第35話:澱の底には、底がある
翌朝、扉の隙間に返事はなかった。
夜明け前に確認したシリルが、紙片の代わりに昨夜挟んでおいた手紙だけが消えていたと教えてくれた。
(昨夜の手紙を受け取って、答えを返さなかった。……霧は、今週末に港を出るという言葉をどう読みましたかしら)
(分からないですもの。でも、答えがないことが答えではないとも思いますわよ。あの方は、必要なことだけを伝えてきますもの。必要でなければ、返さない)
打ち消さずに、持っておくことにした。
食堂の窓から港を確認した。
今朝も霧は濃い。昨日より少し薄いかもしれないが、建物の二軒先がもう白い。
* * *
朝食が運ばれてきた頃、カスミ弁護士が三冊目の帳簿の最終ページを閉じた。
「三冊目、完了しましたわよ」
静かな宣言だった。
「お疲れ様ですわよ」
「ありがとうございますわよ。……最後の月の分まで全部ですもの。明日から証言録の署名確認に入れますわよ」
シリルが手帳に書き留めた。
「照合完了が本日、証言録の仕上げが明日、最終整理と出立準備が明後日。……今週末の出立が現実的な見通しになりましたわよ」
(一段落がつきますわよ。……このフォル・ネビュラで引き上げてきたものを、全部きちんと木箱に収めてから出ますもの)
私はパンにバターを塗った。
今朝のパンは、昨日より少し厚い。主人が朝から焼き直してくれたのかもしれない。
「カスミ弁護士、一点確認させてくださいな」
「はい」
「三冊分を通じて、照合でもう一か所気になった部分はありましたかしら」
「……ございますわよ」
カスミ弁護士が、少し間を置いた。目の下に影があるが、声は落ち着いている。
「マル・アド商会の名義で動いた荷のうち、特定の季節にだけ量が増える記録があります。春の便と、秋の便ですわよ。一定の間隔で増える荷というのは、定期的な取引を示しますもの。でも、その取引の相手の名義がどの帳簿にも出てこないのですわよ」
「名義が出てこない、ということは」
「架空の名義さえ使っていない。……受け取り側の記録が、完全に空白ですわよ」
(受け取り側が空白。……五年前の荷主名空白の荷と、同じ性質の記録ですわよ。書かなかったのではなく、書けなかった。あるいは、書かせなかった人間がいたということですもの)
「その増加の時期が始まったのは、いつ頃ですかしら」
カスミ弁護士が帳簿を少し戻した。
「……三年前の春からです。それ以前には、季節ごとの増加はありませんでしたわよ」
(三年前の春。……エストがフォル・ネビュラで動き始めた時期と近いですわよ。カラミの旧桟橋でドレインの連絡役と接触したという、霧の話が出た時期と重なりますもの)
「シリル、記録に留めておいてくださいな。……今日中に動く話ではありませんが」
「はい。……受け取り側の記録が空白の定期便として、照合対象に追加します」
(まだ底がありますわよ。……七年分の澱を引き上げてきたつもりでいたら、また別の底が見えてきましたもの。排水溝の下にもう一本の排水溝があるということですわよ)
私は朝食を続けた。
今朝の白身魚のスープが、昨日より少し生姜が利いていた。温まる味だ。
* * *
午前の中頃、ライスが漁師亭に来た。
今日は少し急いだ顔だった。
「……おはようございますわよ。一点、確認していただきたいことがありましたもの」
「どうぞ、おかけくださいな」
ライスが椅子を引いて、座った。外套の肩に霧の湿気が残っている。今朝は組合から直接来たらしい。
「今朝、ガント組合の朝の点呼で、一名が無断欠勤しましたわよ」
「どういう方ですかしら」
「荷捌きの担当の一人ですわよ。名前はペレ。……昨日の夕方まで組合にいたのですが、今朝来ていないですもの。住まいに人をやったら、昨夜から帰っていないと近所の方が言っていましたわよ」
(昨夜から行方不明。……デイン号が夕方の潮で出た後で、今朝確認できないということですわよ。タイミングが重なりますもの)
「ペレという方は、どういう立場の人間ですかしら」
「荷捌きの現場担当ですわよ。……普段は特に目立たない、真面目な働き手でしたわよ。でも」
ライスが少し間を置いた。
「スルッツ組合長が今朝言っていましたわよ。……ペレが担当していた荷捌きのラインが、セドゥン商会の荷を扱うことが多かったと。偶然かもしれませんが」
(セドゥン商会の荷を担当することが多かった担当者が、デイン号の出港後に行方不明になりましたわよ。……偶然ではないかもしれませんもの)
「シリル」
「はい」
「ペレという人物が、組合の記録の上で、セドゥン商会の荷についてどういう関わり方をしていたか。……スルッツさんに確認できますかしら」
「今日の昼までに確認できます。……帳簿の改竄の実行者はスルッツさん単独という供述でしたが、現場レベルで荷の実態を把握していた人間が他にいた可能性がありますわよ」
(改竄の実行者は一人でも、現場を知っている人間は別にいた可能性ですわよ。……カラミが証言している排水溝の構造には、名前を教えられていない部分がありましたもの。ペレが、その部分のどこかに当てはまるかもしれませんわよ)
「ライスさん、ペレの件はこれ以上組合の中で大きくしないでくださいな。スルッツさんには私から確認しますわよ」
「分かりましたわよ。……組合の人間が心配しているのは事実ですが、動揺を広げないようにしますもの」
「お願いしますわよ」
ライスが少し頷いた。
「もう一点だけよろしいですかしら」
「どうぞ」
「昨夜、デイン号が出た後で、港の北側の番小屋の周辺に人影があったと、今朝番小屋の管理人が言っていましたわよ。一人で、霧の中を歩いていたそうですが……確認できなかったと」
(番小屋の周辺に人影。……昨夜の時点では、リタが廃灯台から戻って、書類の照合を続けていましたわよ。番小屋の近辺は私たちの通り道ではありませんもの)
「その人影の向かった方向は分かりましたかしら」
「港の南の外れ、と管理人は言っていましたわよ。……モルト方向ですわよ」
シリルが手帳に書き留めながら、私と目を合わせた。
(南。モルト方向。……デイン号の出航と、北の番小屋への人影と、南への移動。昨夜、ここで複数の動きがあったということですもの)
「ライスさん、今日も組合の通常業務を続けてくださいな。……特別なことはしなくていいですわよ。私たちが動きますもの」
「分かりましたわよ」
ライスが立ち上がって、出ていった。
* * *
扉が閉まった後、シリルが手帳を閉じた。
「整理しますわよ」
「どうぞ」
「昨夜の動きが三点あります。一つ目、デイン号の出港。二つ目、番小屋周辺への人影。三つ目、南への移動。……これらが別々の動きである可能性と、繋がっている可能性の両方がありますわよ」
「ペレの失踪と重なっていますわよ」
「はい。……ペレがデイン号に乗った可能性、ペレが別の経路で南に移動した可能性。どちらも排除できません。ただし」
シリルが少し止まった。
「帳簿照合の段階では、ペレの名前は出ていませんでしたわよ。組合員の記録としても、改竄の関与者としても。……ペレが完全に内部の人間であれば、名前が帳簿に出ないように処理されていた可能性がありますわよ」
(名前が出ないように処理された人間。……カラミが「ガルベスを管理しながら、ガルベスの名前を監視記録に使わなかった部分」と同じ構造ですわよ。重要な人間ほど、帳簿に名前を残させない)
「昨夜の人影がペレだとすれば、デイン号の出港を見届けてから自分も南に動いたということになりますわよ」
シリルが頷いた。
「番小屋周辺の人影と廃灯台外周の足跡が同一人物だとすれば、港の北から廃灯台の裏手を回って、そのまま南の護岸へ向かった経路になりますわよ。……ペレが廃灯台を確認しに来た可能性があります」
「ペレがデイン号と連絡を取っていたとすれば、出港後に自分の足で状況確認に動いたとしても不自然ではありませんもの」
(デイン号より後に動いたペレが、廃灯台を外から確認して、内部に入れないと判断してから南へ向かった。……エストは昨夜ここにいたわけではなく、別室で待機しているはずですもの。混同しないようにしなければなりませんわよ)
「リタ」
チャキッ。
「廃灯台の周辺を、今朝もう一度確認してきてくださいな。……昨夜から今朝にかけて、新しい痕跡があるかどうかですわよ。乗り込まなくてよろしいですもの」
チャキッ。
リタが外套を羽織って、音もなく食堂を出た。
* * *
スルッツが昼前に漁師亭に来た。
今日は組合長のバッジを胸に付けている。昨日自分で外したバッジを、今日は付けて来ましたわよ。
(何かが変わりましたわよ、スルッツの中で。……昨日と今日で、立ち方が違いますもの)
「ペレのことを聞いていただきたいと思って来ましたわよ」
スルッツが椅子に座る前に言った。
「おかけくださいな。……ライスさんから伺いましたわよ」
「ライスは、どこまで話しましたかしら」
「今朝の無断欠勤と、セドゥン商会の荷捌きラインを担当していたことだけですわよ」
スルッツが腰を下ろした。大きな手を、昨日と同じようにテーブルに置いた。
「……ペレのことは、私が直接お話しした方がいいと思いましたわよ。帳簿の改竄は私が一人でやったと供述しましたが、現場で私を手伝っていた人間が、一人だけいましたもの」
(一人だけ。……やはりですわよ)
「ペレさんですかしら」
「ええ。……ペレに頼んでいたのは、改竄した伝票を正規の伝票の束に紛れ込ませる作業ですわよ。改竄そのものは私が一人でやって、紛れ込ませる作業だけをペレに任せていましたもの。ペレは、改竄した伝票だと知らなかったはずですわよ」
「知らなかったはず、というのは」
「……私がそう言い聞かせていましたもの。少し形式の変わった伝票だから、これを正規の束に入れておいてくれと、そういう頼み方をしていましたわよ。ペレは疑問を言いませんでしたが、疑っていたかどうかは分かりませんもの」
(改竄の実行者と、紛れ込ませる実行者が分離していた。……ただし、紛れ込ませる側が「これが改竄だ」と意識していたかどうかは、スルッツにも確認できていない。七年間、二人の間で明示的な話し合いはなかったということですもの)
「ペレさんが今朝来なかったことについて、スルッツさん自身はどう思いますかしら」
スルッツが少し黙った。
「……昨日の夕方、ペレが私に声をかけましたわよ。組合を出る前に」
「どんな言葉でしたかしら」
「『組合長、昨日から何か変わりましたかしら』と言いましたわよ。それだけですわよ。私は答えませんでしたもの」
(変わりましたかしら、という問い。……ペレは、何かに気づいていたということですわよ。スルッツが昨日私たちと話したことを、組合の中で感じ取っていた可能性がありますもの)
「ペレさんは、今どこにいると思いますかしら」
「分かりませんわよ。……ただ」
スルッツが、テーブルの上の手を少し動かした。
「ペレが七年間、組合にいた理由が何なのかを、私は考えましたわよ。改竄の作業を頼んでいたとはいえ、ペレは組合の中で普通に働いていましたもの。良い働き手でしたわよ。でも」
「でも?」
「デイン号が入港した時、最初に手続きを担当したのはペレでしたわよ。それは普通の当番の流れでしたが……今朝になって、おかしいと思いましたもの」
(デイン号の入港手続きをペレが担当した。……それが偶然ではなく、意図的なものだとすれば。ペレはデイン号の存在を知っていた。あるいは、連絡係として機能していたということかもしれませんもの)
「シリル」
「はい。……帳簿の中でペレが関与した荷の記録と、デイン号の入港手続き書面を今日中に照合します。ライスさんに書面の写しの確保を依頼できますわよ」
「お願いしますわよ」
スルッツが、私を見た。
「ペレは、私よりも深いところで動いていた人間かもしれませんわよ。……私が頼んでいた作業を、別の理由でやっていた可能性がありますもの」
(スルッツ自身が気づいていましたわよ。……自分が「頼んだ」と思っていた人間が、実はドレインの側から組合の中に入り込んでいた可能性を、今朝から考えていたということですもの)
「スルッツさん、一点だけ確認しますわよ」
「はい」
「ペレさんに、七年前の最初の改竄を頼んだのはいつですかしら」
「組合の財政が一番苦しかった時ですわよ。……ちょうど最初の改竄を受け入れた三か月後くらいですもの」
「ペレさんが組合に入ったのは、その前後ですかしら」
スルッツが少し止まった。
「……ペレが来たのは、財政難の少し前ですわよ。半年前くらいに新人として入ってきましたもの。働き手が足りていた時期でしたが、当時の副組合長が紹介してくれた人間でしたわよ」
(財政難の半年前に来て、財政難の後に改竄の作業を担当し始めた。……誰かが紹介した人間として、組合の財政が苦しくなる前から入り込んでいたということかもしれませんわよ)
(七年間、組合の底に沈んでいた澱のひとかたまりが、昨夜の出港とともに動いたということですもの)
「スルッツさん、副組合長の名前を教えていただけますかしら」
「……当時の副組合長は、五年前に辞めましたわよ。別の港に移ったと聞きましたもの」
「名前だけ、シリルに伝えていただけますかしら」
スルッツがシリルに名前を告げた。
シリルが書き留めた。
* * *
リタが戻ってきたのは、昼食の少し前だった。
外套が昨日より湿っている。霧の中を長く歩いたらしい。
食堂に入って、紙片を出した。
シリルが受け取って読んだ。
「廃灯台の外周に、昨夜から今朝にかけての新しい足跡がありましたわよ。一人分、廃灯台の裏手から海寄りの方向へ。……ただし、廃灯台の中には入った形跡はなし。外から様子を見てから、別の方向へ移動したと思われますわよ」
(廃灯台の外から確認して、中には入らずに移動した。……昨日リタが廃灯台を封じた方法は、外から見て分からない形と聞いていましたもの。内部に入れないと判断して、移動したということかもしれませんわよ)
「移動した方向は」
「足跡が南の護岸の方向に続いていたとのことです。……護岸の石畳で消えていますわよ」
(南の護岸。昨夜の番小屋周辺の人影も南へ向かったとライスさんが言っていましたわよ。同一人物の可能性がありますもの)
「シリル、今朝からの動きを整理しますわよ」
「はい。……廃灯台の確認者と番小屋周辺の人影が同一人物だとすれば、昨夜この港で自分の目で状況を確認してから南へ移動した人間がいるということです。デイン号より後に動いた人間ですわよ」
(デイン号より後。……ペレが昨夜ここにいたとすれば、デイン号を先に出して自分は後から別の経路で動いた可能性がありますわよ。デイン号は上への報告役、ペレ自身は次の行動のために移動した、ということかもしれませんもの)
「モルトの方向に向かったとすれば、デイン号に乗っているより足が遅いですわよ」
「陸路で三日分の距離があります。……デイン号は昨夜の出港で、モルトには今夜か明日の朝着の計算です。陸路なら最短でも二日以上かかりますわよ」
「ペレが今夜まだ南の街道にいる可能性がありますわよ」
「はい。……ただし、追うことはしますかしら」
私は少し考えた。
(追うかどうか、ですわよ。……証拠は今ここにありますもの。帳簿も、廃灯台の書類も。今追ってペレを確保することと、今週末に王都に戻って証拠を整えることの、どちらが今の掃除に必要ですかしら)
(急いで追えば、ペレは捕まえられるかもしれませんもの。でも、捕まえたペレが全部を話すかどうかは分からないですわよ。今手元にある証拠で、王都に戻った後に動いた方が、全体の掃除が整うかもしれませんもの)
「追いませんわよ、今日は」
シリルが頷いた。
「賢明なご判断です。……ペレの移動は記録しておきます。モルトという拠点が確認されている以上、次の段階で捕捉できる機会がありますわよ」
「ただし、一点だけ」
「はい」
「ペレの行方と、エストの動きが繋がっているかどうかを確認しますわよ。……エストが別室で保護されている以上、ペレが単独で動いたのか、それとも誰かの指示で動いたのかを、帳簿の記録から絞り込めるかもしれませんもの」
「ガント組合の書面と照合しながら、追跡の糸口を残しておきます」
(追わないが、糸口は持っておきますわよ。……それが今日の分別ですもの)
* * *
昼食の後、カスミ弁護士が整理した書類を持ってきた。
「三冊の帳簿の照合まとめと、法廷証拠として整理した書面の下書きですわよ。……ご確認いただいたら、明日の署名に移れますもの」
「ありがとうございますわよ」
受け取って読んだ。
シリルが横から覗き込んで、数か所に書き込みを入れた。
「……受け取り側空白の定期便の件を、別項として追加してもよろしいですかしら。帳簿の事実として存在する記録ですもの」
「追加してくださいな。……ただし、照合未完の項目として明記しておいてくださいな。断定しない形でですわよ」
「はい。……『照合継続中の事項として付記』という形で入れます。これは法廷では断片証拠として機能しますわよ」
(断片証拠。……完全には繋がっていないが、存在する記録として残しておく。それは、急いで答えを出さないということですもの)
カスミ弁護士が書類を受け取って戻した。
「明日の午前に仕上げますわよ。……一点だけ申し上げてもよろしいですかしら」
「どうぞ」
「三冊の帳簿を全部読んで、感じたことがありますわよ」
「なんですかしら」
「七年分の改竄は、精巧になっていくと同時に、ところどころに粗い縫い目がありましたわよ。……改竄が精巧になった年ほど、一か所だけ誰かが急いで縫い合わせたような記録がありますもの」
(急いで縫い合わせた縫い目。……カスミ弁護士は弁護士として七年間この帳簿の側にいた人間ですわよ。外から見てそういう縫い目に気づいたということは)
「その縫い目が、何を示しているかは分かりますかしら」
「……私には判断できませんわよ。でも、精巧な改竄の中に急いだ痕がある、ということは、ドレインが計画通りに動けなかった瞬間があったということかもしれませんもの」
(計画通りに動けなかった瞬間。……それが、三年前の霧の接触と関係があるかどうか、今はまだ分かりませんわよ。でも、覚えておきますもの)
「ありがとうございますわよ、カスミ弁護士。……今夜の帳簿の読み直しの時に、その縫い目の箇所を教えていただけますかしら」
「はい」
* * *
夕方、スルッツが組合から送ってきた書面が届いた。
ペレが入港手続きを担当したデイン号以外の船の記録と、ペレが担当した荷捌きラインの一覧だ。
シリルが帳簿と照合した。
二十分後に顔を上げた。
「……一致点が六件ありますわよ。ペレが担当した荷捌きラインと、帳簿の中で改竄が行われた荷が、日付まで一致しています」
(六件。……七年間で六件が一致しているということは、偶然ではありませんわよ。ペレは、改竄された荷が動く日を知っていた、あるいは確認していた人間ですもの)
「ペレが単なる紛れ込ませ役ではなく、荷の動きを監視していた可能性がありますわよ」
「はい。……スルッツさんが頼んだ作業の外側で、ペレ自身が別の仕事をしていたということになりますわよ」
(スルッツが頼んだ外側で、別の仕事をしていた人間。……ドレインが組合の中に置いた目ということですわよ。七年間、組合の底でずっと見ていた目ですもの)
「産業廃棄物が、自分から歩いて出ていきましたわよ」
私は言った。
「昨夜のうちに。……こちらが証拠を揃える前に、自分で動いたということですもの」
シリルが、完璧な笑顔を作った。
「分別する前に、ゴミが自ら分類に向かった、ということですわよ。エコとは言い難いですが、処分の手間は省けましたわよ」
「追いませんもの。……記録として残しておいて、モルトへの調査の時に拾い上げますわよ」
* * *
夜になった。
食堂の長テーブルに、今夜は照合の書類ではなく、証言録の下書きが広がっていた。カスミ弁護士が、急いだ縫い目の箇所を示した帳簿のページを横に置いて、証言録の仕上げに取り組んでいる。
シリルが書類を整えながら、私に手帳を見せた。
「今日一日の確認事項ですわよ。……ペレの件。廃灯台の足跡。帳簿の縫い目。受け取り側空白の定期便。……いずれも、今日動かさずに記録として残した案件です」
「今日は、分別の日でしたわよ」
「はい。……焼却も、拘束も、追跡もしませんでしたもの。ただし、記録を整えましたわよ」
(焼却しない日があっていいですわよ。……今日引き上げたものは、全部「まだ澱の中にあるもの」ですもの。澱の底に、また別の底があることが見えた日ですわよ。それを確認しただけで、今日は十分ですもの)
私は扇子を閉じた。
手袋をした手で、扇子を持ち直した。
(ペレが七年間、組合の底で見ていた目だとすれば。……スルッツは気づかずに、七年間その目の前で改竄をしていたということですわよ。底の底に沈んでいた目が、昨夜の出港で動いたということですもの)
(それは、まだ終わっていない掃除があるということですわよ。でも今夜は、整理するだけですもの)
「シリル、今夜の整理が終わったら、明日の証言録署名の段取りを確認しますわよ」
「はい。……スルッツさんとライスさんの署名が明日の午前、カスミ弁護士の証拠書面の仕上げが午後。それが終われば、王都への出立の準備に入れますわよ」
「出立は今週末ですもの」
「はい。……ただし、今夜の段階で一点だけ」
「なんですかしら」
「ペレが昨夜動いたとすれば、モルトまでの道中で何かが起きる可能性を、念頭に置いておく必要がありますわよ。……フォル・ネビュラの状況を把握した人間が移動している間に、こちらも動く、という構図ですもの」
「向こうが急ぐなら、こちらは焦らないですわよ」
私は言った。
「澱は、かき混ぜると広がりますもの。……証拠が整ってから、丁寧に次を動かしますわよ」
シリルが手帳を閉じた。
* * *
夜のティータイムは、今夜はライスが漁師亭に残っていた。
証言録の確認のために居残っていたらしく、カスミ弁護士と並んで食堂の端に座っている。
リタが、小さなトレイに今夜の茶と菓子を用意した。
テーブルに置かれたポットから注いだのは、昨夜とも一昨夜とも違う色の茶だった。澄んだ金色に近い、軽い色合いだ。
「今夜は何ですかしら」
「港の市場で見つけた、フォル・ネビュラの茶ではないものですわよ」
シリルが言った。
「隣の産地からの輸入茶で、名をスール・チャイと申します。……内陸の草原地帯で取れる茶葉で、フォル・ネビュラの港で取引されている品ですわよ。軽くて、草の香りがします」
(内陸の茶が、港で取引されて、今夜ここに来ましたわよ。……この港に集まるものは、港だけのものではないということですもの)
飲んだ。
軽い。香りが草の緑に近い。港の茶葉とは全く違う種類の味だ。ただし、港の水で淹れているせいか、かすかに塩の気配がある。
(草の茶が、港の水で少し変わりますわよ。……それがこの港の味ですもの)
リタが菓子の皿を出した。
小さな丸い焼き菓子だ。上面に砂糖の結晶がかかっていて、ランプの灯りにきらきらしている。
「シリル、これは」
「ペル・ズッケルですわよ。砂糖を表面に焼き付けた菓子で、フォル・ネビュラでは船出の時に持っていく保存食が発達していますが、これはその上品な版ですわよ。外の砂糖が保存の膜になっていますもの」
(保存のための砂糖。……実用から生まれた甘さですわよ)
一つ口にした。
外側の砂糖がかりっとして、中は驚くほど柔らかかった。麦と蜂蜜の香りが、砂糖の甘さより後に来る。
(外側は硬くて、中は柔らかいですわよ。……外側の硬さが、中を守っているということですもの)
カスミ弁護士が顔を上げた。
「……いい匂いがしますわよ」
「どうぞ」
ライスも一つ取った。
「これは、出立の前日に食べる菓子ですわよ。……この港の人間は、出立の前夜にこれを食べる習慣がありますもの。中の柔らかさが、旅の無事を示すと言われていますわよ」
(出立の前夜の菓子を、今夜いただきましたわよ。……今週末の出立には少し早いですが、今夜がその日かもしれませんもの。今日一日で、また澱の底が見えましたわよ。でもその底を見たまま、今夜は宿に戻りますもの)
「ライスさんが知っていましたかしら、この菓子のことを」
「ええ。……フォル・ネビュラで生まれ育っていますもの。出立の前夜に、母がよく買ってきましたわよ」
ライスが菓子を一つ手に取って、少し見てから食べた。
食堂が静かになった。
シリルがカップを持ちながら言った。
「今日は、焼却も拘束も追跡もしませんでしたわよ。……ただ、底がもう一層あることが見えた日でした。明日は証言録の仕上げ、そして今週末には港を出ますもの」
「ええ」
私は答えた。
「王都には、まだ仕事が残っていますもの。……でもこの港で引き上げてきたものが、王都の掃除の道具になりますわよ」
スール・チャイをもう一口飲んだ。
草の香りと、港の水の重なりが、最後まで続いた。
窓の外の霧が、今夜は昨日より少し薄かった。
(明日、証言録に署名をもらいますわよ。それから、出立の準備を始めますもの。……ペレの行方も、受け取り側空白の定期便も、全部持って帰りますわよ。港の底の底に沈んでいたものまで、一緒に持ち帰りますもの)
手袋をした手で、カップを置いた。
(今日は、手が冷たくなりませんでしたわよ。……分別の日は、そういうものですもの)
霧の港の、五日目の夜が静かに続いていた。




