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第27話:沈殿物の行方、あるいは二層目の掃除

 朝の光が変わっていた。


 昨日まで霧が散らしていた光が、今朝はまっすぐ届いている。窓を開けると、海が見えた。本当の意味で、初めて見た。霧越しにぼんやりと光の帯として認識していたものが、今朝は水平線まではっきりと銀色に伸びている。


(これが、フォル・ネビュラの本当の顔ですわよ)


 霧の港は、霧がない時の方が、底の色が出る。


 波が、昨日より速い。


 右手を窓枠に置いた。白い手袋の上を、乾いた海風が通り抜けた。今日の風は昨日と向きが違う。海から陸ではなく、陸から海へ向かっている。


(風が変わりましたわよ。……澱を動かすのは、水ではなく風の向きが変わることがありますわよ。今日は何かが動きますわよ)


* * *


 食堂に降りると、シリルが二つの顔をしていた。


 一つは、徹夜明けの赤い目。もう一つは、何か掴んだ時の、抑えた表情だ。


「おはようございます、シリル。何か出ましたかしら」


「おはようございます。……出ました。相当なものが」


 シリルがテーブルに広げた手帳を指した。


 帳簿の解読対照表が、昨夜より三倍ほど埋まっている。


「暗号の換字式を、ライスさんの説明を元に昨夜から再構成しました。……送金先の暗号記号の大部分が、今朝方ようやく読めるようになりましたわよ」


「それで」


「送金先の中に、見たことのある名前が二つ出てきましたわよ」


 シリルが手帳の一行に指を置いた。


「一つ目。ガルベス、という記号に対応する名称がありますわよ。……二つ目」


 一行下を指した。


「ダスト、という記号です」


 私は、二行を並べて見た。


(ガルベスとダスト。……フォル・ネビュラの帳簿に、この国の二人の名前が出てきましたわよ。つまりドレインの資金が、この国のガルベス子爵とダスト侯爵家へ、旧桟橋のカラミ経由で送られていたということですわよ)


(あるいは、逆の方向に流れていたか)


「送金の方向は確認できていますかしら。フォル・ネビュラからこの国へ流れていたのか、この国からフォル・ネビュラへ流れていたのか」


「帳簿の形式上、受け取りと支払いを示す記号があります。……ガルベスの行は、受け取り側です。ダストの行は」


 シリルが少し間を置いた。


「支払い側と受け取り側、両方の記録があります」


(ダストが、送金もしていて受け取りもしていた。……ガルベスはドレインから資金を受け取っていた。ダストは双方向でやり取りをしていた。ダスト侯爵家とドレインの関係が、単なる資金の受け渡しではなく、もっと深い連携関係にあることを示していますわよ)


「金額の規模は」


「ガルベスへの送金は、三年間で七件。金額は、国境警備予算の削減分とほぼ一致します。……削減させた予算が、カラミ旧桟橋経由でガルベスへ戻っていたということです」


(国境警備予算の削減。……ガルベスが腐敗貴族連合で推進していた法案の一つですわよ。その削減分の資金がフォル・ネビュラのドレインからガルベスへ流れていた。削減させることと、資金を受け取ることが、最初から一体の計画だったということですわよ)


「ダストの方は」


「ダストからドレインへの送金が二件、ドレインからダストへの送金が五件。……送金先の記号が「L勘定」の形式と一致しています。つまり」


「ダストとLが、直接やり取りをしていたということですわよ」


「その可能性が高いです」


 私は少しの間、テーブルに目を落とした。


(整理しますわよ。Lがドレインの頂点。ダストがLと直接連絡を取っている。ガルベスはドレインから資金を受け取る側にいる。つまり、ガルベスはドレインに雇われていた側で、ダストはドレインと対等かそれ以上の立場で動いていた可能性がありますわよ)


(モモ・ダスト。「塵」という名前。目に見えにくく、気づいた時には手遅れになるタイプの汚れ。……この帳簿が示していることは、その塵が、国境を越えて既に積もり始めていたということですわよ。五年前から)


「シリル、この二行の情報は、今の段階ではカスミ弁護士だけに共有しますわよ。ライスには、まだ話しませんわよ」


「理由を聞いてもよろしいですかしら」


「ライスが知っていたかどうかを確認してから判断しますわよ。……ライスが知っていてこちらに隠しているなら、それは染み抜きの必要がある部分ですわよ。知らないなら、情報を与えることで反応を見ますわよ」


「なるほど。……ライスを試すということですわね」


「試すというより、染みの深さを確認するということですわよ」


* * *


 カスミ弁護士が食堂に来たのは七時半だった。


 今日は珍しく、外套ではなく室内着のままだった。宿の中で作業をするつもりだということだ。


「おはようございます。……昨夜の廃屋の監視ですが、深夜零時頃に四番の廃屋に一人が入って、三十分後に出ていったとのことです。出てきた時は入った時より荷物が軽くなっていたと。……取り出したのではなく、置いていった可能性があります」


(置いていった。……廃屋に何かを保管していった。昨夜の二人組の移動と同じ夜に、廃屋への搬入があった。これは関係がありますわよ)


「シリルから帳簿の解読結果を共有しますわよ」


 私はシリルに目を向けた。


 シリルが手帳を開いて、カスミ弁護士に二行を示した。


 カスミ弁護士が手帳を見た。


 少し目を細めた。表情は動かないが、視線がわずかに鋭くなった。


「……ガルベスとダスト。この国の二人の名前が出てきましたわよ」


「ええ。ガルベスへの送金方向と金額を見ると、E-1の伏線と接続しますわよ。ダストとLの双方向のやり取りは、さらに奥の構造を示していますわよ」


「証拠価値としては」


「帳簿一冊分の一部です。……今の段階では証拠の断片ですわよ。残り二冊の帳簿も照合できれば、法廷で使える形に近づきますわよ」


(残り二冊。……カラミ旧桟橋の脚の下に、まだ沈んでいますわよ。今は待ちの時間ですわよ)


「カスミ弁護士、残り二冊の帳簿をいつ引き上げるかについて、ご意見をいただけますかしら」


 カスミ弁護士が少し考えた。


「廃屋の正式調査が始まる前に、帳簿は手元に置いておきたいですわよ。……三日後の調査開始に合わせて、前日に引き上げるのが安全だと思います。廃屋の動きが落ち着いた段階で」


「では、廃屋の監視結果を見ながら判断しますわよ。……昨夜、何かが搬入された可能性があるということは、廃屋がまだ使われているということですわよ。引き上げのタイミングは、もう少し様子を見てからにしましょうわよ」


「了解しましたわよ」


* * *


 ライスが漁師亭に来たのは、朝の八時を過ぎた頃だった。


 昨日と同じ組合の仕事着。同じ落ち着いた足取り。ただ、今日は顔に少し疲れの色があった。


(昨夜、何かありましたわよ)


「ライスさん、座ってくださいな。……今日は昨日より顔色が優れないようですわよ」


 ライスが椅子に座った。


「スルッツが昨夜から動いていましたわよ」


「教えてくださいな」


「昨夜の遅い時間に、スルッツが私を呼び出しましたわよ。……組合の裏手の倉庫で。三十分ほど話しましたわよ」


(スルッツが昨夜、倉庫で会合を開いていた。リタが確認した会合と同じ場所ですわよ。ライスが呼ばれていたんですわよ)


「何を話しましたかしら」


「カラミ旧桟橋について確認したい、と言っていましたわよ。……昨夜、桟橋付近に誰かが来ていたと。スルッツの耳に入ったということです」


(私たちのことが、スルッツに伝わっていたということですわよ。左の男が、旧桟橋での私たちの動きを確認して報告した。それがスルッツへ届いた)


「スルッツに、何と答えましたかしら」


「巡礼者が橋の近くで立ち止まっていただけだと。……それ以上は知らないと答えましたわよ」


「スルッツは、それを信じましたかしら」


 ライスが少し間を置いた。


「……半分は、と思います。信じたふりをしていましたわよ。完全に信じてはいないと思います」


(半分信じていない。……スルッツも、事態を警戒し始めていますわよ。それが昨夜の廃屋への搬入と繋がっているかもしれませんわよ。何かを移動させるか、あるいは処分の準備をしているか)


「スルッツが、次に動くとしたらどういう形だと思いますかしら」


 ライスが少し考えた。


「……スルッツが焦る時は、必ずエストに連絡を取りますわよ。判断を自分でしないで、上の指示を待つ人間ですわよ。だから、次の動きはエストかLからの指示が来てから、ということになるかと思います」


「エストへの連絡手段は何ですかしら」


「スラム号ですわよ。船で手紙を運ぶか、スラム号自体が連絡役として来るか。……次にスラム号が港に入る時が、スルッツが動く時だと思います」


(スラム号。……黒い帆の船が次に来た時が、動くタイミングですわよ。それまでは、スルッツはおそらく待ちの姿勢をとりますわよ)


「ライスさん、スラム号の周期はありますかしら。月に何度、という形で」


「以前は月に一度か二度でしたわよ。最近は少し周期が乱れていましたわよ。前回が二週間前です。……次に来るとしたら、早くて今週末、遅くとも来週の初めころかと」


「今週末から来週初め。……三日から五日ですわよね」


「ええ。……ただ、スルッツが急を要する連絡を出した場合は、早まる可能性があります」


(今夜の倉庫での動きを受けて、スルッツが急を要する連絡を出したとしたら、スラム号が予定より早く来る可能性がありますわよ。廃屋への搬入も、その準備だとしたら)


 私は扇子を膝の上で軽く回した。


(段取りが変わってきましたわよ。……当初は廃屋の正式調査を三日後に、という計画だったが、スラム号が早まれば話が変わりますわよ。スラム号が来る前に、廃屋の中身を確認しておく必要があるかもしれませんわよ)


「ライスさん、一つ確認させてくださいな。……帳簿の中に、ガルベスという名前はご存知でしたかしら」


 ライスが少し止まった。


 私はその時の目を見た。


 怯えではない。驚きでもない。


 少し、遠い目だった。知っていた、という目だ。


「……知っていましたわよ」


「どういう形で」


「送金先の暗号記号の一つとして。……スルッツが、あの名前の記号が付いた指示をシュラッセから受け取った時、普段より慎重に扱っていましたわよ。貴族の名前だと察していましたわよ。詳細は教えてもらえませんでしたが」


「ダストという名前は」


 今度は少し長い間だった。


 五秒。


「……ダストの記号は、私が自分で換字式に組み込みましたわよ」


「どういうことですかしら」


「帳簿をつけ始めて一年目に、スルッツからある記号の意味を尋ねられましたわよ。Lからの指示の中にあった記号で、スルッツ自身も意味を知らなかった。……私が調べましたわよ。その記号が指す名前が、ダストでしたわよ」


「調べた、というのは?」


「シュラッセの使う暗号の一部は、以前に回収した古い文書から換字式を推測したものです。……三ヶ月かけて解読しましたわよ。ダストという名前を知った時、これは別に記録しておかなければいけないと思いましたわよ」


(ライスは、ダストがドレインと繋がっていることを知っていて、それを記録していた。知っていて、隠していたわけではない。ただ、こちらが直接聞かなければ話さなかった可能性はありますわよ)


(染みの深さを確認しましたわよ。……ライスが知っていたのは事実だが、隠す意図で黙っていたのか、こちらが聞くまで待っていたのかは、もう少し判断が必要ですわよ)


「昨日、私がガルベスとダストについて尋ねなかったら、今日も話しませんでしたかしら」


 ライスが、少し考えた。


「……今日の朝、スルッツに呼ばれて、帰り道にそのことを考えましたわよ。話した方がいいかどうか。……スルッツが動き始めたなら、情報を出し惜しみする段階ではないと思いましたわよ。だから今日は最初から話すつもりでいましたわよ」


(スルッツが動き始めたから、情報を出すことにした。……それは正直な答えですわよ。理想的ではないかもしれないが、嘘ではない。自分の保身と、情報を届けることの間で迷って、状況に背中を押された。それがライスという人間の正直さですわよ)


(染みはありますわよ。でも、生地はまだ健全ですわよ)


「分かりましたわよ、ライスさん。……正直に話してくださってありがとうございますわよ」


 ライスが少し肩の力を抜いた。


「それから」


 私は言った。


「昨日お話ししていなかったことがありますわよ。……あなたの法的な立場についてですわよ」


* * *


 カスミ弁護士が、法的な説明を行った。


 ライスの組合内でのドレインへの関与。強制的な環境下での協力とはいえ、記録上は関与者であること。協力と引き換えに情状酌量の余地を求める可能性があること。ただし最終的な判断は王城と国際的な取り決めの問題であり、現段階では確約はできないこと。


 ライスは静かに聞いていた。


 カスミ弁護士の説明が終わった後、しばらく黙っていた。


「……分かっていましたわよ。そうなることは」


「それでも、協力してくださいますかしら」


 ライスが私を見た。


「協力しなくても、記録はあなた方の手にありますわよ。どちらにしても、状況は変わらないですわよ」


「それはそうですわよ」


「では、協力する方が、少なくとも自分の意志でここにいたことになりますわよ。……帳簿を沈めていた五年間も、自分の意志でいましたわよ。同じことですわよ」


 私は少しだけ、扇子を開いた。


(この人は、覚悟を持っていますわよ。ゴミではない。汚れはついているが、生地の芯が通っていますわよ)


「では、改めて。よろしくお願いしますわよ、ライスさん」


 ライスが静かに頷いた。


* * *


 午前の作業は、帳簿の完全解読に向けた照合だった。


 ライスが換字式を説明し、シリルが照合し、カスミ弁護士が法的証拠としての形式を確認する。リタが食堂の外を確認し続ける。


 私は全体を整理しながら、気になっていたことを一つ確認した。


「ライスさん、帳簿にある五年分の記録の中で、カラミ旧桟橋を経由しなかった送金はありますかしら」


 ライスが少し考えた。


「……二件だけ、あります」


「どういう性質のものですかしら」


「どちらも、フォル・ネビュラではなく王都側で処理された記録です。旧桟橋のカラミを経由せずに、直接この国の受け取り側へ届いたと思われるものです。……一件はガルベス宛、一件はダスト宛です」


(旧桟橋を迂回した送金が二件。……通常の経路ではなく、別の経路で直接届けられた。その二件が、フォル・ネビュラ側の記録には残っているが、旧桟橋の通過記録には存在しない)


「その二件の日付は」


「一件が四年前の冬。もう一件が一年半前の秋です」


(一年半前の秋。……一年半前に何があったかを考えますわよ。その頃、王都では何が動いていたかしら)


「シリル、一年半前の秋に、この国でガルベスかダストに関係する出来事はありましたかしら」


 シリルが目を閉じた。


 少しして、開いた。


「……一年半前の秋に、国境警備の予算削減法案の審議が王議会で初めて提出されています。ガルベス子爵が提案者です。この時の審議は一度差し戻しになっていますが、その後の再提出で可決されていますわよ」


(一年半前の秋に審議が始まった。その時に、旧桟橋を迂回した送金がガルベスかダスト宛に届いている。……法案の提出を後押しするための資金が、通常の経路を使わずに直接届けられたということかもしれませんわよ。何らかの理由で、旧桟橋を経由させることができなかったか、急いでいたか)


「四年前の冬の方は、何か心当たりはありますかしら、ライスさん」


 ライスが少し間を置いた。


「……四年前の冬は、スルッツが組合長になった時期と重なりますわよ。それまでの組合長が急に辞任して、スルッツが後任になった」


「急に辞任した、というのは」


「理由は公表されませんでしたわよ。でも、組合の中では病気だということになっていましたわよ。……前の組合長は今も元気に生きていますわよ。別の仕事をして」


(急に辞任させて、スルッツを後任に据えた。前任者には何らかの圧力がかかったか、あるいは取引があったか。スルッツが組合長になったことで、ドレインがフォル・ネビュラの港の機能を本格的に手に入れた。その時の資金が、旧桟橋を迂回して直接動かされた。……つまり、スルッツを組合長にするための費用が、ガルベスかダスト宛に直接届けられたということかもしれませんわよ)


(この国の政治に対する工作と、フォル・ネビュラの港の掌握が、四年前に同時に進んでいた。そしてその全体を動かしていたのがLという存在です)


 私は扇子を閉じた。


(見えてきましたわよ。……排水溝の配管の全体図が。でも、一番上の詰まり——Lの正体だけが、まだ見えていませんわよ)


「ライスさん、Lについて、あなたが知っていることを教えてくださいな。名前でも、特徴でも、何でも」


 ライスが少しの間、目を伏せた。


「……Lの名前は知りませんわよ。直接の接触は一度もないですわよ。でも、一つだけ知っていることがありますわよ」


「何ですかしら」


「シュラッセが、一度だけ口を滑らせたことがありますわよ。……Lというのは人の名前ではなく、場所の名前かもしれない、と」


(場所の名前)


「どういう意味ですかしら」


「Lという記号が、人物を指しているのではなく、その人物がいる場所、あるいは機能している場所を指している可能性がある、とシュラッセは言っていましたわよ。……それ以上は、シュラッセも知らなかったようでしたわよ」


(Lが場所の名前。……L勘定のLが、人物のイニシャルではなく、場所のイニシャルだとしたら。フォル・ネビュラの周辺で、L という名前を持つ場所はありますかしら)


 私はカスミ弁護士を見た。


 カスミ弁護士が少し考えていた。


「……フォル・ネビュラの古い地名の中に、「ルファス(Lufas)」という岬がありますわよ。今は使われていない名前ですが、港の東の突端にある岬の古称ですわよ。……現在の地図では「東岬」と呼ばれている場所です」


(ルファス。……J-4にあった名前ですわよ。「ルファス・モルケン」という名前が記録に残っていましたわよ。モルケンというのは、この辺りの古い言葉で「腐った」という意味だったかしら)


「カスミ弁護士、ルファス岬の現状はどういった場所ですかしら」


「港の中心から外れた、ほとんど使われていない場所ですわよ。岬の突端に、古い灯台の跡があります。今は機能していない廃灯台ですわよ。……フォル・ネビュラでは、霧の濃い日は東の灯台ではなく、港の中心の灯台を基準にするので、ルファスの廃灯台は存在を忘れられている感じですわよ」


(廃灯台。……カラミ旧桟橋と同じ構造ですわよ。表向き廃れていながら、実際には何かに使われている可能性がありますわよ。スラム号が港の正規の桟橋を使わずに、東側から出入りしていたとリタが確認していましたわよ。東側、つまりルファス岬の方向ですわよ)


「スラム号は、どの桟橋から出入りしていますかしら」


 ライスが少し目を細めた。


「……東側の旧水路の出口付近です。正規の桟橋ではなく、岬との間の浅瀬に一時的に着岸する形を取っていましたわよ」


(確定しましたわよ。ルファス岬がLの拠点、あるいはスラム号の本来の寄港地ですわよ。廃灯台が、ドレインのフォル・ネビュラにおける本体ということかもしれませんわよ)


 私は少しだけ、右の手袋の表面を見た。


(L=ルファス。灯台の跡。……ここまで来ましたわよ)


「シリル、ルファス岬の廃灯台について、今日中に外観確認はできますかしら。内部には入りませんわよ。あくまで外から、人の気配があるかどうかだけ確認したい」


「港の東側であれば、今日の午後、漁師の目線で近づく方法があります。……ただし」


「ただし、何ですかしら」


「今日は風が陸から海へ吹いていますわよ。東岬の付近は、この風向きの時に波が立ちやすいという話を昨日ラウルの息子から聞いていましたわよ。接近には注意が必要ですわよ」


「確認できる範囲で構いませんわよ。無理はしないでくださいな」


「では、私ではなくリタに行ってもらう方がよいかもしれません」


 リタが扉の側で、少し顔を向けた。


 チャキッ。


(行きますわよ、という意味ですわよ)


* * *


 午後の作業に移る前に、昼食を取った。


 宿の主人が今日は蒸し貝の料理を出してきた。貝が大きくて、出汁が器の底に溜まっている。


(貝の旨味が、殻の中に閉じ込められていますわよ。殻を開けないと中身が分からない。今日の作業は、そういう仕事ですわよ。外側は廃れた外観をしているが、中に何が入っているか、開けてみなければ分かりませんわよ)


 ライスが珍しく昼食を一緒に取った。組合に一度戻らなくてよいのかと聞いたら、「今日は有給です」と言った。


 シリルが少し眉を上げた。


「組合の副長が有給を取るものですかしら」


「半年ぶりですわよ。……スルッツも止めませんでしたわよ。昨夜の様子からすると、スルッツはスラム号からの連絡を待っている段階で、組合の細かい管理に気が回っていないんですわよ」


(スルッツが待ちの状態に入っている。それはこちらにとっても同じですわよ。スラム号が来るまでの間に、できることを全部やっておく必要がありますわよ)


「シリル、午後の帳簿の照合は、残りどのくらいですかしら」


「換字式の解読が完了したので、送金記録の全項目を読むことは今日中にできます。ただし、対照表の整理と法廷証拠の形式に合わせた整理は、明日の作業になりますわよ」


「では今日中に全項目を読み終えて、明日整理しますわよ」


「かしこまりました」


* * *


 午後の半ば、シリルが食堂のテーブルに帳簿を広げていた。


 ライスが隣で換字式の補足説明をしている。


 カスミ弁護士が法的な観点からのメモを取っている。


 私は全体を見ながら、頭の中で整理していた。


 そこへ、扉の外から軽い音がした。


 チャキッ、ではない。


 ノックだ。


 宿の主人の声がした。


「お客様のところへ、手紙がきましたわよ」


 シリルが立ち上がって扉を開けた。


 主人が折り畳まれた紙を渡した。


「さっき、港の東側の方から若い男が持ってきましたわよ。「ヴィクトリという名の方がいれば渡してほしい」とのことで」


 シリルが紙を受け取った。


 主人が下がった。


 シリルが私に渡した。


 折り畳みを開いた。


 短い言葉が書いてある。


*「スラム号、今夜入港。荷は少ない。ただし同乗者あり。*

*同乗者の名はヴァルス・スラム。*

*東岬に向かう。——霧より」*


 部屋の中が、少しだけ静かになった。


 ライスが紙を見て、少し目を細めた。


「……エストが来ますわよ」


「ええ。今夜」


 私は紙を折り畳んだ。


 扇子を膝の上で開いた。


(スルッツが連絡を出して、エストが直接来ることになった。ルファス岬の廃灯台——L勘定の本体へ向かう。……これは、スルッツが状況を報告して、上位の人間が自ら確認に来たということですわよ)


(急いでいますわよ。……エストが自ら動くということは、スルッツだけでは対処できない事態だと判断したということですわよ。私たちがカラミ旧桟橋に来たことが、それほど大きな動揺を与えたということかしら)


(あるいは)


(帳簿がないことに、気づいたのかもしれませんわよ)


「シリル」


「はい」


「今夜の段取りを整理しますわよ。……まず、リタのルファス岬の確認は今日中に行ってもらいますわよ。ただし内部には近づかないこと。エストが来ることを知った上で、外観だけ確認しますわよ」


「はい」


「次に、スルッツの動向をライスさんに確認していただけますかしら。今夜スルッツがどこへ向かうかを」


 ライスが頷いた。


「エストが来るなら、スルッツは必ず出迎えに動きますわよ。組合の裏手の倉庫か、カラミ旧桟橋か……おそらくルファス岬の方向へ向かうと思います」


「確認できる範囲で教えてくださいな。無理はなさらないでくださいな」


「分かりましたわよ」


「そして」


 私は少し間を置いた。


「今夜は、全員で宿にいますわよ。……動きませんわよ」


 ライスが少し目を丸くした。


「……動かないのですかしら」


「動く必要がないですわよ。今夜はエストが来る。スルッツが迎える。廃灯台で何かが行われる。……それを記録することは必要ですが、今夜こちらが動けば、向こうは警戒して引いてしまいますわよ」


「では、今夜確認できる情報だけを集めて、実際に動くのは別の機会ということですかしら」


「スラム号が来て、エストが廃灯台に入って、何かを確認して、また去っていく。……その一連の動きを記録した後で、スルッツが次にどう動くかを見ますわよ。スルッツが動いた後の廃屋と廃灯台の状態が、次の掃除の対象ですわよ」


(今夜は待ちますわよ。……汚れが一ヶ所に集まった時が、掃除のしどころですわよ。今夜はまだ、澱が攪拌されている最中ですわよ。澱は、底に沈み直してから掬いやすくなりますわよ)


 シリルが小さく「エコです」と言った。


「何ですかしら」


「大変エコな判断だと申しましたわよ。焼却せずに記録する判断は、省エネですわよ」


「……あなたはいつでも」


 私は扇子を閉じた。


* * *


 リタが夕方の五時前に戻ってきた。


 外套が少し塩気を帯びている。海の近くまで行ったのだろう。


 食堂に入って、紙片を渡してきた。


*東岬・廃灯台。建物外観は廃屋状態。ただし灯台上部のガラス部分、内側から黒布で塞がれている形跡。一階部分の扉は新しい錠前。基礎部分の石に、最近の靴跡複数。東側浅瀬に、小船の引き上げ跡が二本。——記録のみ。*


(内側から黒布。新しい錠前。靴跡。小船の跡。……廃灯台は現在進行形で使われていますわよ。カラミ旧桟橋の廃屋より、より積極的に使われている形跡がありますわよ)


(灯台を内側から遮光しているのは、中の光が外から見えないようにするためですわよ。船の目印としての機能を消して、内側でこっそり明かりを使えるようにしている。……廃灯台が、ドレインの会合場所か、物の保管場所として機能しているということですわよ)


「よくやってくれましたわよ、リタ。……今夜は宿で待ちますわよ」


 チャキッ。


 了解、という音だった。


* * *


 夜の帳が下りた。


 ライスが夕方に一度組合へ戻って、夜の九時頃に漁師亭へ戻ってきた。


 顔に少し緊張の色があった。


「スルッツが夕方に東の方向へ歩いていきましたわよ。……荷物は持っていませんでしたわよ。報告だけしに行ったんだと思います」


「エストとの会合ですわよ」


「ええ。深夜には戻ってくると思いますわよ。……スルッツが戻ってきた後の様子で、会合がうまくいったかどうかが分かりますわよ」


「何時頃確認できますかしら」


「真夜中前には戻るかと思います。……組合の鍵を深夜に開けたり閉めたりするのを、私が確認しますわよ。普段と違う時間に鍵が動けば、スルッツが戻ったということですわよ」


「お願いしますわよ、ライスさん。……ただし、今夜のうちに報告が来なくても構いませんわよ。明日の朝で十分ですわよ」


「分かりましたわよ」


 ライスが立ち上がった。


「……クレア・ヴィクトリア様」


「何ですかしら」


「あなたは、焦らないですわよね」


 私は少し考えた。


「焦っても汚れが落ちないことを知っていますわよ。……力任せに擦ると、生地が傷みますわよ。それだけのことですわよ」


 ライスが少しだけ、口の端を上げた。


「……では、おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 漁師亭の扉が閉まった。


* * *


 深夜の少し前に、シリルが報告を持ってきた。


「帳簿の全項目、読み終わりましたわよ」


「ご苦労様ですわよ。……何か新しいものが出ましたかしら」


「一点だけ、追加でお知らせすることがありますわよ。……帳簿の最後のページに、換字式が異なる短い記録が一行だけありましたわよ」


「どんな内容ですかしら」


「他の記録より新しい日付です。……三ヶ月前。そして、記号ではなく、直接の言葉で書かれていましたわよ」


 シリルが手帳を開いた。


*「L、ルファス発。次の寄港地、聖教国経由」*


(聖教国。……ルファスからスラム号が聖教国へ向かっていたということですわよ。三ヶ月前に。そして次の寄港地として書かれているということは、経路が確立しているということですわよ)


(ドレインの排水溝は、フォル・ネビュラで終わっていなかった。この国とフォル・ネビュラの次に、聖教国へ続いていましたわよ。……排水管は、思っていたより長かったですわよ)


「これは、今夜はまだライスさんにも話しませんわよ」


「了解しました。……では、今夜はここまでにいたしますかしら」


「ええ。……お休みなさい、シリル。今夜はきちんと寝てくださいな」


「かしこまりました。……ただし、二時まで整理しますわよ」


「それは」


「限度と言いましたわよ。限度までは整理しますわよ」


 私は少し溜息をついた。


(言葉を返してきますわよ、この人は)


* * :


 夜の波の音を聞きながら、私は今日一日を整理した。


 ガルベスとダストの名前が帳簿に現れた。


 Lがルファス岬の廃灯台を拠点としていることが判明した。


 エストが今夜フォル・ネビュラへ来た。


 そして帳簿の最後に、聖教国への経路が示されていた。


(大きな掃除ですわよ。……第1章でやっていた屋敷や王城の大掃除が、今では国境を越えて、港の底に溜まった澱を解きほぐす作業になった。そして今夜知ったことが正しければ、この排水管は聖教国まで続いていますわよ)


(でも)


(今夜は動きませんわよ。今夜エストが何をしているかは、明日ライスから聞きますわよ。廃屋の四番に昨夜搬入されたものが何かは、正式調査で確認しますわよ。残り二冊の帳簿は、適切なタイミングで引き上げますわよ)


(焦っても仕方がありませんわよ。汚れが固まってから全部一度に洗い落とそうとすると、床が汚れますわよ。少しずつ、丁寧に剥がしていかなければなりませんわよ)


 窓の外を見た。


 今夜は霧がない。


 海が、月明かりを反射して光っている。


 その光の中に、ルファス岬の方向がある。


 廃灯台は暗いままだ。中に明かりがあっても、黒布が遮っているから外からは見えない。


(黒布で遮っても、光は中にありますわよ。……暗く見えるからといって、何もないわけではありませんわよ。底に澱が沈んでいるのと同じですわよ)


* * *


 少し後で、シリルが小さな盆を持って戻ってきた。


「整理の手が止まったので、少しお持ちしましたわよ」


「整理が終わりましたかしら」


「今夜の分は終わりました。……ただ、お嬢様の部屋に明かりがついていたので」


 盆の上に、茶器と、小さな皿が二つ。


「今夜は何ですかしら」


「フォル・ネビュラの名物「タルゲ茶」です。……昼間にライスさんが教えてくださったんですわよ。港の東側でしか作られていない、岬の茶葉で作るお茶だそうで。香草と岩塩と、少しだけ魚のだしが入っていますわよ。アンチョ茶より茶葉の成分が強いので、夜に飲むと頭が少しすっきりするそうです」


「岬の茶葉」


「東岬、つまりルファス岬の斜面に自生している草だそうですわよ。……昼間にライスさんが「そういえばあの辺りの茶葉が一番いい」と言っていたので、宿の主人に頼んで用意してもらいましたわよ」


(ルファスの茶葉。……廃灯台が立っている岬の斜面で育った草で作ったお茶ですわよ。汚れた場所でも、良いものが育つことはありますわよ)


 茶器を手に取った。


 深い緑がかった色のお茶が、湯気を立てている。


 一口飲んだ。


 岩塩の塩気が最初に来た。次に、海藻とも香草ともつかない、複雑な青みのある味が広がった。魚のだしは、アンチョ茶より控えめで、むしろ後から気づく程度の深みとして沈んでいる。


(深いですわよ。……表面には塩気と香草があって、底に旨味が沈んでいる。これは飲み込むほどに分かってくる味ですわよ。急いで飲んだらもったいないですわよ)


「もう一つの皿は何ですかしら」


「ライスさんが帰り際に持ってきてくださったものですわよ。……組合の近くで作られている「カリウ」という干し貝の菓子です。貝を薄く切って干して、砂糖と岩塩で味付けしたものだそうですわよ。港の荷捌き師が仕事の合間によく食べるものだそうで」


(ライスが持ってきてくれましたわよ。……この人らしいですわよ。感謝や申し訳なさを言葉では言わずに、菓子で表現する。港の人間の、飾らない作法ですわよ)


 カリウを一枚取った。


 薄く乾燥した貝が、さくりと割れた。甘みと塩気が均等に来る。タルゲ茶の青みのある塩気と合わさると、海の全体のような味になった。


(合いますわよ。……岬の茶葉と、港の干し貝。同じ場所の素材が、同じ方向を向いていますわよ)


 もう一口、タルゲ茶を飲んだ。


 底の旨味が、今度は少し前に出てきた。


(二口目で、底が見えてくる。……一口目では分からなかったものが、飲み続けることで現れてくる。今日の作業もそうでしたわよ。帳簿を最後まで読んで、最後の一行に聖教国が出てきた。底まで見なければ、分からないことがありますわよ)


「シリル」


「はい」


「明日、ライスさんが来たら、昨夜のエストとの会合の結果を聞いてから、次の段取りを決めますわよ。廃屋の引き上げと、正式調査の timing を調整しますわよ」


「かしこまりました」


「それと」


 私はカリウをもう一枚取りながら言った。


「聖教国については、今は温めておきますわよ。……まだ、フォル・ネビュラの底が全部見えていませんわよ。急いで次に行くのは、拭き残しができますわよ」


「了解しました。……拭き残しは、後で固着しますわよ」


「よく分かっていますわよ、あなたは」


「長年お嬢様の隣にいますわよ」


 波の音が、一定のリズムで続いていた。


 タルゲ茶の最後の一口が、口の中で岩塩と岬の草の混じった味になった。


 底の旨味が、ゆっくりと広がった。


(今夜はここまでですわよ。……明日の朝、ライスが来て、エストの動向が分かれば、次の段取りが見えますわよ。排水管の詰まりを全部取り除くには、もう少し時間が必要ですわよ)


(でも、配管の全体図が見えたということは、大掃除の設計ができたということですわよ)


 扇子を膝に置いたまま、波の音を聞いた。


 今夜の海は穏やかだ。


 ルファス岬の廃灯台で、エストが今何をしているかは、明日分かることですわよ。

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