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第33話:帳簿の染みは、丁寧に読む

 翌朝、扉の隙間には何もなかった。


 シリルが確認したのは夜明け前で、昨夜挟んでおいた返事の紙片が消えていたことだけが分かった。霧からの返信はない。


(板を直すという実務的な返事に、霧はどう受け取りましたかしら。……感謝、ということは霧には余分なのかもしれませんわよ。あの方は、必要なことだけを伝えてきますもの)


 打ち消さずに、持っておいた。


 朝食の食堂は、今日も漁師亭の主人が整えてくれた。昨日より少し品数が多い。焼いたパンと、ハーブ入りの白身魚のスープ。小さなバター皿が添えてある。


「今日も長い一日になりそうですからわよ」


 主人が言った。言い方に特別な意味はない。二日続けて、この一行が朝から晩まで食堂で書類を広げているのを見ているだけの、素直な観察だ。


「ありがとうございますわよ」


 私はパンにバターを塗った。


 シリルが、既に手帳を開いていた。カスミ弁護士は昨夜から帳簿の二冊目の照合を続けていたらしく、今朝は机の端で少し眠っていた。リタが、カスミ弁護士の肩にそっと上着を掛けているのを私は見なかったことにした。


(リタが、人に上着を掛けることがありますわよ。……D-2は今日も温存しますわよ)


「シリル、今日の優先順位を確認しますわよ」


「はい。……一つ目、帳簿残り二冊の照合継続。二つ目、エストへの追加確認。三つ目、ネーベル・アルバの件の整理。この三つが今日の軸ですわよ」


「順番は」


「帳簿の照合が終わらないと、エストへの追加確認に使う材料が揃いません。……照合を先に進めながら、並行してエストとの確認を行う形が現実的ですわよ」


「ネーベル・アルバの件は、今日はまだ動かしませんわよ」


「はい。……急いで動く案件ではないと、昨日お嬢様がご判断になった通りかと存じます」


(ネーベル・アルバ。……エルナの父親と同名。Lである可能性をエストが証言した。でも、証言一つで動いてしまえば、かき混ぜるだけになりますもの。帳簿と廃灯台の文書と、エストの供述が揃ってから、丁寧に読み直す必要がありますわよ)


* * *


 午前の半ばに、カスミ弁護士が目を覚ました。


 上着が肩に掛かっていることに気づいて、一瞬だけ周囲を見た。誰も何も言わなかった。カスミ弁護士が静かに上着を畳んで、帳簿の前に戻った。


「二冊目の照合、昨夜の続きを始めますわよ」


「体の具合はよろしいですかしら」


「問題ありませんわよ。……ただし、二冊目は一冊目より記録が細かいですわよ。荷の種類の区分が、後年になるにつれて複雑になっていますわよ」


「複雑になるのは、なぜですかしら」


「改竄の方法が洗練されてきているということだと思いますわよ。……最初は単純な数字の書き換えだったのが、五年目以降は架空荷主の名義を複数の組み合わせで使い始めていますわよ。一つの荷を、複数の書類に分割して、それぞれ別の名義を当てる方法ですわよ」


(分割して、それぞれに別の名義を当てる。……ゴミを細かく砕いて、分類が難しくするやり方ですわよ。見た目には小さなゴミの山が複数あるように見えるけれど、実際は一つの大きなゴミを分けただけですもの)


「どなたが、その複雑な方法を指示したかは分かりますかしら」


 カスミ弁護士が少し間を置いた。


「……指示書の形では残っていないですわよ。でも、複雑になった時期が、先ほど申し上げた五年前と一致しますわよ。五年前に廃灯台に荷主名空白の荷が届いてから、改竄の方法が変わっていますわよ」


(五年前の荷が届いてから、方法が変わった。……あの荷の中に、何かがありましたかしら。指示書か、あるいは別の何かか)


「L-2の件ですわよ」


 シリルが言った。


「五年前の空白の荷の中身が分かれば、改竄方法の変化も説明がつく可能性があります」


「エストに確認しますわよ、後で」


* * *


 昼前、別室でエストとの確認を行った。


 シリルが横に座り、手帳に書き留めながら聞く形だ。エストは昨日よりも表情が少し落ち着いていた。警戒が残っているが、完全に閉じているわけでもない。


「五年前の荷について、確認させてくださいな」


 私は言った。


「荷主名が空白のもの。廃灯台に小舟で届けたとスルッツさんが証言していますわよ。……あなたも関与していたと昨日伺いましたわよ」


「……関与した」


「荷の中身は何でしたかしら」


 エストが少し間を置いた。


「……文書、と」


「文書、と?」


「文書と、もう一つ。……小さな装置が入っていた」


(装置。……文書と装置の組み合わせですわよ。廃灯台に届けて、その後改竄方法が変わった。装置が改竄を洗練させるための何かだったとすれば)


「装置の種類は分かりますかしら」


「……魔導具だ。印字型の、小さなもの」


「印字型の魔導具」


 シリルが顔を上げた。


「印字型の魔導具は、特定の筆跡や書式を複製する機能を持つものがありますわよ。……廃灯台で回収した書類鞄の中に、複数の書式が混在していた件と一致しますね」


(複製。……架空の荷主名義の書式を、複数パターン複製することで、改竄の痕跡を分散させる仕組みですわよ。一人の筆跡ではなく、複数の人間が記録したように見せかける装置)


「エストさん、その装置の出所は分かりますかしら」


「……Lから来た。どこで作ったかは聞いていない」


「廃灯台で、今もその装置を使っていましたかしら」


 エストが短く答えた。


「……廃灯台に置いてきた。片付けに来た時、まだそこにあった」


 私はシリルを見た。


「リタが確保した木箱の中ですかしら」


「確認します」


 シリルが食堂に戻って、少しして戻ってきた。


「木箱の一つに、布で包まれた小型の魔導具が入っていました。……印字型の刻印が底面にあります。品番の刻印が、王都の職人工房の番号ですわよ」


(王都の職人工房の番号。……隣国に持ち込まれた装置が、王国で作られた魔導具だということですわよ。国内と国外の繋がりが、また一点、形になりましたもの)


「工房の番号から、依頼主が辿れますかしら」


「手配師を経由している可能性が高いですが、工房には発注記録があります。……王都の協力者に確認を依頼すれば、一週間以内に依頼主の仮特定はできますわよ」


「フロード補佐官に」


「はい。……王城の財務記録の差分を届けてくださった方ですので、こういった照合依頼も経路として使えるかと存じます」


(フロード補佐官。……第一章から続く、王城内での動き。こちらがフォル・ネビュラで澱を引き上げている間も、あちらは王城で動いていますもの)


「依頼してくださいな」


 エストが、しばらく黙っていた。


「……一つ、聞いてもいいか」


「どうぞ」


「王都の掃除は、終わったのか」


 私は少し考えた。


「第一章は、終わりに近いですわよ。……ガルベス子爵と、王子の件が残っていますもの」


「ガルベスは」


「まだ、ですわよ。……でも、この帳簿が形になれば、ガルベス子爵への証拠が一段と整いますもの」


 エストが少し目を細めた。


「……ガルベスが、マル・アド商会を使って荷を動かし始めたのは、Lの指示だった。ガルベスはLの下にいる」


「ガルベス子爵が、Lの指示を受けて動いていた、ということですかしら」


「そうだ。……ガルベスは自分が上だと思っている。でも実際は、Lに利用されている立場だった」


(ガルベス子爵が、Lに利用されている。……腐敗貴族連合の筆頭黒幕だと思っていたガルベスが、さらに上の構造の中に組み込まれていましたわよ。ゴミ箱の中にあったゴミが、別のゴミ袋の中に入っていた、ということですもの)


「ガルベス子爵は、Lの存在を認識していますかしら」


「……名前は知らない。でも、指示が来る先があることは分かっている。自分より上の存在がいるとは、薄々感じているはずだ」


 シリルが手帳に書き留めた。


「ガルベス子爵の処理タイミングについて、再考が必要かもしれませんわよ」


「分かっていますわよ」


 私は扇子を開いた。


(ガルベス子爵を先に処理してしまえば、Lはガルベスを失ったことに気づく。気づいた後、Lは次の手を打つ。……ガルベスを泳がせながら、Lへの証拠を整える。その方が、一層ずつ丁寧に剥がすことができますもの)


「ガルベス子爵は、もう少し、泳がせておきますわよ」


 シリルが完璧な笑顔を作った。


「蓋を開ける前に、袋の口を結んでおく、ということですかしら」


「うまいことを言いますわよ、シリル」


「ありがとうございます。……産業廃棄物は、適切な収容器に入れてから、然るべき施設で処理した方がエコでございますわよ」


 エストが、二人のやり取りを少し見ていた。


(エストは、今の話をどう聞いていましたかしら。……ドレインの中間管理者として動いてきた人間が、今この食堂で、王家の掃除人の処理方針を聞いている。奇妙な状況ですもの)


「エストさん、Lについて、もう一点だけ確認させてくださいな」


「……何を」


「LとG-1の『霧』との関係は、何か分かりますかしら」


 エストが止まった。


 止まり方が、昨日とは違った。昨日は計算している止まり方だった。今日の止まり方は、少し別の種類の止まり方だ。


(知っているか、あるいは触れたくないことかしら)


「……霧は、Lとは別だ」


「別の人物ということですかしら」


「別の人物で、別の立場だ。……Lは霧を、警戒していた」


(Lが霧を警戒していた。……ドレインの上位者が、別の誰かを警戒していた。霧は、ドレインの中にいるのではなく、ドレインの外側で動いている存在ということですわよ)


「それ以上は、分かりますかしら」


「……分からない。霧と直接、接触したことはない。ただ、フォル・ネビュラに霧が来たことがある、という話は聞いていた」


「いつ頃のことですかしら」


「……三年前。カラミの旧桟橋で、ドレインの連絡役が霧らしき人物に接触されたという報告があった。その後、その連絡役は消えた」


(三年前。……カラミの旧桟橋で、霧がドレインの連絡役に接触した。その後、連絡役は消えた。消えた、というのはどういう意味かしら。死んだのか、あるいはこちら側に来たのか)


「消えた、というのは」


「……ドレインとの連絡が途絶えた、という意味だ。どこに行ったかは分からない」


(ドレインの連絡役が、霧と接触した後、姿を消した。……霧が、その人物を連れていったということかもしれませんわよ。あるいは、その人物が自分で動いたか)


 打ち消さずに、持っておくことにした。


* * *


 昼食は、漁師亭の主人が食堂に持ってきた。


 シチューと、厚切りのパンだ。魚介の出汁が強く効いていて、港の香りがした。


 カスミ弁護士が、帳簿から顔を上げた。


「……二冊目の照合が、八割方終わりましたわよ」


「今日中に終わりそうですかしら」


「夕方までには。……ただし、一点、別のものが出てきましたわよ」


「どのようなものですかしら」


 カスミ弁護士が、帳簿の間に挟まっていた紙を取り出した。


 帳簿の紙ではない。別の紙だ。折り畳まれていて、端が少し変色している。帳簿と一緒に港の底に沈んでいたらしく、防水処理の外側が少し湿気を含んでいる。


「これは、ライスさんが帳簿の間に挟んでいた紙ですわよ。……帳簿の記録ではなく、ライスさん自身の手で書いたメモですわよ」


 カスミ弁護士が私に渡した。


 折り畳みを開いた。


 小さな字で、びっしりと書いてある。スラジ語と、王国語が混在している。


(読みますわよ)


 シリルが隣から覗き込んで、静かに読んだ。


 しばらく、二人で黙って読んだ。


 食堂が少し静かになった。


「……これは」


 シリルが言った。


「七年前、最初の改竄が始まった時から、ライスさんが記録し続けていた『何故』の記録ですわよ」


(何故の記録。……帳簿は事実の記録だが、このメモはライスが「なぜこうなったのか」を自分のために書き留めていたものですわよ)


 私は読み続けた。


 七年前の最初の改竄指示が来た時、ライスはスルッツに一度だけ異議を申し立てた、とある。スルッツは断れなかった理由を説明した。ライスは納得しなかったが、止める力がなかった。だから記録することにした、と書いてある。


 その後の記録は、年ごとになっている。改竄が増えるたびに、ライスが感じた何かを短い言葉で書き留めている。


 五年目の項目で、手が止まった。


*「荷が届いた。中を見ていない。見ることを許されなかった。でも、翌月から改竄の方法が変わった。それまでとは別の誰かが、この港を管理し始めたということだと思う。その誰かは、私たちの名前を知っているが、私たちはその誰かの名前を知らない」*


(見ることを許されなかった。……五年前の荷を、ライスは中を見ていない。でも、何かが変わったことには気づいていましたわよ。名前を知っている誰かがいて、こちらは名前を知らない、という構造に気づいていた)


 最後の項目は、三か月前になっている。


*「定期便が止まった。カスミ弁護士から接触があった。七年間書いてきた帳簿を、誰かに渡せるかもしれない。帳簿は事実を記録しているが、このメモは私が感じたことを記録している。帳簿だけでは、なぜこうなったかが分からない。このメモを一緒に渡せれば、受け取った人が、もう少し丁寧に読んでくれると思う」*


(もう少し丁寧に読んでくれると思う。……ライスは、このメモが読まれることを前提に書いていましたわよ。帳簿の事実だけではなく、なぜそうなったかを伝えたかった)


 私はメモを置いた。


 扇子を少し開いた。


(丁寧に読みますわよ、ライスさん。……七年分の澱の中に、こういうものが沈んでいましたわよ)


「シリル、ライスさんにこのメモについて確認したいですわよ。今日の午後に会えますかしら」


「はい。……午後の組合の業務が終わる頃に来てもらえるよう、連絡しますわよ」


「それから、もう一点」


「はい」


「このメモを、証拠として使う前に、ライスさんに一度読み直してもらいますわよ。……ライスさんが書いたものを、ライスさんに確認せずに使うのは、丁寧ではありませんもの」


 シリルが少し間を置いた。


「……承知しました」


 カスミ弁護士が、帳簿に視線を戻しながら言った。


「……クレア様」


「なんですかしら」


「ガルベス子爵とダスト侯爵家の顧問弁護士として七年間働いてきましたわよ。その間に、私も見ていたものがありますわよ。証言の形にはなっていないですが」


「今すぐでなくて構いませんわよ」


「ええ。……でも、ライスさんのメモのような形にはできますわよ。帳簿の事実の横に、なぜそうなったかを私が記録した形で」


(カスミ弁護士も、ライスさんのメモと同じものを持っているということですわよ。法廷の証拠とは別に、なぜそうなったかの記録。……これは、帳簿より先に読まなければならないものかもしれませんわよ)


「書いてくださいますかしら。……帳簿の照合が終わったら、でよろしいですわよ」


「はい」


* * *


 午後、ライスが漁師亭に来た。


 シリルがメモを渡すと、ライスは立ったまま読んだ。


 長い時間、読んだ。


 最後の項目を読み終えた時、ライスは顔を上げなかった。


「……読んでくださいましたか」


「ええ。……丁寧に読みましたわよ」


 ライスが顔を上げた。


「港の人間が、こういうものを渡してきて、丁寧に読んでくれると言った人間に、初めて会いましたわよ」


「ライスさんが、そう受け取ってくれるように書いていましたもの」


 ライスが少し目を細めた。


「……このメモを、証拠として使いますかしら」


「帳簿と一緒に照合する材料にしますわよ。……ただし、メモの内容については、ライスさんが証言者として話してくださる場合にのみ、書面として提出しますもの。この紙を黙って使うことはしませんわよ」


「証言者として、私が話す必要があるということですかしら」


「必要はありませんわよ。……でも、もし話してくださるなら、帳簿の事実の横に、なぜそうなったかが添えられますもの。その方が、掃除が丁寧になりますわよ」


 ライスが、少し長く黙った。


(ライスが、今考えていますわよ。……七年間記録し続けた人間が、その記録を自分の言葉で話すかどうか、を)


「……話しますわよ」


「ありがとうございますわよ、ライスさん」


「お礼を言われることではないですわよ。……七年間、ずっと誰かに話したかったですわよ、これを」


 食堂が少し静かになった。


 リタが、入り口の扉の内側で、チャキッという音を一つ立てた。


 静かな、確認するような音だった。


* * *


 夕方、カスミ弁護士が三冊目の帳簿の照合に入った。


 シリルが書類を整理しながら、私に手帳を見せた。


「今日一日の確認事項をまとめますわよ。……印字型魔導具の出所追跡、フロード補佐官経由で依頼。エストの追加供述で、ガルベス子爵がLの指示系統に組み込まれていたことを確認。霧とLが別の立場であることも確認。ライスさんのメモについて、本人の確認を得た上で証拠として扱う方針を決定」


「整理されていますわよ」


「もう一点あります」


「なんですかしら」


「廃灯台の書類鞄の中身の照合が半分終わりましたわよ。……一点、気になるものがありました」


「どういうものですかしら」


「書類鞄の中に、宛名のない封書が一通ありましたわよ。封蝋がされていて、開封されていません。……封蝋の文様が」


 シリルが手帳に小さく描いた文様を見せた。


(これは……)


「シリル、この文様を前に見ましたわよ」


「はい。……第40話で、主要港の資料室にてダスト傍系紋章と照合したエストの封蝋と、同じ文様です」


(エストの封蝋。……E-1の「ガルベスとモモ・ダストの接点」の伏線で確認していた照合済みの文様ですわよ。ダスト傍系紋章と一致していた封蝋が、今日廃灯台の書類鞄から出てきましたわよ)


「封書は、開封していないということですわよ」


「はい。……宛名がないことと、廃灯台という場所に置かれていたことを考えると、これはエストが廃灯台に届けておいた何かである可能性があります。あるいは、廃灯台に来るはずだった誰かに向けて用意されていた封書かもしれません」


(廃灯台に来るはずだった誰かに向けて。……三か月前にLがフォル・ネビュラを封鎖した後も、エストが片付けに来た。その片付けの一部として、この封書が廃灯台に残されていた可能性がありますもの)


「エストに確認しますわよ」


 エストに封蝋の文様を見せた。


 エストが少し表情を動かした。


「……届けるはずだった封書だ」


「誰に、ですかしら」


「……Lに。フォル・ネビュラの封鎖の経緯について、私がまとめた報告書だ。でも、Lとの連絡経路が封鎖された後、届ける手段がなくなって廃灯台に置いてきた」


(Lに届けるはずだった封書が、届かないまま廃灯台に残っていた。……これは、エストとLの間の連絡が完全に機能していなかったことを示しますわよ)


「この封書の中身を、確認してもよろしいですかしら」


 エストが少し間を置いた。


「……見ていい。Lには届かなかった封書だ」


「開封しますわよ、シリル」


 シリルが、封書を丁寧に開いた。


 中には、短い書面が一枚あった。王国語ではなく、スラジ語だった。シリルが黙読して、王国語に訳しながら読み上げた。


*「フォル・ネビュラの封鎖について、現地からの報告。帳簿はカラミの旧桟橋に存在している。既に証拠の形になっている可能性がある。即時回収を推奨する。ただし、回収の際は三番目の板に注意されたい。今朝の時点で腐食が確認された」*


 食堂が静かになった。


 かなり長い静かさだった。


(……三番目の板に注意されたい。今朝の時点で腐食が確認された)


 私はシリルを見た。


 シリルが私を見た。


(この封書は、今朝届いた霧の警告と、同じことを書いていますわよ)


「シリル」


「はい」


「この封書はいつ書かれたものですかしら、日付は入っていますかしら」


 シリルが封書を確認した。


「……日付は、三日前ですわよ。私たちが漁師亭に到着した前日です」


(三日前。……私たちが到着する前日に、エストが書いた封書に、三番目の板が腐食しているという情報が書いてある。その同じ情報が、昨夜霧の紙片でこちらに届いた)


(エストが知っていた情報を、霧も知っていた。……霧は、エストが廃灯台に置いた封書の内容を、読んでいた可能性がありますわよ)


「エストさん」


「……なんだ」


「この封書の内容を、他に誰かに伝えましたかしら」


「……誰にも言っていない。Lに届けるはずだった封書で、届かなかった。廃灯台に置いてきた以外は、誰にも話していない」


(誰にも話していない。……でも霧が同じ情報を持っていた。ということは、霧が廃灯台の封書を読んでいたということですわよ)


(霧は、廃灯台に入ったことがある。あるいは、エストの封書を読める立場にある)


 私は扇子を閉じた。


(霧の正体について、今日また一歩、形が見えてきましたわよ。でも急がないですもの。……丁寧に、一層ずつ読み解いていきますわよ)


* * *


 夜が来た。


 カスミ弁護士が、三冊目の帳簿の照合を半分まで進めた。今夜は残りを持ち越すことにして、一度手を止めた。


「今日の照合で確認できたことを申し上げますわよ」


「どうぞ」


「三冊分の帳簿の中で、セドゥン商会・マル・アド商会・アドルフ・ケルハム名義の口座に関係する改竄は、合計で四十七件ですわよ。金額の総額は、フォル・ネビュラの年間港湾税収の約三割に相当しますわよ」


(三割。……港の税収の三割が、カラミの汚水として絡まっていた。三年分ではなく、七年分の累積ですもの)


「法廷証拠として整えるのに、あと何日かかりますかしら」


「照合の完了に、明日いっぱい。書類の整理に、二日。……合計で三日あれば、ガント組合の荷捌き改竄については法廷証拠の形になりますわよ」


「三日ですわよ」


「はい。……ただし、スルッツ組合長とライスさんの証言を添付する形にするなら、証言録の作成に追加で半日かかりますわよ」


「添付する形にしますわよ。……帳簿の事実だけでは、なぜそうなったかが分かりませんもの」


 カスミ弁護士が少し目を細めた。


「……分かりましたわよ」


* * *


 夜の食堂が静かになった頃、シリルが一枚の紙を持ってきた。


「本日の扉への返事ですわよ。……挟んでおく前に、お嬢様にご確認いただきたく存じます」


「読みますわよ」


 紙を受け取った。


*「廃灯台の封書を拝読しましたわよ。三番目の板の件については、既に昨日板を直させましたわよ。……一点だけ確認させてくださいな。三年前にカラミの旧桟橋でドレインの連絡役と接触した後、その方がどこへ行かれたか、ご存知でしたらお教えいただけますかしら」*


 私はシリルを見た。


「上手い聞き方ですわよ、シリル」


「確認できることと、できないことの境目を、慎重に選びましたわよ。……霧が答えてくれるかどうかは分かりませんが、聞いておく価値はあると存じます」


「扉に挟んでおいてくださいな」


「かしこまりました」


* * *


 夜のティータイムは、今夜はシリルではなくライスが用意してくれた。


 漁師亭の主人の厨房を借りて、ライスが自分で淹れてきた、とシリルが説明した。


「……フォル・ネビュラの人間が、感謝を伝える時にやる習慣があるんですわよ。茶を自分で淹れて、渡す、という」


 ライスが食堂の端に、ポットとカップを置いた。ライス自身は食堂に残らなかった。ポットだけを置いて、出ていった。


(ライスらしいですわよ。……直接ありがとうとは言わない。でも、伝わっていますもの)


 ポットから注いだ。


 今夜の茶は、霧茶とも昨日の地茶とも違う色だった。深い赤みがかった茶色だ。


「シリル、これは何という茶ですかしら」


「ライスさんに確認したところ、フォル・ネビュラの漁師が特に寒い夜に飲む茶だそうですわよ。……港茶、という名前で、茶葉に少量の乾燥した海藻と香木を混ぜて煮出す、この港独特のものですわよ」


 飲んだ。


(……深い。海の香りがする。でも、苦くはなくて、後味に甘みがある。塩気の少ない霧茶とも違いますわよ。これは、もっと身体の芯に来る味ですわよ)


 カップをソーサーに置いた。


 リタが菓子を取り出した。今日は港揚げ菓子ではなく、小さな乾菓子だ。干したイチジクと、胡桃が少し混ぜてある。甘さよりも、乾燥した素材の味が前に出ている。


(干した果実ですわよ。……水分を抜いて、長く持つようにした菓子。港の人間が、船の上でも食べられるように作ったものかもしれませんわよ)


 シリルが手帳を閉じた。


「本日の整理が完了しましたわよ」


「ご苦労様ですわよ」


「エストの追加供述、ライスさんのメモ確認、廃灯台封書の解読。……一日で、予定していた以上のものが出てきましたわよ」


「出てくるものが多すぎる日は、急いで整理しないことですわよ」


「はい。……今日出てきたものは、明日の朝に一度並べ直しますわよ。夜に並べると、並べ方を間違えることがありますわよ」


(夜に並べると間違える。……シリルが、そういうことを言うのは珍しいですわよ。でも、正しいですもの。今日出てきた情報は、朝の光の下で読み直す方がいいですわよ)


 私は窓の外を見た。


 今夜の港は、霧が濃かった。


(霧の港に来て、三日目が終わりますわよ。……今日は、帳簿の事実の横にあるものを読む一日でしたもの)


(ライスのメモ。カスミ弁護士の記憶。エストの封書。霧の警告。……全部、帳簿の外側にある話ですわよ。でも、帳簿だけでは分からないことが、外側に書いてありますもの)


 手袋をした手でカップを持ち上げた。


(落ちない汚れのことを、今日は少し別の角度から考えましたわよ。……澱の底に沈んでいるものを引き上げる時、事実だけを引き上げると、なぜそこに沈んでいたかが分からないままになりますもの。なぜそうなったかまで引き上げないと、掃除が終わっても同じ澱がまた積もりますもの)


(それは、私自身の話でもありますわよ。……A-1の問いが、今日は少し別の顔をして来ましたもの)


 打ち消さなかった。


 港茶をもう一口飲んだ。


 深い海の香りが、後味まで続いた。


(明日、帳簿の残りを並べ直しますわよ。ゆっくりと、丁寧に)


 リタが、乾菓子を一粒、自分の口に入れた。


 静かに食べていた。


 シリルが、カップを両手で持った。


「本日のティータイムをもちまして、本日の業務を終了といたします」


「格式ばっていますわよ」


「毎日の節目ですので」


 霧の港の三日目の夜は、深い茶の香りの中で、静かに終わった。

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