第29話:廃屋の奥にあるもの、あるいは分別の朝
夜明けの少し前に、雨が降り始めた。
細い雨だ。港の霧と混じって、空気全体が水になったような感覚がある。窓の外で、雨粒が屋根を叩く音が、波の音と重なっている。
(雨の朝ですわよ。……今日は廃屋の外観確認がありますもの。雨でも立会人は来てくれますかしら)
私は早い時間に起き上がった。窓を少しだけ開けた。
冷たい空気が入ってきた。雨の匂いと、潮の匂いが一緒になっている。
右手を窓枠に置いた。白い旅用の手袋の上を、細かい雨粒が音もなく叩いた。
(昨日よりも、少し温かい感じがしますわよ。……雨は、港の底を静かに洗っていますもの。でも洗い流しているのではなく、ただ濡らしているだけですわよ。本当の汚れは、雨では落ちませんもの)
窓を閉めた。
支度を整えて廊下に出ると、リタがいた。今日は昨日よりずっと顔色が良い。目の下の赤みが完全に消えていた。
(よく眠れましたわよ、リタは。……それはよかったですわよ)
食堂に降りると、シリルがテーブルの上に書類を広げていた。昨夜の帳簿の整理の続きだ。
「おはようございますわよ、シリル。……今夜は何時まで作業していましたかしら」
「二時ちょうどに区切りをつけましたわよ」
「限度通りですわよ」
「はい。……本日の廃屋確認の準備について、先にご報告してもよろしいですかしら」
「どうぞ。座ってから聞きますわよ」
* * *
椅子を引いて座った。
シリルが手帳を開いた。
「今朝七時のリタの廃屋四番周辺の先行確認について、準備は整っています。……ただし、雨天ですので、南京錠の状態確認には時間がかかるかもしれません」
「リタは雨でも動けますわよ」
チャキッ。扉の側で、リタが頷いた。
「八時のカスミ弁護士との合流、港管理局の立会人との同行確認についても問題ありません。……ただし、一点だけ昨夜の照合で気になることが出てきましたわよ」
「昨夜の帳簿の照合でですかしら」
「はい。……ペルト・ナッハ商会の住所として記録されていた廃屋七番について、もう少し詳しく見ましたわよ。七番廃屋の賃貸契約の痕跡が、帳簿の中にありましたわよ」
「賃貸契約の痕跡」
「はい。ペルト・ナッハ商会名義で五年前に一度だけ更新されていた形跡があります。……契約を更新した側の代理人名が、帳簿の欄外に小さく書いてありましたわよ」
「何という名前でしたかしら」
シリルが手帳の一行を指した。
*エスト、V*
(V・エスト。……ヴァルス・スラム。エストが廃屋七番の賃貸契約を、ペルト・ナッハ商会の代理として更新していましたわよ。五年前、廃灯台に謎の荷を届けた時期と重なりますもの)
(カラミの廃屋七番もまた、エストが直接関与していたということですわよ。架空商会の登録住所として使われていた廃屋が、エストの名前と繋がっていた)
「今日の外観確認で、七番廃屋を最優先の対象にしますわよ」
「はい。……カスミ弁護士への連絡には、この追加情報も含めますわよ」
* * *
七時少し前に、宿の主人が食堂に顔を出した。
「お客様方、今朝も早いですわよ。……昨夜のうちに確認できなかったことをお伝えしますわよ」
「何かしら」
「深夜の二時頃に、宿の裏の路地を誰かが通りましたわよ。……足音が静かで、普通の通行人ではありませんでしたわよ。確認に出ようかと思いましたが、すぐに音が消えましたわよ」
(深夜の二時。……シリルが作業を区切った時間と重なりますわよ。宿の裏の路地を、静かに通った人間。昨夜も宿の監視がありましたわよ)
「方向はどちらでしたかしら」
「東から南へ、ということだと思いますわよ。……南は、カラミの旧桟橋の方向ですわよ」
(東から南へ。東は廃灯台の方向。南はカラミ。……廃灯台からカラミへ向かったということかしら。エストが、夜のうちに旧桟橋の確認に動き始めたということかもしれませんわよ)
(今朝の先行確認を七時に設定していましたが、エストが昨夜のうちにカラミに向かったとすれば)
「シリル」
「はい。……リタの先行確認を、予定より三十分早めますわよ」
チャキッ。
リタが外套を取り上げた。
* * *
リタが戻ってきたのは、七時を少し過ぎた頃だった。
外套が雨でしっとり濡れている。でも顔は落ち着いていた。
紙片を渡してきた。
*廃屋四番の南京錠、昨日と同じ位置・同じ状態。異変なし。廃屋七番の外壁に、新しい足跡(泥のもの)。北側の壁の腰あたりに、壁を伝った手の跡らしい痕跡。ただし内部への侵入形跡はなし。旧桟橋方向に人影はなかった。スラム号、浅瀬にまだいる。*
(七番廃屋の壁に手跡。……廃屋の内部への侵入は確認されていないが、七番の外壁を確認した人間がいた。昨夜か今朝早い時間に、廃屋の外を見に来た人間がいるということですわよ)
(四番には南京錠がある。七番はどうですかしら)
「リタ、七番廃屋に錠前はありましたかしら」
リタが首を軽く振った。錠前はない、ということだ。
(七番廃屋には錠前がない。……でも誰かが昨夜外壁を確認した。架空商会の登録住所として使われていて、エストの名前とも繋がっている七番廃屋に、昨夜誰かが来た)
「今日の外観確認で、七番の内部も確認の対象に含めますわよ。……立会人の同席があれば、七番については外観確認の一環として中を見られる可能性がありますもの」
シリルが手帳に書き留めた。
「カスミ弁護士への連絡事項に追加しますわよ」
* * *
カスミ弁護士が食堂に来たのは、七時半だった。
今日は昨日より少し動きやすい服装だ。書類鞄は同じだが、靴が少し厚底になっている。雨天での現地確認を想定していますわよ、とシリルが後で言った。
「昨日の夜に追加の情報が出てきましたわよ。……七番廃屋について、お伝えしたいことがありますもの」
シリルが照合の結果と、今朝のリタの確認結果を共有した。
カスミ弁護士が書類鞄からペンを取り出して、すぐにメモを取り始めた。
「エストの名前が七番廃屋の賃貸更新に出てくるということは、ペルト・ナッハ商会の実態がエストの管理下にあったということになりますわよ」
「ええ。……七番廃屋は、架空商会の登録住所としてだけでなく、エストが直接管理していた場所かもしれませんわよ」
「七番廃屋の内部確認を今日の申請に含めることはできますかしら、カスミ弁護士」
「外観確認の申請で七番廃屋も対象に含まれていますわよ。……ただし、内部確認は別の根拠が必要ですわよ」
「今朝の足跡と手跡の確認記録を、内部確認の根拠として使えますかしら」
「記録が文書として残っていれば、使えますわよ。……リタの確認記録を書面化していただけますかしら」
チャキッ。
リタが紙片を出した。
シリルがそれを受け取って、より正式な書式に書き直し始めた。
(シリルの筆が速いですわよ。……こういう即座の対応が、シリルらしいですもの)
* * *
八時、港管理局の立会人がやってきた。
五十代の男性で、名前をルーカスと言った。雨合羽を着ていて、目が細くて仕事慣れした顔をしている。港管理局の正式な確認証を持っていた。
「カスミ弁護士から経緯は聞いていますわよ。……申請書通りの確認ということでよろしいですかしら」
「はい。……四番と七番の両廃屋を対象にしますわよ。なお、七番について、今朝追加の書面を提出しましたわよ」
「受け取っていますわよ。今朝の足跡と手跡の記録ですわよね」
「ええ。内部確認の根拠として申請しましたわよ」
ルーカスが書類を確認した。
「……七番廃屋の内部確認については、今日の段階では外観確認の延長として、扉を開けて中を目視することまでは可能ですわよ。内部の物品の押収には、さらに別の申請が必要ですわよ」
「目視だけで結構ですわよ。今日は」
(今日は目視だけ。……でも、目視で何が見えるか、それが次の申請の根拠になりますもの。一段ずつ、丁寧に進めますわよ)
私たちは漁師亭を出た。
雨は続いていたが、少し小ぶりになっていた。
* * *
カラミの廃屋区に着いたのは、八時半頃だった。
昨日リタが確認した五番と六番の倒壊廃屋の残骸が、道の両側に堆積している。崩れた石材と腐った木材が、長い年月をかけて積み重なっていた。
(本当に、通り抜けにくい構造ですわよ。……意図的に倒壊させたのか、自然に崩れたのかは分かりませんが、五番と六番が通行障壁として機能していますもの)
ルーカスが先頭に立って、四番廃屋に向かった。
四番廃屋は、外壁は古いが、扉は比較的新しい。そして新しい南京錠がかかっていた。
「この南京錠は、港管理局の管轄の廃屋に通常付けられているものではありませんわよ」
ルーカスが南京錠を見ながら言った。
「誰かが後から取り付けたものですわよね、これは」
「ええ。……昨日まではなかったものですわよ」
ルーカスが記録用の書類に書き込んだ。
「不法施錠として記録します。……解錠は管理局の権限で行えますわよ」
ルーカスが工具を取り出した。
南京錠が外れるまで、五分ほどかかった。
扉が開いた。
中は、薄暗かった。雨天のために外からの光が少ない。
最初に気づいたのは、匂いだ。
(防腐剤の匂いですわよ。……木材や荷物の保存に使う薬剤の匂いが、かすかに残っていますわよ)
「シリル、この匂いは」
「はい。防腐処理された包装材の匂いですわよ。……最近まで何かが保管されていた可能性がありますわよ」
ルーカスが懐中電灯を使って内部を照らした。
部屋は空だった。
完全に空だ。
でも、床に跡がある。四角い形の、荷物が置かれていた跡だ。最近まで物が置かれていて、それが取り除かれた。
「荷物の跡が、床に四箇所ありますわよ。……木箱を置いていた跡に見えますわよ」
ルーカスが記録した。
「昨夜この廃屋から何かが搬出された可能性がありますわよ。昨夜の南京錠の取り付けと、荷物の消失が同時に起きているとすれば」
(南京錠をかけてから中の荷を動かした。……いや、逆ですわよ。荷を動かしてから南京錠をかけた。中を空にして、空だということを確認されても問題ないように施錠した、ということかもしれませんわよ)
(昨夜、誰かが四番廃屋を整理した。焦って掃除した部屋には、必ず拭き残しがある、とシリルが言っていましたわよ。四番廃屋は、空にされているが、防腐剤の匂いが残っている。荷が消えても、匂いは残りますもの)
「ルーカスさん、この防腐剤の匂いについて、記録に残してくださいな」
「了解しましたわよ。……専門家の鑑定を要請すれば、どういった薬品が使われていたか特定できるかもしれませんわよ」
「お願いしますわよ」
* * *
七番廃屋に移動した。
こちらは錠前がなかった。扉を引くと、抵抗なく開いた。
中を見た瞬間、全員が少し立ち止まった。
空ではない。
テーブルが一つ。椅子が三脚。棚に、書類の束が数冊。
使われている。最近まで、あるいは今もここが使われている。
「ルーカスさん、これは目視の範囲に入りますかしら」
「扉を開けて内部を確認することは、今日の申請の範囲内ですわよ。……棚の書類に近づくことは、今日は申請外ですわよ」
(今日は見るだけですわよ。でも、見ることで十分ですもの)
私はカスミ弁護士と目を見合わせた。
「棚の書類の押収申請を、今日中に出せますかしら」
「今日の確認記録をルーカスさんに作成していただければ、今日の午後には申請できますわよ」
ルーカスが棚の書類を遠目から確認しながら、書類に記録した。
「棚の上段に、黒い表紙の書類束が四冊。……書類の形式について、外からの目視で確認できる範囲を記録しますわよ」
シリルがルーカスの隣に移動して、書類の表紙を遠目から確認した。
一言だけ言った。
「……ペルト・ナッハ商会の印字が、一番上に見えますわよ」
(ペルト・ナッハ商会。……七番廃屋がペルト・ナッハ商会の登録住所として使われていて、棚に同名の書類が残っている。これは、架空商会の実態の記録が、廃屋の中にあるということですわよ)
(焦って中を空にした四番廃屋と違って、七番廃屋は手つかずで残っていますわよ。……昨夜壁を確認した人間は、四番の整理に気を取られて、七番まで手が回らなかったということかもしれませんわよ。慌てて掃除すると、別の場所を見逃しますもの)
「ルーカスさん、今日の確認記録を持って、午後に申請を出しますわよ。……この廃屋の書類の押収申請ですわよ」
「分かりましたわよ。……記録はすぐに作成しますわよ」
* * *
漁師亭に戻ったのは、十時を過ぎた頃だった。
雨は止んでいた。
外観確認で見えたもの、見えなかったもの。二つの廃屋が、全く違う状態だった。
(四番は慌てて整理された。七番は手つかずで残っている。……四番の荷が昨夜どこへ動かされたかは、まだ分かりませんわよ。でも、七番の書類押収が認められれば、ペルト・ナッハ商会の実態が書類として出てきますもの)
食堂でシリルと整理した。
「四番廃屋の荷物の行き先についての見立てはありますかしら、シリル」
「昨夜の偵察者が東から南へ移動したということでしたわよ。……四番廃屋に来た後、別の場所へ荷を移した可能性があります。ルファス岬の廃灯台が最も近い場所ですわよ」
(廃灯台。……四番廃屋の荷が廃灯台に移された可能性がある。これは、今後の廃灯台の確認で分かることですわよ)
「七番廃屋の書類押収申請は、今日の午後に出しますわよ。認められれば明日か明後日に押収できますわよ」
「はい。……カスミ弁護士が午後から港管理局に出向きますわよ」
カスミ弁護士が書類鞄を開いて、申請書の準備を始めた。
「書類の形式を整えますわよ。……ルーカスさんの記録と、帳簿の照合結果と、今朝の足跡の記録を合わせれば、十分な根拠になりますわよ」
(三つの根拠が揃いましたわよ。……帳簿から導いた架空商会の住所、立会人の目視記録、そして現場の足跡。一点一点は小さくても、重ねれば証拠の形になりますもの)
「シリル、昨夜のスルッツの動向確認についても整理しておきたいですわよ」
「はい。……スルッツが夕方に東方向へ歩いて、一時間後に戻った件ですが、昨夜の偵察者が東から南へ移動したこととあわせると、スルッツが廃灯台でエストと接触した後、四番廃屋の整理を誰かに指示した可能性がありますわよ」
「スルッツが直接四番廃屋を整理したのではなく、指示を出したということですかしら」
「状況証拠としては、そうなりますわよ。……スルッツが廃灯台でエストに今朝の外観確認の情報を伝えて、エストか別の人間が夜のうちに四番廃屋を空にした」
(スルッツは、いつ私たちの存在を知ったのかしら。昨日の昼ライスに話すつもりが、その前に自分で動いたということは、別の経路から情報が入っていましたわよ)
「ライスさんが来るのを待ちますわよ。……今日のここまでの状況を共有して、スルッツへの接触についての見立てを聞きますもの」
* * *
ライスが食堂に来たのは昼前だった。
顔に少し疲れがあるが、昨日より落ち着いている。
「今朝の確認はどうでしたかしら」
私は外観確認の結果を共有した。
ライスが四番廃屋の話を聞いて、少し目を細めた。
「……四番廃屋の荷が消えていましたかしら。そうですか」
「ライスさん、昨夜の偵察者について、何か分かりましたかしら」
「はい。……組合の人間ではないですわよ。スルッツが使っている外の人間だと思いますわよ。昨夜、スルッツが東へ向かったのを組合の他の人間も見ていましたわよ。スルッツが戻ってきた後、その人間が東の方向へ出ていったと聞きましたわよ」
(スルッツが廃灯台でエストと会って戻った後、別の人間に四番廃屋の整理を命じた。その人間が東から南へ移動した、昨夜の偵察者ということですわよ)
「スルッツは、今日組合に来ていますかしら」
「はい。……今朝は普通に来ていましたわよ。ただし、表情が昨日より険しかったです。組合の他の者たちも、少し気にしていますわよ」
「ライスさん、スルッツへの接触について、一つお聞きしますわよ」
ライスが私を見た。
「今日の昼休みに、スルッツに選択肢があることを伝えてくださいな、と昨日お願いしましたわよ。……でも今朝の状況を見て、一つ方針を変えたいですもの」
「何を変えますかしら」
「スルッツに伝える内容に、七番廃屋の書類押収申請を今日の午後に出す、ということを加えてくださいな。……昨夜四番廃屋を整理したことは知っていますが、七番廃屋については手を付けていないことも知っていると、そのまま伝えてくださいな」
ライスが少し間を置いた。
「……スルッツに、こちらが二つの廃屋の状況を把握していると分かるように伝えるということですわよね」
「ええ。分別する機会がある、ということを、スルッツ自身の判断で使ってほしいですもの。……汚れを広げるか、記録を残す側に来るか、スルッツが今日決めることですわよ」
(分別は、こちらが強制するものではありませんわよ。……スルッツが自分の意志で選ぶことが、その後の記録の価値を変えますもの。第一章でスラフに選ばせたように)
ライスが静かに頷いた。
「分かりましたわよ。……昼休みに伝えますわよ」
* * *
カスミ弁護士が午後の申請に出かけた後、食堂は少し静かになった。
シリルが帳簿の照合を続けている。
リタは外に出ている。廃屋周辺の午後の動きを確認しているはずだ。
私は一人、今日の午前中を整理した。
(四番廃屋は空にされていた。でも匂いが残っていた。七番廃屋は手つかずで、書類が残っていた。……慌てて掃除した部屋には、必ず拭き残しがあると言っていましたわよ。今日その通りになりましたもの)
右手の手袋の表面を、ゆっくりと見た。
(まだ焼く段階ではありませんわよ。……でも、焼く前の分別ができていますもの。四番廃屋と七番廃屋。慌てた側と、手の届かなかった側。分別してから、適切な順番で処理しますもの)
すぐに手を下ろした。
(今日は、書類押収の申請が通れば十分ですわよ。一日の仕事に、それだけで十分ですもの)
* * *
午後の三時頃、ライスから短い書状が届いた。
*スルッツに伝えましたわよ。スルッツは三十分考えた後、「明日の朝に漁師亭に行く」と言いましたわよ。——ライス*
(明日の朝に来る。……三十分考えた後で、来ることを選びましたわよ。逃げることも、警戒してドレイン側に報告することも、スルッツは選ばなかった)
(昨日のライスの言葉が、今日の結果に繋がりましたわよ。「組合の人間を守るために最初の改竄を受け入れた」というスルッツの話が、今日の判断にも表れていますもの)
私はシリルに書状を見せた。
「明日の朝、スルッツが来ますわよ」
シリルが書状を読んだ。
「……来るとは思っていましたが、三十分で決断しましたわよね。早いですわよ」
「あなたはどう読みますかしら」
「七番廃屋の書類押収申請が通れば、スルッツが何もしなくても記録は出てきますわよ。……先に話す方が、スルッツにとっての「何か残るもの」が大きくなる。昨日のライスさんの見立てと同じですわよ。スルッツはそれを三十分で計算したということかと」
(計算した。……でも計算だけではないかもしれませんわよ。十年間、染み込み続けた汚れの重さが、今日のスルッツを動かしたということかもしれませんもの)
(打ち消さずに、持っておきますわよ)
「明日の朝のスルッツへの聴取の準備をしておいてくださいな、シリル」
「かしこまりました。……本日の整理と合わせて、今夜中に準備しますわよ」
「今夜は二時までですわよ」
「……かしこまりました」
* * *
夕方、カスミ弁護士が戻ってきた。
「七番廃屋の書類押収申請、受理されましたわよ。……明後日の午前中に、ルーカスさんの立会いのもとで書類を押収できますわよ」
「二日後に押収できますわよ」
「はい。ルーカスさんが申請の審査を早めてくださいましたわよ。……今日の外観確認記録の内容が、根拠として十分だったということですわよ」
(丁寧に積み上げた証拠が、審査を早めましたわよ。……急いで一度に全部こすり落とそうとせず、一段ずつ申請を出してきた結果ですもの)
「ありがとうございましたわよ、カスミ弁護士。……今日一日、ご苦労様でしたわよ」
カスミ弁護士が書類鞄を椅子の隣に置いて、少し肩の力を抜いた。
「……私は、長年フォル・ネビュラで仕事をしてきましたわよ。でも、今週ほどこの港の底を見た週はありませんでしたわよ」
「底まで来てくださっていますわよ、カスミ弁護士」
「底まで来て、まだ続きがある感じがしていますわよ」
「ええ。……まだありますもの」
私は扇子を少しだけ開いた。
(廃灯台がある。ライスの帳簿残り二冊がある。スルッツの聴取が明日にある。そしてその先に、ノッケンへの道がある)
(でも今日は、ここまでですわよ。今日の仕事は、今日の分だけでよろしいですもの)
* * *
夜になった。
リタが夕方に戻っていた。廃屋周辺に午後の特別な動きはなかったが、スラム号の人影が昨日より一人減っているのを港から確認したとのことだった。
今夜の食堂は、昨日よりも穏やかな気配だった。
シリルが最後の整理をしながら、小さな盆を運んできた。
「今夜の準備が整いましたわよ」
盆の上には、小さな茶器と、菓子の皿。
「何を用意してくださいましたかしら」
「宿の主人に伺いましたところ、今日の午後に港の市場で仕入れてきたものがあるとのことでしたわよ。……今夜は「干し柑橘茶」と、「アルミカ」という名の小さな菓子ですわよ」
「干し柑橘茶とは」
「フォル・ネビュラで古くから飲まれているお茶ですわよ。干した柑橘の皮を煮出したもので、色が深いオレンジがかった色になりますわよ。……雨の日の後に飲む習慣があるそうですわよ。雨で湿った空気を払うために」
(雨の日の後に飲む茶。……今日は雨から始まりましたわよ)
茶器を手に取った。
深いオレンジ色だ。一口飲んだ。
(柑橘の苦みが最初に来て、次に甘みが来ますわよ。……外皮を煮出しているから、苦みと甘みが両方あるんですわよ。苦みから始まって、甘みで終わる味ですわよ)
「アルミカは何ですかしら」
「港の菓子職人が作る、小豆餡を薄い生地で包んだものですわよ。……ただし、フォル・ネビュラの小豆餡は、王国のものと少し違いまして」
「どう違いますかしら」
「塩を一粒ずつ、餡の中に入れて炊きますわよ。塩気が餡の甘みを引き締めますわよ。食べると、最初は甘く、後から塩気が出てきますわよ。先に甘みで、後で苦みが来る茶と、方向が逆ですわよ」
(逆の方向。……甘みから苦みへの茶と、甘みへ向かう菓子。二つ合わさると、循環する味になりますわよ)
アルミカを一つ取った。
生地が薄くて、噛むと餡がすぐに出てきた。甘い。でも奥に、一粒の塩の存在がある。それが最後に出てきた。
(美味しいですわよ。……苦みと甘みと塩気が、この茶菓子の組み合わせで全部揃いましたわよ)
リタが、盆から一つ取った。
音を立てずに食べた。
(リタが食べましたわよ。……今日は廃灯台の外周確認や廃屋の確認で、一番体を動かしましたもの。お腹が空いていましたわよね、きっと)
「シリル、明日のスルッツの聴取に向けて、準備はどのくらい進んでいますかしら」
「今夜の整理で概ね整いますわよ。……スルッツが来た場合の確認事項を、ライスさんの証言と帳簿の照合結果に基づいて整理しますわよ」
「四番廃屋の荷の行き先について、スルッツが知っていれば確認しますわよ」
「はい。それが最優先事項ですわよ。……荷の行き先が廃灯台であれば、廃灯台への次の対処の段取りが具体的になりますわよ」
(廃灯台への対処。……その話は、まだ先ですわよ。明日スルッツが来て、話してから考えますもの)
「今夜は早く休んでくださいな、シリル。……明日の朝は、重要な聴取がありますもの」
「二時を限度に」
「今夜は一時を限度にしてくださいな」
シリルが少し間を置いた。
「……承知しましたわよ」
(珍しく素直に受け入れましたわよ。……シリルも今日は疲れていますもの)
干し柑橘茶をもう一口飲んだ。
苦みと甘みが今度は一緒に来た。
(一口目と、二口目では感じ方が違いますわよ。……苦みの後で甘みを待っていると、どちらも分かるようになりますもの)
窓の外を見た。
雨が上がった港に、今夜は霧が戻ってきていた。
(霧の港の三日目が終わりましたわよ。……四番廃屋が空になっていて、七番廃屋に書類が残っていた。明後日の押収が決まって、明日スルッツが来る。一段ずつ、確実に進んでいますもの)
(急いで全部を洗い落とそうとすれば、匂いだけが残りますわよ。でも丁寧に分別すれば、何が汚れで何が残すべきものかが見えてきますもの)
アルミカを最後にもう一つ取った。
塩の一粒が、今度は最初から存在を主張していた。
(気づいていると、最初から分かりますわよ。……そういうものですもの)




