第30話:廃屋の分別、あるいは十年分の染み
スルッツが漁師亭に来たのは、朝の九時を過ぎた頃だった。
昨日の聴取では「明日の朝に来る」と言っていた。三十分の計算の後で、来ることを選んだのだ。
食堂の扉を開けた時の顔は、昨日と違った。昨日は決断の前の顔だった。今日は、決断した後の顔だ。疲れているが、どこか軽い。
(重いものを一晩かけて降ろしてきた人の顔ですわよ)
「おはようございますわよ、スルッツ組合長」
「……おはようございます」
スルッツが椅子を引いた。昨日と同じ向かいの席だ。でも今日は、座る前にリタを確認しなかった。昨日ほど警戒していない。
シリルが手帳を開いた。カスミ弁護士が書類鞄からペンを取り出した。
「今日は、昨日の続きをお聞きしたいですわよ」
「……昨夜、思い出せるだけ思い出してきましたわよ。十年分ですわよ。多いですわよ」
「時間はありますもの」
スルッツが大きな手を、テーブルに平らに置いた。
「どこから話しますかしら」
「四番廃屋の荷物のことから教えてくださいな。……昨夜、廃屋の南京錠が交換されていましたわよ。四番廃屋の中が空になっていましたわよ」
スルッツが少し止まった。
「……私がやりましたわよ」
「昨夜ですかしら」
「昨夜の遅い時間に。……エストから指示が来たわけではないですわよ。こちらが来たという話を聞いて、自分で判断しましたわよ」
(自分で判断した。……エストの指示ではなく、スルッツ自身の判断で四番廃屋を整理したということですわよ)
「どこに移しましたかしら」
「……ルファス岬の廃灯台ですわよ。小舟で昨夜のうちに運びましたわよ。二箱ですわよ」
(廃灯台に移した。……シリルの昨日の見立て通りですわよ。四番廃屋の荷が廃灯台へ。これでリタが廃灯台で確保した木箱三つのうち、二つがスルッツの荷ということになりますわよ)
「移した理由は」
「……荷を没収されると思いましたわよ。廃屋は、私の管轄外ですわよ。でも廃灯台は、エストの場所ですわよ。そちらに移せば、組合の責任から外れると思いましたわよ」
(組合員を守りたかった、ということですわよ。組合の名義で管理している場所から、荷を出してしまえば、組合の連座を防げると考えたということですもの)
シリルが手帳に書き留めた。
「その荷の中身は、確認していましたかしら」
「……確認したことはないですわよ。触れるなと言われていましたわよ」
「誰から」
「エストからですわよ。三年前から、四番廃屋に定期的に荷が来るようになって。……届ける人間は毎回違いますが、荷の外側の記号は同じですわよ。エストの記号ですわよ」
(三年前から定期的に。……エストがフォル・ネビュラに来る前から、エストの名前で荷が届いていたということですわよ。スラム号の定期便と連動していた可能性がありますもの)
「荷の外側の記号について、書いていただけますかしら」
シリルが紙を差し出した。
スルッツが、大きな手で記号を描いた。
カスミ弁護士が覗き込んで、少し目を細めた。
「……廃灯台の書類鞄に入っていた封書の封蝋の文様と、同じ系統ですわよ」
(一致しましたわよ。……スルッツが四番廃屋で管理していた荷の記号が、廃灯台の封書の封蝋と同じ。エストのマークです。そしてそれがダスト傍系紋章と照合済みの文様ですもの)
「シリル、E-1の照合済み事項と突合しておいてくださいな」
「はい。……確認します」
* * *
スルッツの聴取が一段落した頃、テルミが漁師亭に来た。
今日は昨日より顔色が落ち着いている。
スルッツと顔を見合わせた。二人が少し黙った。
(七年間、同じ組合で、逆の方向を向いていた二人ですわよ。……同じ場所に立っている今日が、最初の日ですもの)
「テルミさん、一つ確認させてくださいな」
「はい」
「七番廃屋の書類押収が明後日に決まっていますわよ。……その押収の前に、スルッツ組合長から七番廃屋について聞いておきたいですもの。スルッツさん、七番廃屋の内部をご存知ですかしら」
スルッツが少し考えた。
「……七番廃屋は、私の担当ではないですわよ。カラミの廃屋区の管理は、番号ごとに担当が違いますわよ。七番はエストの直轄ですわよ。組合からは手を触れていないですわよ」
「エストの直轄。……ということは、七番廃屋には組合の記録がないということですかしら」
「記録はないですわよ。でも、一度だけ中を見たことがあります。三年前に、鍵が壊れたという話があって、直しに行ったことがありますわよ。その時だけですわよ」
「中の様子を、教えてくださいな」
「テーブルと椅子がありましたわよ。それと棚に書類が何冊か。……会議をする場所として使っていると思いましたわよ」
(会議の場所。……スルッツの三年前の目撃証言と、今日の外観確認の結果が一致しましたわよ。七番廃屋が、ドレインの現地会合場所として機能していた可能性が高まりましたもの)
「その会議に、スルッツ組合長は同席したことがありますかしら」
「一度だけですわよ。四年前に。……エストと、もう一人の人間が来ていましたわよ」
(もう一人。……エスト以外の誰かが来ていた。四年前というのは、ガルベス子爵が腐敗貴族連合を形成し始めた時期と重なりますもの)
「もう一人の人物について、覚えていることはありますかしら」
スルッツが少し間を置いた。
「……貴族の服を着た男でしたわよ。この国の人間ではなかったですわよ。言葉が違いましたわよ」
「どういう言葉でしたかしら」
「隣国のアクセントですわよ。……でも、王国語は流暢でしたわよ。名前は聞いていないですわよ。私はすぐに退室するよう言われましたわよ」
(隣国のアクセントで、王国語が流暢な貴族。……四年前に七番廃屋でエストと会合を持っていた人物。これは、ガルベス子爵の隣国との繋がり(B-4)と接続する可能性がありますもの。あるいは別の人物か)
「シリル」
「J-5のアドルフ・ケルハムについて、四年前に隣国との往来記録があるかどうかを調べますわよ」
「お願いしますわよ」
* * *
昼前に、カスミ弁護士が帳簿の二冊目の照合結果を報告した。
「二冊目で、新しい名義が一つ出てきましたわよ」
「どういう名義ですかしら」
「シュラッセ、という記号ですわよ。……L勘定に近い書式で、送金先の一つとして記録されていますわよ」
(シュラッセ。……以前に出てきた名前ですわよ。テルミが帳簿の換字式を解読する過程で出てきたシュラッセという人物の名前ですもの)
「テルミさん、シュラッセについて教えてくださいな」
テルミが少し目を細めた。
「シュラッセは、エストとドレインの間で帳簿の指示を出していた中間の人間ですわよ。……エストに直接会ったことはないですわよ。書類だけのやり取りでしたわよ。スルッツへの改竄指示も、シュラッセの書式で来ていましたわよ」
「シュラッセとスルッツの間に、直接の接触はありましたかしら」
「ないですわよ。……私が帳簿をつける時に、シュラッセの記号を自分で解読したことがありますわよ。でも、その人間がどんな顔をしているかは、知りませんわよ」
(シュラッセが、ドレインとフォル・ネビュラの組合の間にいる中間層ですわよ。カスミ弁護士がM勘定の可能性を示唆していた人物ですもの。これは、第12話でテルミが明確化した「ドレインは仕組みの名前」という構造と一致していますわよ。D→M→N→実行部隊という階層の、M層にシュラッセがいる可能性が高まりましたもの)
「シリル、シュラッセとカスミ弁護士の件について、照合できますかしら」
シリルが少し間を置いた。
「……カスミ弁護士ご本人がいらっしゃる場で、申し上げてよろしいでしょうかしら」
「構いませんわよ」
カスミ弁護士が顔を上げた。
「M勘定の可能性があった人物として、カスミ弁護士のお名前が一時期浮上していましたわよ。……ただし、今日のシュラッセの記録と、テルミさんの証言を重ねると、シュラッセとカスミ弁護士は別の人物である可能性が高いですわよ」
カスミ弁護士が少し目を細めた。
「……照合していただいて、ありがとうございますわよ」
「シュラッセの正体については、引き続き調査しますわよ。今日のところはここまでにしておきますもの」
* * *
午後になった。
スルッツが組合に戻る前に、私は一つだけ確認した。
「スルッツ組合長、最後に一点だけよろしいですかしら」
「……なんですわよ」
「十年前に最初の改竄を受け入れた時、組合の人間を守るためだったとテルミさんから伺いましたわよ」
スルッツが大きな手で頭を少し掻いた。
「……結局、守れなかったですわよ。十年かけて、もっと深いところまで引きずり込みましたわよ」
「三十二人の名前が帳簿に出てこない。……それは、守れた部分ですわよ」
スルッツが私を見た。
「焼却しなかった部分と、焼却しなければならない部分があります。……あなたが今日来てくださったことで、分別できましたもの」
スルッツが少し黙った。
「……あんたは、変わった人間ですわよ」
「おそうじが得意なだけですわよ」
スルッツが席を立った。扉に向かいながら、立ち止まった。
「テルミ」
「……なんですわよ」
「七年間、帳簿をつけ続けましたわよね」
「つけましたわよ」
「……ご苦労様でしたわよ」
テルミが、少し目を逸らした。
「あんたこそ。……十年間」
扉が閉まった。
食堂が少し静かになった。
* * *
夕方前に、カスミ弁護士が帳簿の残りについての見通しを報告した。
「三冊分の照合が完了すれば、ガント組合の荷捌き改竄については法廷証拠の形に整えられますわよ。……四番廃屋の荷が廃灯台に移されたというスルッツ組合長の証言も、廃灯台で確保した木箱の記号と照合できますわよ」
「七番廃屋の書類押収は明後日ですわよ」
「はい。……押収が完了すれば、シュラッセの記録とペルト・ナッハ商会の接続が証拠として固まりますわよ。そこで、セドゥン商会・マル・アド商会・シュラッセという三つの名義が、一本の流れとして繋がりますもの」
(三本が一本に繋がる。……絡まった汚水を分別していくと、出所が同じだと分かる。カラミという場所の名前が、文字通り機能していましたわよ)
シリルが手帳を閉じた。
「本日の整理を申し上げますわよ。……スルッツ組合長の聴取完了。四番廃屋から廃灯台への荷の移動経路が確認。七番廃屋をエストの直轄と確認。シュラッセとM勘定の接続が浮上。四年前の七番廃屋での会合に、隣国アクセントの貴族が同席していたという証言を取得。……以上ですわよ」
「J-5のケルハムとの照合は」
「今夜中に、王都の記録を確認できる経路に問い合わせを出しますわよ。……返答は数日かかりますが、スルッツの証言と照合できれば、B-4の伏線が一段と具体的になりますわよ」
「お願いしますわよ」
(一日で、見えてきたものが増えましたわよ。……でも急がないですもの。七番廃屋の押収が明後日。帳簿の照合完了が明日。テルミさんとスルッツの証言録の作成が並行で進む。一段ずつ、丁寧に分別してから、適切な順番で処理しますもの)
右手の手袋の表面を、窓の外の光が少し照らした。
(今日は焼却しなかった日ですわよ。……でも、分別はできましたもの。焼くべきものと、残すものと、まだ判断の必要なものを、三種類に分けましたもの)
すぐに手を膝に戻した。
* * *
夕方に、漁師亭の食堂に一つ変化があった。
テルミが帰り際に、食堂のテーブルに小さな包みを置いていった。
「……組合の近くで作っているものですわよ。よければ」
それだけ言って、出ていった。
シリルが包みを開いた。
「干し貝の菓子ですわよ。カリウ、という名前だと思います。……砂糖と岩塩で味付けした、港の荷捌き師が好む間食だと聞いたことがありますわよ」
(テルミが、差し入れてくれましたわよ。言葉では言わないで、菓子で表現する。それがこの人のやり方ですもの)
「今夜の分と一緒にしてくださいな」
* * *
夜になった。
シリルが帳簿の照合を続けている。カスミ弁護士が法廷書式の整理を進めている。リタが扉の外にいる。
私は、今日一日を整理した。
(スルッツが来て、話してくれましたわよ。十年分を。……テルミが七年間帳簿をつけていたように、スルッツは十年間、別の重さを持ち続けていたということですもの)
(二人が、今日初めて同じ側にいましたわよ。それが今日一番の掃除の結果ですもの。焼却ではなく、分別の結果として)
シリルが小さな盆を持って食堂に戻ってきた。
「帳簿の今日分の照合が終わりましたわよ。……少しお持ちしましたわよ」
盆の上に、白磁の茶器と二つの皿。
「今夜は何ですかしら」
「フォル・ネビュラの「アンチョ茶」ですわよ。港の南側の茶葉を、乾燥させた小魚と一緒に煮出したものだそうです。……漁師亭の主人が、フォル・ネビュラに長く滞在される客人には必ず一度出す習慣があるとのことで」
「小魚と一緒に、ですかしら」
「はい。……変わった組み合わせですが、出汁として機能しているそうですわよ。茶葉だけより、深みが出るとのことです」
「それと」
「テルミさんのカリウと、宿の主人が今日の市場で仕入れた「クルミ糖」を少々。胡桃を砂糖で固めた、港の土産菓子だそうですわよ」
アンチョ茶を注いだ。
色は薄い金茶色だ。一口飲んだ。
(海の香りが最初に来て、次に茶葉の渋みが続いて、最後に小魚の出汁のような旨味が底から来ますわよ。……三段階の味ですもの。海の港らしい、複雑な深みですわよ)
「分別が効いていますわよ、この茶は」
「と申しますと」
「三つの要素が、順番に出てきますもの。一口で全部来るのではなく、段階を経て分かってくる味ですわよ」
シリルが少し考えた。
「……本日の掃除と、同じ構造ですわよね」
「よく分かっていますわよ、あなたは」
「長年お嬢様の隣にいますわよ」
カリウを一枚取った。さくりと割れた。甘みと塩気が均等に来る。クルミ糖を一粒食べると、胡桃の香ばしさと砂糖の甘みが続いた。
アンチョ茶の底の旨味と、カリウの塩気と、クルミ糖の甘みが、口の中で順番に来た。
(港の素材が全部揃いましたわよ。……これだけで、今日フォル・ネビュラで見てきたものの全部が入っているような気がしますもの)
「シリル、明日の段取りを確認しますわよ」
「はい。……帳簿三冊目の照合を完了させて、スルッツ組合長とテルミさんの証言録作成を開始しますわよ。七番廃屋の書類押収申請の確認も行いますわよ」
「テルミさんが帳簿の間にメモを挟んでいた件については、明日以降に確認しますわよ」
「かしこまりました」
私は窓の外を見た。
今夜の港は、霧が出始めている。
(フォル・ネビュラの掃除は、一番深い層まで続きますわよ。……今日は分別の日でしたもの。スルッツという染みが、どこまで生地に入り込んでいるかを確かめた日ですもの。生地の芯はまだ生きていましたわよ)
(明日は、帳簿の最後の照合が終わりますわよ。そこで、配管の全体図が見えてくるはずですもの)
「シリル、今夜はここまでにしてくださいな。……明日が、整理の要になりますもの」
「かしこまりました。……二時を限度にしますわよ」
「今夜は一時半にしてくださいな」
シリルが少し間を置いた。
「……承知しましたわよ」
アンチョ茶の最後の一口が、底の旨味を全部連れてきた。
港の夜に、よく合う味だった。




