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第36話:漁網は、丁寧に解く

 翌朝、扉の隙間に返事はなかった。


 夜明け前に確認したシリルが、昨夜挟んでおいた手紙が消えていたことだけを教えてくれた。


(返事がないことも、答えですわよ。……でも今朝は、別の仕事がありますもの。霧の正体は、後でゆっくり考えますわよ)


 食堂の窓から港を見た。今朝も霧が濃い。三日目と変わらない白さだ。


 朝食を運んできた漁師亭の主人が、少し困った顔をしていた。


「今朝はカラダムから荷が来ておりまして、干し魚の手配が変わりましたわよ。いつもと少し違う構成になりましたが」


「構いませんわよ。ありがとうございますわよ」


 テーブルに並んだのは、小ぶりなライ麦パンと、海老の入った豆のスープ、それから薄切りのチーズだ。


(カラダム。……セドゥン商会の送金先として出てきた地名が、今朝は食卓の上に来ましたわよ。この港では、調査対象と朝食が同じ棚に並んでいることがありますもの)


 スープを一口飲んだ。海老の出汁が深く、温かい。


* * *


 朝食の途中で、シリルが手帳を開いた。


「今日の確認事項を整理しますわよ。昨日の三冊目の照合で出てきた案件が三点、持ち越しになっていますもの」


「一つずつ確認しますわよ」


「一点目。受け取り側空白の定期便が三年前の春から始まっている件。照合継続中の案件として記録済みですが、今日さらに手がかりが得られるかどうか」


「動かしませんわよ、今日は。……帳簿の照合が終わっていない段階で手を伸ばすと、別の澱をかき混ぜることになりますもの」


「承知しました。二点目。スルッツとライスの証言録の署名確認です。昨日一日目分が書面になりましたもの。今日、両者に読み直してもらって署名をもらいますわよ」


「午前中に済ませたいですわよ。……証言録の仕上げがあっての書面化ですもの」


「三点目」


 シリルが少し間を置いた。


「ヴェルミ様の件です」


 私は手を止めた。


(ヴェルミ。……昨日の夕方、シリルがデイン号の話を報告する前に出てきた名前ですわよ。保管庫の管理人として、エストの指示系統の中で動いていた人間ですもの。昨日はその場所の確認だけで終わりましたが)


「昨日の段階で、どこまで把握していますかしら」


 シリルが手帳をめくった。


「ヴェルミという人物は、フォル・ネビュラの旧港区にある保管庫を七年間管理しています。ガント組合とは別の、非公式の荷の出入りを扱う施設ですわよ。エストの書面の中継地として機能していた可能性があります」


「可能性、というのはまだ確認が取れていないということですかしら」


「エストの封書の送付先として、この保管庫の番地が出てくることは台帳の記録から確認済みです。ただし、ヴェルミ本人がドレインの構造についてどこまで関与しているかは、直接確認が必要ですわよ」


(直接確認。……昨日のデイン号の件があって、今朝のこの港の動きを見ると、タイミングとして今日が限界かもしれませんもの)


「デイン号が出港して、Lへの報告が向かっている。……今日中にヴェルミ様に接触しなければ、先に動かれる可能性がありますわよ」


「はい。……ただし」


 シリルが笑顔のまま言った。


「ヴェルミという人物は、単純な取り込みには応じない可能性がありますわよ。七年間、ドレインの中で生き延びてきた人間ですもの。説得よりも、材料を揃えてから向き合う方が確実です」


「材料は手元にありますかしら」


「台帳の照合結果と、エストの封書の送付先の記録は揃っています。……ただ、ヴェルミが何を保険として持っているかを先に把握できれば、交渉の土台が違いますわよ」


(保険を持っている可能性。……七年間ドレインの中にいた人間が、何も持たずに生き延びているとは考えにくいですわよ。ヴェルミが何を手元に置いているか。それが分かれば、この話し合いがどういう性質のものになるかが見えてきますもの)


「ライスさんに聞けますかしら。……ヴェルミという人物について、組合側から見た情報があるかどうかを」


「午前の証言録の署名の際に、確認できますわよ」


「ではそちらを先に」


 私はスープを飲み終えた。


(今日は、絡まった漁網を解く日ですわよ。……引き千切るのではなく、一目ずつ丁寧に解きますもの)


* * *


 午前、スルッツとライスが漁師亭に来た。


 昨日の証言録の書面を読み直してもらう形で、カスミ弁護士が一人ずつ確認を取っていく。スルッツは今日も大きな手をテーブルに置いて、ゆっくりと書面に目を通した。


 私はその間に、ライスに席を外してもらって短く話した。


「ライスさん、一点確認させてくださいな」


「はい」


「旧港区の保管庫を管理しているヴェルミという人物について、ご存知ですかしら」


 ライスの表情が、わずかに変わった。


 変わり方が、驚きではなかった。何かを確認した、という種類の表情だ。


「……知っていますわよ」


「どういう方ですかしら」


「七年前からあの保管庫にいる人間です。……組合の外の人間ですが、荷の動きを把握している点では、私より詳しいところがありましたわよ」


「荷の動きを、というのは」


「ガント組合を通らない荷の経路ですわよ。……私が帳簿で見ていたのは組合の正規の記録ですが、ヴェルミが扱っていた荷には組合の台帳に出てこないものが相当数ありましたわよ」


(組合の台帳に出てこない荷。……それがヴェルミの保管庫を経由していたということですわよ。帳簿の改竄と、保管庫の非公式の荷の流れが、七年間並行して動いていましたもの)


「ヴェルミ様が、ドレインについて知っていると思いますかしら」


 ライスが少し間を置いた。


「……知っているだけではないと、私は思いますわよ。関与している人間だと思います。ただし」


「ただし?」


「七年前から今まで、ヴェルミが一度だけ私に話しかけてきたことがありましたわよ。三年前のことですもの」


(三年前。……エストが廃灯台の連絡役に接触したという時期と、重なりますわよ)


「どういうお話でしたかしら」


「帳簿の副本を取っているなら、安全な場所に置いておいた方がいい、と言いましたわよ。……それだけです。理由も、何も言いませんでしたもの」


(帳簿の副本を安全な場所に。……ヴェルミが、ライスの副本の存在を知っていた。そして、保護するように言った。三年前に)


(これは、単純に敵側の人間という判断では、済まない話ですわよ)


「ありがとうございますわよ、ライスさん。……署名の確認に戻っていただいてもよろしいですかしら」


「はい。……ヴェルミのことは、クレア様が直接お話しになった方がいいと思いますわよ」


「そのつもりですわよ」


* * *


 証言録への署名が終わったのは、昼少し前だった。


 スルッツとライスが書面に署名して、カスミ弁護士が封をした。


「今日の署名で、スルッツさんとライスさんの証言録の一日目分が完成しましたわよ。……二日目分は、今夜また書面にしますもの」


「ありがとうございますわよ、カスミ弁護士」


 スルッツが立ち上がる前に、私に言った。


「ヴェルミのところへ行くつもりですかしら」


「ええ。……午後に参りますわよ」


「一つだけ言っておきますわよ」


 スルッツが、大きな手を一度テーブルに置いた。


「あの人間は、七年間ずっとここにいましたわよ。私よりも、港の底を知っている人間ですもの。……もし話を聞けるなら、聞いた方がいいですわよ。この港の澱の話は、帳簿だけでは半分しか見えませんもの」


(帳簿だけでは半分しか見えない。……スルッツが、ヴェルミを敵として扱っていない。七年間、港で同じものを見ていた人間として認識しているということですわよ)


「承知しましたわよ、スルッツさん」


* * *


 午後、私とシリルとリタで旧港区の保管庫へ向かった。


 霧の中の路地を、昨日スルッツから聞いた番地をもとに歩いた。旧港区は、ガント組合の係留場よりさらに霧が濃い。石畳が湿っていて、足音が吸い込まれていくような感触があった。


(古い場所ですわよ。……新しい港区が整備される前から、荷が動いていた場所ですもの。そういう場所に澱が溜まるのは、自然なことかもしれませんわよ)


 保管庫の扉は、鍵が掛かっていなかった。


 ただし、扉の前に人が立っていた。


 四十代ほどの、小柄な女性だ。港の作業服ではなく、旅装に近い外套を着ている。腕に、小さな革の鞄を抱えている。


 私を見て、逃げようとしなかった。


 ただ、静かに立っていた。


(待っていましたわよ、この人は。……デイン号が出港したことを知っていて、今日誰かが来ることを予測していた。逃げなかったのは、逃げるつもりがないということですもの)


「ヴェルミ様でいらっしゃいますかしら」


「……そうですわよ」


 ヴェルミの声は、平らだった。高くも低くもない。感情の表面が出ていない声だ。


「クレア・ヴィクトリアですわよ。少しお話しできますかしら」


「分かっていましたわよ。……昨日のデイン号の記録の件から、今日か明日かと思っていましたもの」


(昨日の記録の件。……公証書記官を連れてデイン号を記録したことが、もうヴェルミに届いていましたわよ。この港の情報の速さは、昨日から分かっていましたもの)


「中でお話しできますかしら」


「どうぞ」


* * *


 保管庫の中は、薄暗かった。


 棚に、書類の束と革張りの台帳が並んでいる。隅に木箱が積まれていて、蓋に封蝋がされているものもある。


 ヴェルミが椅子を二脚出して、テーブルに向かい合って座った。


 リタが扉の内側に立った。シリルが横に座って、手帳を開いた。


(整いましたわよ。……では、話を始めますもの)


「単刀直入に伺いますわよ、ヴェルミ様」


「どうぞ」


「七年間、この保管庫でドレインの経路の中間管理をされていましたわよね」


 ヴェルミが、少しだけ目を細めた。


「……証拠があって言っていますかしら」


「台帳の記録と、エストの封書の送付先と、スルッツさんの証言がありますわよ。……ただし、私が今日ここに来たのは、焼却処分のためではありませんもの」


「では、何のためですかしら」


「帳簿の事実の横にある話を聞くためですわよ。……スルッツさんが言っていましたもの。帳簿だけでは港の底の半分しか見えない、と」


 ヴェルミが少し黙った。


(計算していますわよ。……この人間は、今の状況を整理しながら次の言葉を選んでいますもの。七年間、ドレインの中で生き延びてきた人間の判断の速さがありますわよ)


 ヴェルミが、腕の革鞄に手を置いた。


「……一つ確認させてくださいな。この鞄の中に、私が七年間記録してきたものがあります。手帳と、台帳の写しですわよ。……これを今日、あなたに渡すことができますもの」


(自分から、渡す。……保険として持っていたものを、こちらから要求する前に、自分から出してきましたわよ)


(三年前にライスに副本を安全な場所へと言った人間が、今日ここで手帳を持って待っていた。……これは、七年間の決算をしに来た人間の顔ですわよ)


「なぜ今日、渡そうと思いましたかしら」


「デイン号が昨夜南に出ましたわよ。……三か月前の封鎖の後、Lが動いている。この港での私の役割は、終わりに近づいていますもの。保管庫を閉鎖する前に、手元にあるものを適切な場所に渡した方がいいと判断しましたわよ」


「閉鎖するおつもりでしたかしら、この保管庫を」


「ええ。……エストから三日前に書面が届きましたわよ。フォル・ネビュラの封鎖を継続する。次の便は別の経路へ移行する。そういう内容でしたもの」


(三日前の書面。……私たちが漁師亭に到着した前日に、エストがヴェルミに移転を伝えていましたわよ。廃灯台の封書と同じタイミングですもの)


「その書面は、今もありますかしら」


「この鞄の中にありますわよ」


 ヴェルミが、鞄を静かにテーブルに置いた。


「全部ここにありますわよ。七年分の記録と、三日前の書面と、台帳の写しと。……一つだけ、条件をお聞きしてもよろしいですかしら」


「どうぞ」


「この手帳の最後のページに、一つだけ虚偽報告をした記録がありますわよ。……ある人間の通関の記録を、七年前に偽造しましたもの。その人間が、今どういう状況にいるかは分かりませんが、虚偽報告があったという事実が今も記録に残っていますわよ」


(虚偽報告をした。……ただし、ヴェルミがその話をするということは)


「その虚偽報告は、何のためにしましたかしら」


 ヴェルミが初めて、少しだけ表情を動かした。


「その人間を、Lの調査から外すためですわよ。……理由は、無関係だったからですもの。巻き込まれる前に、記録の上から消しましたわよ」


(無関係な人間を守るために、虚偽報告をした。……七年間ドレインの中で動いてきた人間が、一点だけ、誰かのために記録を偽造した。その記録が今も残っていて、それを自分から話してきましたわよ)


(複雑な形をした汚れですわよ。……焼却処分で済む話ではありませんもの)


「その虚偽報告の件は、今日の話し合いの中で確認しますわよ。……焼却処分の前に、全体を読み直しますもの」


 ヴェルミが、鞄をゆっくり私に押し出した。


「受け取っていただけますかしら」


「受け取りますわよ」


 私は鞄を手元に引き寄せた。


 シリルが、すでに手帳に書き留めている。


(この鞄の中にある七年分の記録が、今日の午後の作業ですわよ。……絡まった漁網を、一目ずつ解いていきますもの)


* * *


 作業は、夕方まで続いた。


 ヴェルミが話し、シリルが整理し、私が確認する形だ。手帳の記録を一年ずつ追いながら、台帳の写しと照合していく。


 ドレインの経路の構造が、少しずつ形になっていった。フォル・ネビュラを出入りした荷の実態。エストへの書面の中継経路。ヴェルミが把握していたLへの報告の流れ。


(セドゥン商会の送金先が、この台帳にも出てきますわよ。……J-3の伏線が、今日の作業でまた一点、形になりましたもの)


 四年目の記録に差し掛かった時、シリルが一つのページを指した。


「お嬢様、こちらを」


 受け取った。


 七年前の記録の末尾にある手帳のページだ。人名の横に、通関の日付と、偽造した記録の番号が書いてある。


 名前を読んだ。


 止まった。


(この名前は、知っていますわよ。……ただし、今日この場で判断を急ぎませんもの)


「ヴェルミ様、このページの人物について、今日はここまでにしますわよ。……後日、確認が必要な件として持ち帰りますもの」


「分かりましたわよ」


「一点だけ聞かせてくださいな。……その方を、守ろうとした理由は何ですかしら」


 ヴェルミが少し考えた。


「……本当に無関係だったからですわよ。Lが興味を持った理由も、私には分かりませんでしたもの。巻き込まれれば、その人間は終わりましたわよ。だから消しましたもの」


(誰かのために、自分のリスクを負って記録を偽造した。……それを七年間、誰にも言わないでいた人間ですわよ)


 私は手帳のページを閉じた。


(丁寧に読みますわよ、ヴェルミ様。……全部ではないかもしれませんが、今日は確認できることを確認しましたもの)


* * *


 夕方、確認が一区切りついた。


 シリルが書類をまとめながら、ヴェルミに言った。


「今日確認できた内容については、明日以降、正式な証言書面として整理させていただきますわよ。……ヴェルミ様には、今夜から別の場所に移っていただきたいのですが、よろしいですかしら」


「どちらへ」


「漁師亭の別室を押さえていますわよ。……保管庫にいると、デイン号の側から確認に来る可能性がありますもの。今夜は安全な場所の方がよろしいですわよ」


 ヴェルミが少し考えてから、頷いた。


「分かりましたわよ」


「一つだけ伺いますわよ」


 私は言った。


「今日ここに来たことを、後悔していますかしら」


 ヴェルミが少し間を置いた。


「……後悔はしていませんわよ。七年分の重さが、少し降りた気がしますもの」


(七年分の重さが降りた。……それがどういう感覚か、私には完全には分かりませんもの。でも、今日ここで確認できたことがあったということは、確かですわよ)


 打ち消さなかった。


* * *


 漁師亭に戻ったのは、夜が深まり始めた頃だった。


 カスミ弁護士が、テーブルに帳簿を広げて待っていた。証言録の二日目分の作業が残っていたからだ。


 私はカスミ弁護士に今日の経緯を簡単に伝えた。


「ヴェルミという人物の証言書面が、明日から加わりますわよ。……台帳の写しと手帳で、帳簿の照合に役立つ記録がありますもの」


「七年分、ですかしら」


「ええ。……ただし、読み解くのに時間が要りますわよ。帳簿の事実の横に、なぜそうなったかが書いてある種類の記録ですもの」


 カスミ弁護士が、少し目を細めた。


「ライスさんのメモと、同じ性質のものですかしら」


「少し違いますわよ。……ライスさんのメモは、記録し続けた人間のものでしたもの。ヴェルミ様のは、関与しながら選択し続けた人間のものですわよ」


(選択し続けた記録。……七年間、ドレインの中で何かを選びながら動いてきた人間の手帳ですもの。それは、帳簿の改竄の記録より、読み解くのが難しいかもしれませんわよ)


* * *


 夜のティータイムになった。


 シリルが小さなトレイを持ってきた。


 今夜の茶は、これまでと違う色をしていた。深い琥珀色ではなく、透き通った薄緑色だ。


「シリル、今夜は何ですかしら」


「リタが夕方に市場で見つけてきましたわよ。……フォル・ネビュラから少し内陸の丘陵で取れる茶葉で、地元の呼び名はミスト・グリーンと申します。霧の中で育った茶葉は、摘む前から湿気を含んでいて、乾燥させても緑が残るそうですわよ」


(霧の中で育った茶葉。……この港らしいですわよ)


 カップを受け取って、一口飲んだ。


(柔らかいですわよ。……苦みがなくて、青草の香りがあって、後味に薄い甘みが残りますもの。霧の水分を含んだまま育った茶葉の味ですわよ。主張が少ないけれど、飲んでいるうちに、じわりと温かくなってきますもの)


「菓子は何ですかしら」


 リタが小皿を出した。


 細長い形の揚げ菓子だ。表面に粗い砂糖と胡麻が付いている。


「フォル・ネビュラの揚げ菓子ですわよ。……港の揚げ菓子は、魚の脂で揚げるものが多いですが、これは植物油で揚げた内陸の様式ですわよ。港の揚げ菓子より軽く、砂糖の甘みが前に出ています」


 一本口にした。


(さくりと、表面が砕けますわよ。胡麻の香りが最初に来て、砂糖の甘みが続いて、最後に油の軽い余韻がありますもの。霧茶の青草の香りと、意外によく合いますわよ)


 シリルが手帳を閉じて、カップを持った。


「今日一日の確認事項ですわよ。……スルッツさんとライスさんの証言録署名、完了。ヴェルミ様との接触、手帳と台帳写しを確保。七年分の記録の確認、開始。保管庫の案件として証言書面の整理が明日以降の課題ですわよ」


「ヴェルミ様への処理方針は、明日の証言書面の内容を見てから決めますわよ。……今日の段階では、焼却でも拘束でもない方向で考えていますもの」


「リサイクル候補、ということですかしら」


「ドレインの構造についての証言者として、今後必要になる可能性がありますわよ。……七年分の記録を持っていた人間を、証言前に処分するのは非効率ですもの」


(非効率、という言い方をしましたが、それだけではありませんわよ。……今日のヴェルミ様を見て、簡単に分類できない何かがありましたもの。七年間選択し続けた人間の重さというものが、台帳の記録だけでは見えませんでしたもの)


(打ち消しませんわよ。それも今日の収穫ですもの)


 右手の手袋を、一度だけ見た。


 白い手袋の指先に、今日の保管庫の薄暗さがまだ少し残っているような気がした。


(落ちない汚れのことを、今日また別の角度から考えましたわよ。……七年間ドレインの中にいたヴェルミ様が持ち続けていたものと、長年の掃除の中で私が積み上げてきたものが、どう違うかという問いは——今夜は棚に上げますわよ)


(でも、棚から降ろせる日が来たら、向き合いますもの)


 ミスト・グリーンをもう一口飲んだ。


 青草の香りが、じわりと温かく続いた。


 リタが揚げ菓子を一本、静かに口にした。


 チャキッ、という音が一つした。


(今夜のリタは、菓子の音が一つですわよ。……気に入ってくれたかしら)


「シリル、明日の進め方を確認しますわよ」


「はい。……午前中にヴェルミ様の証言書面の作成開始。並行して、台帳の写しとガント組合の帳簿の照合。午後に帳簿の残り部分の仕上げ。夕方に全体の書類整理。……今週末の出立に向けて、明日と明後日で証拠の形を整えますわよ」


「出立の目途は変わりませんわよ」


「はい。……フォル・ネビュラで引き上げてきたものを、全部木箱に収めてから出ますもの。そのためにも、明日のヴェルミ様の証言は重要ですわよ」


(絡まった漁網が、今日で少し解けましたわよ。……全部ではありませんもの。でも端を持つことができましたわよ。明日、もう少し丁寧に解いていきますもの)


 窓の外で、霧が夜の港を包んでいた。


 今夜も、扉の隙間に一枚の紙を挟もうかどうか、少し考えた。


(今夜は、やめておきますわよ。……霧には、必要な時に届けましたもの。今日の話は、まだ整っていないですから)


 揚げ菓子をもう一本取った。


 胡麻の香りが、また先に来た。


(整ってから、話せることを話しますわよ。……掃除は、急いでかき混ぜると汚れが広がりますもの)


 フォル・ネビュラの六日目の夜が、静かに続いていた。


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