋に戻って、シリルがトレイを持ってきた。


 今夜のティータイムは、部屋のテーブルで二人だ。リタは今夜も、廊下に出て扉の前に立っている。


「今夜は何ですかしら」


「明後日の出立を前に、フォル・ネビュラの茶を飲み納めにしようと思いまして。……ドゥーラ茶に、今日市場で見つけた蜂蜜を一匙加えています。磯の旨みに、少し甘さが乗る形になっています」


 カップを受け取った。


 湯気が立つ。磯の香りと、蜂蜜の甘い香りが混じって来た。


 一口飲んだ。


(旨みと甘みが、今夜は喧嘩しませんわよ。……重なって、それぞれが別の場所に落ち着いています。最初から組み合わさっていたもののように、馴染んでいますもの)


「菓子はありますかしら」


「はい。……テア・フルーツの砂糖漬けが少し残っていましたので、今夜も。それから、漁師亭の主人が今夜のお別れにと、港の焼き菓子を出してくださいました」


 皿に、薄い焼き菓子が並んでいた。クロキ・スタンの時と同じ焼き方だが、今夜は丸い形だ。


「ビスカ・ウェーヴ、と申します。港の波型を象った焼き菓子で、旅立ちの朝に食べる習慣があるものです。……主人が、一日早いですが、とおっしゃっていました」


(一日早い旅立ちの菓子。……この宿の主人は、細やかな人ですわよ)


 一枚口にした。


 さくりとした食感の後に、バターの香りが来た。甘さは控えめで、塩気がわずかにある。波型の溝の部分が、少し薄く焼けていて香ばしい。


(港の菓子は、全部どこかに塩気がありますわよ。……海の人間が作るものには、海の味が必ず入っていますもの)


「シリル、今日で七年分の澱の引き上げが、ほぼ終わりましたわよ」


「はい。……残る作業は、明日のネリカの確認と、出立の準備だけです」


「王都に戻った後の順序を、確認しておきますわよ」


「ヴェルミの証言録とヴァッハの通信記録の照合。フロード補佐官への直接確認。もう一冊の名簿の止まったページの件。エストの封蝋照合。……この四つが、帰国後の最初の段取りです」


(四つの仕事が、王都で私たちを待っていますわよ。……でも今夜は、この港の最後の夜ですもの。仕事の話はここまでにしますわよ)


「今夜はここまでにしますわよ、シリル」


「かしこまりました」


 シリルが、笑顔のまま茶を一口飲んだ。


「……お嬢様、一つよろしいですか」


「なんですかしら」


「今夜のヴァッハの件で、手が冷たくなりましたかしら」


 私は少し止まった。


(観察していましたわよ、また。……でも、今夜は本当のことを答えますもの)


「今夜は、なりませんでしたわよ」


「そうですか」


「ヴァッハが七年分の記録を持ち続けていたことを聞いて、……少し、温かい気がしましたもの」


(少し温かい、というのは——感傷ですわよ。でも、打ち消しませんもの)


「よございました」


 シリルが、それだけ言った。


 余計なことを付け加えない。今夜のシリルは、そのくらいの匙加減を知っているらしい。


(フォル・ネビュラの空気は、本当に人を変えますわよ。……明後日には港を出ますもの。また毒舌に戻ってくださいな)


 テア・フルーツの砂糖漬けを一つ口にした。


 最初に渋みが来て、ゆっくりと甘みに変わった。


(この港でも、最初は渋みが先でしたわよ。……霧と、澱と、絡まった漁網と、七年分の底に沈んだ保険たち。それが今夜、少し甘みに変わりつつありますもの)


 港の夜が、星の下で静かに続いていた。


 明後日、この港を出る。


 王都には、まだ仕事が待っている。


 でも今夜は、波型の菓子と蜂蜜のドゥーラ茶を飲みながら、この港の最後の夜を、静かに過ごしますわよ。

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