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第34話:霧は、答えを返さない

 翌朝、扉の隙間には返事があった。


 シリルが夜明け前に確認した時、昨夜挟んでおいた紙片と入れ替わるように、新しい紙片が差し込まれていた。


 私が食堂に降りると、シリルがすでにそれを食卓の上に置いていた。


*「三年前にカラミで接触した人物については、お答えできません。ただし、その方は今も動いていますわよ」*


 私は紙片を読んだ。もう一度読んだ。


(答えを返さない、ということが答えですわよ。……霧は、その人物が今も動いていると言った。それ以上は言わない。守っているということかもしれませんわよ)


「シリル、封書の件を昨夜の返信に含めましたわよね」


「はい。廃灯台の封書を拝読した旨と、三年前の連絡役の件を確認しましたわよ」


「霧は、封書を読んだことは否定も肯定もしていませんわよ」


「……ええ。ただし、返事が来たということは、封書の件を読んでいる可能性が高いですわよ。あの封書の内容を知らなければ、こちらの質問の文脈が通じませんもの」


(封書を知っていて、かつ連絡役を守っている。……霧の情報網は、廃灯台にまで届いていますもの。でも姿は見せない。理由は分からない。今は持っておくだけですわよ)


 打ち消さなかった。


 朝食が運ばれてきた。


 漁師亭の主人が、今日は少し迷った顔をして持ってきた。豆のスープと、薄いライ麦パン。それから、干し魚を細かく割いて卵で炒めたものだ。


「……今朝は港の市場で買えるものが少なかったんですわよ。霧が濃くて、漁船が昨夜から出られなかったもので」


(霧が濃い日は、漁船が出られない。……港が霧に閉じられる日があるということですわよ。今日がその日かもしれませんもの)


 窓の外を見ると、昨日より霧が濃かった。建物の輪郭が、二軒先からもう溶け始めている。


「構いませんわよ。ありがとうございますわよ」


 干し魚の卵炒めを食べた。塩気が強く、でも卵の柔らかさと合わさって、朝に適した味だった。


(港の食事は、毎日少しずつ違いますわよ。その日の海の状況が、食卓に出てきますもの)


* * *


 シリルが手帳を開いた。


「今日の予定を確認しますわよ。帳簿三冊目の照合の仕上げ。エストの追加確認の最終段階。印字型魔導具の王都への照会開始。それと——」


「それと?」


「エルナ・ネーベルへの連絡をどうするか、今日中に判断が必要かと存じますわよ」


 食堂が少し静かになった。


(エルナ・ネーベル。……エルナの父親の名前が、ネーベル・アルバ。Lとしてエストが証言した人物と、同名。これを、エルナ本人にどう伝えるかという問いですわよ)


「エルナさんは、今どこにいますかしら」


「王都ですわよ。……第一章の時点では、ヴィクトリア家への協力者として動いていただいていましたわよ。今は、直接の連絡経路は使っていない状態ですわよ」


(王都で、今も動いている。……エルナさんが父親のことをどこまで知っているか、私には分かりませんわよ。知っていて動いているのか、知らずに動いているのか。あるいは、知っていて隠しているのか)


「エルナさんへの連絡は、今日はまだしませんわよ」


「理由をお聞きしてもよろしいですかしら」


「帳簿の照合が終わって、エストの供述が整って、魔導具の出所が確認されてから、初めて動きますもの。……証拠が整う前に連絡して、エルナさんが動揺してしまったら、Lの側にそれが伝わる可能性がありますわよ」


「あるいは、エルナさん自身がLに知らせる可能性も」


「排除しませんわよ、その可能性は。……ただし、今の時点でエルナさんを疑うことも、しませんもの。証拠が整うまでは、どちらの可能性も持ったままにしておきますわよ」


 シリルが手帳に書き留めた。


「エルナ・ネーベルの件、帳簿照合完了後に再判断。……承知しましたわよ」


(打ち消さない。疑いも、信頼も、どちらも持ったまま。それが今できる一番丁寧なことですもの)


* * *


 カスミ弁護士が、帳簿の三冊目に向かった。


 今日は昨日よりも顔色が良かった。ライスが用意した港茶が、疲れに効いたらしい。


「今日の午前中に、三冊目の照合を終わらせますわよ」


「よろしくお願いしますわよ」


 私はエストとの最終確認に入ることにした。


 別室でシリルが同席する形で、昨日の残りの部分を確認した。


 エストは今日も表情を作らない顔をしていた。ただ、昨日よりも少し椅子の座り方が変わっている。背中が、わずかに伸びている。


(この人は、少しずつ変わっていますわよ。……何かが、降りてきているのかもしれませんもの)


「エストさん、最後に一点だけ確認させてくださいな」


「……何を」


「フォル・ネビュラ以外に、ドレインが活動していた拠点について、知っていることがありましたら」


 エストが少し間を置いた。


「……全部は知らない。ドレインは、一つの拠点が別の拠点を知らない構造になっているからだ」


「それは分かっていますわよ。……あなたが知っている範囲で構いませんもの」


「フォル・ネビュラの他に、私が直接関与したのは二か所だ。……一か所は聖教国の港、もう一か所は内陸の商業都市」


(聖教国の港。……これは、第三章「聖教国・カビ取り編」への布石になりますわよ)


(打ち消さずに、記録しておきますもの)


「内陸の商業都市というのは」


「……セドゥン商会の本拠地がある都市だ。名前はモルト。フォル・ネビュラから南に三日の距離にある」


「モルト」


 シリルが手帳に書いた。


「セドゥン商会の本拠地が、フォル・ネビュラから南三日の内陸にある。……J-3の送金先の実態が、物理的な場所として特定できましたわよ」


(絡まった汚水の、もう一つの端が見えてきましたわよ。カラミからセドゥン商会を経由して、モルトという都市へ。その先にアドルフ・ケルハムがいて、さらにその先にLがいる)


「エストさん、モルトに今もドレインの活動はありますかしら」


「……三か月前の封鎖の後、どうなったかは分からない。ただ、モルトはLが直接管理している拠点だった。フォル・ネビュラより、Lに近い場所だ」


「Lに近い」


「はい。……Lがモルトに来ることがあった。フォル・ネビュラには来なかったが、モルトには定期的に」


(Lが定期的に来る場所。……ネーベル・アルバが、モルトという都市に定期的に来ていた。これは、次の清掃場所が見えてきたということかもしれませんわよ)


 私は扇子を少し開いた。


(今すぐ動く話ではありませんもの。帳簿が証拠の形になってから、丁寧に次を考えますわよ)


「ありがとうございますわよ、エストさん。今日の確認は以上ですわよ」


 エストが少し頷いた。


 立ち上がりながら、一度だけ振り返った。


「……ヴィクトリア」


「なんですかしら」


「Lに近づく時は、気をつけろ。……ガルベスやスルッツとは、種類が違う」


(種類が違う。……ガルベスは腐敗した貴族、スルッツは染み込まれた組合長。どちらも、外からの汚れが染み込んだ型の人間ですわよ。でもLは違う、とエストが言っていますもの)


「どう違いますかしら」


 エストが少し止まった。


「……ガルベスは、利益のために動く。スルッツは、守るために動いた。Lは……」


 また止まった。


「Lは、何のために動いていますかしら」


「……分からない。七年間、Lの下で動いていたが、Lが何を望んでいるかは一度も見えなかった。利益でも、権力でも、名声でもない気がした。ただ、動いている。それだけだった」


(ただ、動いている。……動くこと自体が目的の存在。あるいは、目的が私たちには見えていないだけ。どちらにしても、単純な「焼却処分」では終わらない相手かもしれませんわよ)


 打ち消さずに、持っておくことにした。


* * *


 午前の半ばに、予想外の訪問者が来た。


 漁師亭の主人が、困った顔で食堂に入ってきた。


「……ヴィクトリア様、港の方から人が来ていますわよ。ガント組合の人間だと言っていますが」


(ガント組合から。……スルッツが今日、組合に出ていることは確認していましたわよ。組合の人間が来るとしたら、何かが起きたということかもしれませんわよ)


「どういう様子ですかしら」


「……急いでいる顔をしていますわよ」


 私はシリルを見た。シリルが小さく頷いた。


「お通しくださいな」


 入ってきたのは、四十代の男だった。組合の作業服を着ている。スルッツよりも背が高く、顔の日焼けが深い。


 男は食堂に入って、私の顔を見て、一度後ろを確認した。


「……ヴィクトリア様ですかしら」


「ええ。どういたしましたかしら」


「組合長に言われてきましたわよ。……今朝から、港の東区に見慣れない船が入ってきましたわよ。スラム号以外のもの。船籍は出ていますが、偽りの可能性があるとテルミ副長が判断しましたわよ」


(新しい船。……スラム号はエストが来た船。廃灯台の人員を収容した後、船はまだ浅瀬に錨を降ろしたままですわよ。その状況で、新しい船が東区に入ってきたということですわよ)


「船籍はどこになっていますかしら」


「セドゥン商会の荷運び船として登録されていますわよ。……でも、荷を降ろす様子がなく、ただ停泊しているだけですわよ」


(セドゥン商会の船。……タイミングが良すぎますもの。エストが廃灯台で封じられた後、セドゥン商会の名義の船がフォル・ネビュラに入ってきた。これは、確認しに来た船ですわよ)


「リタ」


 チャキッ。


「東区の港に行って、その船を外から確認してきてくださいな。……乗り込まなくてよろしいですわよ。停泊している様子と、乗組員の人数を見てくれれば十分ですもの」


 チャキッ。


 リタが外套を羽織って、音もなく食堂を出た。


 組合の男が、リタの背中を少し驚いた顔で見送った。


「……あの方が動いてくださるんですかしら」


「ええ。ガント組合の皆さんには、今日も通常通り業務を続けていただきたいですわよ。……港の様子が普通でなければ、向こうも警戒しますもの」


「スルッツ組合長も同じことを言っていましたわよ」


「賢明なご判断ですわよ」


 組合の男が、少し肩の力を抜いた顔をした。


「……組合長は今日、朝から様子が違いますわよ。何年かぶりに、顔が違いましたわよ」


(何年かぶりに、顔が違う。……スルッツが、長い間ずっと抱えていたものを降ろし始めているということですわよ)


「そうですかしら」


「昨日の夜、事務所の残業を一人でやっていたんですわよ。何を整理しているのかは分からなかったんですが、今朝になって——」


 男が少し口を閉じた。


「今朝になって、なんですかしら」


「……組合の全員に、ちゃんと顔を見て挨拶しましたわよ。それだけなんですが。……十年近く、そういうことをしなかった人が、今朝したので」


(十年ぶりの挨拶。……昨日私たちと話したスルッツが、今朝組合の三十二人に顔を見て挨拶した。それは、引き受ける覚悟を決めたということですもの)


「お知らせくださってありがとうございますわよ」


 男が軽く頭を下げて、出ていった。


* * *


 リタが戻ってきたのは、一時間後だった。


 紙片を持っていた。


 シリルが受け取って読んだ。


「……東区の第四桟橋に、中型の荷運び船が停泊。船名は『デイン号』。帆に、セドゥン商会の略称と思われる文字が入っている。乗組員の人影は、甲板上に四名。荷の積み降ろしは行っていない。船内に照明の気配があり、中にも人間がいる模様。……以上ですわよ」


(デイン号。……デイン、という言葉には、ルーデ語で「澱引き」という意味がありますわよ。澱を引き寄せる、あるいは澱の中に引き込む、というような含みを持つ言葉ですもの)


(澱引き船が、フォル・ネビュラに来ましたわよ。タイミングから考えて、エストの失踪確認か、廃灯台の状況確認のために来た船ですわよ)


「シリル、デイン号が来た目的は何だと思いますかしら」


「二つ考えられますわよ。……一つ目、エストと廃灯台の人員が応答しないことを受けて、状況確認に来た。二つ目、廃灯台の残置物——特に未回収の文書がないかを確認しに来た」


「どちらの可能性が高いですかしら」


「……封書については、昨日こちらが回収しましたわよ。封書が廃灯台にないと分かれば、こちらの手に渡った可能性を疑います。廃灯台の外観が封じられた形跡があれば、なおさらです」


「リタが廃灯台の外周を封じた時、形跡はありましたかしら」


 チャキッ。


 リタが首を振った。形跡なし、という意味だ。


「……外から見て分からない形で封じた、ということですわよ。リタらしいですもの」


「それでも、エストと廃灯台の二名が帰らないという事実だけで、デイン号は動いてきた可能性がありますわよ。封書があるかどうかは、まだ分からない段階で」


(どちらにしても、デイン号は状況を確認するために来た。確認の結果、どう動くかは、まだ見えませんわよ)


「デイン号が今日動くかどうか、午後の潮の時間まで様子を見ますわよ」


「はい。……ただし、一点だけ申し上げてもよろしいですかしら」


「どうぞ」


「デイン号が動く前に、こちらが動く必要があるかもしれませんわよ」


「どういうことですかしら」


 シリルが手帳を開いた。


「デイン号がセドゥン商会の名義で動いているとすれば、帳簿照合で出てきたセドゥン商会の名義と、物理的な船が一致するということになりますわよ。これは証拠として非常に有効ですが」


「でも」


「デイン号が港を出てしまえば、その一致が確認できなくなります。帳簿の記録と、現実の船を同じ場所で照合できる機会は、今日限りかもしれませんわよ」


(帳簿の記録と、実際の船を同じ場所で照合する。……これはカスミ弁護士の仕事ですわよ。法廷証拠として、帳簿の名義と現実の船を結びつける記録を取ることができれば)


「カスミ弁護士」


 カスミ弁護士が帳簿から顔を上げた。


「帳簿の照合で出てきたセドゥン商会名義の荷の記録と、東区第四桟橋のデイン号を、法的に結びつける記録を今日取ることは可能ですかしら」


 カスミ弁護士がしばらく考えた。


「……可能ですわよ。公証人の立会いが必要ですが、フォル・ネビュラには公証事務所がありますわよ。私が証人として船の外観と帳簿記録の照合を文書化すれば、それは法廷証拠として機能しますわよ」


「今日の午後にできますかしら」


「帳簿の最終照合を午前中に終わらせれば、午後に公証事務所に行けますわよ」


「お願いしますわよ」


 カスミ弁護士が帳簿に向き直った。


 手の動きが、少し速くなった。


* * *


 午前の最後に、シリルが書類を整理しながら言った。


「印字型魔導具の照会について、フロード補佐官への経路で連絡を送りましたわよ」


「いつ頃返答が来ますかしら」


「早ければ三日後。……ただし」


 シリルが少し間を置いた。


「フロード補佐官から、昨日付けで別の連絡が来ていますわよ」


「昨日ですかしら。どういう内容ですかしら」


「王都の状況ですわよ。……ガルベス子爵が、今週から動きを活発化させているとのことですわよ。具体的には、国境警備予算の削減法案が、来週の議会審議に入る予定になっているとのことで」


(国境警備予算の削減法案。……B-2で積み上げてきた腐敗貴族連合の動きですわよ。ガルベス子爵が、こちらがフォル・ネビュラにいる間に、王都で動いているということですもの)


「来週の審議に入るとしたら、こちらが王都に戻るのはいつが適切ですかしら」


「帳簿の証拠化に三日、プラスデイン号の照合と追加の整理を考えると——今週末までにここでの作業を終えれば、来週の審議に間に合いますわよ。ただしギリギリですわよ」


(今週末。……今日が四日目ですもの。あと三日でフォル・ネビュラの掃除を一段落させる必要がありますわよ)


「急がせる理由が、向こうから来ましたわよ」


 私は扇子を少し開いた。


(でも急いでかき混ぜてはいけませんもの。向こうが動いているからといって、こちらが焦って雑な掃除をすれば、かえって汚れを広げますもの)


(今週末までに、丁寧に、一層ずつ終わらせますわよ)


「シリル、今週末の見通しで整理をお願いしますわよ。何をいつまでに終わらせるかを、今日の昼に確認しますわよ」


「かしこまりましたわよ」


* * *


 昼食の少し前、カスミ弁護士が帳簿を閉じた。


「三冊目、照合完了しましたわよ」


 食堂に静かな空気が流れた。


「……全体を通じての最終確認をお願いしますわよ」


「はい」


 カスミ弁護士が、書類を一枚まとめたものを取り出した。自分でまとめた整理書類だ。


「七年分、三冊の帳簿について。改竄件数、四十七件。関係する名義はセドゥン商会、マル・アド商会、アドルフ・ケルハム名義の口座の三系統。改竄の実行者はスルッツ組合長で、単独。改竄の指示系統は、スルッツの証言と照合済み。印字型魔導具による書式複製の痕跡が五年前以降の記録に確認。……以上が帳簿から確認できる事実ですわよ」


「法廷証拠として使えますかしら」


「使えますわよ。……ただし、今申し上げたのは事実の部分ですわよ。なぜそうなったかについては、スルッツ組合長とライスさんの証言録が必要ですわよ」


「証言録の作成は、今日の午後から始められますかしら」


「デイン号の照合が終わった後、夕方から取りかかれますわよ」


「お願いしますわよ」


 カスミ弁護士が書類を畳んだ。


「……一点だけ申し上げてもよろしいですかしら、クレア様」


「どうぞ」


「七年分の帳簿を読んでいて、気づいたことがありますわよ」


「なんですかしら」


「改竄の記録は、全部残っていましたわよ。スルッツが、七年間一件も隠蔽しなかった。……帳簿に書いて、別にライスさんが副本を作って、それを港の底に沈めた。消そうとした形跡が、一件もないですわよ」


(消そうとしなかった。……スルッツは改竄を続けながら、でも記録を消さなかった。ライスが副本を作ることを、知っていて黙認していたということかもしれませんわよ)


「知っていたと思いますかしら、スルッツは」


「……私の見立てでは、知っていましたわよ。組合の副長が七年間帳簿に触っていれば、副本を作っていないはずがないですもの。スルッツは、ライスが記録を残していることを知って、止めなかった」


(止めなかった。……改竄を続けながら、記録が残ることを止めなかった。それは、いつか誰かに来てほしかった、ということかもしれませんわよ。今朝、組合の全員に顔を見て挨拶したスルッツが、ずっとそれを待っていたということですもの)


 私は窓の外を見た。


 霧が、昼になっても薄くならなかった。


(この港の人間は、霧の中で待ち続けていましたわよ。ライスは帳簿を沈めて。スルッツは記録を消さないで。七年間、霧の中で)


「カスミ弁護士、帳簿の照合お疲れ様でしたわよ」


「とんでもございませんわよ。……ただし、本当に疲れましたわよ」


 カスミ弁護士が初めて、少し素直な声で言った。


 私は少し笑った。


「昼食の後、少し休んでくださいな。午後のデイン号の件は私とシリルで参りますわよ」


「……よろしいですかしら」


「よろしいですわよ。帳簿を読み終えた人間が、船まで走る必要はありませんもの」


* * *


 午後、潮の変わる少し前だった。


 私とシリルは公証事務所に寄ってから、東区の第四桟橋に向かった。


 霧は相変わらず濃かった。港の水面が、霧の中で音だけしている。


 デイン号は、午前中と同じ場所に停泊していた。


 帆に、セドゥン商会の略称と思われる文字が確かに入っている。塗料が少し色褪せているが、判読できる。


 公証事務所から連れてきた書記官が、船の外観と帆の文字を記録用紙に書き留めた。帳簿の記録と照合するための、現物確認の書面だ。


(証拠が、紙の上だけでなく、水面に浮かんでいますわよ。……セドゥン商会の名義で動いていた荷が、今この港に船として存在しているということを、書面の形にしますもの)


 シリルが書記官に帳簿の写しの一部を見せた。書記官がそれと船の帆の文字を丁寧に照合して、書面に記録した。


 作業が終わった時、デイン号の甲板に人影が出てきた。


 先ほどリタが確認した四名とは別の人間だ。背が高く、旅装ではなく船乗りの服を着ている。こちらを見ているが、動かなかった。


(こちらに気づいていますわよ。……公証事務所の書記官を連れた人間が、船を記録しているという状況を、見ていますもの)


 私はその人影を見た。


 扇子を少し開いた。


(焼くほどの相手ではありませんわよ。……今日は記録が取れれば十分ですもの)


「シリル、書記官への署名をお願いしますわよ」


「かしこまりました」


 シリルが書面に署名した。書記官が封をして、公証の印を押した。


 それだけだった。


 デイン号の人影は、最後まで動かなかった。


 ただ、見ていた。


(見ていていいですわよ。……帳簿の記録と、あなたの船が、今日一つの書面の上に並びましたもの)


* * *


 漁師亭に戻ると、ライスが来ていた。


 今日は珍しく、組合の作業服ではなく普通の上着を着ていた。


「……午後の組合業務が終わりましたわよ。スルッツ組合長も、今日は無事でしたわよ」


「デイン号について、組合から何か動きはありましたかしら」


「デイン号が入港した際の手続きを担当したのは、私ではなかったですわよ。スルッツ組合長が直接対応しましたわよ。……荷降ろしの予定がないと申告した船なので、停泊料だけ受け取って、それ以上は何もしていませんわよ」


「スルッツが対応した時、デイン号から何か話しかけてきましたかしら」


 ライスが少し考えた。


「……一点だけ。デイン号の船長が、スルッツ組合長に確認したことがあるそうですわよ。廃灯台に連絡を取りたいが、どう連絡すればいいかと」


(廃灯台への連絡方法を確認してきた。……やはりデイン号は、廃灯台との接触を目的に来ていますわよ)


「スルッツはどう答えましたかしら」


「廃灯台は廃屋なので、そういった情報は組合では持っていないと答えたそうですわよ」


「正解ですわよ」


 ライスが少し頷いた。


「スルッツ組合長は、今日一日、完璧に普通の組合長でしたわよ。……変わったことを一つも言わなかった。それが一番難しかっただろうと思いますわよ」


(十年間の重荷を降ろした翌日に、また普通の顔で立つ。……それは確かに難しいことですわよ。でも、スルッツはやりましたもの)


「ライスさん、証言録の作成を今日の夕方から始めたいのですが、よろしいですかしら」


「……はい。話せることは全部、話しますわよ」


「スルッツさんも、今日できますかしら」


「聞いてみますわよ。……たぶん、来ると思いますわよ」


* * *


 夕方、スルッツが漁師亭に来た。


 入ってくる前に、一度扉の前で止まった気配がした。


 それから、静かに入ってきた。


 カスミ弁護士が短い休憩を取った後、また書類を広げていた。ライスとスルッツを見て、小さく頷いた。


「証言録の作成に入りますわよ。……お二人の証言を別々に、書面の形にします。書いたものは必ずお二人に確認していただいてから、署名をいただく形にしますわよ」


 スルッツが椅子に座った。


 大きな手をテーブルの上に置いた。昨日と同じ仕草だ。


「……始めましょうかしら」


「はい」


 私は食堂の端に退いた。証言録の作成は、カスミ弁護士とシリルに任せる。私がいると、スルッツとライスが話しにくいかもしれませんわよ。


 リタが扉の内側に立った。


 私は窓の外の霧を見た。


(今日一日で、かなり整いましたわよ。……帳簿の照合完了。デイン号の照合書面。エストの最終確認。証言録の開始)


(今週末まで、あと二日ですもの。丁寧に終わらせますわよ)


* * *


 証言録の作成が続く中、夜の入口で、シリルが私のそばに来た。


「お嬢様、一点だけご報告がありますわよ」


「なんですかしら」


「デイン号が、夕方の潮と一緒に出港しましたわよ。リタが先ほど確認しましたわよ」


(出港しましたわよ。……書面の作成を見て、情報を持ち帰りに行ったということですわよ)


「どちらに向かいましたかしら」


「南ですわよ。……モルトの方向ですわよ」


(モルト。……エストが言っていた、セドゥン商会の本拠地がある都市。Lが定期的に来る場所。デイン号がそちらに向かったということは)


「Lに、フォル・ネビュラの状況を報告しに行きましたわよ」


「そうなりますわよ。……報告の内容としては、おそらく廃灯台が封じられた可能性と、公証書記官を連れた人間が船を記録したということですわよ」


(Lがフォル・ネビュラの状況を知る。……デイン号がモルトに着くまでに三日。つまり今週末、こちらが帳簿の証拠化を終えて動き出す頃に、LがフォルネビュラのことをデイN号から聞く形になりますもの)


「タイミングが、ちょうど重なりますわよ」


「はい。……意図しているわけではないですが、結果として、こちらの動きとLへの情報到達がほぼ同時になりますわよ」


(同時になる。……それは、次の清掃を急ぐ理由にはなりませんもの。証拠が整ってから、丁寧に進みますわよ。Lがフォル・ネビュラのことを知ったとしても、帳簿はもうこちらの手にありますもの)


「構いませんわよ」


 私は言った。


「デイン号が持ち帰れるのは、見えたことだけですもの。……帳簿の中身は、見ていませんわよ」


 シリルが完璧な笑顔を作った。


「仰る通りですわよ。……澱の底を見ようとしても、霧の中では底まで見えませんもの」


(霧の港ですもの。……霧は、時に守る側に立ちますわよ)


* * *


 証言録の作成が一段落したのは、夜もかなり深まった頃だった。


 スルッツとライスの証言、それぞれ一日目分が書面になった。明日、両者に読み直してもらって署名をもらう形にする。


 スルッツが帰る前に、一度食堂の入口で振り返った。


「……デイン号が来たことは知ってますわよ」


「ええ」


「港を出るのを見ましたわよ、夕方に。……あの船には、一度荷を運んだことがありましたわよ。五年前の話ですわよ」


(五年前。……空白の荷主の荷を廃灯台に届けた時の話ですわよ)


「デイン号で届けましたかしら」


「……ええ。あの時も、今日と同じ顔をしていましたわよ、あの船は。ただ停泊して、見ているだけの顔ですわよ」


 スルッツが少し間を置いた。


「……今日、あんたが書記官を連れて船の記録を取っているのを見ましたわよ。遠目から、組合の窓越しにですが」


「ご覧になっていましたかしら」


「ええ。……あの時、五年前に、誰かあんたみたいな人間が来てくれていたら、と思いましたわよ」


(五年前に来られなかった理由を、私は知りませんわよ。……でも、来た時に来たということですもの)


「今日来ましたわよ、スルッツさん」


 スルッツが少し目を細めた。


「……ええ。今日来ましたわよ」


 それだけ言って、出ていった。


 ライスも少し後で出ていった。出る前に、私に向かってではなく、食堂全体に向かって軽く頭を下げた。


 扉が閉まった。


* * *


 静かになった食堂で、夜のティータイムになった。


 今夜はリタが準備した。


 昨日の港揚げ菓子でも、霧茶でも、港茶でもない。


 リタが食卓に置いたのは、白い小さなポットと、深めのカップが三つ。それから、小さな包みが一つ。包みを開くと、薄い飴細工の菓子が並んでいた。フォル・ネビュラの飴は、海の塩と木の実の蜜を合わせて作るらしく、透き通った琥珀色をしていた。


「シリル、これはどこで手に入れましたかしら」


 シリルがリタを見た。リタが首を少し傾けた。


「……市場では売っていないと聞いていましたが」


 チャキッ。


 リタが小さな紙片を出した。


 受け取って読むと、フォル・ネビュラの言葉で短く書いてあった。


「……ライスさんの手書きですわよ。市場の裏の飴屋の場所が書いてありますわよ。リタへの置き手紙だったようですわよ」


(ライスが、リタに飴屋の場所を伝えた。……いつ、どこで。ライスとリタの間で、こういうやり取りが発生していましたわよ)


(聞かないでおきますわよ。D-2とK-2が、今夜もそっと動いていますもの)


 ポットから注いだ。


 今夜の茶は、霧茶よりも香りが立っていた。花に近い香りだ。


「シリル、今夜の茶は何ですかしら」


「リタに確認したところ、霧花茶というものらしいですわよ。フォル・ネビュラの春に咲く、霧の中でしか開かない花の乾燥花を混ぜた茶だそうで。……漁師亭の主人が、今夜はこれがいいと言って渡してくれたそうですわよ」


(霧の中でしか開かない花の茶。……この港は、霧の中でしか見えないものが多いですわよ。帳簿も、飴屋も、この茶も)


 飲んだ。


(花の香りと、後味に海の風が来ますわよ。……淡い味ですもの。でも、重なっていますわよ。海と花が、一つのカップの中にいますもの)


 飴細工を一つ取った。


 口に入れると、最初に塩が来て、すぐに蜜の甘さが広がった。


(塩と甘みが、順番に来ますわよ。……この港の菓子は、どれも塩と甘みが一緒にいますもの。一つのものの中に、相反するものが同居している)


 シリルがカップを持ちながら言った。


「今日一日、お疲れ様でしたわよ。……今週末までの見通しが、少し明確になりましたわよ」


「ええ。明日が証言録の仕上げ、明後日が最終整理と王都への出立準備ですもの」


「エストの身柄については、どういたしますかしら」


「王都に連れ帰りますわよ。……エストの供述は、まだ続きがありますもの。陛下に報告する前に、整理しておく必要がありますわよ」


「かしこまりました」


「それと、霧についてですが」


「はい」


「今夜、最後の返事を扉に挟んでおいてくださいな」


「どのような内容にしますかしら」


 私は少し考えた。


 窓の外を見た。


 今夜の霧は、今日の中で一番濃かった。


(霧の中でしか開かない花の茶を飲みながら、霧に向けて言葉を書きますわよ)


「こう書いてくださいな」


 シリルに言った。


*「フォル・ネビュラの掃除が一段落しますわよ。今週末には港を出ますもの。……もし次にお会いする機会があれば、その時は霧を通さずにお話しできれば嬉しいですわよ。ご案内に、感謝いたしますわよ」*


 シリルが書き留めた。


「……お嬢様らしい締め方ですわよ」


「そうですかしら」


「はい。……焼却でも、拘束でも、追跡でもなく、次のご縁を開けておく形ですわよ」


 私はカップをソーサーに戻した。


(霧は、答えるかどうか分かりませんもの。……でも、開けておくことはできますわよ)


 リタが飴細工を一つ、自分の手に取った。


 口に入れる前に、少しだけ光に透かして見た。


 琥珀色の飴が、ランプの灯りで少し輝いた。


 それから、静かに食べた。


(リタが何かを光に透かして見ることは、滅多にないですわよ。……何を考えていたのかは、分かりませんもの。でも、今夜はそれでいいですわよ)


「シリル、今週末の出立については、明日の朝に最終確認しますわよ」


「かしこまりました。……なお、ガルベス子爵の国境警備予算削減法案が来週の審議に入ることを踏まえますと、王都に戻り次第、すぐに陛下への報告が必要になりますわよ」


「分かっていますわよ」


「ガルベス子爵は、こちらがフォル・ネビュラにいる間は泳がせておくとのことでしたが——」


「帰ったら、少し収まり悪くなっていただきますわよ」


 シリルが完璧な笑顔を作った。


「……澱の底を引き上げてきた後ですので、濾し取る作業が必要ですわよ。産業廃棄物の最終処分は、適切な手続きを経た方が、後腐れがないですもの」


(後腐れがない。……そうですわよ。フォル・ネビュラで形にした証拠が、王都に戻った時の掃除の道具になりますもの)


 霧花茶をもう一口飲んだ。


 花と海の重なりが、今夜最後の一口まで続いた。


 窓の外の霧は、まだ濃いままだった。


(霧の港の四日目が終わりますわよ。……今週末には、この霧の外に出ますもの)


(でも、この港で引き上げたものは、霧が晴れた後も手の中にありますわよ)


 カップをソーサーに置いた。


 今夜は、それで十分だった。

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