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第32話:霧は、朝に読まれる

 翌朝、扉の隙間に挟んでおいた紙片は、なくなっていた。


 漁師亭の正面扉を確認したのはシリルだ。夜明け前から帳簿の照合を続けていたシリルが、空気を入れ替えるために扉を開けた時に気づいたらしい。


「お嬢様、霧から返事が届いていますわよ」


 食堂で朝食の準備を待っていた私の前に、シリルが新しい紙片を置いた。


 小さな紙に、昨夜の文字と同じ手で書かれていた。


*「底まで来てくださるなら、足元に気をつけてください。カラミの旧桟橋の三番目の板が、今朝から腐っています。踏むと抜けますわよ」*


 私は紙片を読んだ。もう一度読んだ。


(昨夜も確認しましたわよ、霧は。……今朝、また旧桟橋に行ったということですわよ。そして三番目の板が腐っていることを確認して、私たちに知らせた)


(これは、案内ですわよ。ただし、向こうから声をかけてくださいとこちらが書いたのに、直接ではなくまた紙片で伝えてくる。……霧は、まだ姿を見せる気がありませんわよ)


「シリル、カラミの旧桟橋の三番目の板について、昨日の時点では腐っていましたかしら」


「リタが外周確認の際に通っていれば、気づいているかもしれません」


 リタに目を向けた。リタが小さく首を振った。腐っていなかった、という意味だ。


「今朝から腐っている、ということですわよ。……今夜か明朝、誰かが旧桟橋を使う予定があるということかもしれませんわよ」


「エストが動くということでしょうか」


(エスト。廃灯台にいる可能性のある人物。スラム号の人影が昨日より減っていた。陸に上がった人間が、廃灯台から旧桟橋方向へ移動するとしたら)


「あるいは、帳簿を引き上げたことにエストが気づいて、旧桟橋の現場確認に来る予定がある、ということかもしれませんわよ」


「帳簿が既に引き上げられていることを確認したら、エストは動きを変えますね」


「ええ。……だから、霧は今朝私たちに教えたんですわよ。旧桟橋を今日使うなら気をつけろ、と」


 私は紙片を指先で押さえた。


(案内役として機能している霧が、今回は危険の回避まで教えてきましたわよ。これは、霧がこちら側に加担する度合いが、昨日より少し上がったということかもしれませんわよ)


 打ち消さずに、持っておくことにした。


* * *


 朝食が運ばれてきた。


 漁師亭の主人が、今朝は少し多めに持ってきた。パンと、温かいスープと、干した小魚を炒めたもの。


「朝に動くお方たちでしたら、しっかり召し上がってからの方がよろしいですわよ」


(主人は、私たちが朝から動くことを分かっていますわよ。……昨夜から食堂の灯りが長く点いていたのを見ていたかもしれませんわよ)


「ありがとうございますわよ」


 カスミ弁護士が、帳簿と書類を脇に置いてスープを飲んだ。昨夜から徹夜で照合を続けていたらしく、目の下に薄い影がある。


「一冊目の照合が完了しましたわよ」


「どうでしたかしら」


「改竄パターンが三種類、それぞれに使われた名義が異なりますわよ。……架空荷主の名義として使われている名前の中に、聞き覚えのある屋号がいくつかあります」


「どの屋号ですかしら」


「セドゥン商会、それからマル・アド商会、と」


 シリルが顔を上げた。


「マル・アド商会は、ガルベス子爵の傍系事業の一つとして第二十四話の資料に出てきた名称です。……まだ繋がりは確定していませんでしたが」


「フォル・ネビュラの帳簿に、ガルベス子爵の傍系事業の屋号が出ているということですわよ」


「はい。……これで、ガルベス子爵とフォル・ネビュラの直接の資金経路が、帳簿の形で残っているということになります」


(直接の資金経路が、帳簿の形で残っている。……B-4の「ガルベスの隣国との繋がり」が、今日の朝に一段と具体的になりましたわよ。証拠が形になりつつありますもの)


 私は干した小魚を少し食べた。


 塩辛く、でも後味に甘みがある。


(港の食べ物ですわよ。……塩と甘みが一緒にいますわよ)


「カスミ弁護士、一点だけ確認させてくださいな」


「はい」


「マル・アド商会の名義で動いた荷の送金先は、どこになっていますかしら」


 カスミ弁護士が書類を引き寄せた。


「……セドゥン商会経由で、その先がアドルフ・ケルハム名義の口座になっていますわよ」


 食堂が少し静かになった。


(アドルフ・ケルハム。……この名前は、以前にも出てきましたわよ。J-5の伏線に上がっていた人物ですわよ。繋がってきましたわよ)


「シリル」


「はい。……J-5のケルハムの件と、B-4のガルベスの隣国との繋がりが、セドゥン商会を経由して接続しているということになりますね」


「この港が、その接続点として機能していましたわよ」


「カラミという名の場所が、文字通り複数の汚れを絡み合わせる機能を担っていた、ということですわよ」


(絡まった汚水。……カラミは地名であり、コードネームであり、そしてこの港が果たしていた機能の名前でもありましたわよ。よく名付けたものですわよ。皮肉なことに)


* * *


 午前中、ライスが漁師亭に来た。


 今朝は昨日より顔が少し落ち着いている。七年分の帳簿が引き上げられたことで、何かが楽になったのかもしれない。


「スルッツについて、お聞きしたいと言っておられましたわよ」


「ええ。……昨日の朝の段階では、証拠の整理を先にしてからスルッツに接触する予定でしたもの。でも今日、状況が少し変わりましたわよ」


「どのように変わりましたかしら」


「帳簿の照合で、ガルベス子爵の傍系事業との直接の資金経路が出てきましたわよ。……これは、スルッツが知っている範囲の話かしら」


 ライスが少し間を置いた。


「……スルッツは、マル・アド商会の名前は知っていますわよ。でも、それがガルベス子爵の傍系事業だとは、知らないと思いますわよ」


「スルッツは、何を知っていて、何を知らないかしら」


「ガント組合の荷捌きが、一部の荷について記録を改竄していること。改竄の指示は、スルッツに直接来ていましたわよ。……でも、改竄した記録がどこへ行くか、何のために使われるかは、スルッツには教えられていなかったと思いますわよ」


(使い捨ての消耗品として機能していた。……指示だけ来て、全体像は見えない。そういうポジションに置かれていたということですわよ)


「スルッツが、改竄を始めたのはどういう経緯でしたかしら」


 ライスが、手元のカップを両手で持った。


「……十年前に、組合が財政難になりましたわよ。そこに、ある商会が助けを申し出た。助けてもらう代わりに、荷捌きの一部について融通を利かせてほしいと言われた。スルッツは当時、組合長になりたての頃で……」


「断れなかった、ということですかしら」


「断ったら、組合が潰れていた。……スルッツは組合の人間を守るために、最初の改竄を受け入れた。でも、一度受け入れると、次が来るようになりましたわよ。そうして十年が経った」


(十年間、一度の受け入れから始まって。……スラフの「七年前、断れなかった」という話と同じ構造ですわよ。最初の一歩が、引き返せない場所まで連れていく)


「スルッツは今も、この状況から出たいと思っていますかしら」


「……毎年、少しずつ老けていますわよ。スルッツは。帳簿の改竄をするたびに、表情が変わる。……出たいと思っているかどうかは、本人に聞かないと分かりません。でも、今の状況が楽だとは、絶対に思っていないですわよ」


 私は少し考えた。


(分別できる可能性があるということですわよ。……スルッツが持っている汚れは、外から染み込んだものですもの。内側から作り出したものとは、性質が違うかもしれませんわよ)


(ただし、確かめるまでは断言できませんもの)


「ライスさん、スルッツに私たちのことを伝えてもらえますかしら。……直接の言葉で、選択肢があると伝えてくださいな」


「……スルッツが警戒して、ドレインの方に報告する可能性はありますわよ」


「ええ。……でも今日の午後までに帳簿の照合が進めば、スルッツが何を報告しても証拠の側は動きませんもの。それより、スルッツに先に選択肢を与えた方が、全体の掃除が早く終わりますわよ」


 ライスが、少し目を細めた。


「……承知しましたわよ。今日の昼、組合の昼休みの時間に伝えますわよ」


* * *


 ライスが出ていった後、シリルが手帳を開いた。


「お嬢様、廃灯台の件を今日の午後に動かすことについて、確認させてください」


「どうぞ」


「帳簿の照合を証拠の形にするには、カスミ弁護士の見立てで五日かかるとのことでした。ただし、エストが今日か明日、旧桟橋の現場を確認しに来るとすれば、タイムラインがぶつかります」


「どうぶつかりますかしら」


「エストが旧桟橋に来て、帳簿がないことを確認すれば、エストは廃灯台に戻って何らかの行動を取ります。……最悪の場合、証拠の隠滅のために廃灯台ごとの退去、あるいはこちらへの直接の妨害が考えられますわよ」


(帳簿がなくなったと気づいたエストが、次に何をするか。……片付け屋が来て、片付けたはずのものがなかった時の次の行動ですわよ)


「エストが旧桟橋に来た場合、今日の午後に動けますかしら」


「リタが廃灯台を押さえ、私が旧桟橋を塞ぐことで、エストの行動選択肢を絞ることはできます。ただし、廃灯台の中にエスト以外の人間がいる場合——」


「スラム号から上陸した人間が、廃灯台にいる可能性がありますわよ」


「はい。……その場合、処理が複雑になりますわよ」


 私は扇子を開いた。


 フォル・ネビュラの朝の空気が、少し塩の匂いを運んでくる。


(今日の掃除の構造を整理しますわよ。……まず、帳簿の照合が証拠として形になることが最優先ですもの。その間に、エストが動かないようにするか、あるいは動いたところで処理するか)


(エストが旧桟橋に来れば、旧桟橋で処理できますわよ。廃灯台の中の人間とエストを分離できる。……でも、三番目の板が今朝から腐っているとするなら、旧桟橋は今日使えますかしら)


「霧の警告通り、三番目の板は今日は使えませんわよ」


「はい。……ただし、板が腐っているという情報は、こちら側だけが持っていますわよ。エストは知らないかもしれません」


(エストは知らない。……腐った板があると知らずに旧桟橋に入ってくれば、板を踏む。踏めば、最低でも一歩止まりますわよ。その一瞬が、使えるかもしれませんわよ)


「面白い状況ですわよ」


 私は言った。


「霧が教えてくれた危険が、今日のおそうじに使えますもの」


 シリルが完璧な笑顔を作った。


「廃灯台の中の人間については、リタが外から封じてから、エストの処理後に対処する形でよろしいですかしら」


「ええ。……ただし、廃灯台の中の人間の数を今日の昼までに確認しておいてくださいな。スラム号の人影が昨日より何人減っているか、港の監視から数えられますかしら」


「ライスさんに確認を頼めます。組合の人間として、漁船の錨地の人影を確認することは不自然ではありませんわよ」


「お願いしますわよ」


* * *


 午前の途中、意外な来客があった。


 食堂の入口から、男が一人入ってきた。


 五十代後半。背が低く、体格が良い。顔の色が浅黒く、手が大きい。組合の作業服を着ているが、組合長のバッジは今日は胸に付けていない。


(スルッツ、ですわよ)


 ライスが伝えに行くのは昼休みと言っていた。でも今は午前の半ば過ぎだ。


(自分で来ましたわよ。……ライスが伝える前に、自分で動いたということですわよ)


 スルッツが食堂の中を見回した。私の顔を見て、一瞬だけ止まった。


 私は立ち上がらなかった。


「どうぞ、お座りくださいませ。……スルッツ組合長」


 スルッツが、私の向かいの椅子を少し引いた。座る前に、食堂の中を一度確認した。シリルを見た。リタを見た。リタを一番長く見た。


 座った。


「……ライスから聞く前に来た、ということは分かってますわよ」


 スルッツの声は低かった。港の風にさらされた声だ。


「どうやって知りましたかしら」


「今朝、帳簿が引き上げられたことを確認しに、早朝に旧桟橋を見に行きましたわよ。……カラミの旧桟橋の三番目の板が今朝から腐ってましたわよ。昨日の夕方まで腐っていなかった板が」


(スルッツも今朝、旧桟橋を確認したということですわよ。三番目の板が今朝から腐っているのに気づいた。……霧と同じことに気づいた。あるいは、霧がスルッツにも警告したか)


「帳簿は、こちらにありますわよ」


「……知ってますわよ。知ってるから、来たんですわよ」


 スルッツが大きな手を、テーブルの上に置いた。


「七年間、帳簿に何を書かされたか、知ってますわよ。全部知ってて、止められなかった。……今日、来たのは、言い訳をしに来たわけじゃないですわよ」


「では、何のために来ましたかしら」


「先に話した方が、最後に何か残ると思ったからですわよ」


(先に話した方が、最後に何か残る。……スラフが「全部書けば生きていられるか」と聞いた時とは、少し違う言葉ですわよ。スルッツは生き残ることよりも、何かを残したいと言っていますわよ)


(「何か」とは何かしら)


「残したいものは、何ですかしら」


 スルッツが少し黙った。


「……組合の人間ですわよ。三十二人いますわよ、今の組合に。……あの人間たちは、改竄のことを知らないですわよ。私が一人でやって、一人で隠してきた。あいつらに罪はないんですわよ」


(組合員を守りたいということですわよ。……十年前に組合が財政難になった時、組合の人間を守るために最初の改竄を受け入れた、とライスが言っていましたわよ。今も、同じ理由で動いていますわよ、この人は)


「三十二人の名前は、帳簿に出てきますかしら」


「出てこないですわよ。……私が一人でやって、一人で隠した。あの帳簿に書いてある名前は、私の名前と、改竄を命じた側の屋号だけですわよ」


 私はシリルを見た。


 シリルが小さく頷いた。


(帳簿の照合で確認されていることと、スルッツの話が一致していますわよ。改竄の実行者の署名は、一人分のみ)


「スルッツ組合長、一点だけ確認させてくださいな」


「……なんですわよ」


「十年間、最初の一歩から今日まで、あなたが守り続けてきたものが組合の人間であるとしたら」


 私は扇子を少し開いた。


「あなた自身が積み上げてきた汚れと、あなたが守ったものは、分けて考えることができますわよ」


 スルッツが私を見た。


「……どういう意味ですわよ」


「汚れは汚れとして処理しますわよ。でも、汚れの中に守ったものがあるなら、それは分別できますもの。組合の三十二人が何も知らなかったことも、帳簿があれば証明できますわよ」


 スルッツの大きな手が、テーブルの上で少し動いた。


「……話せることは、全部話しますわよ。十年間分」


「ありがとうございますわよ」


「ただ」


 スルッツが目を細めた。


「一つだけ聞かせてくださいよ。……あんたは、誰が送り込んだ人間ですわよ」


(直球ですわよ、この人は。……港の人間は、霧より直球ですもの)


「王家の掃除人ですわよ」


 スルッツが少し間を置いた。


「……聞いたことがありますわよ。その名前は」


「ご存知でしたかしら」


「カラミの旧桟橋で、七年前に一度、似たような人間に会いましたわよ。名乗らなかったけれど、同じ種類の目をしてましたわよ」


(七年前。……カラミの旧桟橋で、王家の掃除人と思われる人間に会っていた。その人間は何をしていたのかしら。なぜ今になって初めて動きが出たのかしら)


 私は内心でその問いを収めた。


 今はスルッツに集中する時だ。


* * *


 スルッツの聴取は、昼食前まで続いた。


 十年間分の経緯は、帳簿の内容と細部まで一致していた。改竄を命じた側の屋号、荷の種類、金額の流れ。スルッツの記憶は鮮明だった。後ろめたい記憶というのは、鮮明なものですわよ、とシリルが後で言った。


 一点だけ、帳簿に出てこなかった情報があった。


「……荷の中に、一度だけ普通の荷ではないものが混じっていましたわよ。五年前ですわよ」


「どういうものでしたかしら」


「開けていないから分かりませんわよ。でも、重さと大きさが、通常の荷と違った。そして、扱いが特別でしたわよ。……特定の人間しか触れてはいけない、という指示が来た」


「その荷は、どこに行きましたかしら」


「ルファス岬の廃灯台に、小舟で運びましたわよ」


 食堂が静かになった。


「廃灯台に、荷を届けた経験があるということですわよ」


「一度だけですわよ。……あそこは今も使われているんですかしら」


「今朝の段階では、そうですわよ」


 スルッツが少し表情を変えた。


「……そうか。まだ使われてるんですかしら」


(スルッツの顔が、少し違いましたわよ。五年前に届けた荷のことが、まだ頭にあるかもしれませんわよ)


「その荷について、覚えていることは他にありますかしら」


「荷主の名前が、書類に書いてなかったですわよ。……通常は必ず荷主の名前があるのに、その荷だけ、名前の欄が空白でしたわよ」


(名前の欄が空白。……それは、記録に残せない荷ということですわよ。架空の名義さえ使わなかったということは、記録に残すこと自体を避けたということかもしれませんわよ)


「シリル」


「はい。……帳簿の五年前の記録を確認します。荷主名が空白のものがあれば、その日付でスルッツの話と照合できますわよ」


 カスミ弁護士が二冊目の帳簿を開いた。


 三分後に、顔を上げた。


「ありましたわよ。五年前の春、荷主名欄が空白の荷の記録が一件。……届け先の欄には、ルファス桟橋と書いてありますわよ。これだけが、記録の書き方が他と違いますわよ」


「どう違いますかしら」


「他の記録は、スルッツの筆跡ですわよ。……この一件だけ、別の筆跡ですわよ」


(別の筆跡。……スルッツが書いた記録ではなく、誰かが書いて差し込んだ記録ということかもしれませんわよ。あるいは、スルッツの手を使わずに書かせた)


 スルッツが少し固まった顔をした。


「……私が書いたわけじゃないですわよ、その欄は。荷が来た日に、別の人間が書いていきましたわよ。私は荷を確認して、小舟を出しただけですわよ」


「その別の人間というのは、どういう人物でしたかしら」


「旅装の男でしたわよ。名前は言わなかった。……でも、ヴァルスという名前で呼ばれているのを、荷揚げの作業員の一人が聞いていましたわよ」


(ヴァルス。……ヴァルス・スラム。エストの本名ですわよ)


 私はシリルを見た。


 シリルが手帳に書き留めながら、完璧な笑顔を作った。


「五年前から、エストはフォル・ネビュラに来ていたということになりますね。……廃灯台が拠点として機能しはじめたのも、おそらくその時期からでしょうわよ」


「スルッツさん、その荷について、今から一つお願いがありますわよ」


 スルッツが私を見た。


「……なんですわよ」


「今日の午後、もう一度だけ組合長として動いてくださいな」


* * *


 昼前、ライスが組合事務所から戻ってきた。


 顔が少し急いでいた。


「スルッツが朝から行方不明ですわよ。……組合の人間が心配していますわよ」


「ここにいますわよ」


 ライスが食堂に入って、スルッツの顔を見た。二人が数秒、見つめ合った。


 ライスが先に目を逸らした。


「……良かったですわよ」


「何がですわよ」


「あんたが、ちゃんとした顔をしてるから、良かったと言ったんですわよ。ここ三年、あんたの顔がどんどん変わってたから」


 スルッツが、大きな手で頭を少し掻いた。


「……うるさいですわよ」


(この二人は、七年間、同じ組合の中で逆の方向を向いていたんですわよ。一人は記録を続けて、もう一人は改竄を続けて。……同じ場所に七年間いた二人が、今日初めて、同じ側にいますもの)


「ライスさん、スラム号の人影の数を午前中に確認できましたかしら」


「はい。……昨日の夕方は五人の人影がありましたわよ。今朝の段階で、三人になっていますわよ」


「二人、陸に上がっているということですわよ」


「はい。……一人は廃灯台方向、もう一人は東区の市場方向に向かったと、桟橋の漁師が言っていましたわよ」


(一人は廃灯台、一人は市場。……市場に行った人間は、食料の調達か、あるいは情報収集かもしれませんわよ。廃灯台に行った人間が、エストである可能性が高いですわよ)


「廃灯台に向かった人物が、今日の午後に旧桟橋に来る可能性がありますわよ」


 私はシリルに向かって言った。


「今日の午後の動き、整理しますわよ」


「はい」


「一つ目、スルッツ組合長に、午後の組合の昼休みの後、普通に組合事務所に戻っていただきますわよ。……組合が動揺しないように、日常の動きを維持してくださいな」


 スルッツが頷いた。


「二つ目、リタは廃灯台の外周に配置してくださいな。廃灯台から誰かが出てきた時に、封じてもらいますわよ。中には入らなくてよろしいですわよ、今日は」


 チャキッ。


「三つ目、エストが旧桟橋に来た場合、私が対応しますわよ」


 シリルが少し目を細めた。


「……お嬢様が直接、ということですかしら」


「ええ。……カラミの旧桟橋は、港の底から証拠を引き上げた場所ですもの。片付け屋が来るなら、そこで会うのが筋ですわよ」


「護衛は?」


「リタは廃灯台ですわよ。シリルは、カスミ弁護士の帳簿照合の続きを見ていてくださいな。……私一人で十分ですもの」


「……一点だけ申し上げてもよろしいですかしら、お嬢様」


「どうぞ」


「エストが王都の調査でも捉えられなかった人物だということを、念頭に置いていただけますかしら」


「分かっていますわよ」


 私は扇子をゆっくり閉じた。


「でも、こちらには今、霧の警告がありますもの。三番目の板が腐っているという情報が。……エストは知らないけれど、私は知っていますわよ」


* * *


 午後の三時頃、潮の変わる時間だった。


 カラミの旧桟橋に、私は一人で来た。


 潮が満ちる直前で、桟橋の下は既に水が戻り始めている。昨夜水が引いていた部分が、今は半分以上水に入っている。


 三番目の板は、見た目には他の板と変わらなかった。でも、私は一番端の側から、二番目の板を踏んで、四番目の板に移った。三番目を飛ばした。


(霧の言う通り、三番目は踏まないですわよ)


 風魔法を薄く展開した。


 海の風が、今日の午後は少し強い。霧が薄い日だ。


 待った。


 十分後、桟橋の入口に人影が見えた。


 中背の男だ。旅装で、フードを被っている。昨日ライスが「廃灯台方向に向かった」と言っていた体格に近い。


 男が桟橋に踏み込んだ。


 一歩、二歩。


 三歩目を踏んだ瞬間、板がメシッと音を立てた。


 男が足を引いた。三番目の板が完全には抜けなかったが、踏み込んだ足がおかしな角度に沈んだ。一瞬、体が崩れた。


 その一瞬に、私は扇子を開いた。


「ようこそ、カラミの旧桟橋へ、ですわよ」


 男がフードの中から私を見た。


 三十代後半、目が細い。表情を作らない顔だ。


「……ヴィクトリア」


「ヴァルス・スラムさん、とお呼びしてもよろしいかしら。それとも、エストの方がご希望かしら」


 男が立て直した。板の手前に戻った。


「……帳簿は、あんたが引き上げたのか」


「ええ。昨夜のうちに。……防水布が一度開かれていた形跡がありましたわよ。あなたが確認していましたかしら、それとも別の方でしたかしら」


 エストが少し動いた。


 動こうとした方向に、風魔法を薄く張った。体にではなく、足元の空気に。足を踏み込むと、わずかに抵抗がある。歩けないわけではないが、動きが一瞬遅くなる仕掛けだ。


「逃げることはできますわよ。……でも、廃灯台はもう封じてありますもの。スラム号まで、今日中に戻れるかどうか」


 エストが止まった。


(計算していますわよ。……この人は感情で動く人間ではないですもの。今の状況で最も得をする選択肢を、冷静に計算しているはずですわよ)


「帳簿の内容は、既に照合が始まっていますわよ」


 私は言った。


「セドゥン商会、マル・アド商会、アドルフ・ケルハム名義の口座。……五年前に荷主名を空白にして廃灯台に届けた荷のことも、証言者がいますわよ」


 エストの表情が、一瞬だけ動いた。


「Lは」


 私は答えなかった。


「……Lの名前は出ているのか」


「帳簿からは、まだですわよ」


 正直に言った。


「でも、他の経路から浮上しつつありますわよ。……Lがあなたに、フォル・ネビュラの片付けを命じたのはいつ頃のことでしたかしら」


 エストが黙った。


 海の風が少し吹いた。フードの端が揺れた。


「……三か月前」


「Lがルファスのコードを封鎖したのと、同時期ですわよ」


「そうだ」


「Lはなぜ、フォル・ネビュラを封鎖したのかしら」


「……聞いてない」


(聞いていない。……Lは理由を教えない上位者ですわよ。エストはLの意図の全部を知っているわけではないということですわよ)


「エストさん、一つだけ伺いますわよ」


「……何を」


「あなたは、Lのやり方と、自分のやり方の間に、差があると思いますかしら」


 エストが私を見た。


 細い目が、少し動いた。


「……どういう意味だ」


「ドレインの組織として動いてきた。でも、フォル・ネビュラの片付けに来た理由が、Lの命令だけなら、なぜ帳簿の防水布を確認してから、そのまま戻したのかしら。帳簿を持ち去るのではなく」


 エストが黙った。


「帳簿を持ち去れば、証拠は消えていましたもの。でも、あなたは確認してから戻した。……誰かが後でその帳簿を必要とすることを、考えましたかしら」


(これは読み過ぎかもしれませんわよ。……でも、確認して戻す、という行動は、消去とは違う何かがありますもの。単なる確認だったとしても、消去しなかったことは事実ですわよ)


 エストが少し長く黙った。


「……ライスが、七年間帳簿を沈めて守っていたことは知っていた」


「知っていて、持ち去らなかったということですわよ」


「……使えると思っていた。誰かが引き上げに来れば、それが証拠になると」


(使えると思っていた。……エストは、帳簿が証拠として機能することを期待していた。でも自分では使わなかった。それは、Lに対してエストも何かを感じているということかもしれませんわよ)


「エストさん」


「……」


「Lの名前を、教えてくださいな」


 エストが、初めて少し視線を外した。海の方を見た。


「……教えれば、どうなる」


「あなたの処理を、分別しますわよ。……帳簿を消さなかったこと、ライスの記録を守ったこと、今日こうして話していること。それらを、Lのもとで動いてきた部分と、分けて考えますもの」


「保証するのか」


「保証できるのは、陛下が最終的に判断することだけですわよ。……でも、全部を焼却するわけではない、ということは言えますもの。今日私が話した人間は、今のところ全員、焼却していませんわよ」


 海の風が吹いた。


 エストが、長い間黙った。


 桟橋の下で、波が板を叩いた。


「……ネーベル・アルバ」


 静かな声で言った。


「それが、Lの名前だ」


* * *


 カラミの旧桟橋から、私とエストと合流したシリルが漁師亭に戻ったのは、日が傾きかけた頃だった。


 戻る道すがら、エストは一度だけ立ち止まった。


「……逃げようとしても意味はないな」


「ございませんわよ。シリルが合流した今、なおさらですもの」


 エストが小さく息を吐いた。それ以上何も言わなかった。


 リタが廃灯台から戻ってきたのは、その三十分後だ。


 廃灯台の中には、スラム号から上陸した二名がいた。リタが外から封じた結果、二名は廃灯台の中で大人しくしていたらしい。船に戻る経路を塞がれて身動きが取れなかっただけとも言える。


 二名はシリルが手配した経路で別の場所に送ることになった。


「……リタ、廃灯台の内部の様子はどうでしたかしら」


 チャキッ。


 リタが紙片を出した。


*「木箱三つ。書類鞄一つ。暗号文の形式と同じ書式の紙、複数」*


「木箱と書類鞄は、確保しましたわよ」


 シリルが言った。


「書類鞄の中身は、今夜照合しますわよ。……ただし、一点重要なことを確認できましたわよ」


「どういうことですかしら」


「書類鞄の中に、王都で確認したロムルス・スラッジ書記官の筆跡と同じ書式の文書がありましたわよ。……スラッジ書記官の供述と、廃灯台の文書が、同じ流れに属することが確認できますわよ」


(スラッジ書記官と廃灯台の文書が、同じ流れに。……第一章で確保したスラッジの供述が、第二章のフォル・ネビュラで繋がりましたわよ。国内と国外が、今日一日でつながりましたもの)


「シリル、ネーベル・アルバという名前について、手帳に記録はありますかしら」


 シリルが少し間を置いた。


「……G-1の『霧』と、K-3でも示唆されていた名前ですわよ。エルナ・ネーベルの父親の名前が、ネーベル・アルバですわよ」


(エルナの父。……エルナ・ネーベルが、第一章から関与していた人物ですもの。その父親が、Lであるとエストが言ったということですわよ)


 私は扇子を閉じた。


(これは、急いで動く話ではありませんわよ。……今日一日で、フォル・ネビュラの三層の汚れが、一層ずつ見えてきましたもの。ガント組合の改竄、廃灯台の拠点、そしてLの名前。全部を今日のうちに焼却するのではなく、分別してから次の段階へ進む話ですもの)


「シリル、今日の成果を整理してくださいな」


「はい。……スルッツ組合長の聴取完了。廃灯台の確保と人員の収容。エストからのLの名前の証言。帳簿照合一冊目完了。廃灯台の文書確保。……以上が本日の成果です」


「それと」


「はい?」


「霧の警告が、今日の掃除に有効に機能しましたわよ。……三番目の板の件が、エストを一瞬止めましたもの」


 シリルが手帳に書き留めた。


「霧の件については、今夜の返事に盛り込みますかしら」


「扉の隙間に、もう一枚置いておきますわよ」


* * *


 夜になった。


 漁師亭の食堂で、今日の整理が一段落した。


 カスミ弁護士が目の下の影を深くしながらも、帳簿の二冊目の照合を続けている。


 エストは、別室で待機している。完全に自由ではないが、シリルと一問一答の形で追加の確認が続いていた。


 リタが小さなテーブルに、いくつかのものを置いた。


 今夜の配置は昨日と少し違う。昨日は主人が持ってきたが、今日はリタが準備した。


 白磁のポット。カップが三つ。


 それと、漁師亭の厨房で仕入れていたらしい、港の菓子が一皿。平たくて、砂糖と塩を混ぜたような粉がまぶしてある、揚げた菓子だ。


「これは何ですかしら」


 主人を呼んで確認したら、フォル・ネビュラの港揚げ菓子だという答えが来た。


「潮風で乾いた身体に、塩と糖を一度に取れるように作った菓子ですわよ。漁師が帰ってきた時に、港で売っていますわよ。今日、市場で買ってきましたわよ」


(リタが、市場で買ってきましたわよ。……廃灯台に行く前か、戻ってきた後に。どちらかですわよ)


「ありがとうございますわよ、リタ」


 チャキッ。


 小さく、静かな音だった。


 霧茶を注いだ。今夜の茶は、昨日より少し濃く出ていた。


 飲んだ。


(濃い。……今日は一日、動いたからかもしれませんわよ。あるいは、リタが少し多めに茶葉を使ったか)


 港揚げ菓子を一枚取った。


 サクッとした歯ごたえで、揚げた油の風味に、塩と砂糖が一度に来た。


(なるほど、港の味ですわよ。……疲れた身体に、これは確かに合いますもの)


 カスミ弁護士が顔を上げた。


「……いい匂いがしますわよ」


「どうぞ」


 菓子を勧めた。カスミ弁護士が一枚取った。


「フォル・ネビュラで生まれ育っていないと、この菓子は知りませんわよ。……どこで」


「リタが市場で買ってきましたわよ」


 カスミ弁護士がリタを見た。リタが微かに頷いた。


「……珍しいですわよ。この菓子は、港の市場の中でも、古い商人のおじさんが売っている店にしかないんですわよ。普通の旅人は見つけられないですわよ」


(リタが、特定の店を知っていた、ということかしら。……いつ、どこで、この港の情報を得たのかしら)


 聞かなかった。


 リタには、聞かない方がいいことがある。


(D-2「リタの過去」が、また少しだけ見えましたわよ。でも今は、この菓子が美味しいということの方が大事ですもの)


 窓の外を見た。


 今夜の港は、霧が出ていた。


(霧の港に来て、二日目が終わりますわよ。……三層の汚れのうち、今日一日で、かなりの部分が見えましたもの)


 扇子を少し開いた。


(ネーベル・アルバ。……Lの名前が出ましたわよ。でも、これは急いで焼却する話ではありませんわよ。もう少し、丁寧に整理してからでないと、かき混ぜるだけになりますもの)


(落ちない汚れというのは、そういうものですわよ。急いで落とそうとすると、広がりますもの)


 手袋をした手で、カップを持ち上げた。


(今日も、自分の手を見ましたわよ。……スルッツの話を聞いた後、エストと話した後。一つ一つが、全部焼却ではなかった。分別ができましたわよ。今日は)


(甘さかどうかは、まだ分かりませんもの。でも、打ち消さずに持っておきますわよ)


 リタが、菓子をもう一枚、自分の手に取った。


 静かに食べた。


 シリルが書類から目を上げた。


「本日分の整理が完了しましたわよ。……明日の帳簿照合残り二冊と、エストへの追加確認、ならびにネーベル・アルバの件の調査を優先事項といたします」


「ありがとうございますわよ」


「なお、扉の隙間への返事の紙片は、先ほど挟んでおきました」


「何と書きましたかしら」


 私が聞いた。


「お嬢様のご指示の通り、昨日の返事に加えて一点だけ」


「どういうことですかしら」


「『三番目の板の件、ありがとうございますわよ。板は、今夜中に直させますわよ』と書きましたわよ」


 私はカップをソーサーに戻した。


(……シリルらしいですわよ。感謝を、実務の形で書いた)


「よろしかったですわよ」


 霧茶をもう一口飲んだ。


 今夜の霧の港は、静かだった。


 明日、また三層の底に手を伸ばしますわよ。

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