第26話:澱の底で、霧は語る
夜が深くなるほど、港は静かになるかと思っていた。
違った。
港の夜は、昼とは別の種類の音に満ちている。
波の音は変わらないが、荷揚げの声がなくなった分、水の音がよく聞こえる。遠くで、綱が桟橋の杭に当たる音。どこかの酒場から漏れる、男たちの話し声の残滓。霧の中で鳴る鐘の音。
私は食堂の隅で、スミカという菓子を手に、その音を聞いていた。
宿の主人が持ってきた茶は、今夜は昨夜と違うものだった。
「これは何というお茶ですかしら」
「「潮引き茶」と言いましてね。干した昆布と、焦がし麦だけで作ったものです。……港の人間は、夕食の後の一杯を「底を沈める」と言うんですわよ。一日のざわつきを、お茶で沈める、という意味でね」
(底を沈める。……今日は、底から帳簿を引き上げてきましたわよ。逆方向ですわよ)
口には出さなかった。
「いただきますわよ」
一口飲んだ。
昨夜の濃霧茶より、ずっと静かな味だった。磯の香りは残っているが、主張が強くない。ただ、温かい。喉から胸にかけて、じんわりと広がる温かさだ。
(沈んでいくような温かさですわよ。……底まで温まる感じですわよ)
スミカを一口かじった。
干した小魚の粉と麦の素朴な甘さが来て、その後に、かすかに塩気が残った。ナミカの塩気とも、道中菓子の酸っぱさとも違う。海が長い時間をかけて作った味、とでも言うべき風味だ。
(旅を重ねるたびに、食べるものが変わりますわよ。……屋敷のケーキとは全然違う。でも、それぞれの場所に、その場所に合った甘みがありますわよ)
食堂に一人でいると、考えが自然に整理される。
(今日一日で分かったこと。旧桟橋区――港の人間が「カラミ」と呼ぶあの汚水の絡まる水域――の桟橋の下に帳簿が三冊沈んでいた。一冊を持ち帰り、二冊は戻した。ペルト・ナッハという架空商会が廃屋を管理している。スルッツが今夜どこかで会合を持っている。ライスが半年前からカラミへ行かなくなっていて、霧と何らかの繋がりがある可能性がある)
(多い。……一日にしては、多すぎるほど出てきましたわよ)
扇子を取り出した。
開いた。
閉じた。
(整理しますわよ。一つずつ、分別しますわよ)
* * *
シリルが自室で帳簿と格闘している気配が、階上から伝わってきた。
声は聞こえない。ただ、紙をめくる音が、時折廊下まで響いてくる。
(シリルは徹夜も厭わない人ですわよ。……もともと睡眠が少なくても動ける体質だと言っていましたわよ。「必要な情報が揃う前に眠るのはエコではありません」という言い方をしますわよ。エコという言葉を、本当に色々な使い方をしますわよ、あの人は)
リタは今頃、港の東側にいるはずだ。
スルッツの会合の場所を探して、霧の中を歩いている。音もなく、気配も消して。白い修道女の衿を外して、外套一枚で動いているかもしれない。
(リタに、霧の港の夜は似合いますわよ。……音で場所を判断する、と昨日ラウルが言っていた。リタは、音がなくても場所を判断できますわよ。もっと別の何かで空間を読んでいますわよ)
茶を飲み終えた。
二杯目を頼もうかと思ったが、止めた。
(今夜は、シリルに言われた通り、早めに休みますわよ。明日の朝、ライスが来るかもしれませんわよ。来た時に万全の状態でいる方が、この一杯より価値がありますわよ)
席を立った。
* * *
廊下を歩いていると、宿の主人が後から声をかけてきた。
「お客さん、一つよろしいですかな」
「何かしら」
「今日の昼過ぎに、見慣れない方がお宿の前を二度通られましたわよ。……中には入ってこなかったんですが、窓から見ていると、少し足を止めてから戻っていかれましてな」
(また確認されていましたわよ。……商人風の二人組の、動いていた方かもしれませんわよ)
「どんな方でしたかしら」
「三十代くらいの男性で、外套をしっかり着込んで。荷物は持っていなかった。……港の荷捌き師には見えなかったですわよ。商人にしては手ぶらすぎた」
(手ぶらで宿の前を確認した。観察に来ていましたわよ。宿の場所を特定するために)
「ありがとうございますわよ、教えてくださって。……もし今後、その方が宿に来るようなら、お部屋に知らせてくださいな」
「かしこまりましたわよ。……お客さん方は、清掃のお仕事をされているんですかな。カスミ先生も、仕事の人とおっしゃっていたので」
「ええ、そういうものですわよ」
「……港には、掃除が必要な場所がたくさんありますわよ。気をつけてくださいましな」
主人が、少し難しい顔で言った。
(主人も、何かを感じていますわよ。……港で長く仕事をしていれば、自然に見えてくるものがありますわよ。汚れの気配というのは、敏感な人間には分かりますわよ)
「心得ておりますわよ」
階段を上がった。
* * *
部屋に入って、窓を少し開けた。
港の夜の空気が入ってきた。
今夜は昨夜より霧が薄い。遠くの桟橋の灯りが、はっきり見えた。
右手を窓枠に置いた。
白い旅用の手袋の上に、夜の海の冷たさが降りてくる。
(冷たいですわよ。……でも今夜は、昨夜より少し慣れていますわよ。一日港にいると、冷たさの種類が体に馴染んでくる)
手袋を、ゆっくりと外した。
窓枠に、素手の右手を置いた。
海の冷たさが、手袋なしで直接来た。
(…………冷たいですわよ。手袋があった時と、温度は変わらないはずですわよ。でも、感じ方が違いますわよ。手袋一枚分の差なのに、全然違う冷たさに感じますわよ)
自分の手を見た。
港の灯りの中で、指先が少し白く光って見えた。何も焼いていない。何も消していない。今夜は、ただ港の音を聞いて、お茶を飲んで、帰ってきた手だ。
(きれいですわよ。……今夜は)
すぐに手袋をはめ直した。
(明日は、どうなりますかしら)
窓を閉めた。
扇子を枕の脇に置いた。
波の音が、一定のリズムで聞こえていた。
* * *
目が覚めたのは、夜中の二時を過ぎた頃だった。
廊下で、音がした。
静かな音だ。足音というより、気配だ。でも、確実に誰かが廊下にいる。
私は起き上がった。手袋をはめた。扇子を手に取った。
右手に、ほんの少しだけ魔力を通した。まだ発動はしていない。ただ、いつでも出せる状態にしておく。
(リタが戻ってきたのかしら。あるいは、違う何かかしら)
扉の前まで歩いた。
ノックが、二回。間を置いて、もう一回。
(……二回と一回のノックですわよ。これは昨日、漁師亭に来た時にシリルと決めた確認用の合図ですわよ。リタが戻りましたわよ)
扉を開けた。
廊下にリタが立っていた。
外套が、夜露で少し濡れている。頬に、霧の湿気が残っている。
目が、いつもより少し深い光を持っていた。
(何か見てきましたわよ)
「入ってくださいな」
* * *
部屋の中で、リタが懐から折り畳んだ紙を取り出した。
私の部屋のデスクに置いた。
開いた。
リタの観察記録だ。
*スルッツ。夜九時半、ガント組合裏手の路地から東へ向かう。連れは二名。一名はライスではない。背格好から四十代の男、外套に組合の紋章なし。もう一名は小柄で外套に帽子。顔は確認できず。*
*会合場所:旧市場区の外れ、八番の廃屋。(四番・七番とは別の建物)*
*会合の時間:約三十分。*
*会合後、スルッツは一人で組合の方向へ戻る。二名は別の方向へ散る。*
*小柄の人物が最後に廃屋を出た際、桟橋の方向を一度だけ振り返った。*
(旧市場区に、もう一棟あったということですわよ。四番と七番は確認していたが、八番は把握できていなかった。……スルッツが昨夜、旧市場区の八番廃屋で会合を持った)
(小柄の人物が桟橋の方向を振り返った。……水中の帳簿のことを知っているか、あるいは昨夜の小火のことを気にしているか)
「リタ、二名のうち、小柄の方の人物について、もう少し分かりましたかしら」
リタが、追加の紙片を出した。
*小柄。歩様は軽い。重心が低く、慣れた足運び。帽子で顔は隠れているが、外套の裾が女性用の仕立て。*
(女性ですわよ。……スルッツの会合に、女性が同席している。組合の人間ではない。外套の紋章がない。身元を隠している)
私は紙片を見ながら、少し考えた。
(女性で、重心が低く慣れた足運びで、身元を隠してスルッツと会合している。……ドレインの経路に関わる人間なら、男が多いはずですわよ。珍しいですわよ)
「リタ、その女性について、もう少し観察はできましたかしら」
リタが首を横に振った。
廃屋から出た後、霧の中に消えたということだ。
「分かりましたわよ。……今夜はここまでにしますわよ。ご苦労様でしたわよ、リタ」
リタが小さく頷いた。
部屋を出る前に、一度だけ振り返った。
目が、少し訴えるような光を持っていた。
(何かを伝えたいのかしら)
「何かありますかしら」
リタが、右手をわずかに動かした。
桟橋の方向を示すような、ゆるやかな動きだ。
(桟橋に、まだ何かがあるということかしら)
「帰り道に、旧桟橋の方向で気になるものがありましたかしら」
リタが今度は、左の親指と人差し指を近づけた。
少し、という意味だ。
「気になる程度で、今夜は問題ない、ということですわよね」
小さく頷いた。
「ありがとうございますわよ。……今夜はよく休んでくださいな」
チャキッ。
廊下の音が消えた。
* * *
翌朝。
窓の外が明るくなる前に目が覚めた。
支度を整えて廊下に出ると、リタがいた。目の下の赤みは、昨夜よりずっと薄くなっていた。
(少し眠れたようですわよ。……よかったですわよ)
食堂に降りると、シリルがいた。
テーブルの上に、帳簿と手帳と、何枚もの紙が広がっていた。
シリルの目の下に、濃い影があった。
「眠りましたかしら、シリル」
「二時間ほど」
「二時間」
「必要十分です。……それより、結果をご報告してもよろしいですかしら」
「先に座りますわよ」
椅子を引いた。
「どうぞ」
「はい。……帳簿の暗号ですが、数字の部分はほぼ解読できました。送金先の名称については、七割がたL勘定の暗号体系と一致しましたが、残り三割は別の体系で書かれていて、今夜中には読めませんでした」
「読めた七割で何が分かりましたかしら」
シリルが手帳を開いた。
「帳簿の期間は、五年と三ヶ月です。最初の二年間は、送金額が小さい。月に一度、百ラルド前後の動きがほとんどです。ところが、三年目の秋から、送金額が急増します。月に二千ラルド以上の動きが、定期的に記録されるようになります」
(三年目の秋。……ライスが旧桟橋区へ通い始めたのが三年ほど前、とハンスが言っていましたわよ。帳簿の金額が急増した時期と重なりますわよ)
「送金先は特定できましたかしら」
「読めた七割の中で、繰り返し登場する名称が三つあります。……一つ目は「スラッジ」。これはシュラッセの別称で、L勘定に既に登場している名前です。二つ目は「ルファス」。三つ目が、読み方が少し変わっていまして」
「何ですかしら」
シリルが手帳の一行を指した。
*ノッケン*
「ノッケン、ですかしら」
「はい。……この土地の古い言葉で「節」あるいは「絡み目」という意味があります。縄の、複数の方向から力がかかって固まった部分のことを指す語です」
(節。絡み目。……縄が絡まった部分ですわよ。旧桟橋区の汚水が「絡みつく」ところをカラミと呼ぶなら、ノッケンはその結び目ですわよ。ドレインの経路図の中で、複数の流れが交差する点を指しているのかもしれませんわよ)
「ノッケン、という名前を持つ人間あるいは組織について、カスミ弁護士に確認しますわよ」
「はい。……あともう一点」
「何かしら」
「帳簿の最後のページに、日付が入っていない記録が一行だけありました。他の記録と書き方が違っていて、まるで後から書き足したような筆跡でした」
「何が書いてありましたかしら」
シリルが手帳をめくった。
「解読した内容が正確かどうか、まだ確認が必要ですが……おそらく、こういう意味です」
手帳を、私の方に向けた。
*「ノッケンは、ここではなく北にいる。霧は知っている。」*
私は、その一行を二度読んだ。
(霧は知っている。……帳簿にこう書いた人間が、霧の存在を知っていた。そして、ノッケンが北にいると書いた。フォル・ネビュラより北ということですかしら。隣国の内陸部か、それとも)
(この帳簿を書いたのがライスだとすれば、ライスは霧を知っていて、ノッケンが北にいることを帳簿の中に残した。誰かが後で読むために。あるいは、自分が読み返すために)
「シリル、これを書いた人間が、霧と繋がりを持っていた可能性がありますわよね」
「十分にあります。……ライスが帳簿の持ち主であれば、ライスが霧に情報を渡していたか、あるいは霧から情報を受け取って帳簿に記録していたか」
「どちらにしても」
私は扇子を一度だけ開いた。
「今朝、ライスが来るかどうかで、随分と状況が変わりますわよ」
* * *
カスミ弁護士が食堂に来たのは、朝の七時だった。
昨日と同じ仕事着。同じ書類鞄。ただ、今朝の目は昨日より少し明るい。
「おはようございます。……何か進展がありましたかしら」
「ございましたわよ。……座ってくださいな」
三人で、シリルの解読結果をカスミ弁護士と共有した。
カスミ弁護士が「ノッケン」という名前を聞いた時、少しだけ表情が変わった。
「ご存知ですかしら」
「名前は、聞いたことがあります。……ただし、実体については分かっていませんでした。フォル・ネビュラの商人の間で、時折「ノッケンが決める」という言い方をする人間がいたので、何かの取りまとめ役か仲介者ではないかとは思っていましたが」
「北にいる、という記録がありましたわよ」
「北。……フォル・ネビュラより北というと、山岳地帯か、あるいは北部の交易都市です。「ウルス」という町があります。山を挟んだ向こう側で、東西の交易が交差する場所です」
(ウルス。……東西の交易が交差する。ノッケン、つまり「絡み目」という名前を持つ者が、東西の交差する場所にいる。偶然ではありませんわよ)
「ウルスについて、資料はありますかしら」
「手元に少しあります。……後で共有しますわよ」
「お願いしますわよ」
リタが食堂の入口の方向を一度見た。
チャキッ。
小さな音が鳴った。
(誰か来ましたわよ)
全員が少し体を固くした。
宿の主人が食堂に顔を出した。
「巡礼のお客様に、お客様がいらっしゃいましたわよ。……組合の方だと言っていますわよ」
私は扇子を膝の上に置いた。
(来ましたわよ)
「お通しくださいな」
* * *
食堂に入ってきた男を見た。
四十代。がっしりした体型で、肩幅が広い。日焼けした顔は、長年港で仕事をしてきた人間のそれだ。目が、深くて静かだった。怯えでも、警戒でもない。決意、とでも言うべき静けさがあった。
ベルト・ライスだと、すぐに分かった。
「クレア様でいらっしゃいますかしら」
「ええ、そうですわよ。……おいでくださってありがとうございますわよ、ライスさん」
ライスが私の隣にカスミ弁護士がいるのを見た。
一瞬だけ目を止めた。
「カスミ先生も、ご一緒でしたか」
「ご存知ですかしら」
「名前だけは。……フォル・ネビュラで、正直な仕事をしている弁護士として、耳にしていました」
カスミ弁護士が静かに頷いた。
「ライスさん、座っていただけますかしら」
ライスが椅子を引いた。
座る前に、シリルとリタを一度確認した。それから座った。
(この人は、慎重ですわよ。でも来た。……危険を承知で、ここへ来た)
宿の主人が朝食の用意を始める音が厨房から聞こえた。
私は少し間を置いてから、静かに切り出した。
「昨日の手紙の返事として来てくださったのですわよね。……V、と署名した手紙の」
「はい」
「なぜ来てくださったか、聞かせていただけますかしら」
ライスが少し手を組んだ。
「……昨日の朝、旧桟橋の方に人が来たのを知っていましたわよ。桟橋の確認をしていた。潮が引く時間を待って、桟橋の下まで見ていた」
「観察していましたかしら、私たちを」
「はい。二棟の廃屋の間に、昔から使っている見通し場所があります。……そこから見ていました」
(見ていたのはライスでしたわよ。二人組の一人ではなく、ライス自身が確認していた。シリルが確認した「観察者一人」は、ライスだったということですわよ)
「帳簿を引き上げたのを、見ていましたかしら」
ライスが少しだけ、口元を動かした。
「一冊だけ持っていかれたのを見て、Vからの手紙が届いた時に、あなたが誰か分かりましたわよ」
「なぜ分かりましたかしら」
「霧から、話を聞いていたからです」
食堂が、少し静かになった。
波の音だけが、一定のリズムで続いていた。
「霧を、ご存知ですのね」
「……五年以上、関わってきましたわよ」
ライスの声は静かだった。後悔でも誇りでもない。ただ、長い時間の重さがある声だ。
「話していただけますかしら」
ライスが一度、窓の外を見た。
秋の朝の光が、霧を透かして食堂に入ってきていた。
それから、私を見た。
「……話しますわよ。全部」
* * *
ライスが語ったことを、シリルが手帳に記録した。
ライスの話は、五年前から始まった。
「五年前、スルッツに呼ばれて、ある仕事を頼まれましたわよ。旧桟橋区を、月に一度だけ、特定の時間に「空けておく」という仕事です。荷物の受け渡しがあるから、組合の人間を近づけるなと。……最初は、密輸の話だと思っていました。フォル・ネビュラでは、珍しい話ではありませんでしたから」
「最初だけ、ということは」
「一年経ったころに、別の話が来ましたわよ。荷物の中身が、人だったことがありましてな」
ライスが少しだけ声を落とした。
「木箱に入れた人間を、桟橋で受け取って、別の場所へ運ぶ。……それが何度かありましたわよ。運ばれた人間が、どういう人間かは、最初は聞きませんでした。聞かない方が、安全でしたから」
(人の密輸。……これは、人ゴミというより、人を「荷物」として扱う取引ですわよ。ゴミ箱に人を押し込んでいる。最も許容できない種類の汚れですわよ)
「でも、聞くことになった」
「聞かざるを得なかった。……運んだ人間の一人が、死んでいたことがありましたわよ。木箱を開けたら、息をしていなかった。……その時、初めて、自分が何をしているか、本当の意味で分かりましたわよ」
ライスの手が、少し固く組まれた。
「その後、スルッツに掛け合いましたわよ。人の運搬はできないと。……スルッツは笑って、「では帳簿を管理しろ」と言いましたわよ。金の流れを記録して、保管する仕事に変わりましたわよ。人を運ぶよりはましだと、その時は思っていた」
「帳簿を書いたのはライスさんですわね」
「はい。五年分の記録を、全部私が書きましたわよ。……但し、最初から、自分の保険として全部残していましたわよ。スルッツに渡した写しと、私が保管した原本とを分けて」
(自分の保険として残していた。……これは、単なる記録係ではなく、証拠を意図的に保全していたということですわよ。最初から、何かのために残していた)
「その帳簿を、桟橋の下に沈めたのもライスさんですかしら」
「そうです。三年前です。……その頃から、スルッツの動きが変わってきていましたわよ。金の額が増えて、動きが速くなって、関わる人間が増えた。この帳簿が自分の手元にあると、危ないと思いましたわよ。それで、水の中に沈めましたわよ。旧桟橋の水の下なら、スルッツも探さないと思って」
「霧と繋がったのはその頃ですかしら」
「それより少し後です。……三年ほど前に、私は港の荷捌き組合の副長になりましたわよ。スルッツが昇格させた。使いやすいと思ったのでしょう。でも私には、組合の内部情報が入るようになりましたわよ。スルッツが何をしているか、もっと詳しく分かるようになった」
「その情報を、誰かに渡したのですかしら」
ライスが少し考えた。
「……渡したのではなく、受け取ったのが先でしたわよ。手紙が来たんですわよ、ある日突然。差出人の名前がなくて、ただ「霧より」とだけ書いてあった。中には、私が知らなかったことが書いてありましたわよ。スルッツが動かしている金の最終的な行き先を、私は知らなかった。でも霧の手紙には、その行き先が書いてありましたわよ」
(霧は、ライスが知らない情報を先に持っていた。そして、その情報をライスに渡した。なぜそんなことをしたのかしら)
「霧は、ライスさんに何を求めていましたかしら」
「最初は何も。……ただ情報を送ってきただけでした。私が返事を出せる住所も書かれていなかった。半年ほど後に、また手紙が来た。今度は質問が一つ入っていましたわよ。「ノッケンという名前を聞いたことがあるか」と」
(ノッケン。……霧は、ノッケンを追っていましたわよ)
「あると答えましたかしら」
「ありましたわよ。……スルッツが時折、「ノッケンが承認した」という言い方をしていたので。でも実体は見たことがなかった。その旨を、霧への返事として紙に書いて、港の古い掲示板に貼っておきましたわよ。霧の手紙に、そうしてくれと書いてありましたから」
(港の掲示板を、郵便箱として使っていたということですわよ。目立たない方法ですわよ。人が多い場所だから、逆に誰が何を貼ったか分かりにくい)
「それ以来、霧との文通が続いていましたかしら」
「続きましたわよ。半年に一度か、一年に一度か。……霧は少しずつ、私にスルッツとドレインの全体像を教えてくれましたわよ。私は、組合の内部で分かったことを返しました。それが五年ほど続きましたわよ」
シリルが手帳を書き続けている。
リタは扉の脇で静かに立っている。
カスミ弁護士が、静かに口を開いた。
「ライスさん、半年前に私に旧桟橋の帳簿の場所を知らせたのも、霧の指示でしたかしら」
「はい。……霧から、そろそろ動ける人間が来るから、帳簿の場所を教えてよいと言われましたわよ。カスミ先生の名前も、霧が教えてくれましたわよ」
(霧は、カスミ弁護士とライスを、別々の角度から同じ方向へ案内していた。私が来ることも、霧は知っていた。Vという署名だけで、ライスは「動ける人間が来た」と判断したということですわよ)
「ライスさん」
私は扇子を少し握り締めた。
「帳簿の最後のページに、後から書き足した一行がありましたわよ。「ノッケンは、ここではなく北にいる。霧は知っている」という内容ですわよ」
ライスが少しだけ目を細めた。
「……それを書いたのは、半年前です。カスミ先生に帳簿の場所を知らせる前に、最後に一行だけ書き足しましたわよ。帳簿を読む人間が、ノッケンの居場所をここ旧桟橋区だと思わないように。ノッケンは、フォル・ネビュラにはいないと知っていましたから」
「北のウルスに、ということですかしら」
ライスが少し驚いた顔をした。
「……もう調べましたかしら」
「調べていますわよ。まだ途中ですが」
「ウルスで合っています。……霧からの最後の手紙で、ノッケンはウルスを拠点にしていると聞きましたわよ。名前は、本名ではなく役割の名前だそうですわよ。絡み目、という名の通り、ドレインの経路が交差する場所を管理している人間です」
(絡み目。ドレインの経路が交差する場所を管理している。……ドレインは縦の分断がある組織だと分析していましたわよ。それぞれの管路が独立していて、横の繋がりはあっても上下の情報は完全には共有しない。でも、絡み目が存在するということは、複数の管路が交差する場所が少なくとも一箇所あるということですわよ。そこを管理している人間が、ノッケンですわよ)
(旧桟橋区の汚水の絡まりを辿っていけば、やがてノッケンへの経路が見えてくる、ということかしら)
「ライスさん、今のスルッツとの関係はどうなっていますかしら」
「……スルッツは、私を疑い始めていますわよ。半年ほど前から、私に来る仕事の指示が減りましたわよ。表向きは副長のまま置いておいて、実際には何も教えない状態にされましたわよ」
「なぜ疑われ始めたと思いますかしら」
「昨夜の会合の話が、もう伝わっていますかしら」
私は少しだけ目を細めた。
「リタが確認しましたわよ」
「昨夜の会合で、スルッツは私の「処分」を決めたはずですわよ。……会合に呼ばれなかった時点で、そう判断しました。今朝ここに来たのは、もう時間がないと思ったからです」
(時間がない。……スルッツが動く前に、ここへ来たということですわよ。ライスは自分の身の危険を承知の上で、今朝、漁師亭へ来た)
「昨夜の会合に同席していた小柄な女性は、ライスさんはご存知ですかしら」
ライスが少し止まった。
「……見ましたかしら」
「リタが確認しましたわよ。顔は分からなかった、ということですが」
「顔は、見えましたかしら。私には」
ライスが、少し息を吐いた。
「スルッツの、外からの連絡係です。……私は本名を知らない。「スラム号」の件を仕切っている人間で、フォル・ネビュラにいる時は、いつも顔を隠していますわよ。港の人間は、あの人物を「霞」と呼んでいましたわよ。霧の薄いもの、という意味で」
(霞。霧の薄いもの。……名前が「霧」と似ている。偶然なのか、意図的なのか)
「霧と霞が、別の存在であることは確かですかしら」
ライスが、しばらく考えた。
「……分かりません。霧の手紙と、霞の動きは全く別の方向を向いていましたわよ。霞はスルッツと一緒に動いていて、霧はスルッツを監視していた。逆方向を向いた二つの存在が、同じ名前の系統を持つのは、偶然とは思えないですが」
(逆方向を向いた二つ。……霧と霞が対称の存在だとしたら、何を意味するのかしら。一方が浄化を目指して、もう一方が汚れを守る。名前だけが似ていて、実態は正反対)
(「霧より」という手紙と、「霞」という人物。……同じ言葉の系統から来ているが、全く別の目的を持っている。これは、偶然ではなく、意図的に似せた名前かもしれませんわよ)
「分かりましたわよ」
私は扇子を一度だけ開いた。
「ライスさん、一つお聞きしますわよ。今日、ここへ来てから、あなたはどうするつもりでしたかしら」
ライスが少しの間、黙った。
「……正直に言いますわよ。フォル・ネビュラを離れるつもりでしたわよ。今夜の船で、西の港へ出るつもりでした。でも手紙のVを見て、来てから決めようと思いましたわよ」
(逃げるつもりだった。でも来た。……来てよかったかどうか、ライスはまだ判断できていないでしょうね)
「逃げる前に、話してくださったことに感謝しますわよ、ライスさん。……あなたが五年間、記録し続けたことは、無駄ではありませんわよ」
「そうであればいいですが」
「帳簿は、証拠として使いますわよ。あなたの名前がどう扱われるかについては、カスミ弁護士に動いていただきますわよ」
カスミ弁護士が頷いた。
「量刑の判断においては、協力の度合いが考慮されます。……今日のお話は、詳しく記録させていただきたいと思いますわよ、ライスさん」
ライスが少しの間、カスミ弁護士を見た。
それから、私を見た。
「……帳簿に、書き切れなかったことがあります。正式に話す前に、一つだけ確認させてください」
「何ですかしら」
「人の運搬について。……あの木箱で死んでいた人間のことが、五年間、頭から離れませんでしたわよ。名前も知らない人間です。でも、あれが自分の仕事の結果だと思って、ずっと生きてきましたわよ」
ライスの目が、少し変わった。
「あなた方は、そういうものを……「清掃」するのでしょうかしら」
(そういうものを清掃する。……ライスが問うているのは、私が汚れを焼却するかどうかではなく、もっと深いものかもしれませんわよ。名前も知らない死者の記憶が、清掃という行為によって何かになれるかどうか、という問いかもしれませんわよ)
私は少し間を置いた。
(落ちない汚れ、ということを考えましたわよ。……私にも、消しきれないものが残っていますわよ。ライスにも、落としきれないものが残っている。それは似ていますわよ。でも私は今、ライスに何を言えばいいのかしら)
「……塵一つ残さず焼却することが、清掃ではありませんわよ、ライスさん」
自分でも少し意外な言葉が出た。
「記録を残すこともまた、清掃ですわよ。あなたが五年間、帳簿を書き続けたこと、水の下に沈めて守り続けたこと。……それは、汚れを広げないための仕事でしたわよ。掃除人の仕事は、必ずしも火を使うことではありませんわよ」
ライスが、少し目を伏せた。
「……話しますわよ。書き切れなかったことも、全部」
* * *
ライスの証言は、二時間かかった。
シリルが全部書き記した。
カスミ弁護士が法的な観点から確認を入れた。
リタは食堂の扉の前で、ずっと静かに立っていた。
私は扇子を膝の上に置いたまま、ライスの話を聞き続けた。
話の中に、いくつかの重要なことがあった。
スラム号が運んでいた荷物の行き先。旧桟橋区の四番と七番以外の使用中の廃屋。そして、スルッツがノッケンから受け取っていた「指示書」の形式。
「指示書が、どういう形で来ていたか覚えていますかしら」
「紙の文書ではありませんでしたわよ。……封蝋の入った金属製の小箱でした。開けると、中に蝋で固めた小さな紙が入っていた。読んだ後は、紙ごと蝋を溶かして証拠を消す形式でしたわよ」
(蝋で封じた指示書。……開けたら消えるように設計されている。残さないための構造ですわよ。ドレインは、縦の情報が完全には共有されないように、かつ残らないように設計されていますわよ)
「その小箱の封蝋の紋様は、確認しましたかしら」
「一度だけ、スルッツが開け忘れた時に見ましたわよ。……三本の川が合流する形の紋様でしたわよ」
(三本の川が合流する。……ノッケン、絡み目、という名前と一致しますわよ。三つの経路が一点に交わる形を、封蝋に使っていた)
「その情報、帳簿には書いていましたかしら」
「書きましたわよ。……三割の読めない部分に、その記録が入っていますわよ」
(残り三割に、封蝋の紋様の記録が含まれているかもしれませんわよ。シリルが解読できなかった部分ですわよ)
「シリル、残りの三割の解読の手がかりになりますかしら」
「封蝋の紋様が暗号の鍵として使われている可能性があります。……「三本の川が合流する」という形を数字に変換するルールがあれば、対応できるかもしれません。今夜もう一度、試みてみますわよ」
「お願いしますわよ」
* * *
ライスの証言が終わった頃、朝の光が食堂に満ちていた。
外では、港の昼前の活気が始まっていた。荷揚げの声、荷車の音。霧はとっくに晴れていた。
ライスが立ち上がった。
「……今夜の船で出るつもりでした、と言いましたわよね」
「ええ」
「今夜も出ますかしら」
「……どうすればいいですかしら」
私はカスミ弁護士を見た。
「法的な保護を受けていただくために、しばらくフォル・ネビュラに留まっていただく必要があります。ただし、今の宿では危険かもしれません。安全な場所を手配しますわよ」
「カスミ先生が手配してくださいますかしら」
「はい。……今日の昼には移っていただけますかしら」
「分かりましたわよ」
ライスが私の方を向いた。
「スルッツが、今日か明日に動くと思いますわよ。……スラム号が戻ってきている可能性があります。昨夜の会合の後で、次の指示を受けた可能性がありますから」
「分かりましたわよ。……今日は動かずにいますわよ、私たちは。スルッツが動くまで、待ちますわよ」
(スルッツが動く時に、何が動くかが分かりますわよ。下手に先手を打つより、相手が動いた後の方が、全体像が見えますわよ。汚れは、攪拌されると広がる。でも攪拌することで、底に沈んでいたものが浮いてくることもありますわよ)
「では」
ライスが頭を下げた。
ゆっくりと、食堂を出ていった。
* * *
リタが扉を閉めた。
食堂に四人が残った。
しばらく、誰も口を開かなかった。
シリルが手帳を静かに閉じた。
「……随分と、澱が浮いてきましたわよ」
「ええ」
「整理が必要ですわよ」
「後でしますわよ。……今は少し」
私は扇子を一度、開いた。
閉じた。
(ライスが五年間、水の下に沈めて守り続けたものを、今日私の手に渡してくれましたわよ。彼が記録し続けたことで、ドレインの経路の一部が見えてきた。ノッケンの居場所が北だと分かった。霞という存在が浮かび上がった)
(落ちない汚れ、という言葉が、今朝の空気の中でもう一度浮かんできましたわよ。ライスの目の中にあったものと、私の手袋の下にあるものが、少し同じ形をしているような気がして。……すぐに打ち消しましたわよ。比較は、今する必要がありませんわよ)
宿の主人が厨房から顔を出した。
「お客様方、お茶の用意をしましょうかしら。……お話がお済みのようでしたら」
「ぜひ」
* * *
宿の主人が運んできたのは、白い陶器の茶器と、小さな焼き菓子の皿だった。
「今日は、岬から届いたばかりの「波摘み茶」ですわよ。秋の終わりにだけ摘める茶葉で、年に一度しか作れないものです。色が薄いですが、香りが立ちますわよ」
注がれたお茶は、ほとんど透明に近い淡い色だった。
一口飲んだ。
香りが、先に来た。
花とも草とも違う、潮風を含んだような、清潔な香りだ。味は薄い。でも後から、舌の奥に上品な甘みが残った。
(……透明に近いのに、香りが強い。見た目に反して、存在感がありますわよ。これは、霧のようなお茶ですわよ。見えにくいが、確実にそこにいる)
「菓子は何ですかしら」
「秋の蜂蜜を使った「ミルケン」という焼き菓子です。港の人間が、長い仕事の後に一つ食べる習慣のものです。……甘くて、少し噛み応えがありますわよ。腹持ちがよい菓子です」
ミルケンを一口かじった。
外は少し固い。でも中に、蜂蜜の甘みが閉じ込められていた。噛むにつれて、甘みが滲み出してくる。すぐには出てこない甘みだ。
(時間をかけると出てくる甘みですわよ。……急いで食べると、固さしか分からない。でも、ゆっくり噛むと、中に甘さが溜まっていましたわよ)
シリルが茶を一口飲んで、少し目を細めた。
「……透明に近いのに、存在感がありますわよ、このお茶は」
「同じことを考えていましたわよ」
「霧のようですわよね」
私は少しだけ笑った。
「ええ。……霧のようですわよ」
カスミ弁護士が茶器を両手で包んでいた。
「今日の話、整理するのに少し時間がかかりますわよ」
「ええ。……でも、今日はゆっくり噛みますわよ。急いで全部飲み込もうとすると、味が分からなくなりますもの」
リタが、静かに茶を受け取った。
いつもはセリフなしで動くリタが、茶器を手に取って、窓の外を一度見た。
港の光が、秋の昼の明るさの中にあった。
霧は、もうどこにもなかった。
でも、今日の話の中に、霧はずっといた。
(澱が浮いてきましたわよ。……これが、旧桟橋区の汚水の絡まりをほどく糸口ですわよ。次は、ノッケンへ向かう道を探しますわよ。北へ。ウルスへ。絡み目のある場所へ)
波摘み茶の透明な色が、陽光の中で少し金色に光った。
(美しいですわよ。……汚れを洗い流した後の水は、こういう色になりますわよ)
ミルケンの甘みが、まだ舌の奥に残っていた。




