第31話:霧の港には、最初に窓を開ける
国境を越えたのは、夜明け前だった。
馬車の窓から外を見ると、空と地面の境目が、どこにあるのか分からなかった。霧だ。ただの霧ではなく、地面から空へ、空から地面へ、互いが溶け合うような霧だ。
(これが、フォル・ネビュラの霧ですわよ)
一時間前まで見えていた王国の街道の石畳は、もう見えない。代わりに、黒っぽい砂利の道が続いている。隣国の道は、石の色が違う。
私は白い手袋の指先を、窓枠の縁に当てた。
冷たかった。
(霧は、冷たいですわよ。でも不潔な感じはしませんわよ。……水分が多いだけで、澄んでいますもの)
馬車の中には、私とシリルとリタの三人だ。王国からここまで、荷馬車に偽装した小さな車列を組んで来た。シリルが手配した、普段から貿易商の形を取っている隠れ経路だ。
「シリル、フォル・ネビュラまで、あとどのくらいですかしら」
「夜明けを少し過ぎた頃に、港の手前の宿場に着く予定です。……宿は既に手配済みです。漁師亭という名の宿で、港から徒歩で十五分ほどです」
「漁師亭、ですかしら」
「はい。……漁師亭という名ですが、実際は魚の臭いはしないとのことです。オーナーが元々、内陸の出身ですので」
(魚の臭いはしない、とわざわざ教えてくれましたわよ。……シリルなりの配慮ですわよ)
「ありがとうございますわよ」
「とんでもございません。……ただし、港区の一部は干潮時に潮の臭いが来ますので、そちらはご容赦ください」
(干潮時の潮の臭い。……それは海ですもの、仕方がありませんわよ)
リタが、馬車の反対側の窓を少し開いた。
冷たい空気が入ってきた。塩の匂いがする。
(近いですわよ。……海が近いですわよ)
リタが窓を閉じた。異常はない、という意味だ。でも閉じる前に、一瞬だけ外の空気を深く吸っていた。
(リタも、海が近いと確認しましたわよ)
* * *
夜明けと同時に、漁師亭に着いた。
宿の主人は、顔が赤くて体格の良い中年の男だった。内陸の出身というのは本当らしく、挨拶の時に少し王国語のなまりが残っていた。
「ようこそ、ヴィクトリア様一行。……二階の三室、ご準備しておりますわよ」
シリルが宿代の確認をしている間に、私は食堂に入った。
朝の食堂には、先客が一人いた。
四十代前後の女性だ。書類鞄を脇に置いて、茶を飲んでいる。服装は地味だが、姿勢が良い。法律関係の人間特有の、書類を扱い慣れた手の動きをしている。
(カスミ弁護士ですかしら)
先方が先に顔を上げた。
「……クレア・ヴィクトリア様でいらっしゃいますか」
「ええ。ナジュミ・カスミ弁護士でいらっしゃいますかしら」
「はい」
カスミ弁護士が席を立って、小さく頭を下げた。
「先にフォル・ネビュラに入って、状況の下調べをしておりました。……今朝、基礎的な情報をお伝えできる状態になりましたわよ」
(この人が、カスミ弁護士。……ガルベス子爵とダスト侯爵家、双方の顧問弁護士として名前が出ていた人物ですわよ。法廷無敗・証拠霧散の手腕を持つと言われていた)
(でも今は、こちら側にいますわよ。……どういう理由で、こちらに来たのかは、まだ分かりませんわよ)
シリルが食堂に入ってきた。カスミ弁護士を見て、一瞬だけ目を細めた。笑顔のままで、目だけが計算している。
「ナジュミ・カスミ弁護士。……お会いするのは初めてですね」
「シリル様も、お噂はかねがね」
「お噂の内容が気になりますが、業務の方を先に進めましょう」
三人で、食堂の隅のテーブルに移った。リタが食堂の入口付近に立った。チャキッという音は出さずに。
* * *
「フォル・ネビュラの現状について、まず整理させてください」
カスミ弁護士が書類鞄から紙を取り出した。
「港は、見た目は機能していますわよ。貿易船が来て、荷が動いて、税が取られて。……でも、五年前から水面下で別の流れが走っています」
「ドレインの流れ、ということですかしら」
「はい。……港の荷捌き記録に、定期的な改竄の痕跡がありますわよ。改竄は、ガント組合という港湾荷役の組合を通じて行われている可能性が高い。組合長のスルッツという人物が、長年そこに関与していると見ています」
(スルッツ。……新しい名前が出てきましたわよ。スルッツ、という名前には、何か含みがあるかしら)
(スルッツ。……スラジ語では「澱」に近い響きですわよ。液体の底に沈む汚れ。見えないところに積もるもの)
「スルッツという人物は、現在もフォル・ネビュラにいますかしら」
「はい。……組合長として、毎朝組合事務所に出てきていますわよ。表向きは真面目な組合長です」
「副長は、どういう人物ですかしら」
カスミ弁護士が少し目を細めた。
「ヴァルク・テルミ。……この人物については、別の情報がありますわよ」
「教えてくださいな」
「テルミは、七年前から組合内の不正記録を、独自に記録して保全していますわよ。……組合の公式帳簿とは別に、副長用の個人帳簿を作って、港の裏の流れを記録し続けていた」
(七年間、独自に記録を続けていた。……フロード補佐官と同じですわよ。王城の中にいたフロードが書類の形で異議を申し立て続けたように、港の副長が帳簿の形で記録し続けていた)
「テルミが、こちら側に来る可能性はありますかしら」
「高いと見ていますわよ。……ただし、一つ問題があります」
「何ですかしら」
「テルミの帳簿は、今、港の底にありますわよ」
(港の底に、ですかしら)
「正確には、旧桟橋の水路の下に沈めてありますわよ。テルミが、いざという時のための証拠として、防水処理をして沈めておいた。……誰かに見つかれば証拠を失う、でも手元に置けば没収される可能性がある、という状況で取った手段です」
(港の底に沈んだ証拠。……これは面白い状況ですわよ。汚れを証明するものが、澱のように底に沈んでいる)
「その旧桟橋というのは、カラミと呼ばれている場所ですわよ」
カスミ弁護士が付け加えた。
「スラジ語で、汚水が絡まる状態を指す言葉が地名になったものですわよ。……古い桟橋の底に、汚れの証拠が沈んでいるというのは、何とも皮肉な話ですもの」
シリルが手帳に書き留めながら言った。
「カラミ。……先月、王都でスラフの供述から出てきたコードネームと同じ言葉ですね」
カスミ弁護士が少し止まった。
「……コードネームとして、使われていたんですかしら」
「はい。ドレインの内部で、ガルベス子爵との連絡を担当する人物のコードネームとして」
私はカスミ弁護士を見た。
(この人の顔が、少し変わりましたわよ。コードネームとしてのカラミを知らなかったか、あるいは知っていたけれど今初めて「繋がった」顔をしているか)
「カスミ弁護士、カラミという地名がコードネームとして使われているということは、何を意味すると思いますかしら」
「……この港自体が、ドレインの流れの中継点として機能しているということですわよ。カラミという場所がコードネームになっているとしたら、フォル・ネビュラは単なる通過点ではなく、ドレインの拠点の一つということになりますわよ」
(拠点。……港の底に汚れが積もっているだけではなく、港そのものが汚れの一部になっているということですわよ)
私は扇子を少し開いた。
「では、港の底に沈んでいる帳簿を、まず引き上げることが最初のおそうじですわよ」
* * *
ヴァルク・テルミに接触したのは、その日の昼前だった。
カスミ弁護士が、組合の近くの食堂を接触場所に指定した。テルミが昼食を取る場所として、七年間使い続けている食堂だ。
私は一人で入った。リタは外に出ている。シリルは別の角度から食堂の中を見ている。
テルミは、窓際の席に一人でいた。
五十代前後。体格は細い。目が細くて、観察するような目つきをしている。テーブルの上のスープを、半分だけ飲んで止めている。食欲がないのか、あるいは考えていて忘れているのか。
(考えている顔ですわよ。……今朝、何かがあったかもしれませんわよ)
私は隣のテーブルに座った。
テルミが私を見た。知らない顔だと認識した。視線が、すぐに窓の外に戻った。
注文を取りに来た店員に、簡単な昼食を頼んだ。
そして、テルミの方に軽く体を向けた。
「港の副長でいらっしゃいますかしら」
テルミが私を見た。
「……ええ。旅の方ですかしら」
「ええ。少し前に着きましたわよ。……ガント組合のことを、少しお尋ねしてもよろしいですかしら。貿易商として、組合の評判を知っておきたいと思いまして」
(貿易商の形を取っていますわよ。……テルミがどう反応するかを見ますわよ)
「組合の評判でしたら、組合事務所で聞いた方がよろしいと思いますが」
「組合事務所で聞ける話と、そうでない話がありますものね。……副長に直接聞ける機会というのは、滅多にありませんもの」
テルミが、少し止まった。
この会話が普通の会話ではないと気づいた顔だ。
「……どういったことをお知りになりたいですかしら」
「例えば」
私は声を少し落とした。
「カラミの旧桟橋の水路の下に、何か沈んでいるかどうか、とか」
テルミの顔が、変わった。
表情が固まった、ということではない。むしろ、長い時間緊張していたものが、一瞬だけゆるんだ顔だ。
(七年間、誰かが来るのを待っていた顔ですわよ。……こういう顔を、私は知っていますもの。フロード補佐官が、書斎で初めて古書店への連絡に応じた時の顔と、同じ種類の顔ですわよ)
「……誰から聞きましたかしら」
「カスミ弁護士からですわよ」
テルミが、少し目を閉じた。
五秒後に開いた。
「……いつ、引き上げますかしら」
「今夜、潮が引いた時間に」
「手が必要ですかしら」
「あなたの手が必要ですわよ」
* * *
夜の、潮が引いた時間。
カラミの旧桟橋は、昼間より人通りが少なかった。
旧桟橋というのは名前の通りで、今は使われていない。板が腐っている部分もあるが、骨格の石組みはしっかりしている。満潮時は水の中に沈む桟橋の脚が、今夜は空気の中に出ている。
(澱が積もっている桟橋ですわよ。……水が引くと、下が見える。いつも水に隠れているものが、見える時間ですわよ)
テルミが桟橋の脚の一つに腕を伸ばした。
水の中に手を入れた。
三十秒ほど探った後、何かを引き上げた。
防水布で厳重に包まれた、重たい荷だった。
「……三冊あります。七年分の記録を三冊に分けましたわよ」
シリルが受け取った。布を少しだけ開いて、中を確認した。
「革表紙の帳簿ですね。……状態は良好なようです」
(七年間、港の底に沈んでいた帳簿。……この帳簿の中に、フォル・ネビュラの汚れの全部が書いてある。スルッツが組合長として荷捌きを改竄した記録。ドレインの荷物が通過した経路。カラミという名の下で何が動いたか)
「テルミさん、一つだけ確認させてくださいな」
「……なんですかしら」
「七年間、なぜ今まで誰かに渡さなかったのですかしら」
テルミが桟橋の手すりに手を置いた。水が滴り落ちる。
「……渡せる相手が、来なかったからですわよ。港の当局は信頼できない。王国側には、これを届ける経路が分からなかった。カスミ弁護士が接触してきたのが、三か月前」
「カスミ弁護士は、どうやって接触してきましたかしら」
「書類の件で、組合の顧問として来ましたわよ。……でも最初から、普通の顧問弁護士の目をしていなかった。何かを探している目でしたわよ」
(カスミ弁護士が、先にテルミを見つけていたということですわよ。……E-1の伏線が、こういう形で繋がりましたわよ。カスミ弁護士は、ガルベスとモモの水路として機能している可能性があると見ていましたが、同時にこちら側でも動いていた?)
私はカスミ弁護士を見た。
「カスミ弁護士、あなたはどちら側の人間ですかしら」
カスミ弁護士が、扇子を持っていない方の手を少し上げた。
「……どちら側でもありますわよ。今のところは」
「どちら側でも、というのは」
「ガルベス子爵とダスト侯爵家の顧問として働いてきた。それは事実ですわよ。……ただし、顧問弁護士というのは、依頼人の秘密を守る義務がある代わりに、不正の共犯になる義務はないですわよ」
「法的な話ですわよ、それは」
「はい。……でも、法的な話の中に、私が動く余地があります」
(動く余地。……カスミ弁護士は、ガルベスとダストの水路として機能しながら、同時にその水路の構造を把握している立場ですわよ。水路を外側から見ている人間ではなく、水路の中にいる人間が、出口を探している、ということかもしれませんわよ)
「法廷で使える形にできますかしら、この帳簿を」
「……できますわよ。時間はかかりますが」
「どのくらいかしら」
「照合に、三日。書類として整えるのに、さらに二日。……五日あれば、ガント組合の荷捌き改竄については、法廷証拠の形になりますわよ」
「スルッツへの接触は、その後でよろしいですかしら。……証拠が整った後で、スルッツに選択肢を提示したいですもの」
テルミが、静かに息を吐いた。
「……スルッツは、悪い人間ではないですわよ。長年の間に、汚れが染み込んだだけで」
(染み込んだだけで。……テルミが言う「染み込んだだけ」という言葉が、少し胸に刺さりましたわよ)
「分別できるかどうかは、本人が選ぶことですわよ」
私は言った。
「私にできるのは、選択肢を用意することだけですもの」
* * *
翌朝、漁師亭に戻ると、宿の主人が困った顔をしていた。
「……ヴィクトリア様、少し、よろしいですかしら」
「なんですかしら」
「昨夜から、宿の前に人が立っていましたわよ。二人です。……今朝の夜明け前に、片方が動いて、もう一人がまだいますわよ」
(宿の前に人が立っていた。……こちらが到着したことを、既に誰かが把握しているということですわよ)
シリルが主人に軽く頭を下げた。
「確認します。……リタ」
チャキッ。
リタが食堂の窓に近づいた。窓の端から外を見る。三秒後、指を一本立てた。
(まだ一人いますわよ)
「どういう人物ですかしら」
シリルが主人に聞いた。
「旅装です。……特に荷物は持っていません。ただ立っているだけで、何をするわけでもなく。でも、昨夜ずっとそこにいましたわよ」
(荷物のない旅装の人間が、一晩立っているだけ。……これは偵察ですわよ。ドレインが、こちらの到着を把握して、動きを監視している)
「シリル」
「はい」
「その人物に、今すぐ動かれると困りますかしら」
「…………困りません。むしろ、今すぐ動いてもらった方が、尻尾が見えますわよ」
「では」
私は扇子を少し開いた。
「リタ、宿の正面玄関から、普通に朝の散歩の格好で出てくださいな。……その人物が動くかどうかを確認するだけでよろしいですわよ。追わなくて構いませんもの」
チャキッ。
リタが外套を羽織って、食堂を出た。
* * *
三分後、リタが戻ってきた。
紙片を持っていた。
シリルが受け取って読んだ。
「……宿の前の人物は、リタが出た直後に路地方向へ動いた。路地の先で、馬に乗っていた別の人物と合流して、東の方向へ向かった。東の方向は、港の東区と、ルファス岬方向です」
「ルファス岬」
カスミ弁護士が、朝食のテーブルから顔を上げた。
「ルファス岬には、廃灯台がありますわよ。……五年以上前から廃屋になっていますが、東区の漁師の間では『あそこは廃屋ではない』という話が続いていますわよ」
(廃灯台。……廃屋ではないとしたら、誰かが使っているということですわよ。ドレインの拠点として使われている可能性がありますわよ)
「ルファス岬の廃灯台については、どなたかが実際に確認したことはありますかしら」
「……一度、私が外側を見に行きましたわよ。遠目からですが、上の部分のガラスが、内側から黒い布で覆われていましたわよ。外から中を見えなくするための布です」
(内側から黒い布で覆われている。……これは、明かりを外から見えなくしながら、中で活動するための手段ですわよ。廃灯台が、今も使われているということですもの)
「ドレインがルファス岬の廃灯台を使っているとしたら、昨夜こちらの到着を観察した人物は、廃灯台に向かって報告に行ったということになりますわよ」
「そうなりますわよ」
シリルが手帳に書き留めた。
「ガント組合の荷捌き改竄。カラミの旧桟橋の帳簿。ルファス岬の廃灯台。……フォル・ネビュラの汚れは、少なくとも三層になっていますね」
(三層。……表面は普通の港。その下に改竄された荷捌き記録。さらにその下に、廃灯台を使った活動。澱が、複数の深さに積もっていますわよ)
(この港の大掃除は、一度に全部をこすり落とそうとしてはいけませんわよ。層ごとに、適切な方法で取り除かないと、かき混ぜるだけになりますもの)
「シリル、今日の優先順位を整理しますわよ」
「はい」
「一つ目、帳簿の照合を始めますわよ。カスミ弁護士とシリルで進めてくださいな。これは表面から順番に綺麗にしていく作業ですもの」
「承知しました」
「二つ目、ルファス岬の廃灯台について、昼間のうちに外観だけ確認しますわよ。リタに外周を見てもらいますもの。中には入りませんわよ、今日は」
チャキッ。リタが頷いた。
「三つ目、テルミさんにスルッツについての情報を聞きますわよ。……証拠が整う前に、相手が動く可能性がありますもの。スルッツがドレインとどの程度関与しているかを、テルミさんの目から確認しておきたいですわよ」
「かしこまりました。……テルミさんへの連絡は、今朝中にできますわよ」
「では、お願いしますわよ」
カスミ弁護士が扇子を少し広げた。
「……クレア様、一点だけよろしいですかしら」
「なんですかしら」
「この港の掃除は、底まで行きますかしら。それとも表面だけですかしら」
(表面だけ、かどうか。……カスミ弁護士が、今私に確認していますわよ。この人は、どこまでやるつもりがあるかを、最初に聞いておきたいんですわよ)
「底まで参りますわよ」
私は答えた。
「澱が積もった港というのは、一番下から全部引き上げなければ、また詰まりますもの。……表面だけ綺麗にしても、翌月には同じことになりますわよ」
カスミ弁護士が少し目を細めた。
「……承知しましたわよ」
「ただし」
「はい」
「綺麗にする、ということと、全部焼いてしまうことは、同じではありませんわよ。……分別してから、焼くものは焼く。残すものは残す。それが掃除というものですもの」
カスミ弁護士が、初めて少し笑った顔をした。
「……それは、助かりますわよ」
* * *
その日の昼過ぎ、リタが廃灯台の確認から戻ってきた。
紙片を持っていた。シリルに渡した。
シリルが読んだ。
「……廃灯台の外周を確認。上部のガラスに、内側から黒布。一階の扉に、錠前の跡が二か所。北側の壁に、人が通った形跡あり。桟橋側の石畳に、小舟の引き上げ跡が新しい。——以上です」
(小舟の引き上げ跡が新しい。……昨夜か今朝、小舟でここに来た人間がいるということですわよ。スラム号という名の船が、東区の浅瀬にいると昨日テルミさんが言っていましたわよ。その船から、小舟で廃灯台に来ているということですかしら)
「スラム号の動きは確認できていますかしら、テルミさん」
昼食のために漁師亭に来ていたテルミが、少し頷いた。
「昨夜から、浅瀬に錨を降ろしたままです。出ていく気配はない。でも、船上の人影は、昨夜より減っていますわよ」
「減っているということは、陸に上がった人間がいる」
「一人か二人は、陸に来ていると思いますわよ」
(廃灯台にいる人間と、スラム号に残っている人間。……これは、ドレインの現地部隊ですわよ。エストがフォル・ネビュラにいるとしたら、廃灯台がその拠点ということになりますわよ)
「エスト(ヴァルス・スラム)の名前は、ここでも出てきていますかしら、カスミ弁護士」
「……帳簿の中に、スラム号という船名は出てきていますわよ。ただし、船主の名前は『V・S』という略号だけです。三か月前まで定期的に港に来て、荷を通していた記録があります」
(V・S。……ヴァルス・スラムの頭文字ですわよ。王都での調査で確認したエストの本名と一致しますわよ)
「スラム号が三か月前まで定期的に来ていた。三か月前に止まった。……三か月前というのは」
「はい」
シリルが手帳を見た。
「王都でスラフが供述した内容と一致します。三か月前に、Lがルファスのコードを封鎖した。送金先がR-3に移行した。……フォル・ネビュラへの定期便が止まった時期と、Lの封鎖のタイミングが合いますね」
(一致しますわよ。……Lがルファスを封鎖した後も、エストがここに来ているとしたら、エストは封鎖後の「片付け」のために来た、ということになりますわよ。帳簿が言っていたように、廃灯台の後片付けのために)
「片付け屋が来ていますわよ」
私は言った。
「でも、片付け前にこちらが帳簿を引き上げた。……片付け屋は、自分が片付けに来た証拠が既にこちらの手にあることを、まだ知らないかもしれませんわよ」
シリルが完璧な笑顔を作った。
「エコではありません。……同じ場所を二度掃除しようとしている方がいますので」
「放っておきますわよ、今日は」
「はい。……証拠を引き上げた後でエストが動けば、そこで初めてこちらの手が分かります。それまでは、監視の継続が最善です」
「ただし」
私は扇子の先を、少し窓の方に向けた。
「今夜、誰かがまたこの宿を見ていたら、リタにお願いしますわよ」
チャキッ。
リタが小さく頷いた。
* * *
夕方、シリルが帳簿の最初の照合結果を持ってきた。
「一冊目の、最初の二年分の確認が終わりました。……改竄の規模が、想定より大きいです」
「どのくらいですかしら」
「荷捌き記録全体の、約三割に何らかの改竄が施されています。ただし、改竄の方法が三種類あって」
「三種類」
「一つ目は数字の書き換え。荷の重量や個数を変えて、税額を減らしている。二つ目は荷主の名前の書き換え。実際の荷主と別の名前に差し替えている。三つ目は」
シリルが少し間を置いた。
「存在しない荷の記録です。……港に来ていない荷の記録が、複数ありますわよ」
(存在しない荷の記録。……架空の荷物の通過記録を作って、何かを正当化している。架空の荷物が持っているのは、架空の荷主と、架空の送金先)
「架空の荷の送金先は、どこになっていますかしら」
「セドゥン商会、という名義です」
(セドゥン商会。……J-3の伏線に上がっていた名前ですわよ。セドゥン商会の送金先が不明だった。その送金先として、この港が使われていたとすれば)
「シリル、セドゥン商会については以前から伏線がありましたわよ」
「はい。……王都での調査で、ダスト侯爵家の傍系事業とセドゥン商会の間に資金の流れがある可能性が浮上していました。フォル・ネビュラの帳簿に、セドゥン商会の名前が出てきたということは」
「カラミの汚水が、セドゥン商会を通って、ダスト侯爵家の方向へ流れている」
「そういう構造の可能性が、一段と高まりましたわよ」
(絡まった汚水が、カラミという名の場所から、セドゥン商会という名の管を通って、ダスト侯爵家という貯水槽に流れ込んでいる。……これは、第一章で見えなかったものが、第二章で形になってきたということですわよ)
(モモ・ダストの名前が、フォル・ネビュラの帳簿に繋がっていますもの)
私は手袋をした手を、少し見た。
(まだ始まったばかりですわよ。……港の澱は、一番上から少し取れた程度ですもの。この港の掃除が終わるまでに、自分の手が何を感じるか、まだ分かりませんわよ)
(打ち消さずに、持っておきますわよ。その問いを)
「シリル、今夜も続けてくださいますかしら」
「はい。……ただし、二時以降は」
「限度にしてくださいな」
「かしこまりました」
* * *
夜の帳が下りた頃、宿の主人が一つのものを持ってきた。
「……どなたかが、表の扉の隙間に入れていきましたわよ。気づいたのは今しがたですが、いつ入れられたか分かりませんで」
小さな紙片だった。
シリルが受け取って、広げた。
一言だけ書いてあった。
*「霧は、まだここにいる」*
食堂が静かになった。
(霧。……G-1の「霧」ですわよ。王都で、手紙という形で存在を示した謎の第三者。その霧が、フォル・ネビュラにいると言っていますわよ)
「シリル」
「……霧が、この港にいる可能性があります。そしてこちらの到着を把握している」
「知っていましたわよ」
「と言いますと?」
「帳簿の防水布が、一度開かれていましたわよ。……テルミさんが沈めた時の結び方と、昨夜リタが引き上げた時の結び方が、微妙に違ったと言っていましたわよ。誰かが先に確認して、また沈め直していましたもの」
シリルが少し目を細めた。
「……霧が、帳簿を先に確認していた、ということですか」
「王都でも同じでしたわよ。……霧は、こちらが動く前に動いていて、でも直接は顔を出さない。この港でも、同じやり方をしているということですわよ」
(霧は、案内役として機能していますわよ。でも姿は見せない。……フォル・ネビュラの霧の中に、本当に霧がいますわよ)
「今夜、この紙片に返事をしますかしら」
「どうやって返事をしますかしら、シリル。相手の場所も分からないのに」
「……宿の扉の隙間に、返事を挟んでおく、という手段はいかがでしょう」
(返事を挟んでおく。……霧が宿を確認しているなら、返事は霧に届く)
「何と書きますかしら」
「それはお嬢様がお決めになることかと」
私は少し考えた。
窓の外を見た。今夜の港は、また霧が出ている。
シリルから紙とペンを借りた。
一言書いた。
*「澱の底まで参りますわよ。案内が必要な時は、声をかけてくださいな」*
折って、シリルに渡した。
「扉の隙間に挟んでおいてくださいな」
「かしこまりました」
* * *
その夜、漁師亭の食堂は静かだった。
シリルとカスミ弁護士が、帳簿の照合を続けている。リタが扉の外に立っている。
私は一人、食堂の隅に座った。
宿の主人が、小さな盆を持ってきた。
「……よろしければ、どうぞ」
盆の上には、白磁の小さなポットと、小さなカップが一つ。それと、平たい菓子が三枚。
「フォル・ネビュラの地茶ですわよ。霧茶と呼ばれていて、港の漁師が皆飲みますわよ。……それと、霧餅という名の米菓子です。もち米を使った菓子で、外側に薄く塩がかかっていますわよ」
(霧茶と、霧餅。……この港は何でも霧がつきますわよ)
「ありがとうございますわよ」
ポットからカップに注いだ。
色は薄い緑がかった黄金色だ。王都の紅茶とは全く違う色だ。
飲んだ。
(……爽やかですわよ。濃くはないけれど、後味が長い。塩気のある空気に合う味ですわよ)
霧餅を一枚取った。薄くて、もち米の歯ごたえがある。外側の塩が、茶の甘みを引き立てる。
(甘くないお茶に、塩味の菓子。……でも、合いますわよ。港の人間が毎日飲む味が、こういうものなのかしら)
シリルが一瞬だけ顔を上げた。
「霧茶でございますか、お嬢様。……フォル・ネビュラでは、これが朝晩の習慣だそうで。港の人間は皆、この茶で一日を始めて、この茶で一日を終えますわよ」
「美味しいですわよ、シリル」
「それは重畳です。……ただ、明日の朝は王国式の紅茶も用意させますわよ」
「今夜は、これで十分ですもの」
霧餅を一枚、リタのいる扉の方に向かって、シリルに手渡させた。
扉の向こうから、小さな音がした。
チャキッ、ではなく、霧餅が割れる、パリッという音だった。
(リタが食べましたわよ。……珍しいですわよ)
私はもう一度、霧茶を飲んだ。
窓の外の霧は、まだ濃かった。
(霧の港の、最初の夜ですわよ。……この霧が晴れる頃に、港の底から何が出てくるか、まだ分かりませんもの)
(でも、引き上げ始めましたわよ。七年分の澱を、少しずつ)
カップをソーサーに戻した。
今夜の霧茶は、最後まで爽やかだった。




