第25話:染み抜きの前に、記録を取る
カラミの廃屋から戻った翌朝は、昨夜より少し早く目が覚めた。
夜明け前の空が、漁師亭の窓の外でまだ紫色をしていた。
昨夜のライスの証言が、頭の中で反芻されていた。
(スルッツが今日か明日に動く。スラム号が来た時が、スルッツの動く時だと)
私は手袋をはめた。扇子を手に取った。
寝室の小卓に、昨夜シリルが解読を終えた帳簿の対照表が重ねてある。シリルは今頃、自室でまだ帳簿と格闘しているはずだ。「二時まで整理します」と言っていたが、あの人のことだから、まだ起きているかもしれない。
(整理が好きですわよ、本当に。……汚れを見つけて分類することが性に合っている。私が焼却するまでの前処理を、全部あの人が引き受けてくれていますわよ)
窓を細く開けた。
海の冷たい空気が入ってきた。
波の音が近い。荷揚げの声は、まだない。港の夜明け前は、こんなに静かなのかと思った。
* * *
七時を少し前に廊下に出ると、シリルがいた。
自室の扉を開けたところで、私と鉢合わせした。手帳を持っている。目の下に昨日より薄い影がある。
(少しは眠りましたわね、今夜は)
「おはようございますわよ、シリル」
「おはようございます。……昨夜の解読で、一点追加でお伝えしたいことがありましたわよ」
「食堂で聞きますわよ」
食堂に降りると、カスミ弁護士がすでにいた。
今日は仕事着の外套を着ている。書類鞄を開いて、何かに目を通している最中だった。
「おはようございますわよ、クレア様。……今朝、一つ情報が入りましたわよ」
「どちらを先にしますかしら」
私は二人を交互に見た。
「では、シリルから。追加の解読結果ですわよ」
* * *
シリルが手帳を開いた。
「帳簿の残り三割の部分ですが、昨夜の解読を進めた結果、一箇所だけ換字式が他と異なる記載がありましたわよ。……送金先の名称ではなく、日付と記号だけで構成された短い記録が、四件ありましたわよ」
「四件」
「日付は、二年前の春から去年の秋まで、四半期ごとに一件ずつ。記号の意味は、換字式で読むと「見本を確認済み」という言葉に対応しますわよ」
(見本を確認済み。……四半期ごとに、誰かが何かの見本を確認した記録が帳簿に残されていた。送金ではなく、確認作業の記録ですわよ)
「何の見本ですかしら」
「それがまだ特定できていませんわよ。……ただ、その四件の記録には全て、末尾に同じ記号が付いていましたわよ。「カラミ経由」の意味に対応する記号です」
(カラミを経由して、見本を確認した。四半期ごとに。……見本とは、何を意味するのかしら。書類の写しか、あるいは実物の何かか)
「スラム号と時期が重なりますかしら」
シリルが対照表を確認した。
「……重なっていますわよ。四件全て、スラム号の寄港記録が残っている時期と一致しています」
(スラム号が来るたびに、カラミで何かの「見本」が確認されていた。三ヶ月に一度。定期的な確認作業が行われていたということですわよ)
「シリル、「見本」とはいかなる汚れの種類ですかしら。書類の写しか、物品か」
「おそらく物品です。……書類であれば「写し」「記録」という換字式が使われていますが、今回は別の記号でした。フォル・ネビュラの港の帳簿で、物品の受け渡しに使われる記号と形式が近いですわよ」
(物品の見本を、四半期ごとにカラミで確認していた。スラム号が来るたびに。……密輸品の品質確認か、あるいは別の何かかしら)
「カスミ弁護士、何かご存知ですかしら」
カスミ弁護士が少し頷いた。
「……実は、今朝の情報と繋がるかもしれませんわよ」
* * *
カスミ弁護士が書類鞄から一枚の紙を取り出した。
「今朝、私の旧知の方から情報が来ましたわよ。……フォル・ネビュラの税関の記録担当者で、昨夜の段階でスラム号の積載記録を調べてくださった方ですわよ」
「積載記録が残っていましたかしら」
「正規の申告では残っていませんわよ。スラム号は正規の桟橋を使わないので、申告書を出していないんですわよ。でも」
カスミ弁護士が紙を示した。
「二年前の春に、スラム号が一度だけ正規の桟橋を使ったことがありましたわよ。税関への申告が一件だけ残っていたんですわよ。……申告書に記載されていた積荷の品目は「染料の見本品」でしたわよ」
(染料の見本品。……見本品を確認済み、という帳簿の記録と繋がりますわよ。二年前の春は、四件の確認記録の最初の一件と時期が重なる)
「染料の見本品として申告されたものが、実際には何かが分かりますかしら」
「申告書の品目だけでは分かりませんわよ。……ただ」
カスミ弁護士が少し声を落とした。
「染料という名目で申告されて、正規の検査なしで通関が行われた記録が、フォル・ネビュラの歴史の中で複数ありましたわよ。検査なしで通関できる品目に「見本品」という区分があるんですわよ。……少量であれば、中身の確認が省略されますわよ」
(検査なしで通過できる。……見本品という名目を使って、中身を確認させずに物を動かしていた。三ヶ月に一度、それを繰り返していた)
「中身の検査が省略されるということは、何を運んでも分からないということですわよね」
「正規のルートでは、ですわよ」
私は扇子を膝の上に置いた。
(染料の見本品として申告された何かが、スラム号でカラミへ届けられ、四半期ごとに確認された。それを受け取った側が、帳簿に「見本確認済み」と記録した。……送金の記録ではなく、物品の受け渡しの記録ですわよ。ドレインはお金だけを動かしていたのではなく、物も動かしていたということですわよ)
(その物が何かによって、ドレインの本当の目的が変わりますわよ)
「カスミ弁護士、この染料の見本品の件を、廃屋の外観確認申請に含めることはできますかしら」
「直接的には難しいですわよ。……ただ、廃屋の使用実態の確認という枠組みで、関連する物品の確認を求める補足書類を添付することはできますわよ」
「お願いしますわよ。……二年前の申告書の写しも、添付できますかしら」
「税関の知人に写しを取り寄せておきますわよ。今日の昼には間に合いますわよ」
「ありがとうございますわよ」
* * *
朝食の途中で、リタが短い紙片を持って食堂に入ってきた。
チャキッという音もなく、外套を脱ぎながら席の脇に立った。
紙片を私に渡した。
*スルッツ、今朝早い時間に組合の倉庫を開けた。中に荷物を入れた音。その後、東の方向へ向かった。現在の位置は不明。——朝五時から六時の確認。*
(スルッツが早朝から動いた。東の方向は、カラミか廃灯台の方向ですわよ。昨夜のエストとの会合の後で、何かを実行に移し始めていますわよ)
「リタ、朝から確認していてくださいましたのね」
リタが小さく頷いた。
シリルが紙片を見た。
「倉庫に入れた荷物と、スルッツが東へ向かったことが今朝の二点ですわよ。……昨夜のエストとの会合で、何か指示が出たということかもしれませんわよ」
「廃屋に、何かを運び込んだか、運び出したか。あるいは廃灯台へ向かったか」
「どちらにしても、スルッツが動いているということは、こちらの外観確認申請の前に現地を動かそうとしている可能性がありますわよ」
(申請が通る前に、現地を片付けようとしている。……急いで汚れを隠そうとしている時の行動ですわよ。でも、急いで隠した汚れは必ず拭き残しが出ますわよ。丁寧に整えてから隠す人間はいませんわよ)
「カスミ弁護士、廃屋の外観確認申請を今日中に動かせますかしら」
「昨日申請は出していますわよ。……担当者への確認を今朝もう一度入れて、できれば今日の午後に確認できないかを掛け合ってみますわよ。ただし、半日での前倒しは難しいかもしれませんわよ」
「難しくても、掛け合うだけ掛け合ってくださいな。……「スルッツが今朝動いた」という事実を、担当者に伝えても構いませんかしら」
「適切な形で伝えますわよ。……現場が動いている可能性があるという情報として」
「お願いしますわよ」
* * *
朝食の後、三人で今日の段取りを整理した。
シリルが手帳に書き出す。私が確認する。リタが周辺の安全確認に出ている。
「一つ目。カスミ弁護士が外観確認の前倒しを申請。同時に、税関の写しを取り寄せる」
「二つ目。スルッツの動向を、今日中に把握しておく必要がありますわよ。ラウルの息子のハンスさんに、東側の動きだけ確認をお願いできますかしら。組合の仕事の範囲で、自然に」
「ハンスさんへの連絡は、カスミ弁護士を通じてできますわよ。昨日の照合でハンスさんの名前と住所が確認できていますわよ」
「三つ目。帳簿三冊について、今日中に整理を完成させてくださいな。……染料の見本品の件と、送金先の照合を全部仕上げますわよ。明日の廃屋確認の前に、記録が整っている状態にしておきたいですわよ」
「かしこまりました。午後の間に全部仕上げますわよ」
「四つ目」
私は少し間を置いた。
「ライスさんに、今日中に一度書状を送りますわよ。……染料の見本品の件について、心当たりがあるかどうかを確認したいですわよ。安全な場所にいらっしゃるなら、今日聞ける可能性がありますわよ」
「書状を届ける経路は、カスミ弁護士に確認しますわよ」
「ええ。……あともう一つ」
私は扇子を手に取った。
「霞の件ですわよ」
「はい」
「霧と霞が対称の存在かもしれないという話が昨夜出ましたわよ。……霞が「水路の蓋」だとすれば、霞の正体を掴むことが、ドレインの内部を攪拌する糸口になりますわよ」
「現段階では、外套と帽子で顔を隠した小柄な女性、という情報しかありませんわよ」
「ええ。……ただ、昨夜リタが確認した時、霞がカラミの桟橋を知っていた。そして帳簿の在処も知ろうとしていた。これは、ドレインの末端の人間ではなく、構造を理解している人間ですわよ」
(構造を理解している。霧も構造を理解している。逆方向を向いた二つの存在が、同じ知識の深さを持っているとすれば)
私は少しの間、窓の外を見た。
今日は霧がない。港の水面がはっきり見えている。
(霧が晴れた日は、底の色が見えてくる、と昨日思いましたわよ。……霞の正体も、霧が晴れるように見えてくるかもしれませんわよ。焦らず待ちますわよ)
「霞については、今は情報を集めるだけにしますわよ。……直接動かす段階ではありませんわよ」
「了解しましたわよ」
* * *
午前の半ばに、リタが戻ってきた。
今回はチャキッという音と一緒だった。
紙片ではなく、小さな封筒を持っていた。
(封筒。……誰かから届けられたものですわよ)
「どこから来ましたかしら」
リタが封筒の表を示した。
差出人は書いていない。ただ、封蝋の色が薄い灰色だった。
(灰色の封蝋。……霧の色ですわよ)
開いた。
短い文章だった。
*「染料の名目で運ばれていたものを、私は知っている。スルッツの倉庫の鍵が変わる前に、確認しておくとよい。——霧」*
私は二度読んだ。
(霧が今朝の段階で情報を送ってきた。……スルッツが倉庫に何かを運び込んだことを知っていて、鍵が変わる前に確認しろと言っている。霧は今もフォル・ネビュラにいる。あるいは、現地で動いている誰かを通じて情報を送っているか)
「シリル、この封筒はどこから来ましたかしら」
リタが人差し指を立てた。
一人の配達、という意味だろう。
「子どもを使っていましたかしら」
リタが頷いた。
(また使い走りの子を使った。追跡しても、子どもまでで終わりますわよ。霧は慎重ですわよ)
「カスミ弁護士に、スルッツの倉庫の外観確認も申請に追加できないか確認してくださいな。廃屋と同じ枠組みで。……「染料の名目で運ばれた物品」という情報が手元にある以上、組合の倉庫への確認には正当な根拠がありますわよ」
シリルが少し目を細めた。
「霧の手紙を根拠にすることは、書類上できませんわよ」
「税関の写しと、帳簿の記録の照合を根拠にしますわよ。……霧の手紙は、方向を示してくれましたわよ。根拠は別に作りますわよ」
「なるほど。……では、カスミ弁護士に状況を整理して伝えますわよ」
「お願いしますわよ」
* * *
昼前に、ライスから返書が届いた。
カスミ弁護士の経路で届けられた書状への返事だ。カスミ弁護士の知人の家の宛名で送って、ライスに届けてもらった形だ。
開いた。
ライスの字は丁寧で、整っている。記録をつけ続けた人間の字だ。
*——染料の件、心当たりがございます。スラム号が持ち込んでいたのは、染料ではなく「染料の溶剤」だったと思いますわよ。溶剤は単体では用をなしませんが、ある素材と混ぜると、特定の効果を持つ液体になるという話を、スルッツから一度だけ聞いたことがありました。スルッツは「倉庫の中のものと組み合わせる」と言っていましたわよ。倉庫の中のものが何かは、私には分かりませんでしたわよ。——ライス*
(溶剤。……染料の名目で輸入されていたのは、単体では何でもない溶剤だった。倉庫の中の何かと混ぜることで初めて機能するものですわよ。つまり、倉庫の中に「素材」が保管されていて、スラム号が三ヶ月ごとに溶剤を届けに来ていた)
(倉庫の中に、組み合わせると特定の効果を持つ素材。……これが「染み抜きできない種類の汚れ」ですわよ。魔法薬の原料か、あるいは何か別の工作用の素材か)
「シリル」
「読みましたわよ」
「倉庫の中の素材が何かによって、この案件の性質が変わりますわよ。染料の溶剤というのは、人体実験の材料だった可能性もありますわよ」
シリルが少し間を置いた。
「ポイッツェン伯爵の案件と、類似した構造ですわよ」
(ポイッツェン伯爵。第2話で処分した、人体実験を行っていた違法研究所の主ですわよ。素材の調達経路と、フォル・ネビュラの送金経路が繋がっているとすれば)
「その可能性を、カスミ弁護士に伝えてくださいな。……倉庫の中身の確認を、外観確認の申請に強く含めてほしいですわよ。染料の溶剤の受け渡しと、組み合わせる素材の保管という情報が根拠になりますわよ」
「法的には、今の情報で内部確認の申請まで出せると思いますわよ。外観確認の申請が通れば、同日に内部確認申請の書類を出すことができますわよ」
「段階が一つ増えましたわよね、今日一日で」
「ええ。……でも、速度が上がっていますわよ。これは正しい方向ですわよ」
私は扇子を開いた。
閉じた。
(速度が上がっている。スルッツが動いたことで、こちらの手順も引き上げられた。追いかけるより、先に出口を塞いでしまう方が早いですわよ。スルッツが東の出口へ向かったとすれば、港の管理局から別の角度で押さえる方が効率的ですわよ)
(汚れは出口から逃げようとしますわよ。だから、出口を先に確認しておくのが掃除の鉄則ですわよ)
* * *
午後の半ばに、カスミ弁護士から報告が来た。
「外観確認の申請が、明日の午前八時で受理されましたわよ。……担当者に「現場が動いている可能性」と「染料の溶剤の受け渡し記録」を伝えたところ、前倒しで対応してくださいましたわよ」
「内部確認申請は」
「外観確認の結果次第ですが、同日の申請で対応可能な書類は今日中に用意しておきますわよ。……スルッツの倉庫の件も、組合の使用実態の確認という形で加えましたわよ」
「ありがとうございますわよ。……スルッツの動向は何か分かりましたかしら」
「ハンスさんから確認が来ましたわよ。……スルッツは今日の午前に東の方向へ行き、昼前に戻ってきたとのことです。戻ってきた時には手に何かを持っていたとのことで」
「何を持っていましたかしら」
「金属製の鍵、のようなものだったと。……倉庫の鍵とは別の、別の場所の鍵に見えたとハンスさんが言っていましたわよ」
(霧の手紙が言っていましたわよ。「倉庫の鍵が変わる前に確認しておくとよい」と。スルッツが持って帰ってきた鍵は、新しい鍵かもしれませんわよ。交換する前の、まだ古い鍵が使える時間が残っているということですわよ)
「カスミ弁護士、今夜のうちに確認できることがありますかしら。法的な範囲で」
カスミ弁護士が少し考えた。
「……組合の公開記録へのアクセスなら、今日の営業時間内に私が確認できますわよ。組合の倉庫の賃貸記録が公開されているかどうか、確認してみますわよ」
「お願いしますわよ。……倉庫が誰の名義で借りられているかが分かれば、ペルト・ナッハ商会との繋がりを示せるかもしれませんわよ」
「かしこまりましたわよ」
* * *
夕方の四時を過ぎた頃、三人の仕事が一区切りついた。
シリルが帳簿の照合を全部仕上げた。カスミ弁護士が組合の公開記録を確認して、倉庫の賃貸名義が「フェルト商会」という名前になっていることを把握した。
(フェルト商会。……ペルト・ナッハと名前の響きが似ていますわよ。「フェルト」はこの地の言葉で「フィールド」つまり「野」という意味があると、シリルが確認しましたわよ。「ナッハ」は「夜の後」という意味。ペルト・ナッハは「夜の後の野」、フェルト商会は「野の商会」。……どちらも架空商会の名前として、意図的に似せて作ったのかもしれませんわよ。紛らわしくして、追跡しにくくするための手口ですわよ)
「シリル、明日の廃屋確認で確認すべき点を整理してくださいな」
「はい。廃屋四番・七番・八番のそれぞれの外観状態と、廃灯台の外観。倉庫の外観確認と賃貸名義との照合。……内部確認が可能になれば、染料の溶剤に関連する物品の特定、ペルト・ナッハおよびフェルト商会の関連書類の有無、の二点が主要な確認事項ですわよ」
「記録は全部手帳に。……写真は撮れませんわよ」
「目で見た記録を、カスミ弁護士が法的に有効な形で文書化しますわよ」
「では、明日の準備は整っていますわよ」
私は少し立ち上がった。
窓の外に、夕方の港の光が広がっている。
(今日一日で、かなりの記録が揃いましたわよ。帳簿の解読。染料の見本品の件。ライスの証言。スルッツの動向。倉庫の賃貸名義。……どれも単体では断片ですが、全部並べると、排水管の図がかなり明確になってきましたわよ)
(明日の廃屋確認が、図の最後の空白部分を埋める作業ですわよ。そこまで出来上がれば、焼却の準備が整いますわよ)
右手の手袋を、左手の指先が少し押さえた。
(まだ焼きませんわよ。でも、炎の行き先が見えてきましたわよ)
すぐに離した。
(今夜は仕上げの記録をして、明日の朝に備えますわよ)
* * *
夕食の後、シリルが珍しく早い時間に茶の支度をした。
食堂ではなく、今日は私の部屋の小卓に持ってきた。
「今夜は部屋で作業しますかしら」
「ええ。明日の確認事項を最後に整理しますわよ」
盆の上には、小ぶりの茶器と、小皿に乗った菓子が二つ。
「今日のお茶は何ですかしら」
「宿の主人に伺ったところ、フォル・ネビュラの記録担当の方が仕事終わりに飲む茶として「筆記茶」というものがあるとのことですわよ。……乾燥させた柑橘の皮と、炒った胡麻、それから緑茶の葉を合わせて煮出したものです。目が覚めて、頭が整理される、と言われているそうですわよ」
(記録担当の方が飲む茶。……今夜の作業にちょうどいいですわよ)
「菓子は?」
「「タビカ」と言うそうです。港の倉庫番の方が好んで食べる、堅焼きの小さな菓子です。全粒の麦と蜂蜜だけで焼いていて、甘みはあるが水分が少ない。……「倉庫の乾いた空気の中でも最後まで形が崩れない」という理由で好まれているとのことですわよ」
(倉庫番の菓子。……明日、倉庫の中を確認しにいく夜に、倉庫番の菓子を食べるとは、シリルの先読みですわよ)
「規則違反ですわよ」
「先読みは業務の一部と申し上げましたわよ」
「……いつもそれで押し切ろうとしますわよ、あなたは」
筆記茶を一口飲んだ。
柑橘の香りが最初に鼻に来た。それから、炒り胡麻の温かいコクが続いた。緑茶の渋みが最後に来て、全体を引き締める。複雑な味だが、頭が整理される、という表現が確かに合っていた。
(記録をつける前に飲むものとして、確かによくできていますわよ)
タビカをかじった。
固い。最初は何の味もないかと思うほど、素朴だ。でも、噛み続けると麦の香りが出てきて、最後に蜂蜜の甘みが閉じていた中から出てくる。時間をかけないと分からない甘みだ。
(倉庫の乾いた空気の中で形が崩れない菓子。……今夜の作業も、焦らずに形を保ちながら進めますわよ)
「シリル、明日の段取りの確認を最後にしておきますわよ」
「はい。朝七時にリタが先行。八時に私とお嬢様がカスミ弁護士と合流して廃屋の方向へ。立会人の担当者と合わせて、外観確認から始めますわよ」
「スルッツの動向はハンスさんが朝の時点で確認してくださいますかしら」
「お願いしてありますわよ。……朝七時半に、組合の前を通る仕事があるとのことですわよ」
「ありがとうございますわよ。……あと、霧への返事は出しますかしら」
「霧の手紙に返信先がありませんでしたわよ」
「ええ。では出しませんわよ。……霧は返事を求めていないですわよ。行動で示すことを期待しているだけですわよ」
シリルが少し目を細めた。
「霧は、あなたが動くことを最初から知っていた。……倉庫の件も、カラミの件も、全部こちらが動けるように先に道を整えてくれていましたわよ。なぜ霧は、そこまでするのかしら」
(なぜ、かしらね。……霧の目的が、私にはまだ分かりませんわよ。でも、今まで霧が示してきた方向は全て正しかった。ドレインを浄化したいという意志があることは確かですわよ。ただ、直接手を下さない。案内するだけで、実行はこちらに委ねている)
「霧の目的は、フォル・ネビュラで分かるかもしれないと思っていましたわよ。……今の段階では、まだ分かりませんわよ。でも、一つだけ分かることがありますわよ」
「何ですかしら」
「霧は、汚れを記録する存在ですわよ。排除するのではなく、記録して、記録を届けて、誰かが行動するのを待っている。……ライスが帳簿を五年間水の下に沈めて守ったことと、やり方は違いますが、目的は似ていますわよ」
「記録して、待つ。……それがこちらへ来ることで、ようやく動けるようになった、ということかもしれませんわよ」
「ええ。……霧は掃除人ではありませんわよ。でも、掃除人が動けるように、記録をしてくれていましたわよ。それぞれに、役割がありますわよ」
シリルが静かに頷いた。
筆記茶の二杯目を注いだ。
柑橘と胡麻の香りが、もう一度部屋に広がった。
(明日、廃屋と廃灯台の外観確認で、染料の溶剤の受け渡し先が特定できれば、ドレインのフォル・ネビュラでの実態が法的に証明できる段階に入りますわよ。帳簿三冊と、税関の記録と、ライスの証言と、倉庫の賃貸名義と。……全部の記録が揃った時に、初めて焼却の準備が完成しますわよ)
(汚れを記録する。それが、焼く前の仕事ですわよ。焼いてしまえば跡形もなくなる。でも記録が残っていれば、同じ汚れが別の場所に出た時に、素早く対処できますわよ)
タビカの最後の一つを、ゆっくり噛んだ。
麦の香りが出てきて、最後に蜂蜜の甘みが広がった。
(時間をかけると出てくる甘みですわよ。……今日一日がそうでしたわよ。朝の解読結果から始まって、昼の霧の手紙、午後のライスの返書と、夕方の倉庫名義確認。一つずつ、時間をかけて噛んでいったら、最後に全体が甘い形になってきましたわよ)
「シリル、今夜はお先に休みますわよ」
「かしこまりました。……今夜は私も二時前には休みますわよ」
「そうしてくださいな。明日が、ここでの最初の本格的な仕事ですわよ」
シリルが盆を持って出ていった。
部屋の扉が閉まった。
廊下に、リタの気配がある。
今夜も、そこにいる。
(ありがとうございますわよ、リタ)
声には出さなかった。
筆記茶の最後の一口が、柑橘の香りと胡麻のコクと緑茶の渋みを全部連れてきた。
頭が、静かに整理されていく感覚がした。
明日の朝が、来る。




