第22話:晴れた日の霧は、朝の光で焼き切れる
陛下からの詳細が届いたのは、翌朝の七時を過ぎた頃だった。
私はまだ書斎にいた。正確には、一度寝室に戻ったが四時間ほどで目が覚めて、そのまま書斎に来てしまった。窓の外が白み始めてから、ずっと文箱の上に置いた封書を見ていた。
シリルが封書を持ってきた時の顔は、いつもの笑顔だったが、目の奥が少し別のことを考えている顔だった。
「詳細が届きましたわよ」
「はい。……陛下の秘書官が早朝に使者を出したようです。昨夜の取り調べが、深夜まで続いたとのことです」
(深夜まで。……シュラッセが、昨夜の聴取でかなりのことを話したということかしら)
封を切った。
今度は秘書官の筆跡ではなく、陛下ご自身の字だった。
普段より少し乱れている。急いで書いたのではなく、内容が乱れを生んだような字だ。
* * *
読み終えて、私は封書を机に置いた。
シリルがそれを見た。
「内容をお聞きしてもよいですか」
「ええ」
私は少し間を置いた。窓の外に、朝の光が少しずつ入ってきている。昨夜の星空とは違う、平らな灰色の光だ。
「シュラッセは、昨夜の聴取で、霧について二点を供述しましたわよ」
「二点」
「一点目。霧はドレインの外側にいる。シュラッセは約四年間、L勘定の管理者として動いていたが、その間に霧と直接接触したことは一度もなかった。ただし、霧の存在は知っていた。ドレインの内部で、霧という名前は『触れてはいけないもの』として扱われていたとのことですわ」
「触れてはいけないもの」
「ドレインの指示系統の中で、霧だけは別枠だった。上から『霧の動きに気づいても、関わるな』という指示があった。……シュラッセ自身は、霧をドレインの監査役のようなものだと思っていたと供述しています」
(監査役。……ドレインが自分自身を監視するために置いた存在か、それとも外側から監視していた別の何かか)
「二点目は?」
「霧と、一度だけ間接的に情報を受け取ったことがあるとのことですわよ。……五年前のことです」
「五年前」
「フォル・ネビュラの、霧の港で、です」
書斎に、静かな時間が落ちた。
シリルの顔が、わずかに変わった。計算の顔だ。
「フォル・ネビュラ」
「シュラッセは五年前、L勘定の管理の一環で、フォル・ネビュラの港を経由した資金の流れを確認するために、直接現地へ赴いています。その時に、霧からと思われる情報が、港の荷捌き業者を通じて手元に届いた」
「内容は?」
「その時の情報の内容は、セドゥン商会の送金先の一部についての指摘だったとのことですわよ。……ただし、シュラッセはその情報を黙って受け取って、何もしなかった」
(何もしなかった。……霧が指摘した。でもシュラッセは動かなかった。それは、ドレインの内部にいたシュラッセが、霧の情報を使えば自分の首が絞まると判断したからかもしれませんわよ)
「荷捌き業者の名前は出ていますか」
「一つだけ。……ベルト・ライスとの記載がありましたわよ」
シリルが少し目を細めた。
「ライスが、霧の情報の受け渡し人として機能していた可能性がある」
「五年前の時点では、そうだったということですわね。今もそうかどうかは分かりませんわよ。……でも」
私は窓の外を見た。
(朝の光が、白から薄橙に変わりつつある。霧が晴れてきた。……霧は晴れた日にこそよく見える、と昨日思いましたわよ。今朝は、さらにはっきりと見えてきましたわね)
「フォル・ネビュラへ行く理由が、また一つ増えましたわよ」
* * :
リタが書斎に入ってきたのは、シリルが朝食の支度に出た直後だった。
いつもより少し速い足取りで、音もなく入って、机の前に立った。
右手の人差し指を、左の掌に二度、押し付けた。
(二つ、新しい情報がある、という意味かしら)
「どうぞ」
リタが懐から折り畳んだ紙片を出した。
受け取って広げる。
リタの筆跡だ。丁寧で、整っている。
*第一。昨夜の男について。西側通りの先、荷馬車の修繕小屋付近に一夜停滞を確認。本日夜明け前に南区方向へ移動。現在、リタの手の者が継続追跡中。*
*第二。眼鏡の女性について。昨夜の確認で、王城の文官棟付近を三度通った後、南区と北区の境界付近の宿に入ったことを確認。宿の名前:「アオク亭」。南区の「ヴィクトリ夫人」の宿とは別の宿。今朝まだ宿から出た様子はなし。*
読み終えて、折り返した。
(二人の動きが把握できた。西側の男は南区に向かっている。昨夜、モモが動いたのも南区だ。眼鏡の女性は北区と南区の境界付近に宿を取っている。どちらも、南区が動線の中心にある)
(南区は、ドレインの経路が通っていた場所ですわよ。エストというコードネームの人物が使っていた排水溝がある場所。……今もそこが、誰かにとっての拠点になっているということかしら)
「リタ、手の者というのは?」
リタが少し首を傾けた。それから、右手の親指と人差し指で小さな輪を作った。
(小さな存在、ということかしら。……子どもを使っているのかもしれませんわよ)
「荷物届けか、使い走りの子を?」
リタが小さく頷いた。
(なるほど。……追跡者と悟られない方法として、子どもを使うのは確かに目立ちにくい。でも、危険な目に遭わせてはなりませんわよ)
「その子たちには、対象に近づきすぎないよう伝えてくださいな。……見失っても構いませんわよ。安全が最優先ですわ」
リタが頷いた。
チャキッ。
出ていく前に、リタが少し振り返った。
私を見た。
何かを言いかけて、言わなかった。ただ、少し目が動いた。
(リタが、何かを気にしていますわよ。……でも言わない。いつものことですわね)
「何か、ありますかしら」
リタが少し止まった。
それから、右の人差し指を立てた。一つだけ。
(一つだけ、聞いてほしいことがある?)
「どうぞ」
リタが右手を、自分の胸の前で、軽く丸めた。
その丸めた手を、少し前に差し出した。
何かを包んで、渡す、というような動きだ。
(…………)
私はそれを少しの間、見た。
(渡す。……何を。自分の胸から、包んで、渡す。……「自分が持っているものを渡したい」ということかしら。あるいは「守りたいものを差し出す」という意味か)
「リタ」
私は少し声を柔らかくした。
「あなたは、私の心配をしていますのかしら」
リタが、少しだけ目を細めた。
(図星でしたわね)
「大丈夫ですわよ」
私は言った。
「今朝は昨日より、ずっとすっきりしていますわよ。……霧の正体が少し見えてきましたもの。見えてくると、すっきりしますわ」
リタが、一度だけ深く頷いた。
チャキッ。
今度こそ出ていった。
(リタは、私が昨夜何時間も書斎に起きていたことを知っていましたのね。……屋敷の中で、私の気配をいつも感じているのでしょうよ)
私は右手を、膝の上に置いた。
白い手袋。
昨夜、「汚れていないことと、何も触っていないことは違うのか」と問いを立てた。
今朝はその問いが少し変わっていた。
(リタが、自分の胸から何かを渡そうとした。……あれは、私に対してそうしているつもりでいる、ということかしら。何も言わなくても、ずっとそこにいる。チャキッと鳴って、そこにいる)
(私が触っていないと思っていても、誰かは触っていますわよ。……その誰かを、私は知っていますわよ)
右手の手袋を、左手の指先が、そっと押さえた。
昨日より、少し長く。
それから、離した。
(仕事を始めますわよ)
* * *
朝食は、シリルがダイニングに用意していた。
焼いた薄切りのパンと、塩漬けのバター、それから蜂蜜。ゆで卵が一つ。ミルクを入れた紅茶。
昨夜の南部沿岸産の蜂蜜と麦の焼き菓子の残りが、小皿に一つ。
「出港前夜の菓子がまだありましたのね」
「昨夜お嬢様が半分残されていましたので」
「あなたが食べるかと思っていましたわよ」
「お嬢様の分を先に食べるほど、廃棄物には慣れていません」
「……それは食べ物に対して失礼ですわよ」
「失礼いたしました。正確には、お嬢様の取り分に手をつけるほど、私の公私の区別は甘くありません」
(公私の区別。……この人は、本当に言葉を選ぶのが巧みですわよ。毒舌でありながら、一本芯が通っている)
ゆで卵を半分に割った。
黄身が、ちょうどいい加減に固まっている。
「シリル、今日の予定を整理しますわよ」
「はい」
「一つ。陛下への返書を午前中に。シュラッセの供述を踏まえて、フォル・ネビュラへの旅程を早める可能性を打診しますわよ」
「了解しました」
「二つ。ライスの情報について、今日中に最新の動向を確認してください。フォル・ネビュラの荷捌き組合との関係と、五年前の霧との接触の件、どちらが今も有効かを調べてほしいのですわ」
「現地情報の仲介者を通じて確認します。……少し時間がかかるかもしれません」
「三つ。南区の動線についてですわよ。西側の男とモモの動線が重なっている可能性がある。ゼッペの動線監視と合わせて、南区の何かが今も動いているかを確認してください」
「南区は、エストの排水溝の跡地でもありますね」
「ええ。……本管を閉じたつもりでいても、枝管は自然に生えてくるものですわよ。特に南区のような、古い配管が残っている場所では」
シリルが少し目を細めた。
「南区の現状調査は、今日のうちに一度様子を見ます。フロード補佐官側の人員を借りることは可能でしょうか」
「補佐官には書状を出しますわよ。ただし大きく動く必要はありません。……様子を見るだけでいいですわ。今日は観察の日ですわよ」
「観察の日」
「大掃除の後は、しばらく観察の時間が必要ですわよ。……どこに取り残しがあるかを見極めてから、道具を出す。でないと、二度手間になりますもの」
* * *
午前の陛下への返書は、一時間ほどで書き上げた。
フォル・ネビュラへの出発を、当初の二週間後から一週間前倒しにできるかどうかの打診。ライスとの接触についての現地確認の依頼。そして、シュラッセの供述の信頼性についての私の見解を添えた。
見解は短くまとめた。
*シュラッセが霧について語ったことは、自分の持っていた最後の情報を切り札として使ったと判断いたします。ただし、供述の内容そのものの信頼性は高いと考えております。五年前のフォル・ネビュラでの経験は、シュラッセの感情的な記憶として残っているものと思われます。感情的な記憶は、計算の嘘と区別できますわ。*
「感情的な記憶は、計算の嘘と区別できる、ですか」
返書を封じながら、シリルが呟いた。
「読まないでくださいましな、まだ封じていない書状を」
「失礼いたしました。……ただ、一点だけよろしいですか」
「何ですかしら」
「その基準を使うなら、モモ・ダストの行動もそれで判断されますか」
(モモ・ダスト。……塵型の敵。計算している人間か、感情で動いている人間か)
私は封蝋を押しながら、少しの間考えた。
「モモ・ダストは」
「はい」
「計算と感情が混在しているタイプですわよ。……それが、一番厄介ですわよ。計算だけの敵は証拠を辿れる。感情だけの敵は予測できる。でも混在している場合は、どちらの基準も完全には使えませんわ」
「では、モモに対してはどちらで」
「両方を並べておくしかありませんわよ。……大きな鏡を二枚用意して、見え方を比べるような仕事ですわ」
シリルが少し間を置いた。
「二枚の鏡で見た時、どちらに本当のモモが映るか」
「その答えは、フォル・ネビュラへ行ってから出ますわよ。……ルファスの件を辿れれば、モモが計算で動いているか感情で動いているか、どちらの要素が強いかが見えてくるはずですわ」
「ルファス・モルケンの件が、ここでも」
「全部繋がっていますわよ、この水路はですわ」
封書を机の脇に置いた。
「シリル、一つ確認ですわよ」
「はい」
「旅程の三案、今日の午前中に見られますかしら」
「すぐにお持ちします」
* * *
旅程の三案を広げると、シリルの準備の細かさがよく分かった。
一案目。正規の商人団との同行。王都発の南部街道を経由して海岸線まで出て、そこから沿岸の船便に乗り換える。所要日数は往路で八日。費用は商人団への同行費用を含めて中程度。身分を偽る必要がある。
二案目。王城からの非公式通行証を使った単独入境。陛下の非公式の書状を持って、国境の検問所を正規に通過する。所要日数は往路で六日。費用は最低限。ただし、身分が「王城の関係者」であることが国境で記録される。
三案目。漁船組合の定期便を使う方法。王都から南部港町まで馬車で四日。そこから漁船の定期便に乗り込んでフォル・ネビュラへ直接入る。所要日数は往路で五日。費用は最も安い。ただし、身分は完全に偽る必要がある。
「三案目が最も早いですわね」
「はい。ただし、漁船での移動は天候に左右されます。嵐の時期には欠航が多い」
「今は何月ですわよ、この世界では」
「秋の中盤です。……南部の沿岸は、この時期に偏西風が強くなる。漁船での移動は、波が高い日もあります」
「私が船酔いをすると思いますかしら」
シリルが少し間を置いた。
「……思いません。ただ、お嬢様がドレスを波飛沫で汚される状況は、あまり想定したくはありません」
(ドレスに塩水の飛沫。……それは確かに避けたいですわよ)
「二案目と三案目の中間の方法はありますかしら。身分を完全に偽らずに、かつ記録が残りにくい方法で」
「一点、候補がございます」
シリルが新しい一枚を出した。
「王都とフォル・ネビュラの間には、古い巡礼路があります。聖教国の巡礼者が使っていた道で、今は使われていませんが、宿場と道の整備は残っています。……この道を使う場合、巡礼者の外装を取れば、身分の詮索をされることが少ない」
(巡礼路。……なるほど、それは面白い発想ですわよ。巡礼者は目的地に向かう人間として、あまり止められない。疑われにくい)
「巡礼者が、リタとシリルを連れて歩いていたら目立ちますわよ」
「リタは修道女の外装が可能です。私は……巡礼の案内役という立場であれば不自然ではありません」
「あなたが案内役?」
「『人の道を知っている』という点では、正しくないとも言い切れません」
「……それは言い訳が利きすぎますわよ」
(でも、悪くない案ですわよ。巡礼路を使えば、記録が残らず、かつ波飛沫に晒される可能性も低い)
「この巡礼路案を、正式な四案目として加えてくださいな。……今日中に陛下へ旅程の打診状を出す前に、もう少し調べますわよ。巡礼路の現在の状態と、途中の宿場の状況を」
「承知しました。……午後のうちに確認します」
「ありがとうございますわよ」
* * *
昼過ぎに、フロード補佐官からの書状が届いた。
南区の調査に人員を手配する、という内容と、もう一点。
*——昨夜の聴取の中で、シュラッセが一言だけ、処理する前に言い残したことがあります。取調官の記録によれば、供述の終わりに「霧は、港にいる」と言った。それだけです。取調官は確認を求めましたが、シュラッセはそれ以上何も言いませんでした。——F*
私は書状を、机の上に置いた。
少しの間、その一文を見た。
(「霧は、港にいる」。……港とは、フォル・ネビュラのことですわよ。シュラッセは、それだけ言い残した。なぜ?)
(計算があってのことか、それとも本当に最後の良心のようなものか。……シュラッセが「疲れた目」をしていた理由が、少しだけ見えるような気がしますわよ。あの人は、霧のことを恐れていたのではなく、霧のことを、密かに信頼していたのかもしれませんわよ)
「シリル」
「はい」
「フロード補佐官の書状を読んでくださいな」
シリルが受け取って読んだ。
一度読んで、もう一度読んだ。
「「霧は、港にいる」」
「ええ」
「シュラッセが最後に言い残した言葉です」
「意図は?」
「分かりませんわよ。……でも、出発を一週間前倒しにする方が良さそうですわね」
シリルが書状を返した。
「旅程の最終案を、今日中に固めます。……出発は、来週中に設定できると思います」
「ええ。……もう一点だけ」
「はい」
「カスミ弁護士への手紙を出しますわよ」
「内容は?」
(どんな内容にしますかしら。フォル・ネビュラへ向かうことを伝えて、先に現地で動いていてほしいと頼む。でも、直接的に書いてはいけませんわよ。万一手紙が誰かの手に渡ることを考えると)
「「晴れの日が続いていますわよ。港の霧も晴れているとよろしいですわね」と書きますわよ」
「それだけですか」
「それで伝わりますわよ。カスミ弁護士は賢い方ですから」
「……なるほど。では、符牒として機能させるということですか」
「ゴミの分別が上手な方は、符牒の読み方も上手ですわよ」
シリルが少し目を細めた。
「カスミ弁護士が、果たして現地で動いていてくださるでしょうか」
「私が先日『計画』と言いましたよ。……あの方はその言葉の意味を、きちんと持ち帰ってくださいましたわよ。返事を待ちますわよ」
* * *
午後の半ば、リタが短い紙片を持って戻ってきた。
西側の男の追跡結果だ。
*南区の荷馬車通りの先、古い倉庫の一つへ入った。エストの排水溝から南に二本。倉庫の表の看板:「セドゥン物流」。*
私はその三文字を見た。
(セドゥン物流。……セドゥン商会の関連ですわよ。架空商会として把握していたセドゥン商会が、物流業者として倉庫を持っている。架空ではなく、実体が南区に残っていたということ)
「シリル」
「はい。……今しがた同じ情報がフロード補佐官側からも届きました。南区の調査の人員が、同じ倉庫を確認しています」
「「セドゥン物流」は、架空商会の実体として使われていた倉庫ですわよ」
「はい。……ただ、今すぐ動きますか?」
私は少しの間考えた。
(動くべきかどうか。……倉庫の中に何があるか、まだ分かっていない。西側の男がその倉庫に入ったということは、今もそこが何かの拠点として使われているということだ。踏み込めば、中にいる者が逃げる可能性がある。あるいは、証拠を廃棄する可能性がある)
(でも)
(フォル・ネビュラへ出発する前に、王都の残務を片付けておく必要がありますわよ。南区の倉庫が残ったまま出発するのは、お風呂のぬめりを残して部屋の掃除に移るようなものですわ)
「今夜動きますわよ」
シリルが少し目を細めた。
「今夜、ですか」
「倉庫の中を確認してから、適切に処理しますわよ。……ただし、無駄な焼却はしない。中に何があるかを先に把握してからですわ」
「リタを先行させますか」
「ええ。私とシリルは後方からですわよ。……リタ」
リタが頷いた。チャキッ。
(今夜の仕事は、大きなものではないかもしれませんわよ。でも、小さな詰まりを放置すれば、出発の後に水が流れなくなる。出発前の、最後の排水路の確認ですわよ)
「夜の十時に出発しますわよ。それまでに、倉庫の周囲の状況をもう少し把握してくださいな」
リタが頷いた。もう一度チャキッ。
書斎を出ていく背中を見ながら、私は今朝のリタの動作を思い出した。
胸から、包んで、渡す。
(いつも、そうしていますわよね、リタは。言葉にしない形で、でも確実に)
* * *
夜の十時。
王都の南区は、昼間より音が少ない。
馬車を一本手前の路地で止めて、あとは徒歩で動いた。
リタが先頭。私とシリルが少し後ろ。リタが止まれば、私たちも止まる。チャキッという音がしなければ、動かない。
荷馬車通りを半分歩いたところで、リタが右手を上げた。
止まる。
(リタが何かを感じた。……倉庫の方向から、何かが来ている?)
路地の角に、三人で収まった。
私は耳を澄ませた。
石畳の上を歩く音。二人分、いや三人かもしれない。荷物を持った音も混じっている。
(倉庫から、出てきた?)
シリルが小声で言った。
「荷物の音がします。……運び出していますわよ」
(運び出している。今夜、移動させるつもりだったのかしら。それとも、追跡されていることを感じ取って、急いで引き払うつもりか)
私はリタを見た。
リタが親指と人差し指で輪を作って、少し前に示した。
(追う、ということかしら)
「追わなくていいですわよ」
シリルが少し驚いたように見た。
「荷物を運んでいく方向を確認だけしてください。……それで十分ですわよ」
「十分、ですか」
「倉庫が空になれば、中を確認できますわよ。荷物の中身より、倉庫に残っているものの方が、記録として価値がありますわよ。……持ち出せなかったものが、残っていますもの」
リタが小さく頷いた。
三人はしばらく路地の角でじっとしていた。
足音が遠ざかった。南区の方へ向かっている。荷物の音も消えた。
リタが前に出た。チャキッ。
倉庫の前まで来た時、表の扉は半開きだった。
急いで出ていった証拠だ。鍵もかかっていない。
リタが中を確認した。
数秒後、右の人差し指を立てて、手招きした。
(入ってもいいということですわよ)
* * *
倉庫の中は、薄暗かった。
小さなランタンをシリルが持っていたので、それで内部を照らした。
床に、木箱の跡がいくつも残っていた。ほこりが動いた痕跡だ。最近まで、ここに何かが置かれていた。
シリルがランタンを動かして、隅を照らした。
「これは」
壁際に、棚が一つ残っていた。
棚の上に、紙の束が積まれている。
急いで持ち出した人間が、忘れたか、あるいは不要と判断して残していったものだ。
(不法投棄ですわよ。……自分の都合で置いていった)
シリルが手袋をはめて、紙の束を取り上げた。
一枚めくる。二枚、三枚。
ランタンの光の下で、シリルの顔が少しずつ変わっていった。
「お嬢様」
「何ですかしら」
「セドゥン商会の送金記録の写しです。……現物ではなく、写しですが、日付と金額が揃っています」
私はシリルの手元を見た。
(送金記録の写し。……誰かが、セドゥン商会の送金記録を手元に控えていた。それを倉庫に保管していた。持ち出しを忘れるくらい急いで、誰かがここを引き払った)
「日付は?」
「三年分ほどあります。……一番新しいものは、今年の春です」
(今年の春。……フォル・ネビュラへの送金がL勘定に記録されていたのも、今年の三月だった。ダスト侯爵家傍系事業からの送金と、時期が重なっている)
「シリル、その束を全部持って帰りますわよ」
「はい」
「倉庫の中を、もう一度確認してください。他に残っているものがないかどうか」
シリルが奥へ進んだ。リタが壁に沿って動いた。
私は倉庫の中央に立って、周囲を見た。
床の木箱の跡。壁のほこり。外した釘の跡。
(急いで引き払ったのに、なぜ送金記録の写しだけ残っていったのかしら。……持ち出す価値がないと判断した? いいえ、これは重要な書類ですわよ。……残していったのではなく、次に使う誰かのために置いていったのかしら?)
(いいえ。それも違う気がしますわよ。……忘れたのではなく、故意に残したのだとしたら)
私は棚を、もう一度見た。
棚の奥の壁に、何かが引っかかっていた。
細い糸のようなものだ。
近づいた。
ランタンの光で照らすと、糸ではなかった。
細い紙縒りだ。その端に、小さな折り紙が結んであった。
(折り紙。……これは、意図的に置かれたものですわよ)
手袋をはめたまま、紙縒りを引いた。
折り紙が開いた。
一言だけ書いてあった。
*「来週の便を待て。——霧」*
倉庫の中に、静かな時間が流れた。
(霧が、ここにいた。……あるいは、ここに来ることを知っていて、先に置いていった)
(「来週の便を待て」。……来週の便。フォル・ネビュラからの便か、それともフォル・ネビュラへの便か)
シリルが奥から戻ってきた。
「お嬢様、他には何も。……ただ、床に古い地図の一部が落ちていました」
差し出されたものを見た。
地図の断片だ。海岸線が描かれている。港らしき場所に、小さな印が二つ。
印の一つの傍に、かすかな文字が読める。
*カラミ旧桟橋*
私は地図の断片と、霧の紙縒りを、シリルに渡した。
「リサイクル資源ですわよ。……全部持って帰りますわよ」
「はい。……「カラミ旧桟橋」は、J-2でしたわね」
「ドレインの内部コードネームとして浮上していたものですわよ。……港の地図に記されているということは、フォル・ネビュラの特定の場所、古い桟橋の跡地を指しているのかもしれませんわ」
リタが倉庫の扉の方を確認した。
チャキッ。
外は、静かだ。
「戻りますわよ」
* * :
屋敷に戻ったのは、夜の十一時を少し過ぎた頃だった。
書斎に書類を広げた。
今夜持ち帰ったもの。送金記録の写し。地図の断片。霧の紙縒り。
三点を並べた。
(送金記録の写しは、フロード補佐官に渡してL勘定との照合を依頼しますわよ。地図の断片は、フォル・ネビュラの地図と照合する必要がありますわね。霧の紙縒りは……)
(「来週の便を待て」。来週、私たちはフォル・ネビュラへ向かう予定ですわよ。それが「便」なのかしら。あるいは、霧自身がこちらへ来る便なのか)
「シリル」
「はい」
「出発を、来週の月曜日に設定しますわよ」
「四日後ですわね。……巡礼路案で動きますか」
「ええ。……リタには、今日の倉庫に戻った者がいないかを明後日まで確認してもらいますわよ。空になった倉庫に、誰かが何かを取りに来るかもしれませんわ」
「もし来たら?」
「泳がせますわよ。……今は追いかけない。フォル・ネビュラへ向かった先で、向こうから来るものを待ちますわよ」
シリルが少し首を傾けた。
「お嬢様、今夜は随分と「待つ」という判断を多く取られましたわね」
「ゴミというのはですわよ、シリル」
私は書斎の椅子に、少し深く座った。
「あちこち追いかけ回すより、出口を一か所に絞った方が効率よく回収できますわよ。……今、ゴミはフォル・ネビュラへ向かって動いている。私もそちらへ向かう。それで十分ですわ」
「出口が、フォル・ネビュラということですか」
「霧も、ライスも、カラミ旧桟橋も、セドゥン商会の送金先も。全部、港の方向へ流れていますわよ。……排水路は、最終的に海へ繋がりますものわ」
シリルが、静かに頷いた。
(港の底に溜まった澱。それが次の大掃除の対象ですわよ。国境を越えてくる不法投棄。航路を塞ぐ浮遊ゴミ。……規模は大きくなったけれど、やることは変わりませんわよ。ちりとりを持って、澱を掬い上げるだけですわ)
「ではお嬢様、旅の準備に入ります」
「ええ。……でもその前に」
私は机の上の紙縒りを見た。
(「来週の便を待て」。……霧は、来週を見込んでいた。私が動くことを知っていて、そのタイミングに合わせて準備していた。これは警告でも命令でもない。案内、ですわよ)
(霧が案内している。……ゴミを記録してきた存在が、今度は私を港まで案内しようとしている)
(その理由が、フォル・ネビュラで分かるかもしれませんわね)
* * *
夜の遅い時間に、シリルが茶の支度をした。
今夜は書斎ではなく、台所だった。
月明かりが台所の窓から入ってくる。ランタンを一つだけつけた、薄暗い台所。
シリルが用意したのは、小さな茶器と、紙に包まれた小さな菓子だった。
「これは?」
「フォル・ネビュラの港町では、旅人が港に着いた初日に食べると言われている菓子です。……港の土産物店でよく売られているという情報を、現地情報から入手しました」
「また先を読んでいたのですかしら」
「読んでいたのではなく、到着した日に食べるものを、出発の前に手に入れておいた、というだけです」
「それが先を読んでいると言いますのよ」
「エコではありません。……申し訳ございません」
紙を開いた。
中に入っていたのは、小ぶりの丸い焼き菓子だった。表面に白い砂糖がかかっている。
「「ハゼルカ」と言うそうです。港の言葉で「拾い上げる」という意味だと聞きました」
「拾い上げる?」
「港の漁師が、漁の前の夜に食べる菓子だということです。明日、海から何を拾い上げるかを考えながら食べる。……港の澱を掃除しに行くお嬢様には、悪くないかと思いまして」
(拾い上げる。……漁師が海から拾い上げる。私が港の底から澱を掬い上げる。確かに、悪くないメタファーですわよ)
口に入れた。
さくりと崩れた。
塩気が先に来た。それから、柑橘のような薄い甘みが後から広がる。
(塩気と甘み。……港の風の味がしますわよ、これは)
「お茶は?」
「フォル・ネビュラで一般的に飲まれているという、岩茶の一種です。……乾燥葉をそのまま煮出すものです。少し苦みがありますが、後に独特の甘みが来ます」
茶器を持ち上げた。
香りは、煙っぽくて、でも奥に花のようなものが混じっている。
一口飲んだ。
(苦みが来た。次に、少し渋い。でもその後に、確かに甘みが広がってくる。……複雑な味ですわよ。でも、嫌いではありませんわよ)
「シリル」
「はい」
「これは、来週飲めるようになりますわよ」
「はい、お嬢様が行かれれば」
「行くつもりですわよ」
「存じております」
月明かりの台所に、二人の影が落ちた。
リタがどこにいるかは見えないが、気配はある。屋敷のどこかで、今夜も静かにいる。チャキッとは鳴らない夜もある。でも、いる。
(明日からが、本当の意味での出発の準備ですわよ。国内の残務を最後に片付けて、道具をたたんで、次の掃除場所へ向かう)
(フォル・ネビュラ。霧の港)
(港の底に積もった澱を、ちりとりで掬い上げに行きますわよ)
岩茶の苦みと甘みが、口の中で落ち着いていった。
港の味がする。
そう思った。




