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第37話:朝の照合と、絡まった漁網の行方

 夜明け前に、リタが戻ってきた。


 チャキッ、という音が、食堂の扉の向こうからした。


 私はすでに起きていた。ドゥーラ茶の残りを、冷めたまま飲んでいた。


「異常はありましたかしら」


 チャキッ。


 首を横に振った。異常なし、という意味だ。


「ヴェルミ様は」


 チャキッ。チャキッ。


 二度。起きている、という意味に取った。


(眠れなかったのかもしれませんわよ。……あるいは、眠る必要がなかったか。ヴェルミ様という人間は、拘束された状態でも計算を続けているような気がしますもの)


 リタが外套を脱いだ。霧が染み込んでいるのか、外套の表面が少し湿っている。それだけで、夜の港がどういう状態だったかが分かった。


「お疲れ様ですわよ、リタ。少し休んでくださいな。……朝の話し合いは、私とシリルで行きますもの」


 チャキッ。


 リタが首を振った。


(行く、という意味ですわよ。……ヴェルミ様の前に、リタがいた方が話がスムーズだということを、リタは知っていますもの)


「分かりましたわよ。では、朝食を食べてから三人で参りましょうよ」


* * *


 シリルが食堂に降りてきたのは、夜明けの光が霧の向こうに滲み始めた頃だった。


 手に書類を抱えていた。昨夜の照合の続きと、暗号書面の最終確認分だ。


「おはようございますわよ、シリル。照合は終わりましたかしら」


「はい。……夜明け前に終わらせました」


「結論は」


「セルバン・ドック移行の準備が、既に始まっていることが書面から確認できます。……荷の先送り記録が、台帳の最後の月に二件入っています。フォル・ネビュラではなく、別の港への送付に切り替えた記録です。その送付先の港名が、セルバン・ドックの近辺の地名と一致します」


(台帳の最後の月に、先送りの記録がある。……ヴェルミ様は、口で言わなくても、台帳の中に移転の準備を既に書いていたということですわよ)


「ヴェルミ様は、こちらが台帳を読んだことを知っていますかしら」


「昨夜の段階では、台帳はヴォルフ様が保管していました。ヴェルミ様には知らせていません」


「今朝の話し合いで、台帳を持っていくことにしますわよ」


 シリルが少し止まった。


「……台帳を見せる、ということですか」


「見せませんわよ。……ただし、持っていきますもの。ヴェルミ様が台帳の存在をどう反応するか、見ておきたいですわよ」


(反応を見る。……昨夜の話し合いで、ヴェルミ様は既にかなりの情報を話しましたわよ。でも、まだ自分で選んで話している部分があるはずですもの。台帳という物証があることを匂わせた時、ヴェルミ様が何を先に話そうとするか——そこに、残っている計算が見えるかもしれませんもの)


「賢明な判断です」


 シリルが笑顔のまま言った。


「エコな審問ですね。道具を最小限に使って、最大の情報を引き出す」


「大仰な道具は必要ありませんわよ。……澱は、静かにかき混ぜればそれだけで浮き上がりますもの」


* : *


 朝食は短く済ませた。


 漁師亭の主人が、今日は少し顔色が良かった。窓の外の霧が昨日より薄いからかもしれない。


「昨夜、デイン号の後を追って、もう一隻小さな船が南へ出たのを見ましたわよ」


 主人が、配膳しながら言った。


「小さな船ですかしら。どういう船ですか」


「漁船の形をしていましたが、網を積んでいませんでしたわよ。夜の漁には出ない船が、港を出るのは珍しいですもの」


(網を積んでいない漁船。……ガント組合の船ではない可能性がありますわよ。デイン号の後を追った、ということはセドゥン商会かドレイン側の人間が用意した船かもしれませんもの)


「船名は確認できましたかしら」


「暗かったので読めませんでしたわよ。ただ……」


 主人が少し口を閉じた。


「ただし、何ですかしら」


「帆に、何も書いていませんでしたわよ。それが、少し変でしたもの」


(無記名の帆。……名義を持たない船ですわよ。セドゥン商会の名義もない。名前を出せない人間が使う船ということですもの)


 シリルが手帳に書いた。


「ご報告ありがとうございますわよ。組合のライスさんにも、今日確認してみますもの」


 主人が頷いて、厨房に戻った。


(無記名の帆の船が、デイン号の後を追って南へ。……デイン号の尾行か、あるいはデイン号とは別の、もう一本の経路があるということかもしれませんわよ。)


 私は扇子を少し開いた。


(急ぎませんわよ。まず保管庫のヴェルミ様と話しますもの)


* * *


 保管庫に着いたのは、朝の霧がまだ薄くなりきらない時間帯だった。


 扉の前で、シリルが鍵を開けた。


 中に入ると、ヴェルミ様は昨夜と同じ椅子に座っていた。姿勢が昨夜と変わっていない。外套も脱いでいない。


(眠っていませんわよ、この人は。……一晩中、計算を続けていたということですもの)


「おはようございますわよ、ヴェルミ様」


「……おはようございます」


 ヴェルミ様の声は、疲れていなかった。少なくとも、声の上は。


「今朝お持ちしたものがありますわよ」


 私はシリルに目を向けた。


 シリルが台帳の一冊を、テーブルの端に置いた。


 ヴェルミ様の目が、台帳に一瞬向いた。


 それだけだった。表情は変わらなかった。


(動じない。……ただ、一瞬目が向いたことは確認しましたわよ。台帳が何かを、ヴェルミ様は知っていますもの)


「台帳を、お読みになったことがありますかしら」


「……自分で書いたものです」


「では内容はご存知ですわよね。……最後の月の分も含めて」


 今度は少し間があった。


(一拍の間が、ヴェルミ様には珍しいですわよ。……最後の月の記録が、何かを示していることに気づいたということかもしれませんもの)


「先送りの記録を、お読みになりましたか」


「読みましたわよ」


「……いつ気づきましたか」


「今朝の照合でですわよ。シリルが昨夜終わらせましたもの」


 ヴェルミ様が、初めて少し目を閉じた。


「……思っていたよりも早かった」


「七年分の澱の照合を、一夜でやり遂げる人間がそばにいますもの。時間はかかりませんわよ」


 シリルが、完璧な笑顔のまま台帳の該当ページを開いた。


「確認させていただきますが、この二件の先送り記録に書かれた送付先——カラダム漁村とナバル・ポイントは、セルバン・ドックの近辺ですよね」


 ヴェルミ様が少し考えた。


「……ナバル・ポイントは、セルバン・ドックから陸路で半刻の距離にある集落です。カラダム漁村は、そこから少し海側です」


「ありがとうございますわよ」


 私は言った。


「つまり、移転の準備は既にされているということですわよ。エストの書面を待つまでもなく、ヴェルミ様ご自身が動いていた」


「……指示を先読みして動くのが、私の仕事でした」


(先読みして動く。……ヴェルミ様は、エストから移転の書面が来る前に、自分で準備を始めていた。ドレインの経路の一部として、長年そういう仕事をしてきた人間ですわよ)


(それが、七年間彼女を危険な立場に置き続けた理由でもありますもの)


「ヴェルミ様、今日の話し合いで確認したいことが三点ありますわよ」


「はい」


「一点目。セルバン・ドックへ既に先送りした荷の内容を、教えてくださいな」


 ヴェルミ様が、少し時間を置いた。


「……台帳に記録がないものも、ありますか」


「あれば、教えてくださいな。なければ、台帳の通りで構いませんわよ」


「……一件、記録していないものがあります」


(やはりありましたわよ。……台帳に書けないものを、先送りしていたということですもの)


「どういった荷ですかしら」


「書面です。……手帳とは別の、もう一冊の名簿です」


* * *


 食堂が静かになった。


 リタが、扉の前で一歩重心を下げた気配がした。


(もう一冊の名簿。……ヴェルミ様の手帳は昨夜確認しましたわよ。ドレインから金銭を渡した人間の本名の記録。でも、もう一冊あるということですわよ)


「手帳とは、何が違いますかしら」


「……手帳は受け取った人間の記録です。もう一冊は、渡した人間の記録です」


(渡した人間。……金銭を受け取ったのではなく、ドレインのために何かを渡した人間。つまり、ドレインへの提供者の記録ですわよ)


「情報を売った人間の記録、ということかしら」


「情報だけではありません。……物品、通行便宜、証言の歪曲。七年間、ドレインに何かを渡した人間全員の記録です」


 シリルが、笑顔のまま手帳を手に取った。


「……手帳より、そちらの名簿の方が、処理が難しい内容が含まれていそうですね」


「そうです」


「なぜ、今それを話しましたかしら」


 私は聞いた。


 ヴェルミ様が、左手を見た。昨夜指輪を外した手だ。指輪はもうない。


「……セルバン・ドックに荷を着かせる前に、回収してほしかった」


(回収してほしかった。……ヴェルミ様は、もう一冊の名簿を、ドレインの手に渡したくないと思っているということですわよ。昨夜の手帳と同じように、これも保険として取っておいたものかもしれませんもの)


「今すぐ行けば間に合いますかしら」


「ナバル・ポイントへの先送りは、一昨日出した荷です。……今日か明日、到着する計算になります」


(一昨日。……セドゥン商会のデイン号が昨日入港して昨夜出港した。そのタイミングで、別の経路でも荷が動いていたということですわよ)


「どういう経路で送りましたかしら」


「カラダム漁村を経由する、ガント組合以外の流通経路を使いました。……小型の交通船です」


(ガント組合以外の経路。……昨夜の無記名の帆の船のことを、主人が話していましたわよ。あの船が、ヴェルミ様の荷を運んだ交通船かもしれませんもの)


「その交通船は、今朝どこにいますかしら」


「……今頃は、カラダム漁村に着いている頃かと」


 私はシリルを見た。


「ライスさんに確認できますかしら。ガント組合以外でカラダム漁村方面に昨夜出た小型船があるかどうかを」


「今すぐ使者を出します」


* * *


 シリルが食堂を一度出た。


 私はヴェルミ様に向き直った。


「二点目の確認をしますわよ」


「はい」


「エストについて、もう一点だけお聞きしますわよ。……昨夜の書面に、エストの署名のようなものはありましたかしら」


「署名はありません。……エストからの書面には、常に封蝋だけがついていました。署名のない書面が、エストのルールです」


「封蝋の印は」


「七年間、同じ印でした。……細い輪の中に、一本の竪線が入った形です」


 私は扇子を止めた。


(細い輪の中に、一本の竪線。……E-1の調査でシリルが照合したダスト侯爵家の傍系紋章を思い出しましたわよ。ただし、同じかどうかは今の段階では断定できませんもの)


(急いで結びつけてはいけませんわよ。……形の一致は、確認が必要ですもの)


「封蝋の印の形を、後ほど書いてもらえますかしら。紙に」


「構いません」


「ありがとうございますわよ」


 私は少し間を置いた。


(A-1の汚れが、また底に触れますわよ。……七年間、ドレインのために動いてきたヴェルミ様が、今朝もう一冊の名簿の話を自分から切り出した。昨夜の保険の話と繋がっていますもの。この人間の中に、積み重なってきた重荷が、少しずつ降りようとしているのかもしれませんわよ)


(私は、それを受け取る掃除人でいられるか、という問いは——今は棚に上げておきますわよ)


「三点目を聞きますわよ」


「はい」


「カラダム漁村の荷を、私たちが回収した後、あなたはどうなりますかしら」


 ヴェルミ様が、少し目を細めた。


「……それを聞きますか」


「昨夜はリサイクルか焼却かという話でしたわよ。今朝、あなたが名簿の話をしてくださったことで、判断が動きましたもの。……ただし、私だけで決められることではありませんわよ。王都に持ち帰った後、陛下への報告の中で判断することになりますもの」


「リサイクルの余地はありますか」


「ありますわよ。……ドレインの構造についての証言者として、あなたは今日この瞬間から最も価値があります。ただし、価値は行動によって変わりますもの」


(焼却ではなく、リサイクル。……ただし、リサイクルは無条件ではありませんわよ。七年分の汚れを全部棚に上げるわけにはいきませんもの。でも、ヴェルミ様が一昨日の時点で名簿を手元に残し、今朝それを話したということは——)


(絡まった漁網が、自分で解けようとしているということかもしれませんわよ)


 ヴェルミ様が、少し背筋を伸ばした。


「……条件を聞かせてください」


* * *


 シリルが戻ってきた。


「ライスさんへの確認が取れましたわよ。……昨夜、ガント組合の管轄外の小型交通船がカラダム方面に出たことが確認されました。朝の内に到着しているとすれば、荷はまだカラダムにある可能性が高いです」


「回収できますかしら」


「カラダム漁村までは、馬で二刻程度と聞いています。ガント組合の協力があれば、今日の昼頃までに動けます」


「ライスさんに動いてもらえますかしら」


「既に確認しました。……ライスさんが自ら行くとのことです」


(ライスが自ら。……証言録の作成を進めている最中に、こういう仕事も引き受けてくださるということですわよ。この人は、七年間ずっとそうやって動いてきた人ですもの)


「ありがとうございますわよ、シリル」


 私はヴェルミ様に向き直った。


「カラダムの荷の回収は、今日中に手配しますわよ。……条件の話をしましょうよ、ヴェルミ様」


* * *


 交渉は、一刻ほどかかった。


 ヴェルミ様は商談の形で話した。感情的にならず、常に条件と対価を確認しながら話を進めた。七年間、ドレインの経路の中で生きてきた人間の話し方だ。


 私は三つの条件を出した。


「一つ目。ドレインの組織の構造について、知り得る限りの証言を書面にすること」


「できます」


「二つ目。エストへの接触方法——書面を届ける経路についての情報を提供すること」


「……それは、私自身の身の安全に関わります」


「身の安全については、王都に移った後に手配しますわよ。今この場での保証は私の裁量内にありませんが、移転後については国王陛下への報告の中で申請しますもの」


 ヴェルミ様が少し止まった。


「……国王陛下、ですか」


「私は、王家の掃除人ですわよ。ヴェルミ様が協力者として機能するとすれば、それは国家的な意味を持ちますもの」


(このことを明かすことの損得を、今朝の時点で計算しましたわよ。……ヴェルミ様は情報の価値を理解する人間ですもの。「誰に雇われた掃除人か」を知った上で話した方が、ヴェルミ様が選択を誤らないですもの)


 ヴェルミ様が、私を見た。


 長い沈黙があった。


「……三つ目を聞かせてください」


「三つ目。七年前のネーベル税関吏の件について、偽造書類と虚偽報告の事実を正式な証言として残すこと」


 今度の沈黙は、短かった。


「……それは、元々やるつもりでした」


「そうですかしら」


「手帳を持ち出したのは、最後のページだけが目的ではありません。七年前のページも、あの手帳に入っています。……最初から、証言するつもりで持ってきました」


(最初から。……昨夜ヴェルミ様が手帳を持って保管庫に来たのは、保管庫を閉鎖するためだけではなく、証言する相手を探していたということですわよ。私たちがこのタイミングでフォル・ネビュラにいなければ、ヴェルミ様はどうするつもりだったのかしら)


「私たちがここにいなかった場合、どうするつもりでしたかしら」


「……港の情報が速いのは、ヴィクトリア家の馬車がフォル・ネビュラに着いた時点で分かっていました。来ない場合は、また別の方法を探していたと思います」


「七年間、ずっと探していたということかしら」


 ヴェルミ様が、窓の外の霧を少し見た。


「七年前から、探していました。……エストの書面が来た時、保管庫を閉鎖する前にここを出ようと決めました。タイミングが合ったのは、偶然ではないかもしれません」


(タイミングが合った。……この港に澱が溜まって、それを引き上げる人間が来た。偶然か、流れか、どちらでもいいですわよ。今日ここにいるという事実が全てですもの)


* * *


 条件が整った。


 ヴェルミ様が封蝋の印の形を紙に書いた。


 シリルが受け取って、手帳の記録と照合した。


 少し時間がかかった。


「……お嬢様」


「なんですかしら」


「E-1の資料と照合します。……確認に少し時間をいただけますかしら」


(E-1。……ダスト侯爵家の傍系紋章の件ですわよ。シリルも同じことを考えましたもの)


「構いませんわよ。……ヴェルミ様、証言書面の作成を始めましょうよ。今日の午前中は、ドレインの組織構造についての証言から入りますわよ」


「分かりました」


* * *


 午前の作業が始まった。


 ヴェルミ様が、ゆっくりと話し始めた。


 昨夜とは少し声が違った。昨夜は計算しながら話していたが、今朝は確認しながら話している。自分の記憶と向き合いながら言葉を選ぶ、という話し方だ。


 私はヴェルミ様の話を聞きながら、手帳を手元に置いていた。


 手帳を開かなかった。


 ただ、手元に置いておいた。


(この手帳の途中にある名前——フロード補佐官の名前を、私はまだヴェルミ様に確認していませんわよ。昨夜はシリルと話すと決めて、ヴェルミ様には聞かなかった。……今日も聞きません)


(フロード様の件は、帰国後に直接確認しますもの。証拠を揃えてから人を疑うより、人に直接聞く方が、私は信頼しやすいですもの)


 手袋をしっかり嵌め直した。


 指の先まで、白い手袋が行き渡っている。


(掃除人の美学は、手を汚さないことではありませんわよ。……汚れを正しく分別して、適切な場所に送ることですもの。この手が何かを処理するたびに重くなっていくことは——今は棚に上げますわよ)


(後で、向き合いますもの)


* * *


 午前の中頃に、シリルが照合を終えた。


 私の隣に来て、小声で言った。


「E-1の資料との照合が終わりましたわよ」


「結果は」


「……七割方、一致します。ただし、断定するには実物の封蝋が必要です。紙に書いた形だけでは証拠として不十分です」


「七割の一致が、何を示していますかしら」


「ダスト侯爵家の傍系紋章と、エストの書面に使われていた封蝋が、同一の設計思想で作られている可能性が高い、ということです。……ただし、意図的な模倣かもしれませんし、偶然の一致かもしれません」


(意図的な模倣、偶然の一致、あるいは同一人物。……三つの可能性がありますわよ。急いで結論を出しませんもの)


「持ち帰りますわよ、この照合結果は。……王都に戻ってから、実物の封蝋を何らかの形で入手できれば、確定できますもの」


「はい。……一点だけ申し上げてもよろしいですかしら」


「どうぞ」


「もしエストとダスト侯爵家の傍系が繋がっているとすれば、B-1の伏線——モモ・ダストの動きが、ドレインの経路と接続している可能性がありますわよ」


(モモ・ダストとドレイン。……塵のように積み重なる人間と、汚水の経路のような組織が、一本の線で繋がっている可能性ですわよ。それは——)


 私は扇子を閉じた。


(急ぎませんわよ。証拠が揃うまで、この繋がりは可能性のままで持っておきますもの)


「記録しておいてくださいな、シリル。……今は動きませんわよ」


「かしこまりました」


* * *


 昼前に、ライスから報告が届いた。


 カラダム漁村に届いていた荷が確保できた、という内容だった。


 荷の中身は、革表紙の書類束だった。封をされたまま、ライスが持ち帰ってくれた。


 私はヴェルミ様に確認した。


「これが、もう一冊の名簿ですかしら」


「……はい。封を破っていないのですか」


「ライスさんが確認していいかどうか、私に伺ってから開けるとのことで、そのままお持ちいただきましたわよ」


 ヴェルミ様が少し止まった。


(ライスは、中を見る権限が自分にはないと判断したということですわよ。……七年間、帳簿を副本として港の底に沈め続けた人間の判断の精度が、ここでも出ましたもの)


「ライスさんに、よくお礼を伝えてくださいな」


「はい」


 私は封を開けた。


 書類束の最初のページに、名前が並んでいた。


 一ページに一人。名前、提供した内容、日付、金額(あるいは物品)の記録だ。


 手帳と同じ手書きだが、内容が違う。これは受け取った人間ではなく、提供した人間の記録だ。


 私はゆっくりとページをめくった。


 途中で止まった。


(この名前。……知っている名前が、ここにもありますわよ)


 止まった。


 打ち消さなかった。


 ページを閉じた。


「シリル、この書類は今夜の照合にしますわよ。……今日の昼は、ヴェルミ様の証言書面の続きに入りますもの」


「かしこまりました。……お嬢様、一点だけ確認させていただいていいですか」


「なんですかしら」


 シリルが、ごく低い声で言った。


「止まったページの件、今夜お話しいただけますか」


「ええ。……今夜、話しますわよ」


(今夜、話しますもの。……このページのことは、ヴェルミ様には確認しないでおきますわよ。証拠として持った上で、直接向き合う必要がある人間に、直接聞きますもの)


(手袋の中の手が、少し冷たくなりましたわよ。……打ち消しませんわよ。後で、きちんと向き合いますもの)


* * *


 昼食は保管庫の中でとった。


 シリルが漁師亭から運んできた。豆のスープと、海老を使った炒め物だ。


 ヴェルミ様が、昼食を黙って食べた。


 リタが扉の前で立ったまま、食べなかった。


「リタ、座りなさいな」


 チャキッ。


 リタが首を振った。


(任務中は座らない、ということですわよ。……昨夜一晩立って見張っていた人間が、昼間も座りませんわよ。リタの美学は、ヴェルミ様に向けたものではなく、自分自身に向けたものですもの)


「では後で食事を持ってきますわよ」


 チャキッ。


 一度だけ、頷いた。今度は受け入れたらしい。


 ヴェルミ様が、リタを少し見た。


「……あの方は、いつもそういう方ですか」


「いつもですわよ」


「七年間、ドレインのために動いた私よりも、よほど徹底していますね」


「そうですわよ」


 私は答えた。


「ただ、方向が違いますもの。リタは、守るために徹底しますわよ。……守る対象が明確な人間は、腐りませんもの」


 ヴェルミ様が、しばらく黙っていた。


「……腐る、というのは」


「汚れが積み重なって、中から崩れることですわよ。……外から染み込んでくる汚れより、中から腐る方が、取り除くのが難しいですもの」


(A-1の問いが、また底を叩きましたわよ。……でも今は、昼食の時間ですもの)


 スープを一口飲んだ。


 豆の旨みが、温かく来た。


* * *


 午後の証言録の作業が続いた。


 夕方までに、ドレインの組織構造についての証言書面が三十ページを超えた。


 ヴェルミ様が話す内容は、細かく、精密だった。七年間ただ受け取っていた人間ではなく、構造そのものを理解した上で動いていた人間の証言だ。


 私は聞きながら、時々シリルと目配せした。


(これは、第二章全体の地図になりますわよ。……ドレインの経路の全体像が、少しずつ書面の形になっていますもの)


 夕刻に、シリルが小声で言った。


「今日中に王都への照会を出せそうです。……印字型魔導具の照合依頼と、フロード補佐官への状況報告を合わせて送ります」


「フロード様への報告は、今週末に港を出る旨だけにしておいてくださいな」


「手帳の件は含めませんか」


「帰国後に直接伝えますわよ。……書面で伝えるより、顔を見て話しますもの」


(顔を見て話す。……書面の向こうには、本当の反応が見えませんもの。フロード様がどう答えるか、私は目で確認したいですわよ)


「承知しました」


* * *


 夜になった。


 証言録の作業が一日分を終えた。


 ヴェルミ様が最後の確認のため書面を読み直している間、私は食堂の端に退いた。


 シリルが近づいてきた。


「今夜の照合の前に、お嬢様に確認していいですか」


「なんですかしら」


「昼間止まったページの名前を、今夜どう扱うかについて」


「持ち帰りますわよ」


 私は答えた。


「今夜ここでどうこうすることではありませんもの。……証拠として持って帰って、王都で確認が必要な人間に直接確認しますわよ」


「書面として証拠化はしますか」


「シリルに任せますわよ。……私が触ると、感情が混じりますもの」


(分別できていますわよ、今のところは。……感じることと、動くことを、別の引き出しに入れていますもの。ヴォルフ様に言ったことが、今夜の自分にも当てはまりますわよ)


「かしこまりました」


 シリルが書類を整えながら、一つだけ言った。


「……証拠として見る前に、信頼として見ることは、掃除人の美学に反しませんよ、お嬢様」


(珍しいことを言いましたわよ、シリルは。……昨夜に続いて二度目ですもの)


「昨夜から少し丁寧になりましたわよ、シリルは」


「フォル・ネビュラの空気は、少し人を饒舌にするようですよ」


「霧が薄くなってきているせいかもしれませんわよ」


「そうかもしれません。……明後日には、港を出ますもの。その前に言っておきたいことは、今夜のうちに言っておく方がいいですよ」


(明後日には港を出ますわよ。……フォル・ネビュラでの作業が、終わりに近づいていますもの)


「ありがとうですわよ、シリル」


* * *


 証言録の署名が終わり、ヴェルミ様が今夜の分の書面にサインをした。


 書面を受け取りながら、私は言った。


「明日の午前中に、エストへの書面の経路についての証言をいただきますわよ。午後には、王都への出立の準備を始めますもの」


「……私は、どういう形で王都に行くことになりますか」


「馬車の中で、ご一緒しますわよ。リタが同行しますもの」


 ヴェルミ様が少し目を細めた。


「それは、拘束のままということですか」


「拘束は解きますわよ。……ただし、単独行動は控えてもらいますもの。リタが一緒にいる理由は、安全の確保のためですわよ。あなたの安全のためです」


(エストが次の便の前に動こうとしているとすれば、ヴェルミ様は今もドレインにとって処理が必要な相手ですわよ。保護という意味でも、リタは必要ですもの)


「……そういうことですか」


「ええ。不明投棄されないための処置ですもの」


 ヴェルミ様が、少し間を置いてから言った。


「不明投棄、とは」


「ドレインが証人を消そうとすることの、私の言い方ですわよ。……あなたは、今夜から証拠物件ですもの。大切にお運びしますわよ」


 ヴェルミ様が、初めて少しだけ表情を動かした。


 笑った、とは言えないが、何かが緩んだような顔だった。


「……分かりました」


* * *


 深夜の照合が終わった。


 シリルが書類を片付けて、トレイを持ってきた。


 今夜のティータイムは、漁師亭に戻ってからではなく、保管庫の近くの小さな番小屋で行った。


 リタが今夜も保管庫に残るため、番小屋で三人分を用意した。


 トレイに載っていたのは、小さな金属製のポットと、深めのカップが二脚。それから、紙に包んだ何かが一つ。


「今夜は何ですかしら」


「フォル・ネビュラの最後の夜に、というつもりで選びました。……昨日の霧花茶の残りに、今日市場で見つけた乾燥ライム皮を少量加えています。霧花茶に酸味が加わって、少し引き締まった味になっているはずです」


(霧花茶にライム皮。……昨日の淡い花の香りが、今夜は少し鋭くなっているということですわよ)


 カップに注いだ。


 湯気の中に、花の香りと、柑橘の細い酸味が混じって立ち上がった。


 一口飲んだ。


(花の香りが先に来て、後からライムの酸味が引き締めますわよ。……昨日より、輪郭がはっきりしていますもの。霧が薄くなってきているこの港の空気と、少し似ていますわよ)


「紙包みは何ですかしら」


「カラミ様の証言が三十ページを超えた記念に、というわけではありませんが」


 シリルが紙を開いた。


 中に入っていたのは、小さな乾燥果実の砂糖漬けだった。深い赤茶色をしている。


「テア・フルーツの砂糖漬けです。フォル・ネビュラの南側の丘陵地帯で取れる果実で、乾燥させると渋みが甘みに変わる性質があります。……港の菓子屋では珍しいものだと、主人が言っていました」


(渋みが甘みに変わる果実。……一つ口に入れた)


 最初に渋みが来た。


 それが、ゆっくりと甘みに変わった。


 後味に、深い果実の香りが残った。


(渋みが先で、甘みが後。……そういう順序のものは、最初の一口で判断してはいけませんわよ)


「美味しいですわよ、シリル」


「それは良かったです」


 リタに食事と一緒に届けた分には、この果実を別の紙に包んで添えた。


 チャキッ、という音が遠くからした。


 受け取った、という音だ。


* * *


 番小屋で、シリルとカップを持ちながら座っていた。


 霧が、今夜は昨日より薄い。番小屋の小さな窓から、港の魔法灯の光がぼんやりと見えた。


「シリル」


「はい」


「フォル・ネビュラで四日と少し過ごしましたわよ。……この港で、どれだけのものを引き上げましたかしら」


「整理しましょうか」


「いいですわよ、今夜は言葉でだけ」


 シリルが、少し考えた。


「七年分の帳簿。ガント組合の証言録。ヴェルミ様の手帳と証言書面。もう一冊の名簿。デイン号の公証書面。エストへの書面の解読。……そして、ヴェルミ様という、長年絡まっていた漁網」


(絡まった漁網が、少しずつ解けましたわよ。……全部解けたわけではありませんもの。でも、端を持つことができましたわよ)


「スルッツさんとライスさんも、この港に残りますわよ」


「はい。……ただし、証言録に署名した二人は、今日から別の立場の人間です。組合長と副長ではなく、証人として」


「守れますかしら、王都から」


「フロード補佐官の経路を使えば、王城の正式な保護申請が可能です。ガルベス子爵の法案が審議に入る前に手続きが取れれば、間に合いますよ」


(間に合わせますわよ。……そのために、今週末には港を出ますもの)


「明日の午前中でヴェルミ様の証言の核心部分を終わらせて、午後には荷造りを始めますわよ」


「かしこまりました。……お嬢様、一つだけよろしいですか」


「なんですかしら」


「今日一日、大変よく捌かれましたよ。……私が申し上げるべきことではないかもしれませんが」


(シリルが、また珍しいことを言いますわよ。三日でそう言うのは記録的ですもの)


「フォル・ネビュラの空気は、本当に人を饒舌にしますわよ」


「霧が薄くなると、言葉が出やすくなるようです」


「明後日には港を出ますわよ。また毒舌に戻りますもの」


「楽しみにしております」


 シリルが、完璧な笑顔で言った。


 霧花茶の最後の一口を飲んだ。


 ライムの酸味が、最後まで残った。


(明後日には、この霧の外に出ますわよ。……王都に持ち帰るものが、両手に余るほどありますもの)


(手が、少し重いですわよ。……それが全部、大切なものだということは、分かっていますもの)


 カップをソーサーに置いた。


 番小屋の外で、霧が少し動いた。


 港の夜が、静かなまま続いていた。

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