表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/50

第21話:霧は、晴れた日にこそよく見える

 Sが紙切れを差し出したまま、少しの間があった。


 私はそれを受け取って、シリルに渡した。


「この女性について、できる範囲で」


「はい。……ただ、急がない方がいいですか」


「急がない方がいいですわよ。ただし、把握しておく必要はある」


 Sが外套を持ち直した。


「一点だけ、お伝えしておきたいことがあります」


「どうぞ」


「昨夜、その女性がモモ・ダストと別れた後。……私は、少し距離を置いて女性の後を追いました。南区の裏通りを二本歩いたところで、女性が振り返りました」


(振り返った)


「追われていることに気づいた、ということかしら」


「気づいていたというより」


 Sが少し声を落とした。


「最初から、私が追ってくることを分かっていたような、目でした」


 古書店の中に、紙の匂いが満ちている。


 私はSの顔を見た。


(Sは、王城の内側から一人で不正と戦ってきた人間ですわよ。判断が細かくて、慎重で、感情を外に出しにくい。そのSが「目」の話をした。……印象として残るほど、何かがあったということですわよ)


「その目は、どんな目でしたか」


「……何も言わない目でした。ただ、確認しているような。私が誰で、何をしているかを、もう知っている、という目」


(知っている目。ムーアが言った「霧は全てを知っている」という言葉が頭を過ぎりますわよ)


「女性はその後どうしましたか」


「角を曲がって、消えました。……追いかけましたが、もうどこにもいなかった。荷物を置いていた宿に戻った形跡もなかったそうです」


(消えた。角を曲がって消えた。……これは偶然ではありませんわよ。最初から消えるつもりで動いていた。Sが追ってくることを計算した上で、見せるべきものだけ見せて消えた)


「その女性が、昨夜の宿に名前を書いたのは」


「はい」


「Sが確認することを、分かっていたからかもしれませんわよ」


 Sが少し目を細めた。


「……『ヴィクトリ夫人』という名前を、私が見ることを」


「ええ。……Sを通じて、私に名前を届けるために」


 私は少し間を置いた。


「リタもすでに宿の名簿を確認していますわよ。二方向から同じ名前が揃ったということ。……偶然ではありませんわね」


 しん、とした時間が流れた。


(霧は、私に何かを伝えようとしている。直接来るのではなく、モモとの接触の場所に偽名を残し、Sを経由して私のところへ届ける。……これは、霧が私の動きをかなり正確に把握していることを意味しますわよ)


(ドレインの外側にいて、ドレインの動きを知っていて、私の動きも知っている。……こういうゴミは、どう分別するんでしょうか)


(いいえ、待ちなさいな。ゴミと決めるのは早すぎますわよ。霧は、今のところ私に危害を加えていない。むしろ情報を届けようとしている。ゴミかどうか、まだ分かりませんわ)


「Sに一つお願いがありますわよ」


「何でしょう」


「その女性が再び王都に来た場合、追わないでほしいのですわ。……ただ、存在に気づいたことだけ、こちらに教えてください」


 Sがわずかに眉を動かした。


「追わない、のですか」


「霧は、追うと消えますもの。……でも待っていれば、またどこかに降りてきますわよ」


* * *


 古書店を出ると、王都の空は午後の光の中にあった。


 朝の曇りが嘘のように晴れて、路地の石畳に影が落ちている。


 リタが先を歩いている。私の一歩斜め前。外套の裾が少し揺れた。


「シリル」


「はい」


「昨夜から今日にかけて、随分と新しいものが出てきましたわよ」


「はい。四十七番を追加して、さらに霧に関する新情報が加わりました。全体の水路図が広がっています」


(広がっている。……ガルベスを拘束して、シュラッセを確保して、ある程度片付いたと思ったら、塵が宙に漂い始めて、霧が顔を出した。掃除というのは、本当にそういうものですわよ。大きな汚れを取ったら細かい汚れが見えてくる)


「ただ、今日の段階で私たちが急いでやることは、それほど多くはありませんわよ」


「そうですね。シュラッセの取り調べは陛下にお任せする。霧は待つ。ルファスは静かに調べ始める。南区の宿については、リタの追加確認待ち」


「そうですわよ。……次に私たちが動くとすれば」


「モモ・ダストの件、ですか」


 私は少しの間、答えなかった。


 石畳の先に、王都の大通りが見える。馬車が行き交い、商店の看板が揺れている。何事もない午後の光景だ。


(モモ・ダスト。塵。目に見えにくく、蓄積する。昨夜は南区で動いた。ルファスという人間を使っている。霧と接触した。……ダスト侯爵は今朝、陛下に先手を打ってきた。一家全体が今、生き残りのための手を次々打っている)


(でも、急かせば塵は散りますわよ。塵を集めるには、静かに、丁寧に)


「モモについては、今日はまだ動きませんわよ」


「はい」


「ただ、一点だけ」


「何でしょう」


「南区の宿で昨夜モモと会った女性、霧の可能性がある人物ですわよ。……モモは霧を使っているのか、それとも霧にモモが使われているのか。そこだけ、今日中に考えておいてくださいな」


 シリルが少し沈黙した。歩きながら、考えている。


「霧がモモを使っているとすれば、霧の目的はダスト侯爵家の利権拡大ではない。霧にはそれ以上の目的があって、モモはその駒の一つということになります」


「ええ」


「モモがルファスを使い、ルファスが霧と繋がっているとすれば……霧は、モモの上にも、ルファスの上にも立つ存在ということになりますわ」


「それとも」


「それとも?」


「霧は、そのどれとも等価な関係にあって、ただ情報だけを集めている。どちら側にも与しない。……ゴミ収集ではなく、ゴミの記録者とでも言うべき存在か」


(ゴミの記録者。……それは、私に似た立場ですわよ。ただし目的が違う。私は記録して処分する。霧は記録して……何をするのかしら)


「そこが、まだ分かりませんわよね」


「はい。……今日のところは、その問いを持ち越します」


「賢明ですわよ」


* * *


 屋敷に戻ったのは、夕方の四時を過ぎた頃だった。


 玄関を入ると、シリルが一通の封書を手に持って待っていた。正確には、もう一人のシリルが、というべきか。屋敷に残っていたシリルが、私たちが古書店から帰るよりも少し前に届いたものとして差し出してきた。


「王城の秘書室からです」


 受け取る。封を切る。


 陛下の筆跡ではない。秘書官の筆跡だ。


 短い文面を読む。


 私は読み終えて、封書を机に置いた。


「シリル、シュラッセが今日の午後の取り調べの中で、一点だけ自発的に言及したとのことですわよ」


「内容は?」


「ダスト侯爵家ではなく」


 私は少し間を置いた。


「霧、ですわよ」


 書斎に静かな時間が流れた。


「シュラッセが、霧について自発的に」


「ええ。……ただし、詳細はまだ届いていません。一点だけ言及した、という速報です。陛下が改めて詳細をお送りくださるとのことですわ」


(シュラッセが霧に言及した。……これは交渉の一手ですわよ。ガルベスやクロフトとの資金の繋がりは全部話した。次の段階として、ドレインの指示系統の頂点か、あるいは霧という第三勢力の存在を切り出すことで、自分の持ち駒の価値を示している)


(シュラッセは、霧のことを知っていた。そして、霧がドレインとは別の存在であることも知っていた。だからこそ、これを最後の交渉材料として手元に持っていた)


「霧が今日、表に出てきましたのね」


「二方向から」


「ええ。Sを通じた情報と、シュラッセの口から。……偶然ではありませんわよ」


(霧が、自分から姿を見せ始めている。追いかけなくても、霧が降りてきた。……今日は、晴れた日だったかもしれませんわよ。霧というのは、晴れた日にこそよく見えますもの)


「シリル、今夜は早めに陛下への報告書を仕上げますわよ。今日分かったことを全部まとめて。……セドゥン商会の件、ルファスの件、Sからの情報、そしてシュラッセの霧への言及。四十七番から追加の番号で整理してくださいな」


「かしこまりました。……ただ、お嬢様、一つだけ」


「何かしら」


 シリルがわずかに間を置いた。


「今日は朝からほとんど食べていらっしゃいませんよ」


 私は少し目を瞬かせた。


(言われてみれば、そうですわよ。謁見の前に少し食べた程度で、昼は書類の整理をしていたから手が離せなくて)


「書類の整理が終わったら、何か用意しますわよ」


「今夜は私が用意いたします。お嬢様は手を動かすことを考えなくてよろしいかと」


「……珍しいですわよ、シリルが申し出るのは」


「珍しくはありません。ただ、申し出るまでもない状況が続いていなかっただけです」


(この人は、本当に一歩先を読んで動いていますわよ。今日一日、ずっと書類と情報処理を続けて、食事を抜いていることに気づいていた。申し出るタイミングを計っていた)


「ありがとうございますわよ、シリル」


「恐れ入ります」


* * *


 報告書の整理が終わったのは、夜の八時頃だった。


 今日分かったことを全部まとめると、四十七番から五十一番まで五点になった。


 セドゥン商会の件(四十七番)。ルファスという人物(四十八番)。Sからの霧に関する情報(四十九番)。モモの南区での動き(五十番)。シュラッセによる霧への言及(五十一番)。


 五十一点。


 最初の謁見から始まって、ここまで積み上げてきた。ガルベスの不正資金から始まった掃除が、今夜の段階で五十一点の分別済みゴミになっている。


(でも、回収がまだ終わっていないものがある)


 私は窓の外を見た。今夜は星が出ている。


(シュラッセは取り調べの途中。モモは動いている。ルファスは正体不明。セドゥン商会は架空。そして霧が、今日初めて輪郭を見せた)


 右手を見た。


 白い手袋が、今夜も汚れていない。


(正しい掃除は、掃除人自身を汚さない。……シリルはそう言った。でも今夜、少しだけ思うのですわよ)


(汚れていないことと、何も触っていないことは、違うのかしら)


 頭の奥で、その問いがゆっくりと広がっていく。


 打ち消そうとして、止めた。


(打ち消せないなら、きれいに見ておきますわよ。……昨夜もそう思った。今夜も同じことを思っている。これは積み重なっていますわよ)


 扇子を手に取って、また置いた。


 問いに答えは出なかった。


 でも今夜は、答えを出そうとしなかった。ただ、そこに置いておいた。


* * *


 シリルが書斎のドアを叩いたのは、八時半を少し過ぎた頃だった。


「どうぞ」


 シリルが盆を持って入ってきた。


 盆の上には、小さなティーポットと二客のカップ、それから焼き菓子が二つ。


「シリルの分も?」


「一杯だけ、ご一緒させていただいてもよいですか。……今日は随分と長い一日でしたので」


 私は少し目を細めた。


(シリルがそういうことを言うのは、珍しいですわよ。腹黒くて毒舌で常に笑顔の執事が、一杯ご一緒させてほしいと言う夜というのは、それなりの一日があったということですわよ)


「どうぞ」


 シリルが椅子に座った。カップにお茶を注ぐ。


 茶葉はダージリンだ。今夜のシリルの選択。私が選ぶならアッサムだったが、今夜はこれでいいと思った。


 少し明るくて、少し花のような香りがある。


「どんなお茶にしましたかしら」


「ファーストフラッシュです。……今年の春摘みのものが先日届いていました。少し早いかもしれませんが、今夜には合うかと思いまして」


 一口飲んだ。


(春摘み。……少し青みがあって、でも後に甘さが来る。昨夜のアッサムより軽い。今夜の頭の中の重さとちょうど釣り合いますわよ)


「シリル」


「はい」


「霧について、どう思いますかしら」


 シリルがカップを持ったまま少し考えた。


「霧は、ドレインにとっても謎の存在だった。ドレイン側から見ても正体が分からない。……私が思うに、霧はドレインの生んだゴミではなく、ゴミを見ている者ですわ」


「ゴミを見ている者」


「はい。……ゴミの分布を把握して、ゴミの動きを記録している。でも自分ではゴミを生まない。処分もしない。……ただ、見ている」


(見ている。……私と何が違うのかしら。私も見て、記録して、処分する。霧は処分しない、ということかしら)


「でも今日、霧は私に名前を届けてきましたわよ。ただ見ているだけの存在なら、わざわざ接触しようとしないはずですわ」


「そうですね」


 シリルが少し間を置いた。


「霧は、今まで見るだけだった。でも何かが変わった。……お嬢様が動き始めたことで、霧の中で何かが変わったのかもしれません」


「私が動き始めたことで?」


「ゴミの山が、今まで誰も動かそうとしなかった。でもお嬢様が動かし始めた。……霧は、それを見ていた。そして、接触する理由が生まれた」


(ゴミの山を動かす人間が現れた。だから霧が動いた。……霧は私を、自分と近い存在だと思っているのかしら。あるいは、私を利用しようとしているのか)


「今夜は、そこまで考えますわよ。答えは出ませんけれど」


「はい。……明日、陛下からシュラッセの詳細が届いてから、また考えましょう」


「ええ」


 焼き菓子を一つ手に取った。


 薄くレモンが効いたショートブレッドだった。


 さくりと崩れる。


(おいしいですわよ。……今夜は、これくらいで十分ですわ)


「シリル、一つだけ聞いてもよいかしら」


「はい」


「あなたは、私が今やっていることが、正しい掃除だと思いますか」


 シリルがカップを机に置いた。


 少しだけ、笑顔が消えた。珍しい表情だ。


「正しいかどうかは」


「ええ」


「……正しい掃除と正しくない掃除の差は、残るものが何かで決まると思っています。燃やした後に何が残るか。拘束した後に何が変わるか。……今のところ、お嬢様のやり方は、残るものが増えているように見えますわ。完全になくなるだけでなく、記録が残って、証拠が残って、生き残った人間が残って」


(残るものが増えている。……ポイッツェン伯爵を焼却した時は、灰だけが残った。でも今は、記録が五十一点残っている。生き残った人間がいる。自首してきたムーアがいる。カスミ弁護士がいる。ムーアが生死を案じたスラッジ書記官が生きている)


「それが、正しいかどうか、私には判断できません。でも、以前よりは複雑になっていますわ」


「複雑」


「はい。……単純に焼けば終わりだった頃より、今の方が、お嬢様の手を汚しにくい構造になっていると思います」


 私はショートブレッドの残りを食べながら、その言葉を考えた。


(手を汚しにくい構造。……シリルは私の内側の問いを知らないで、それを言っている。知らないで、でも答えに近いことを言っている)


「ありがとうございますわよ、シリル」


「お役に立てたなら幸いです」


 シリルがカップを持ち上げた。


「お嬢様、今夜は早めにお休みになってください」


「そうしますわよ。……明日の陛下からの詳細が届いてからが、また動き始める頃ですもの」


「はい。今夜は、今日分別したゴミを一晩置いておきましょう」


(ゴミを一晩置いておく。……乾かすか、においを確認するか。明日の朝、また考えますわよ)


 カップの中のダージリンが、少し冷めていた。


 最後の一口を飲んだ。


 春摘みの、青みのある甘さが、口の中で広がった。


(今夜は、これでおしまいにしますわよ)


* * *


 シリルが盆を持って出ていく直前に、一度振り返った。


「お嬢様、一つだけよろしいですか」


「何かしら」


「先ほどの問いの答えの続きです」


「ええ」


「霧が何者であれ」


 シリルが、今夜一番の穏やかな笑顔を作った。毒の入っていない、珍しい笑顔だ。


「お嬢様がお嬢様であり続けるかぎり、この屋敷のゴミは適切に分別されますわ。それだけは確信しています」


 扉が、静かに閉まった。


 書斎に一人残って、私は窓の外の星を少しの間見た。


(確信、ですって。……ずいぶんとまた、腹黒い言い方をしてくれましたわよ)


(でも)


 少しだけ、表情が緩んだ。


(悪くはありませんわよ)


 星が、王都の夜空の中に、変わらず静かに光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ