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第24話:古い道の古い汚れ

 巡礼路に入ったのは、朝の八時を過ぎた頃だった。


 イネリ亭の主人が「今日は霧が出やすい日ですよ」と言って送り出してくれた。確かに、街道から離れるにつれて、空の色が少し白くなった気がした。


 巡礼路の入口は、街道から東へ折れた先、石積みの古い門扉の跡が残っている場所だ。扉は失われて、石の柱だけが二本、草に埋もれるように立っていた。


 柱の一本に、ひびが入っていた。


 亀裂の中に、苔が詰まっている。


(長い間、誰も修繕しなかった証拠ですわよ。放置すると、苔というのは本当に隙間を全部塞いでしまいますわよ。……石のひびに根を張って、内側から広げる。外から見ると緑できれいに見えて、実際は構造を蝕んでいる。厄介な汚れですわよ)


「お嬢様」


 シリルが地図の写しを広げた。


「巡礼路は、この門柱から北東へ続いています。最初の一里ほどは緩やかな上り坂。その後、丘を越えて下りに転じます。下りの先に、「トレン橋」という古い橋があって、そこを渡ればフォル・ネビュラまで残り半日の道です」


「橋の状態は確認していますかしら」


「去年、巡礼路の状態を記録した資料では、橋は渡れるとのことです。ただし、雨の後は川の水嵩が上がることがある、という注釈がありました」


「今朝は雨ではありませんわよ。……ただし、昨夜の夜中に少し雨音がしましたわよ」


「私も聞きました。……短い雨でしたので、水嵩への影響は軽度だと思いますが」


「確認してから渡りますわよ」


 リタが先頭に立った。


 チャキッ。


 三人で、石の柱の間を抜けた。


* * *


 巡礼路は、思ったより道の形を残していた。


 草が両側から伸びて、真ん中の石畳の部分を半分ほど覆っていた。それでも、歩ける幅は十分ある。かつてここを大勢の巡礼者が歩いたのだろう。石畳の真ん中が、心持ち摩耗して凹んでいた。


 上り坂は、緩やかだ。


 秋の木立が道の両側に続いていた。葉が半分落ちていて、光が地面まで届いている。


(綺麗ですわよ。……こういう場所は、汚れの種類が違いますわよ。人が作った場所の汚れではなく、時間と自然が作った変化ですわよ。これは汚れと呼ぶべきか、単に年月のことか、少し考えてしまいますわよ)


「シリル」


「はい」


「昨夜の商人風の二人組について、今朝何か確認はありましたかしら」


「イネリ亭の主人に確認したところ、今朝の早い時間に彼らの宿から出たと聞きました。方向は不明です。……ただ」


「ただ?」


「二人組と思われる人間が昨夜、イネリ亭の周辺を歩いていたのをリタが確認しています。宿の外壁に近づいた後、また離れていった。……外から確認していた可能性があります」


(外から確認した。……宿の周囲を確認して、私たちがイネリ亭にいることを把握して、離れた。尾行ではなく、所在確認? それとも、今夜の動きのための下見?)


「今日の巡礼路で彼らに出くわした場合、どうされますかしら」


「今日は」


 私は少し間を置いた。


「今日は、道を聞かれたら教えますわよ」


 シリルが微妙な顔をした。


「……道を教える、というのは」


「巡礼路の旅人同士として、何も問題ありませんわよ。……こちらが身元を隠している以上、向こうが身元を隠すのも自由ですわよ。対等な条件ですわよ、それは」


「なるほど」


「ただし、リタが先頭にいる間は距離を詰めさせませんわよ。……道を聞かれる距離に入れるかどうかは、リタが判断しますわよ」


 リタが、歩きながら後ろへ向かって小さく頷いた。


 了解した、という意味だ。


* * *


 丘の頂上に達したのは、出発から一時間ほど後だった。


 視界が開けた。


 南の方向に、かすかに光る帯が見えた。


「海ですかしら」


「はい。……フォル・ネビュラの湾は、この方向です。まだ遠いですが、晴れた日には丘の上からこのくらい見えます」


 光の帯が、秋の霞の向こうにある。


 港の光だ。


(見えてきましたわよ。……まだ着いていないけれど、目的地が見えているというのは、少し心持ちが変わりますわよ。距離が実感できますわよ)


 私は扇子を開いた。


 秋風が、丘の上で少し強く吹いた。扇子を広げる必要がないくらい、自然な風がある。でも、開くという動作が、考えを整えるために必要だった。


(カラミ、ライス、セドゥン商会の送金先、ドレインの構造。……全部、あの光の帯の向こうにある。霧の港に沈んでいる汚れが、丘の上からではまだ見えない。近づいてから、見えてくるはずですわよ)


 扇子を閉じた。


「下りますわよ」


* * *


 下り坂の途中で、リタが止まった。


 右手が上がる。


 止まれ、という意味だ。


 私とシリルは足を止めた。


 道の先、木立の中に、何かがいる気配がした。


(動物か、人間か。……リタの反応の強さを見ると、人間ですわよ。動物であれば、チャキッとは鳴らないはずですわよ)


 チャキッ。


(一人、ということかしら)


 リタが三本指を立てた。


(三人? それとも、三時の方向? ……リタの場合、方向を示す時は指の向きで示す。指が正面なら人数ですわよ。……三人ですわよ)


 木立の向こうから、足音が近づいてきた。


 三人分だ。


 最初に出てきたのは、外套を深く被った老人だった。


 続いて、荷物を背負った若い男。


 最後に、枝を杖にした中年の女性。


 三人とも、疲れた顔をしていた。


 老人が私たちを見て、立ち止まった。


「……巡礼の方ですかな」


(声は、穏やかですわよ。目が、何かを探している。でも敵意ではありませんわよ。……疲れた、本物の旅人の目ですわよ)


「ええ、そうですわよ。フォル・ネビュラへ向かっておりますわよ」


「おお。……では、この道は正しいですかな。私どもも同じ方向へ、と思っていたのですが、少し迷いまして」


(迷った旅人ですわよ。……本物の)


 シリルが地図を取り出した。


「この先の下りを抜けると、川が見えます。そこにトレン橋があります。橋を渡れば、一本道です」


「トレン橋まで、どのくらいかかりますかな」


「この速さであれば、二時間ほどかと思います」


 老人が安堵した顔をした。


「ありがとうございます。……実は昨夜、道を外れまして。この巡礼路に戻るのに難儀しましてな」


(道を外れた。……それは巡礼路の入口近くの道標が、苔で埋もれていたせいかもしれませんわよ。あの石柱のひびと同じで、長年放置されたせいで機能を失っている)


「昨夜は、どこで野宿を」


「川沿いの小屋に。……獣の気配がしましたが、まあ何とか」


 若い男が口を開いた。


「おじい、正確には熊の足跡がありましたわよ」


「細かいことを言わんでよろしい」


 女性が苦笑した。


 私は少しだけ表情を緩めた。


(家族連れの巡礼ですわよ。……祖父と孫と、おそらくは嫁か娘。道に迷って、野宿して、それでもフォル・ネビュラへ向かっている。何のための巡礼かは分かりませんわよ。でも、ゴミではありませんわよ、この人たちは)


「もしよろしければ、ここから橋まで同じ道を参りましょうか。……道に不安があるなら、人数の多い方が安心ですわよ」


 老人が少し目を丸くした。


「よろしいのですかな」


「構いませんわよ。我々も初めての道ですもの。……迷うなら一緒に迷う方がいいですわよ」


 シリルが小声で耳打ちした。


「……お嬢様、一緒に迷うというのはどうかと」


「比喩ですわよ、シリル」


 老人が笑った。


「では、お言葉に甘えますかな」


* * *


 六人で下り坂を歩き始めた。


 老人の名前はラウル、と言った。孫の名前はハンス。女性は老人の娘でマーラというそうだ。三人ともフォル・ネビュラの生まれで、今回は亡くなった妻・母の一周忌に合わせて内陸の聖所へ行き、帰り道に巡礼路を通っているのだと言った。


(帰り道に巡礼路を通っている。……行きではなく帰りの道に。内陸の聖所から港へ帰る時に、古い道を選んだということですわよ。それは、何かを確かめたかったのかしら。亡くなった人が歩いた道を、自分たちも歩いてみたかったのか)


 特に詮索はしなかった。


 歩きながら、ラウルが時折話しかけてきた。


「フォル・ネビュラは初めてですかな」


「ええ、初めてですわよ」


「霧の港、と呼ばれますが、今の季節は霧が少ない方ですわよ。それでも朝晩はよく出ます。……初めての方は、方向が分からなくなることがあります」


「心得ておきますわよ」


「港の人間は、霧に慣れていますわよ。霧の中でも港の音で場所を判断できます。波の音、鐘の音、荷物を動かす音。……それを覚えると、霧の中でも迷いませんわよ」


(音で場所を判断する。……なるほど、それは掃除人として参考になりますわよ。見えなくても、音は聞こえる。汚れの場所は、見えなくても何かが滲み出してくる)


「港にずっとお住まいですかしら」


「生まれてからずっと、荷捌きの仕事をしていましたわよ。今は引退しましたが、息子がまだやっておりますわよ。……まあ、最近は組合の様子が少し変わって、色々と難しいと言っていましたが」


 私は歩きながら、扇子を軽く握り締めた。


(組合の様子が変わった。……荷捌き組合といえば、スルッツとライスの名が出ていますわよ)


「変わった、というのは?」


「昔は、港の荷捌きは誰もが参加できる開かれた仕事でしたわよ。でも最近、組合の中で仕事を回す相手が絞られてきていると息子が言っていましてな。……特定の業者だけが良い仕事を取れて、他の者には割の悪い仕事しか回ってこない」


(仕事の流れが絞られている。……それは、組合の上層部が流通経路をコントロールしているということですわよ。表向きは荷捌き組合として機能しながら、実際には特定の送金経路や物流を優先的に動かすための構造になっている)


(カラミという場所を経由する送金が、組合の内部でどう動いているか。……ラウルの息子さんが知っているかもしれない情報ですわよ。でも、今ここで聞くことではありませんわよ)


「それは、大変ですわよね」


「まあ、港は生き物ですからな。昔と変わることもある。……ただ、一つ気になっていることがありましてな」


「何かしら」


 ラウルが少し声を低くした。


「カラミの方向に、夜中に光が灯ることが、最近また増えていると息子が言っておりました。……あそこは旧桟橋があるだけで、夜中に人が行くような場所ではないのですわよ。昔から、あの辺りは妙な話が多くてな」


(カラミで夜中に光が灯る。……旧桟橋の場所で、夜中に動いている者がいるということですわよ。これは偶然ではありませんわよ)


 私はシリルをちらりと見た。


 シリルが、わずかに目を細めた。


(聞こえていますわよ、という意味ですわよ)


「妙な話というのは、昔からあるのですかしら」


「カラミは、港の中でも少し古い場所ですわよ。旧桟橋の前は、そこに小さな魚市場があった。でも何十年も前に廃れて、今は廃屋と古い桟橋だけが残っていますわよ。……ただ、廃れた後も、あそこを使っている人間がいつの時代にもいるんですわよ」


「いつの時代にも、ですって」


「港で長く仕事をしていると、分かりますわよ。公式には使われていない場所が、実際には使われているということがね。……それを見て見ぬふりをするのが、港の人間の暗黙の了解でしてな。波に流れるものは、波に任せるという」


(波に流れるものは、波に任せる。……港の汚れに対する、長年の態度ですわよ。放置することで安定を保ってきた。でも放置された汚れは、積み重なって固まる。カラミという名が示す通りに)


「その暗黙の了解が、最近は変わってきているのかしら」


「どうでしょうな」


 ラウルが少し黙った。


「最近は、夜中の光の話以外にも、息子から聞く話が増えましたわよ。……以前は、波に任せていれば次の日には何も残らなかった。でも、最近は何かが残るようになってきたと」


(何かが残るようになってきた。……汚れが固着してきているということですわよ。波で流せなくなってきている。それが「カラミ」という状態、汚水が絡まって固まった状態になってきているということかしら)


「その話、フォル・ネビュラに着いたら息子さんから直接うかがうことはできますかしら」


 ラウルが少し驚いた顔をした。


「……巡礼の方が、港の話に随分と興味をお持ちですな」


「清掃に関心がありまして」


 シリルが小さく咳払いをした。


「いえ、正確には」


 私は少し言葉を選んだ。


「清浄な場所で祈りを捧げたいと思っておりますわよ。……不浄なものが溜まっている場所では、祈りが届きにくいとも言いますわよね。港の状態を知っておきたいのですわよ」


(巡礼者らしい言い方ですわよ。……嘘でもありませんわよ、実際のところ)


 ラウルが少し考えてから、頷いた。


「……息子に話しておきましょうかな。港に着いたら訪ねてきてください。ガント組合事務所の前の荷捌き場で、夕方には見つかりますわよ。ハンスという名前です」


「同じ名前ですのね」


「孫に名前を借りましたわよ」


 孫のハンスが「逆でしょう、おじい」と言って笑った。


* * *


 トレン橋に着いたのは、昼の少し前だった。


 川は、予想より水量が多かった。


 昨夜の雨のせいだ。川の色が少し濁っていた。上流から細かい泥が流れてきているのが見えた。


 橋は、石造りで幅が狭い。二人が並んで渡れる程度の幅だ。欄干は低い。水面からの距離は、通常より少ない。


(渡れないことはありませんわよ。でも、足元に気をつける必要がありますわよ。欄干が低いから、よろければ落ちますわよ)


 リタが先に渡った。


 橋の途中で、欄干を一度触った。確認している。


 チャキッ。


(問題ない、ということですわよ)


「順番に渡りますわよ。……お年寄りと子どもが先ですわよ」


 ラウルが少し目を細めた。


「巡礼の団長が、後回しにするのですかな」


「後ろから全体を確認する方が、効率がよろしいですわよ」


 マーラがラウルの腕を取った。孫のハンスが反対側に立った。


 三人で、ゆっくり橋を渡る。


 橋の中央で、川の音が大きくなった。濁った水が、早い速度で橋の下を流れていく。


(早い。……昨夜の雨がよほど強かったのかしら。上流でかなり降ったはずですわよ)


 三人が無事に渡った。


 シリルが次に渡った。


 私が最後に橋に踏み込んだ。


 欄干に手をかけた。


 川の音が近い。水の匂いがする。濁った川の、泥と水草の匂いだ。


(この水は、最終的に海へ流れていきますわよ。……汚れた水も、雨水も、全部川を伝って海へ行く。フォル・ネビュラの港に流れ込んでいく。港の汚れは、川の汚れでもありますわよ)


 橋の真ん中で、川の下流を見た。


 水が、霞の先で消えていく。


 その霞の向こうに、海がある。


(行きますわよ)


 橋を渡り切った。


* * *


 橋の先で、巡礼路は一本道になった。


 ラウルたちのペースに合わせて歩いた。


 午後の半ばに、小さな休息を取った。道の脇に、古い石のベンチがあった。かつての巡礼者が休んだ場所だ。


 孫のハンスが、荷物から干し果物を取り出した。


「巡礼のお礼です。……少しですが」


 差し出されたものを見た。


 干したアプリコットだった。橙色の、皺の寄った小さな粒だ。


「ありがとうございますわよ」


 一粒、口に入れた。


 甘みが強く、少し酸っぱい。乾燥した果物の濃縮された味がした。昨夜の道中菓子の山楓の実とは違う酸っぱさだ。もっと素直で、温かい酸っぱさだ。


(甘みと酸っぱさが、一緒に来ますわよ。喧嘩しないで、混じり合っている。……昨夜の菓子は順番があったけれど、これは最初から両方一緒ですわよ)


「おいしいですわよ」


 ハンスが少し得意そうな顔をした。


「祖母が好きだった干し果物ですわよ。聖所へのお供え物として持っていったんですが、少し余りましたので」


(お供え物の残り。……亡くなったおばあさんが好きだったものを、聖所で供えて、その残りを旅の道中で食べている。巡礼というのは、そういうものですわよ。亡くなった人が好きだったものを持って、また会いに行くような旅ですわよ)


 私は何も言わなかった。


 もう一粒、口に入れた。


 甘みと酸っぱさが、また一緒に来た。


(これは、悪くない味ですわよ)


* * *


 夕方の四時を過ぎた頃、霧が出始めた。


 ラウルが言っていた通り、朝晩は霧が出やすい季節だ。


 木立の間から、白い霧が流れてくる。地面を這うような低い霧だ。


 視界が少し狭くなった。


 リタが速度を落とした。チャキッという音は出さないが、外套の下で手が動いているのが分かる。準備している。


(霧。……フォル・ネビュラの霧と、同じ種類かもしれませんわよ。港に溜まる霧が内陸まで流れてきているのか、それとも別の霧かしら)


「シリル、今いる場所はフォル・ネビュラまであとどのくらいですかしら」


「地図で見ると、ここから半刻ほどで港の外れが見えてくるはずです。……この霧が出ているということは、港に近い証拠でもあります」


「港の霧が、ここまで来ていますのね」


「秋の夕方は、海風が陸に向かって吹き込む時間帯です。霧も一緒に運ばれてきます」


(霧が、こちらへ来ている。……先日、シュラッジが「霧は港にいる」と言った。確かに港にいる霧が、今私たちに向かって流れてきていますわよ)


 ラウルが立ち止まった。


「霧の中では、音を頼りに進みますわよ。……この道は、左手に川の音がずっと聞こえるはずです。川の音を左に保ちながら進めば、港の方向へ外れません」


「ありがとうございますわよ、ラウル」


「慣れた話ですわよ。港で育ちましたからな」


 耳を澄ました。


 確かに、左手の方から、川の音がする。橋の下を流れていた濁った川の、同じ音だ。


(左に川、前に霧。……道が見えにくくても、音があれば迷わない。ラウルが教えてくれたことですわよ)


* * *


 霧の中を十分ほど歩くと、木立が途切れた。


 視界が開けた。


 霧の向こうに、光が見えた。


 たくさんの光が、霞の中でにじんでいる。


(港の灯りですわよ。……フォル・ネビュラ)


 ラウルが「着きましたわよ」と言った。


 マーラが少し目を潤ませた。


 孫のハンスが、きょろきょろしながら「霧で全然見えない」と言った。


 私はそのままの場所に立って、霧の向こうの光を見た。


 港の音がした。


 波の音。荷物を降ろす音。遠くの鐘の音。


(港の音で、場所が分かる。……ラウルが言っていた通りですわよ。霧があっても、音は届く)


(この港に、何が溜まっているかは、まだ見えていませんわよ。でも、音は聞こえる。……絡まった汚れの音が、もうここまで届いていますわよ)


「シリル」


「はい」


「宿の確認をしてくださいな。……カスミ弁護士への連絡も、今夜中に」


「かしこまりました。……カスミ弁護士の返書では、宿の名前まで指定がありましたわよ。「波止場の脇の宿で待っています」という一文でした」


「波止場の脇」


「「漁師亭」という名前の宿だとのことです。……港の中心から少し外れた、小さな宿ということです」


(波止場の脇。小さな宿。カスミ弁護士が、わざわざそこを選んだ理由がありますわよ。目立たない場所で待っているということですわよ)


「今夜はそこへ」


「はい」


 ラウルが振り返った。


「では、私どもはここで。……港の中心に向かえば、宿はいくつもありますわよ」


「お世話になりましたわよ、ラウル。マーラ、ハンス」


「こちらこそ、道を教えていただいて助かりましたわよ」


 ハンスが少し躊躇してから、干し果物の小袋を差し出した。


「残りですが……よかったら」


(気遣いができる子ですわよ。……この家族は、ゴミではありませんわよ。少し温かい旅の汚れのない人たちですわよ)


「ありがとうございますわよ」


 受け取った。


「港で息子さんに会いますわよ。……よろしくお伝えください」


 ラウルが少し目を細めた。


「お気をつけて。……霧の港は、慣れないと飲み込まれますわよ」


「飲み込まれる前に、私の方が掃いてしまいますわよ」


「は?」


「……なんでもありませんわよ。道中お気をつけて」


 ラウルたちが霧の中へ消えていく。


 孫のハンスが一度振り返って、手を振った。


 私は扇子を軽く上げて、応えた。


* * *


 霧の中を、今度は三人で進んだ。


 港の音が、だんだん大きくなった。


 リタが前を歩いている。音と気配で道を確認しながら、ゆっくりだが確実に進む。チャキッという音は出ていない。今のところ、危険な気配はないということだ。


 路地に入ると、建物の灯りが霧に滲んで見えた。


 石畳の道が続いている。王都の石畳とは石の種類が違う。もっと黒っぽくて、海に近い石の色だ。


 波の音が近い。


(着きましたわよ、本当に)


 私は少し立ち止まって、霧の中の港の音を聞いた。


 波の音。荷物の音。どこかの酒場から漏れる話し声。遠い鐘の音。


 そして、もう一つ。


 かすかに、何かが焦げるような匂いがした。


(焦げる匂い。……自然の匂いではありませんわよ。何か、人工的なものが燃えた後の匂いですわよ。それが霧に混じって流れてきている)


「シリル」


「……気づいています。港のどこかで、最近火が使われた匂いです。古い匂いではありませんわよ」


「今夜か、昨夜かしら」


「昨夜以内だと思います。……霧が匂いを閉じ込めるので、少し長く残りますが」


(昨夜以内。……私たちが旅籠で眠っている間に、港のどこかで何かが燃えた。カラミの方向かどうかは、まだ分かりませんわよ)


「今夜は確認しませんわよ。……まず宿に入って、カスミ弁護士に会ってからですわよ」


「はい」


 リタが一度、振り返った。


 焦げの匂いの方向を見ていた。


 チャキッ、とは鳴らなかった。


 でも目が、少し鋭くなっていた。


(リタも気になっていますわよ。……でも今夜は待ちますわよ。順番通りにやらないと、余計な汚れが飛び散りますわよ)


「漁師亭へ」


 三人で、霧の中を歩き始めた。


* * *


 漁師亭は、波止場から二本だけ路地を入った場所にあった。


 看板が小さくて、外から見ると普通の民家と変わらない。宿の主人らしい初老の男性が、扉のそばで帳面を見ていた。


「お客さんですかな」


「ヴィクトリ巡礼団ですわよ。三名です」


「ああ、お待ちしておりましたわよ。……もう一名のお客様が、先に来ておられますわよ」


(カスミ弁護士ですわよ)


「どちらに?」


「奥の小部屋です。お茶をお待ちのようで」


 宿の主人に案内されて、廊下を歩いた。


 奥の小部屋の扉をノックした。


 すぐに返事があった。


「どうぞ」


 扉を開けた。


 小さな部屋に、テーブルが一つ。その前に、髪をきっちりまとめた中年の女性が座っていた。


 書類を手に持って、読んでいた。


 扉が開いたのを見て、書類を伏せた。


 そして、静かに立ち上がった。


「クレア・ヴィクトリア様。……お待ちしておりましたわよ」


 ナジュミ・カスミ弁護士の目が、真っ直ぐに私を見た。


* * *


「到着の確認をして、まずお顔を拝見したかっただけですわよ。詳しい話は明日にしましょう」


 カスミ弁護士が言った。


「明日の朝食後に時間をいただけますかしら。……この宿の食堂を借りてありますわよ、一時間だけ」


「構いませんわよ」


「ありがとうございます。……到着のご挨拶代わりに、一つだけ」


 カスミ弁護士が書類の束から、一枚の紙を取り出した。


「カラミの旧桟橋付近で、昨夜、小火がありましたわよ。……港の消火班が確認に行きましたが、原因不明のまま火が自然に消えた、ということで記録されています」


(昨夜の火。……焦げの匂いは、あの場所からでしたわよ)


「自然に消えた、という記録で」


「はい。ただし」


 カスミ弁護士が少し間を置いた。


「消火班の一人が、私の旧知の方でして。……彼が言うには、桟橋の下の水際に、炭化した木箱の破片が複数見つかったそうです。中身は何も残っていなかった。燃やして証拠を消した可能性がある」


(燃やして証拠を消した。……到着前に、何かが片付けられたということですわよ。私たちが来ることを知っていた誰かが、先に動いた)


(あるいは)


(定期的に、証拠を燃やしているということかしら)


「カスミ弁護士」


「はい」


「昨夜の小火について、他に何か分かっていることはありますかしら」


 カスミ弁護士が少し目を細めた。


「一点だけ。……消火班が現場を離れた後に、桟橋の柱の一本に、小さな紙が貼ってあったという話がありました。何が書いてあったかは、まだ確認できていません」


(桟橋の柱に貼られた紙。……霧の紙縒りのことを思い出しますわよ。王都の倉庫に残されていた「来週の便を待て」という紙縒り。同じ人間が、ここにも何かを残したとしたら)


「明日、朝食の前にその紙を確認できますかしら」


「手を回しておきますわよ」


「よろしくお願いしますわよ」


 カスミ弁護士が静かに頷いた。


「では、今夜はゆっくりお休みください。……霧の港は、初夜が一番疲れますわよ」


「そうですかしら」


「港の音が、眠りを邪魔しますわよ。……慣れると逆に眠れなくなりますがね」


 私は少しだけ笑った。


(港の音で眠れなくなる。……なんとなく分かりますわよ。あの波の音と荷物の音が、脳の中でずっと続きそうですわよ)


「カスミ弁護士、一つだけ聞いてもよいですかしら」


「何でしょう」


「ここを選んだのは、なぜですかしら。……もう少し目立たない宿もあったのではないかと」


 カスミ弁護士が少し間を置いた。


「波止場の脇にある宿は、何か運ばれてくるものをいち早く知ることができますわよ。……荷揚げの音で、今夜何が来たかが分かる。ここに泊まっている間は、港の動きを体で感じることができますわよ」


(体で感じる。……書類の上ではなく、音で、匂いで、肌で港を感じることができる場所)


「では、良い選択ですわよ」


「そのつもりで選びましたわよ」


* * *


 部屋に落ち着いたのは、夜の八時を過ぎた頃だった。


 旅支度の鞄を開けて、手紙の類を確認した。全部ある。


 窓を少し開けた。


 霧の匂いがした。塩と水草と、何か古いものが混じった匂いだ。


 波の音が、予想より近い。


 港の灯りが、霧に滲んで見える。


 右手を窓枠に置いた。


 白い旅用の手袋の上に、夜の霧の冷たさが乗ってくる。


(冷たいですわよ。……王都の夜と、冷たさの種類が違いますわよ。海の冷たさは、もっと湿っていて、骨まで届いてくる気がしますわよ)


(それでも、指先の感覚は変わりませんわよ。手袋の下の手は、まだ同じ手ですわよ)


 窓を閉めた。


 扇子を鞄の脇に置いた。


 リタが部屋の扉の外にいる気配がした。


(いますわよ。今夜も、そこにいる)


(ありがとう、リタ)


 声には出さなかった。


 でも思った。


* * *


 少し後で、シリルが扉を叩いた。


「お嬢様、少し宜しいですかしら」


「どうぞ」


 シリルが盆を持って入ってきた。


 盆の上には、小さな茶器と、小皿に乗った菓子が二つ。


「宿の主人に、港の定番の菓子を用意してもらいましたわよ。……夜遅くに申し訳ありませんが、今日は随分と歩きましたので」


 私は盆を受け取った。


 茶器を手に取る。温かい。


「どんなお茶ですかしら」


「フォル・ネビュラでよく飲まれている「濃霧茶」と呼ばれるものですわよ。……焙じた麦と海藻を一緒に煮出した、この土地特有のお茶です。王都のものとは全く違います。少し磯の香りがしますが、飲み終わると体が芯から温まるそうです」


 一口飲んだ。


 磯の香りが、最初に鼻に来た。次に、焙じた麦の香ばしさが続いた。味は独特で、少し塩気があるような気がした。


(……海のお茶ですわよ。確かにこれは、王都では飲めませんわよ。でも、港の夜にはこれが合いますわよ。体が、温かくなりますわよ)


「悪くありませんわよ」


「初めてにしては受け入れが早い、とシリルは思っています」


「あなたが思っているなら黙っていてくださいましな」


「失礼いたしました」


 菓子を見た。


 丸くて、薄い焼き菓子だった。表面に、細かい線が入っている。波の模様に見えた。


「これは?」


「「ナミカ」と言うそうです。……「波」を意味する言葉で、港の家庭では日常的に食べられる焼き菓子だそうです。小麦と魚油で焼いたもので、甘みは少なく、塩気が主体のものです」


 一口かじった。


 さくりとした歯触りの後に、塩気が広がった。甘みはほとんどない。でも、嫌いではない。お茶の磯の香りと合わさると、むしろ自然な味になる。


(甘くない。……今まで旅の菓子は甘いものが続いていましたわよ。ハゼルカは塩気と柑橘。道中菓子は甘みの後に酸っぱさ。干し果物は甘みと酸っぱさが一緒。でも今夜は、ただ塩気だけが来る。飾り気のない味ですわよ)


(港の仕事というのは、こういう味かもしれませんわよ。甘みや酸っぱさを期待しないで、ただ必要なものを必要なだけ取る)


「シリル」


「はい」


「明日の朝、カスミ弁護士の話を聞いてから、カラミへ向かいますわよ」


「はい。……昨夜の小火の現場確認ですわね」


「ええ。……ただし」


 私は濃霧茶をもう一口飲んだ。


「昨夜燃やされたものが何かは、燃えた跡には残っていませんわよ。桟橋の柱の紙が残っていれば、そちらの方が情報価値が高い」


「では、紙の確認を優先ですわね」


「ええ。……それから、ラウルの息子さんに会いにいきますわよ」


「ガント組合事務所の前、夕方にはいるとのことでしたわね」


「ええ。……彼は荷捌き師ですわよ。現場を知っている人間ですわよ。書類の上では分からないことが、現場の目線からは見えることがありますわよ」


(書類が七割一致した。一致しない三割が、カラミを経由した送金だった。その三割の現場を知っているのは、書類ではなく人ですわよ)


「では明日の予定は、朝にカスミ弁護士の話、午前中にカラミの現場確認、午後にラウルの息子さんとの接触、ということで」


「ええ。……詰め込みすぎですかしら」


「詰め込みすぎではありません。ただ」


 シリルが少し間を置いた。


「今夜は、これ以上詰め込まないでください。……今日は随分と歩きましたので」


(シリルに言われてしまいましたわよ。……確かに、朝から巡礼路を歩いて、六人で話しながら来て、橋を渡って、港に着いてカスミ弁護士に会った。随分と詰め込んだ一日ですわよ)


「そうしますわよ」


 濃霧茶の最後の一口を飲んだ。


 温かさが、喉から体の中心に向かって降りていく。


(海のお茶は、内側から温めますわよ。……王都のダージリンとは全然違いますわよ。でも、今夜には合っていますわよ)


 波の音が、部屋の外からかすかに聞こえた。


 港の鐘の音が、霧の中で一度だけ鳴った。


(おそうじの続きは、明日からですわよ。……今夜は港の音を聞きながら眠りますわよ)


 塩気のナミカを最後にもう一口かじった。


 飾り気のない、海の味がした。

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