第23話:出発の朝は、玄関から掃く
出発の前日は、いつも屋敷の掃除をする。
これは子どもの頃からの習慣だ。遠出をする前には、まず自分の場所を整えてから出る。散らかったままにしておくと、帰ってきた時に倍の汚れが待っている。
朝の五時に目が覚めた。
寝室の窓の外は、まだ暗い。秋の夜明けは遅い。でも空の端が、ほんの少しだけ灰色を帯びていた。
着替えて、作業用の白い手袋をはめた。
廊下に出ると、リタがすでにそこにいた。
音もなく、壁際に立っている。外套は着ていない。屋敷の中にいるつもりということだ。
「リタ、今朝は私の手伝いをしてくださいな」
リタが少し目を瞬かせた。
「おそうじをしますわよ。屋敷の」
チャキッ。
了解、という音だ。
* * *
ヴィクトリア家の屋敷は、大きくはない。
男爵家の屋敷としては整っている方だが、王城や侯爵家の館と比べれば、こぢんまりしている。それが好きだった。
掃き始めたのは、玄関から。
私が箒を持って、リタがちりとりを持った。
(玄関は、一番最初に掃くところですわよ。出入りが多い場所は、それだけ塵が溜まる。でも、人が出入りするということは、その場所が生きているということでもありますわ)
石の床の目地に、細かい砂が溜まっていた。箒の穂先を立てて、丁寧に掃き出す。
チャキッ。
リタがちりとりを差し出す。タイミングが合っている。
(リタは、おそうじの手伝いが上手ですわよ。黙って、でも必要なところに道具を差し出す。これは戦闘の補佐と同じ感覚かもしれませんわよ。どこで相手が必要なものを必要としているかを読む)
玄関の端まで掃き終えて、廊下へ移った。
廊下は長い。
一番奥まで続く廊下を、二人で進んだ。私が先を掃いて、リタが後から塵をまとめる。
途中、窓際で立ち止まった。
窓の外がわずかに明るくなっていた。夜明けが始まっていた。
(今日の夜明けを、この窓から見るのは最後になりますわよ。……しばらくは)
感傷が、一瞬だけ頭に浮かんだ。
すぐに、箒を動かした。
(感傷は、仕事の後にとっておきますわよ)
* * *
書斎の掃除は、少し丁寧にした。
机の引き出しを全て開けて、中を確認した。
一番奥の引き出しに、二枚の手紙が入っていた。
カスミ弁護士の手紙と、霧の手紙だ。
カスミ弁護士の方には、昨日の午後に返事が届いていた。
*——霧の季節には、港の音がよく聞こえます。晴れていれば、なおさら。——N.K*
(来ていてくださいますわよ。……フォル・ネビュラで待っていてくださっているということですわ)
二枚の手紙を取り出して、旅支度の鞄の中に入れた。
引き出しを閉めた。
机の上を、硬く絞った布巾で一度拭いた。
木の天板が、少し光った。
(これで、書斎は終わりですわよ)
* * *
キッチンに下りると、シリルが朝食の支度をしていた。
私の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「もう掃除を」
「玄関から順番にやってきましたわよ」
「……お嬢様は、本当に出発前に掃除をされますわね。遠征の時も、王城への出向の時も」
「当たり前ですわよ。乱れたまま出ると、戻った時に散らかったゴミの続きから始めることになりますもの。……出発と帰宅は、きちんと区切るものですわ」
シリルが少し間を置いた。
「今朝の旅支度の最終確認を、朝食の後に行いますわよ」
「はい。リタの荷物の確認も同時に」
椅子に座った。
シリルが盆を持ってきた。
今朝の朝食は、薄く焼いたパンと、温めたミルク。それから、昨夜の残りのハゼルカが一つ。
「昨夜の菓子が残っていましたの?」
「お嬢様が一つ召し上がって、一つを「出発の朝に」と言われましたので」
「言いましたかしら」
「言いませんでした。ただ、一つ残しておけばよいと思いましたので」
(この人は。……本当に、人の考えを先に読んで動くのが癖になっていますわよ)
「規則違反ですわよ」
「はい。先読みは業務の一部ですので、規則違反ではないと判断しております」
「ルールの解釈が柔軟すぎますわよ」
ハゼルカを一口かじった。
昨日より少し固くなっていたが、塩気と柑橘の甘みは変わっていない。むしろ一晩置いた方が、味が落ち着いている気がした。
(「拾い上げる」という意味の菓子を、出発の朝に食べる。……よろしいですわよ、シリル)
* * *
旅支度の最終確認は、一時間かかった。
三人分の荷物。私の旅行用のトランクが一つ。シリルの書類鞄が一つ。リタの小さな黒い荷物が一つ。
リタの荷物は、いつ見ても少ない。でも中身の密度は、他の二人分を合わせたより重い気がする。
(チャキッという道具が、何本入っているかは聞いたことがありませんわよ。聞かなくていいことは聞かない。それが円滑な主従関係ですわ)
巡礼路を使う旅程の確認を、シリルが最後にもう一度行った。
「王都発、南部街道経由で三日。巡礼路の入口にある宿「イネリ亭」に一泊。その後、古い巡礼路を二日かけて通過してフォル・ネビュラへ。合計六日の旅程です」
「身分の確認は?」
「お嬢様は「ヴィクトリ巡礼団の団長」として。私は「案内役のシリー」として。リタは「修道女のリーネ」として」
「リタが修道女」
「修道女が戦闘訓練を積んでいることは、聖教国の一部の修道院では珍しくない。違和感は最小限に抑えられます」
リタが少し頷いた。
修道女の外装は昨日届いていて、今朝から着込んでいた。白い衿と灰色の外套。まったく似合わない、とは言えなかった。むしろ、静かで、整っていて、どこか本物のようにも見えた。
(リタに「静かさ」は似合いますわよ。言葉を持たない静けさが、修道女の外装と合っていますわよ)
「出発は、正午の鐘が鳴ってからですわよ。……それまで、屋敷の残りの整理を続けますわよ」
* * *
午前の半ばに、フロード補佐官から最後の書状が届いた。
昨夜持ち帰ったセドゥン商会の送金記録の写しを、王城の財務記録と照合した結果だ。
開いて、読んだ。
シリルが横で確認する。
「一致、ですわね」
「はい。三年分の送金記録の写しは、L勘定の記録と金額・日付の七割以上が一致しています。……ただし、一致しなかった部分が」
「どの部分かしら」
「フォル・ネビュラへの直接の送金の一部が、写しには記載されているのに、L勘定には存在しない。……逆に、L勘定にあってセドゥンの写しにない部分も、三件ありました」
(一致しない部分がある。……セドゥン商会の写しを管理していた人間と、L勘定を管理していたシュラッセは、同じ組織の中にいながら、完全に同じ情報を持っていなかった、ということかしら)
(ドレインは、縦の分断がある組織ですわよ。同じ階層の横の繋がりはあっても、上下の情報は完全には共有しない。……それが、組織の汚れを長持ちさせる構造ですわよ。一箇所が崩れても、他の管路が生き残る)
「フォル・ネビュラへの直接送金で、L勘定に記録されていない三件の送金先を、特定できますかしら」
「現時点では、送金先の名称が暗号化されています。……フォル・ネビュラに着いてから、現地の帳簿を直接確認できれば、対応する先が特定できる可能性があります」
「では、その三件の日付と金額を覚えておいてくださいな」
「はい。三件とも、春から夏にかけての取引です。……一件目が三月、二件目が五月、三件目が七月。いずれも、カラミという経由地が記録の端に記載されています」
(カラミ。地図の断片に書いてあった場所ですわよ。三件の送金が、全て「カラミ」を経由している。……カラミは、フォル・ネビュラの特定の場所を指すコードネームだとすれば、その三件はカラミという場所を通じてどこかへ流れていった)
「カラミが、物理的な場所であるとすれば、港の中の特定の荷捌き場か倉庫かもしれませんわよ」
「ライスが関わっている可能性もあります。荷捌き組合との接触が最近あった、という情報が先日入っていましたので」
「ええ。……フォル・ネビュラに着いたら、最初にカラミの場所を確認しますわよ」
書状を折り畳んだ。
「フロード補佐官に返書を出しますわよ。照合結果を受け取った旨と、フォル・ネビュラ着次第、現地情報を送ることを伝えてくださいな」
「かしこまりました。……補佐官から、一点だけ口頭でのご連絡もありましたわよ」
「何かしら」
「エステ文官補の件です」
「どうでしたかしら」
「エステ文官補が今朝、フロード補佐官に自ら出頭したそうです」
私は扇子を持ったまま、少し止まった。
(自ら出頭した?)
「出頭して、何を話したかしら」
「ガルベス子爵の屋敷への往来について、説明したいことがある、と申し出たとのことです。……詳細は補佐官が今日の午後に聴取をするということです」
(エステ文官補。審議停止の日の朝に早朝登城が確認されていた人物。ガルベス子爵との接点が疑われていたが、詳細は不明のままだった)
(自ら出頭した。……これは、詰められる前に自分から話す、という行動ですわよ。外部からの圧力があったのか、それとも内側から何かが変わったのか)
「フロード補佐官に伝えてくださいな。……エステ文官補の聴取は、丁寧にやっていただきたいと。こちらが知りたいのは罰することではなく、記録を完成させることですわよ、と」
「そのまま補佐官に?」
「言葉を適切に整えてくださいな。あなたの得意分野ですわよ」
「かしこまりました」
* * *
正午の鐘が鳴る少し前に、屋敷の全ての部屋の掃除が終わった。
私は最後に、もう一度玄関に立った。
石の床が、朝より少し光っている。朝に掃いた甲斐がある。
扉を開けると、秋の空気が入ってきた。
冷たい。でも、澄んでいる。
リタが先に外へ出た。周囲を確認している。チャキッという音は、今朝は一度も鳴っていない。静かな出発日だ。
シリルが旅行用の荷物を馬車に積んだ。
私は玄関の扉を、もう一度だけ振り返った。
(整っていますわよ。……帰ってきた時も、こうであってほしいですわ)
扉を閉めた。
鍵をかけた。
振り返らなかった。
* * *
「シリル、馬車の中で確認しておきたいことがありますわよ」
「何でしょう」
馬車が動き始めた。王都の石畳の上を、正午の鐘とともに走り始める。
「ベルト・ライスについて、今わかっている範囲で整理してくださいな」
シリルが書類鞄から一枚の紙を取り出した。
「ベルト・ライス。三十八歳。フォル・ネビュラ生まれ。港の荷捌き組合の中間管理者。五年前の時点で、シュラッセへの情報の受け渡し人として霧に使われていた可能性がある。……最近では、荷捌き組合の上層部との接触頻度が増しているとのことです」
「組合の上層部というのは?」
「組合の長は「ゲーム・スルッツ」という人物です。六十代で、フォル・ネビュラの港行政とも深い繋がりを持つ実力者と聞いています」
(スルッツ。……濁りの底に溜まった「スラッジ」と似た音がしますわよ。偶然かしら。偶然でも、気になる響きですわよ)
「ライスが、スルッツの指示で動いているのか、独立して動いているのか、まだ分かりませんわよね」
「はい。……ただし、ライスが霧の側にいるとすれば、スルッツとライスの関係は、ライスがスルッツに近づいてその動きを監視しているということも考えられます」
「逆もあり得ますわよ。ライスがスルッツの側にいて、霧との過去の接触は強制だったか、利用されたかのどちらか」
「どちらかによって、現地での接触方法が変わりますね」
「ええ。……白か黒かは、現地で判断しますわよ」
馬車の窓の外に、王都の建物が流れていく。
通り過ぎると、だんだん建物が低くなって、やがて街道の木立が始まる。
(王都を出るのは、久しぶりですわよ。……確かに旅に出たことはあります。でも、こういう形で、国の外へ向かうのは初めてですわよ)
(初めての掃除場所は、いつも少し勝手が違いますわよ。道具は同じでも、汚れの種類が違う。港の底に積もった澱は、屋敷の埃とは別の落とし方をしなければならないかもしれませんわ)
「シリル、フォル・ネビュラの言語について教えてくださいな」
「はい。フォル・ネビュラでは、我が国の言語と共通の基語を持つ方言が話されています。八割方は通じますが、港の専門用語や古い地名については、現地語の方が優勢なものもあります」
「「カラミ」は現地語ですかしら」
「調べた範囲では、「カラミ」はフォル・ネビュラの古い港言葉で「絡まる」または「絡みつく」という意味を持ちます。……汚水が排水溝の壁に絡まって固まったものを「カラミ」と呼ぶ慣用がある、という記録がありました」
(「絡まる汚水」。……なるほど、ゴミメタファーとして適切な名前ですわよ。排水溝に絡みついて固まった汚れ。清掃の難物ですわよ。普通に拭いても取れない。溶かすか、削り取るか、どちらかが必要なタイプの汚れですわ)
「では、カラミという場所は、フォル・ネビュラの港の中で、何かが「絡まっている」場所ということかもしれませんわよ」
「送金の経路が絡まっている、という意味では一致しますわね」
「ええ。……着いてから確認しますわよ」
馬車の揺れが、少し大きくなった。街道に出た証拠だ。
石畳の王都から、土の道へ。
リタが馬車の前方の席に座っていた。外套を着込んで、窓の外を見ている。修道女の白い衿が、外套の上から少しだけ見えている。
目が合った。
リタが小さく頷いた。
(大丈夫ですわよ、と言っているのかしら。それとも、始まりましたよ、と言っているのかしら)
私はリタに向かって、扇子を一度だけ開いた。
そして閉じた。
(了解しましたわよ)
* * *
最初の宿場に着いたのは、夕方の四時を過ぎた頃だった。
街道沿いの小さな宿で、名前を「南路亭」という。シリルが事前に予約していた。
部屋に荷物を置いて、一階の食堂で夕食を取った。
食堂には旅人が何組かいた。商人風の男が二人組、家族連れが一組、それから修道士と思われる年配の男性が一人。
私たちは隅の席を選んで、静かに食べた。
(目立たない。それが、今の私たちの最優先事項ですわよ。クレア・ヴィクトリアとしてではなく、巡礼団として動く間は)
食事は素朴なものだった。パンと、根菜のスープ。それから、焼いた川魚。
(川魚は、悪くありませんわよ。ただ、王都のコックが用意するものより骨が多い。注意しながら食べますわよ)
食事の途中で、シリルが小声で言った。
「向かいの席の商人風の二人組が、出発前からずっとこちらを見ていますわよ」
「気づいていましたわよ」
「どう判断しますかしら」
(商人風の二人組。年はどちらも四十前後。荷物は軽い。商人にしては手荷物が少なすぎる。食事の際の作法が、商人というより何か訓練を受けた人間のそれに近い。……でも、今夜動く気配はない。観察しているだけ)
「今夜は様子を見ますわよ。……リタ」
リタが、わずかに首を動かした。了解という意味だ。チャキッとは鳴らなかった。人がいる場所では音を立てない、と学んでいる。
「明朝、あの二人の出発方向を確認してくださいな。同じ方向へ向かうようなら、もう少し見ますわよ」
リタが小さく頷いた。
川魚の骨を、丁寧によけた。
(骨まで取り除いてから食べますわよ。……引っかかるものを残しておくのは、性に合いませんわの)
* * *
夕食の後、私は部屋に戻った。
小さな旅籠の部屋だが、清潔だった。シリルが確認していた宿だから当然かもしれない。
旅支度の鞄を開けて、カスミ弁護士の手紙と霧の手紙を確認した。
どちらも、きちんとある。
それから、もう一枚の紙を取り出した。
フォル・ネビュラの簡易地図だ。シリルが用意したものだ。
港の形が、鶴の首を曲げたように湾になっている。霧が生まれやすい地形だと聞いている。三方を崖と丘で囲まれた湾は、海霧を溜め込みやすい。だから「霧の港」と呼ばれる。
地図の中に、カラミと書ける場所を探した。
港の東側に、少し奥まった入り江がある。主要な荷揚げ場より小さく、古い桟橋の跡がある場所だ。そこなら、「絡まる汚水」という名の場所として、物理的にも理屈が通る。
(旧桟橋の周辺。……古い設備が残ったまま、誰も使わないように見えて、実際には使われている。そういう場所が、汚れを溜めやすいですわよ)
地図を折り畳んだ。
右手を膝の上に置いた。
白い旅用の手袋。
宿の灯りで見ると、昼間の屋敷の光とは少し違う色に見える。暖かい、琥珀色の光の中で、白はやや黄みがかって見える。
(見え方は、光によって変わりますわよ。……でも、それが変わったことにはならない)
窓の外に、街道沿いの木立の影が見えた。
王都の明かりは、もうどこにも見えない。
出てきた、と思った。
(さあ、おそうじの続きですわよ)
扇子を、旅鞄の脇に置いた。
明日の朝、また使う。
* * *
翌朝、商人風の二人組は私たちより先に出発していた。
リタが朝の確認を終えて戻り、紙片を差し出した。
*南方向へ出発。私たちと同じ街道。但し、宿の払いを確認したところ、昨日と今日の分。予約なし。——旅人のみ。*
(予約なしで泊まった。つまり事前にここを決めていたわけではなく、私たちと同じ宿を選んだ。……あるいは、私たちを見て、この宿に入ったということかしら)
「シリル、今日の行程を少し変えますわよ」
「変更点は?」
「イネリ亭への到着を、夕方ではなく夜にしますわよ。……昼に一度、道を折れて、寄り道をしてから戻ります」
「寄り道、ですか。……目的は?」
「二人が私たちについてくるかどうかを確認しますわよ。ついてくれば、本格的に考える必要がある。ついてこなければ、ただの同方向の旅人ですわよ」
「分かりました。昼に寄れる小さな村か礼拝所があれば」
「ええ。巡礼団らしく、礼拝に立ち寄る口実があれば自然ですわよ」
「街道沿いに、聖教国の旧礼拝所があります。現在は使われていませんが、建物は残っているとのことです。……巡礼団が立ち寄るには適した場所です」
「それにしましょう」
シリルが手帳に何かを書いた。
「変更した行程でも、イネリ亭への到着は夜の八時前後に収まります。遅くなりますが、問題ないかと」
「問題ありませんわよ」
リタが新しい紙片を渡してきた。
*二人組の体格・足運びの記録。右の男:左肩に古い傷の可能性。歩様が若干乱れる。左の男:荷物の扱いが慣れている。整然。——観察記録のみ。*
(左肩に傷。……訓練を受けた人間で、かつ左肩に傷があるということは、右利きで過去に戦闘経験がある可能性が高い。傭兵か、あるいは王城関係の仕事をしていた人間か)
「リタ、今日の寄り道の際に、二人が礼拝所の周辺に現れるかどうかを確認してください。……礼拝所に入る必要はありません。外から見るだけでいい」
チャキッ。
三人で宿を出た。
秋の街道は、朝の霧が少し残っていた。
遠くまで見通せない。でも足元はよく見える。
(霧の中の歩き方は、こうするものですわよ。遠くを見ようとしないで、足元を確かめながら進む。……フォル・ネビュラでも、そうするつもりですわよ)
* * *
旧礼拝所への寄り道は、昼の鐘が鳴る少し前だった。
石造りの小さな礼拝所は、街道から半刻ほど脇道に入った丘の上にあった。
扉は古くて、開けると軋んだ音がした。
中は、誰もいない。
床に落ち葉が入り込んでいた。風で吹き込んだものだろう。長いこと、誰も掃いていない。
(……誰も来ないから、誰も掃かない。誰も掃かないから、塵が溜まる)
私は自然に、腰の横に提げていた小さな旅用の箒を取り出した。
「お嬢様」
シリルが少し目を丸くした。
「旅に箒を持ってきていたのですか」
「当然ですわよ。掃除人が道具を持ち歩かないでどうするんですかしら」
「……確かに」
「十分だけ、ここを掃きますわよ。その間に、外の様子を確認してくださいな」
シリルが礼拝所の扉の方へ向かった。
リタは扉の脇に立って、外を見ている。
私は落ち葉を丁寧に掃いた。
石の床の目地に入り込んだ砂も、穂先で掻き出した。祭壇の台の下に溜まっていた埃も、集めた。
十分ほどで、礼拝所の床が少し綺麗になった。
完璧ではない。でも、旅の途中の十分間でできる範囲では、十分だ。
(この礼拝所を使っていた人たちの時代も、こうやって誰かが掃いていたはずですわよ。……掃く人がいなくなっても、建物は残る。次に誰かが来た時のために、少しだけ整えておきますわよ)
シリルが戻ってきた。
「二人組の確認ができました」
「どうでしたか」
「旧礼拝所への脇道の入口で、一度止まりました。……ただし、中へは入ってきませんでした。数分後に、街道へ戻っていきました」
(止まった。でも入ってこなかった。……追尾しているなら、もっと近づくはずですわよ。でも入ってこなかった。距離を保っている。接触する目的ではなく、観察している? それとも、確認するだけで十分だった?)
「同方向への旅人の可能性を、まだ排除できませんわよ。でも、意識的にこちらを確認していることは確かですわよね」
「はい。……今夜、イネリ亭でまた確認できると思います」
「ええ。……ただし今のところは」
私は旅用の箒を元の位置に戻した。
「泳がせますわよ。観察しているだけの何かを、わざわざ騒がせることはありませんわよ」
「合理的です」
「合理的というより、面倒ですわよ。……こういう、中途半端に臭う汚れは、今すぐ洗い流せないんですわよ。確認が取れてから処理した方が、余計な洗い直しが出ませんもの」
(中途半端に臭う汚れ。……完全にゴミかどうか判断がつかないものを、見切り発車で焼却するのは非効率ですわよ。分別が雑だと、後で困りますわ)
「では、イネリ亭まで」
「ええ、参りますわよ」
旧礼拝所の扉を、丁寧に閉めた。
軋む音が、丘の上の静けさに消えた。
* * *
イネリ亭に着いたのは、夜の七時を少し過ぎた頃だった。
街道から少し離れた、古い宿だ。窓に灯りが入っていて、遠くから見ると温かい色をしていた。
中に入ると、宿の主人が出てきた。六十代の丸い体型の女性で、声が大きかった。
「巡礼のお方ですかね。こちらへどうぞ、お部屋は用意してありますわよ」
私は少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございますわ。……少し疲れましたわよ、今日は」
「そりゃあ、秋の街道は冷えますからね。お茶を用意しましょうか」
「ぜひ」
宿の主人がリタを一度見た。修道女の外装を、少し訝しそうに見た。でも何も言わなかった。
部屋に案内されて、荷物を置いた。
シリルが小声で言った。
「二人組は、この宿には来ていません。街道のもう少し先の宿に入ったようです」
「確認方法は?」
「宿の主人の娘さんが、街道沿いの宿々に顔見知りでして。少し聞いてもらいました」
「あなたはいつも」
「先読みは業務の一部です」
「……ご苦労様ですわよ、本当に」
シリルが少し嬉しそうな顔をした。腹黒の嬉しそうな顔だが。
(二人組が別の宿に入った。……この宿を使わなかったということは、私たちを完全に尾行しているわけではない。ある程度の距離を保ちながら、同じ方向へ向かっているというだけかもしれませんわよ。あるいは、この宿の位置を知っていて、わざと別の宿を選んだか)
(どちらにしても、明後日にはフォル・ネビュラに着く。向こうで動きが出るなら、向こうで対処すればいいですわよ)
扇子を鞄から取り出した。
部屋の中で、一度だけ開いた。
風は生まれなかった。でも、開くという動作をするだけで、少し考えが整う気がした。
閉じた。
* * *
宿の主人がお茶を持ってきた。
大ぶりの茶器に、濃く煮出した茶が入っている。
「こちらの土地のお茶ですわよ。南部の街道では、この時期これが一番温まりますよ」
「ありがとうございますわよ」
一口飲んだ。
強い。タンニンが濃くて、渋みが先に来る。でも体が温まるのが分かる。
茶器の脇に、小皿に乗った菓子が添えられていた。
「これは?」
「街道沿いの宿では、旅人さんに出す決まりの菓子があってね。「道中菓子」と呼ぶんですわよ。お守り代わりみたいなものですわね、昔からの」
小皿の上の菓子を見た。
丸い形の、朴訥な焼き菓子だ。表面が少し焦げていて、中心に乾燥した木の実が一つ入っている。
「中の実は何ですかしら」
「山楓の実ですわよ。酸っぱいんですけどね、外の甘さと合わさると悪くないんですよ。……道中、迷子にならないようにという意味があるそうで。木の実は、どんな季節でも同じ場所に落ちるから、道に迷っても帰ってこられるという言い伝えですわよ」
(道に迷っても帰ってこられる。……今夜それを聞くとは、おあつらえ向きですわよ)
「いただきますわよ」
かじった。
外の部分は甘い。素朴な甘みで、砂糖と麦の香りがする。そして中の山楓の実が、急に酸っぱさを届けてきた。
(甘いと思ったら酸っぱい。……でも、悪くない取り合わせですわよ。旅の途中は、甘いばかりではないということかもしれませんわ)
お茶をもう一口。渋みが、酸っぱさを落ち着かせた。
「シリル」
「はい」
「明日は巡礼路に入りますわよ。……古い道が、どういう状態かによりますが、変わった汚れに出くわすかもしれませんわ」
「変わった汚れ、というのは」
「巡礼路は、誰かが管理しているわけではありませんもの。長い間、自然のままに放置されている。……古い道には、古い汚れが溜まっていることがありますわよ」
「古い汚れ」
「ええ。時間をかけて固まったものは、新しい汚れより落としにくいことがありますわよ。……でも、落とせないわけではありませんわ」
シリルが少し目を細めた。
「承知しました。明日の巡礼路は、十分に気をつけます」
「ええ。……でも今夜は、これ以上考えなくていいですわよ」
渋いお茶と道中菓子を、部屋の灯りの下で静かに食べ終えた。
山楓の実の酸っぱさが、最後まで口の中に残った。
(酸っぱさが残る。……それでいいですわよ。甘くて終わりより、少し酸っぱさが舌に残っている方が、明日また動ける気がしますわの)
窓の外に、秋の夜の星が出ていた。
王都からは、二日分遠い星空だ。
でも星は、変わらず光っていた。




