第20話:たたんで、しまっておく
国内の大掃除が終わりに近づく頃、屋敷が妙に静かになる。
これは経験上、知っていることだ。
外敵が消え、動線が整理され、情報が整然と箱に収まっていく。すると、あとに残るのは「まだ片付いていない自分の部屋」だけになる。
私は書斎の椅子に座って、窓の外の朝を見ていた。
秋も深くなってきた。木の葉が半分ほど落ちて、見通しがよくなった庭に、朝の光が斜めに入ってくる。
(シュラッセの取調べは、今日で三日目ですわよ。ガルベスの供述との照合が進んでいると、昨日のフロード補佐官からの書状にあった。……「D」の空白が埋まるのは、今日か明日かもしれない)
扇子を手の中で回した。開かなかった。
今朝は、特にやることがない。
シリルがフォル・ネビュラへの旅程の下調べを進めている。リタが屋敷の東側の監視を続けている。眼鏡の女性は昨日も一昨日も来ていないが、監視をやめる理由にはならない。
私は机の上の小さな文箱を開けた。
中に、折り畳んだ紙が何枚かある。
一番上のものを取り出した。
ナジュミ・カスミ弁護士の手紙だ。屋敷を去る前に残していったもので、本文は短い。
*——水路を末端から辿る、という発想は、証拠収集の理論に近い。あなたのおそうじの方法は、私が知っていたどの法廷技術とも違います。いつかまた、機会があれば。*
もう一度読んで、丁寧に折り戻した。
(「機会があれば」。……フォル・ネビュラで、その機会を作るつもりですわよ。ただし今は、まだ国内に残務がある)
残務の整理というのは、掃除の最終段階だ。床を磨いて、窓を拭いて、最後に雑巾を洗って、きちんと干す。それまでが、一回の大掃除の仕事だ。
私はカスミ弁護士の手紙を文箱に戻した。
「お嬢様」
ノックとともに、シリルが入ってきた。
「フロード補佐官からの急書です」
受け取って開く。
字が、普段より少し乱れている。急いで書いたのだろう。
*——シュラッセの取調べにて、本日午前、「D」に相当する人物について新たな供述が得られました。詳細は面談にてお伝えしたい。本日の午後、いつものところで。——F*
私は書状を机の上に置いた。
「「D」ですわよ」
「ついに、ですか」
「午後にフロードと話します」
シリルの顔が、わずかに変わった。腹黒の笑みではなく、純粋に計算している顔だ。
「「D」が判明したとすれば、今日は水路図の最後の空白が埋まることになります」
「ええ」
「お気持ちは?」
私は少し考えた。
(お気持ち? 達成感、かしら。それとも、「次の汚れが見えてくる予感」かしら。……正直に言えば、どちらでもありませんわよ。むしろ今は、この書斎の静けさと、ちゃんと向き合いたい気分ですわ)
「たたむ前に、少し風を通したい気分ですわよ」
「風、ですか」
「大掃除が終わったら、掃除道具をしまう前に、天日干しをしますわよ。湿ったまましまうと、次に使う時に匂いがつきますもの」
シリルが少し目を細めた。
「今がその、天日干しの時間だということですか」
「ええ。……午前中は、そういう時間にしますわよ」
* * *
午前の半ば、私は珍しく庭に出た。
屋敷の東庭は、この季節になると手入れを縮小する。夏の間は薔薇が賑やかだったが、今は剪定が終わって、幹だけが整然と並んでいる。
石畳の小道を、ゆっくり歩いた。
リタが三歩後ろを歩いている。音がしないが、いる。チャキッという金具の音が、風の中に一度だけ混じった。
(東側の監視は、今日もリタが担っているのですわね。庭を歩くついでに、外周を確認してくれているのかもしれない)
石畳の端に、落ちた木の葉が溜まっていた。
私は立ち止まって、それを見た。
塵一つ残さず掃き清めるべきか、という考えが、いつもなら自然に出てくる。でも今朝は、その考えが少し遅れた。
(木の葉は、木が落としたものですわよ。木が汚れているわけではない。……これは、ゴミではなく、自然の流れですわ)
葉を踏まずに、その横を通った。
庭の奥、石造りの低い壁のそばに、ベンチがある。
座った。
秋の日差しが、斜めに当たる。温かくはないが、冷たくもない。ちょうど、何も感じない温度だ。
右手を膝の上に置いた。
白い手袋。
今日も汚れていない。
ただ、三秒ほど、その白さを見た。
(シュラッセの疲れた目が、まだときどき思い出されますわよ。……あれは、自覚のない汚れの目でしたわ。でも、自覚がないから悪くない、ということにはならない)
(では、自覚があったら? 私は自覚していますわよ。自分が何をしているかを。それが、免じることになりますかしら)
答えは、やはり出なかった。
代わりに、別のことを考えた。
(フォル・ネビュラへ行ったら、霧の中に入ることになりますわよ。霧の中では、証拠も動線も見えにくくなる。カスミ弁護士が言っていましたわ。霧があると、音が遠くまで届く、と。……目が利かなくなる代わりに、耳が研ぎ澄まされるということかもしれない)
右手の手袋を、左手の指先でそっと触れた。
触れたことに気づいた。でも、今朝は離さなかった。
少しの間、そのままでいた。
風が来て、落ち葉が石畳を転がった。
リタが後ろで、かすかに動く気配。葉が一枚、足元を通り過ぎた。チャキッとは鳴らなかった。ただ見ている。
(リタは今、私を守っているのか、私が何かをするのを待っているのか。……どちらでもなくて、ただいるだけかもしれませんわよ)
私は右手を、膝の上に戻した。
立ち上がった。
「戻りますわよ、リタ」
リタが頷いた。
石畳の落ち葉を、行きと同じように、踏まずに通った。
* * *
午後、フロード補佐官との面談は、いつもの書店の奥の小部屋ではなく、王城の外れにある小さな待合室で行われた。
フロード補佐官は、着いた時から少し疲れた顔をしていた。書状の字が乱れていたのは、内容のせいだけではなかったようだ。
「ヴィクトリア嬢、今日は直接お伝えした方がよいと判断しました」
「何があったかしら」
「シュラッセが、本日午前の聴取で、初めて「D」についての供述をしました。……自分から話し始めた、という部分が、少し特殊でして」
「自分から?」
「はい。こちらから「D」に関する質問を始める前に、シュラッセが手を上げて。「ドレインの頂点について話す」と言ったのです」
私はシリルと目を合わせた。
(自分から話し始めた。……シュラッセが、自発的に頂点の情報を出した。なぜ今日のタイミングで?)
「続けてください」
「シュラッセが名指しした「D」の人物は、……「ダスト侯爵」です」
待合室に、静かな空気が落ちた。
(ダスト侯爵。……モモ・ダストの父上ですわよ。傍系事業を通じた送金がL勘定にあったことは把握していた。でも、ダスト侯爵自身がドレインの頂点だったとは)
「シュラッセの供述の内容は、どの程度信頼できますか」
「そこが問題です」
フロード補佐官が、小さく首を振った。
「シュラッセの供述は、確かに具体的です。ダスト侯爵とシュラッセの直接の接触は、過去三年で十一回。場所と日付の記録も出ています。……ただし」
「ただし」
「シュラッセが、なぜ今日この情報を出したか。……もし、誰かがシュラッセに「この情報を出せ」と指示したとすれば、どうですか」
私は扇子を手に持った。
(シュラッセが誰かの指示で、ダスト侯爵を「D」として名指しした。つまり、ダスト侯爵を生け贄にして、本当の「D」が隠れようとしている可能性がある)
「本当の頂点は、別にいる可能性がある、ということですわね」
「はい。……私は、この供述を喜べませんでした。整いすぎているのです。シュラッセが自発的に、具体的な日付と場所を添えて、ダスト侯爵を名指しした。……証拠収集の観点から、これは美しすぎる供述です」
(美しすぎる供述。……カスミ弁護士なら、法廷でこれを見た時に何と言うでしょうね。「証拠は美しすぎると、疑わしい」と言うかもしれませんわよ)
「フロード補佐官、シュラッセの聴取は何名で行いましたか」
「三名です。取調官が二名と、記録係一名。……あ」
フロード補佐官が少し表情を固めた。
「記録係の人間について、確認しましたか」
「……今日の記録係は、普段とは別の人間を手配しました。取調に動員できる人員が限られていたため」
「その人間の素性を、今すぐ確認してくださいな」
「急いで確認します」
(取調室に入った人間を通じて、シュラッセに「今日この情報を出せ」という指示が伝わった可能性。……あるいは、記録係を通じて供述内容が取調の外に漏れた可能性。どちらもあり得ますわよ)
「もう一点確認させてください。シュラッセが名指したダスト侯爵について、今の段階でどんな対処が想定されていますか」
「陛下には本日中に報告します。ただし、侯爵位を持つ高位貴族への動きは、慎重に進める必要があります。……証拠の積み上げが必要です」
「どの程度積み上がれば」
「シュラッセの供述だけでは、動けません。傍系事業からの送金記録と、接触の日付・場所の独立した裏付けが必要です。……それが取れるまでは、監視は続けますが、公式には動けない」
(ダスト侯爵への動きが取れない間、モモ・ダストは王子の周辺で今日も塵を積もらせていますわよ。……急かすべきではない。でも、このままでは塵が詰まりを起こすかもしれない)
「分かりましたわよ。……フロード補佐官、一つお願いがありますわ」
「何でしょうか」
「シュラッセの今日の供述を、一旦内部に留めていただきたいのですわよ。陛下への報告はしてください。でも、その先への動きは、もう少しだけ待ってくださいな」
「理由を、お聞きできますか」
「供述が美しすぎる、とあなたがおっしゃいましたわよ。……私も同感ですわ。美しすぎる供述には、出てきた意図があるはずですわよ。その意図が何かを少し見てから動いた方が、掃除が丁寧になりますわ」
フロード補佐官が少し間を置いた。
「……承知しました。陛下への報告は本日行いますが、具体的な動きについては一週間、状況を見ます」
「ありがとうございますわよ」
* * *
「シリル」
待合室を出て、廊下を歩きながら私は言った。
「はい」
「シュラッセが今日、自発的にダスト侯爵の名前を出した。……この情報を、誰かが欲しがっている理由は何だと思いますか」
「二つの可能性があります」
シリルが少し歩調を落とした。私と並ぶ形になった。
「一つは、ダスト侯爵が本当に「D」であり、シュラッセがそれを出すことで取調げへの協力姿勢を示している場合です。この場合、シュラッセは自分の処分軽減を狙っている」
「もう一つは?」
「ダスト侯爵が「D」ではなく、本当の「D」がシュラッセを通じてダスト侯爵を矢面に立たせようとしている場合です。……この場合、本当の「D」はダスト侯爵を「燃え殻」として使っています」
(燃え殻。……一度使って中身を出し切ったゴミを、次のゴミの隠れ蓑に使うということですわよ。ガルベスもクロフトもシュラッセも処理されて、本当の頂点がまだ隠れている。その頂点が、次の目くらましとしてダスト侯爵を差し出した)
「どちらだと思いますわ?」
シリルが少し考えた。
「どちらの可能性も捨てられません。ただし……」
「ただし?」
「シュラッセが自発的に動いたタイミングが、今日である理由が説明できません。ガルベスの供述が進んでいる、クロフトの情報が出ている、ムーアも話している。追い詰められた状態での供述なら、もっと早く出てもよかった。……なぜ今日なのか」
(なぜ今日なのか。……三日間の取調べの中で、今日だけ記録係が交代した。そのタイミングで初めて「D」の情報が出た。これは、偶然ではないかもしれませんわよ)
「記録係が鍵ですわよ」
「そう思います。……フロード補佐官が確認してくださるでしょうが、その人物がどこから来た人間かによって、今日の供述の意味が変わります」
「エステ文官補の線は?」
シリルが少し目を細めた。
「K-4として調査中の人物ですね。……ガルベス子爵の屋敷への往来が確認されている王城の文官補。取調の記録係として入り込む機会はあります」
「確認してくださいな。急いで」
「今すぐ動きます」
シリルが一歩足を速めた。
* * *
屋敷に戻ったのは、夕方の少し前だった。
書斎に入ると、机の上に小さな封書が置いてあった。
ヴィクトリア家の住所だけが書いてあって、差出人はない。
リタが一枚の紙片を差し出した。筆跡はリタ自身のものだ。
*本日午後三時、郵便配達を名乗る男が持参。男の体型・歩き方は昨夜確認済みの屋敷西側の監視者と一致。現在、西側通りに戻っているか追跡中。*
(郵便配達を装った手配。……西側に監視者が来ていたのですわよ。東側は眼鏡の女性、西側には別の人間。屋敷を複数方向から確認していますわね)
「リタ、追跡を続けてくださいな。ただし、接触は不要ですわよ」
リタが頷いた。出ていく。チャキッ。
封書を手に取った。
裏返した。封蝋はない。
開いた。
一枚の紙が入っていた。
書かれているのは、一行だけだ。
*「D を探すな。D は、もう動いている。——霧」*
書斎に、静かな時間が流れた。
(霧。……G-1。クロフトが最後に「霧を探せ」と言い残した、正体不明の第三者が、今度はこちらに手紙を送ってきた)
私は紙を机の上に置いた。
文字を、もう一度読んだ。
(「Dを探すな」。今日の午後、シュラッセの供述でDの名前が出た。そのタイミングで霧から警告が来た。……霧は、今日の取調室の動きを知っている。取調室の外にいて、かつ情報を持っている)
(「Dはもう動いている」。……ダスト侯爵が本当のDかどうかに関わらず、Dと呼ばれる何かが、すでに次の一手を打ち始めているということですわよ)
「シリル」
振り返ったが、シリルはもう先ほどエステ文官補の確認に出ていた。
今日は珍しく、書斎に私一人だ。
手紙を改めて、折り畳んだ。
(霧は、こちらに敵対していない。でも、味方であるとも言えない。……情報だけを渡してくる。なぜ?)
(霧に、何かの目的がある。その目的のために、私が動いていることが都合がいい。だから、情報を渡す。……でも、霧は正体を明かさない。明かすと、目的が果たせなくなるから)
扇子を手に取った。
今日初めて、開いた。
秋の書斎に、静かな風が生まれた。
(霧が何者かは、まだ分からない。でも、霧がこちらに接触してきた意味は分かりますわよ。……「Dは動いている」。これは警告であると同時に、「私もDを追っている」という意思表示ですわよ)
扇子を閉じた。
机の引き出しを開けて、霧の手紙をしまった。
カスミ弁護士の手紙の隣に。
二枚の手紙が、引き出しの中に並んだ。
(たたんで、しまっておく。……今日は、まだ答えが出ない書類ですわよ。でも、しまったからといって、消えるわけではありませんわね)
* * *
シリルが戻ってきたのは、夜に入る直前だった。
「エステ文官補の件、確認しました」
「どうでしたか」
「今日の取調の記録係に、エステ文官補は入っていません。別の人物です」
「別の人物」
「フロード補佐官から回答を得ました。今日の記録係は、財務管理局内の事務補佐で、ガルベス子爵との接点は現時点では確認されていない人物です。……ただ」
「ただ?」
「その人物が王城に籍を置いていたのは、半年前からです。半年前に財務管理局への出向という形で異動してきた。……異動元が、ダスト侯爵家の管理する南部の行政事務所です」
私は扇子を手に持ったまま、少し止まった。
(ダスト侯爵家の管理する行政事務所から、半年前に財務管理局へ異動してきた人間が、今日の取調の記録係に入っていた。……これは、ダスト侯爵がドレインの頂点かどうかに関わらず、ダスト侯爵家とシュラッセの取調室が繋がっていたことを示しているかもしれないですわよ)
「その人物の名前は?」
「ウォルテ・ゼッペ。三十歳の男性で、記録補佐の業務を担当しています」
「今日の供述を、外に出す機会があったかどうか、確認できますか」
「取調室への出入り記録と、昼の休憩時間の動線を確認すれば、ある程度分かります。……フロード補佐官に依頼しましょうか」
「ええ。……ただし、ゼッペを今すぐ拘束する必要はありませんわよ。泳がせておいて、どこへ情報を持っていくかを見る方が、丁寧ですわよ」
「了解しました」
シリルが少し間を置いた。
「それと、もう一点ご報告が」
「何ですか」
「東側を三度通った眼鏡の女性についてですが、今日の夕方、王城の文官棟付近で確認されました。屋敷への偵察とは別に、王城方面を定期的に確認している可能性があります」
(王城方面。……屋敷だけでなく、王城も偵察している。取調の状況を外側から確認しようとしているのかもしれない)
「リタへの追加指示を出しますわよ。眼鏡の女性が王城付近と屋敷をどういう動線で動いているかを記録してください。パターンが分かれば、次に現れる場所と時間が予測できますわよ」
「かしこまりました」
「それから」
私は机の上の紙を取り出した。
霧からの手紙ではなく、今日一日の情報を整理したメモだ。
「水路図を更新しますわよ。今日の動きを整理してから、今夜は早めに休みますわ」
「何かご入用でしたら」
「特に何もいりませんわよ。……ただ、シリル。一つだけ聞かせてくださいな」
「はい」
「フォル・ネビュラへの旅程の段取りは、どのくらい進んでいますか」
シリルが少し笑った。腹黒の笑みでも、計算の笑みでもなく、少し穏やかな顔だ。
「想定旅程が三案あります。一案目は正規の商人団との同行。二案目は王城からの非公式の通行証を使った単独入境。三案目は、漁船組合の定期便を使う方法です。……それぞれに利点と欠点がありますので、お嬢様にご覧いただいてから決定したいと思っておりました」
「明日の午前に聞かせてくださいな」
「かしこまりました」
「ベルト・ライスについては?」
「現地情報の更新が一点ありました。……ライスが最近、フォル・ネビュラの港の荷捌き組合と関わりを持ち始めているという情報が入りました。荷捌き組合は、港の流通の中枢に近い場所にいます。……ドレインが港を拠点にしているとすれば、組合への接触は、ドレインの内側からの働きかけか、外側からの監視か、どちらかの可能性があります」
(どちらかによって、ベルト・ライスの色が変わる。……白か黒か、まだ霧の中ですわよ)
「引き続き、観察を続けてくださいな」
「はい」
シリルが一礼した。
書斎を出る前に、もう一度振り返った。
「お嬢様、今日は庭にいらっしゃいましたね」
「ええ。少しだけ」
「よいことだと思います」
「何がですか」
「庭を歩く時間が、掃除道具の天日干しになるのであれば、それは必要な時間ですわよ。……私も、ときどきは自分の扱っている情報から離れた方がよいと思っているところです」
(シリルが、そういうことを言うのは珍しいですわよ)
「あなたも、天日干しが必要ですの?」
「毒舌も、干さないと切れが悪くなりますので」
「……それは、干さなくていいですわよ」
シリルが笑顔のまま出ていった。
* * *
水路図を広げた。
今日の更新は、三点だ。
一つ目。「D」の欄に、「ダスト侯爵(要確認)」と書いた。名前の後ろに、小さく「美しすぎる供述」と注記を添えた。
二つ目。ウォルテ・ゼッペの名前を、新しい小さな箱に書いた。ダスト侯爵家の行政事務所からの異動、と矢印を引いた。取調室への侵入ルートの可能性、と添えた。
三つ目。霧の手紙の内容を、G-1の欄の横に書き加えた。「D探索への警告。Dはすでに動いている。直接接触を試みた」。
地図を見た。
(随分と複雑になりましたわよ。最初は、ガルベス子爵一本の枝管でしたのに。今は、ダスト侯爵、霧、フォル・ネビュラ、ライス、ゼッペ……新しい枝が生えてくる速さが、枝管を閉じる速さを上回っているかもしれない)
(でも、それが本管の存在を示しているのですわよ。本管が活きていれば、枝管はいつでも増える。……フォル・ネビュラへ行かなければ、本管には辿り着けないかもしれない)
水路図を、丁寧に折り畳んだ。
引き出しに、しまった。
(たたんで、しまっておく。……今夜は、これだけですわよ)
* * *
台所に下りると、シリルがすでにお茶の支度をしていた。
「休むと言いましたのに」
「台所を使っていいかどうかの確認を忘れていましたので、先に確認に来ました。……そのまま支度してしまいましたが、よかったですか」
「規則違反ですわよ」
「エコではありませんでしたね。申し訳ございません」
謝りながら、全く反省していない顔だ。
私は台所の椅子に腰を下ろした。
シリルが今夜用意したのは、小ぶりの茶器と、小さな皿に乗った焼き菓子だった。
「これは何ですか」
「南部の港町から取り寄せた、麦と蜂蜜の焼き菓子です。……フォル・ネビュラには届きませんが、同じ沿岸地帯の産物です。港町では、出港前夜にこの菓子を食べる習慣があるとのことです」
「出港前夜」
「旅立ちの前に、甘いものを食べておくと、霧の中でも方角を忘れないという言い伝えがあるそうです」
(霧の中でも方角を忘れない。……おそらく、シリルが作った言い伝えですわよ。でも、悪くない言葉ですわね)
「お茶は何ですか」
「フォル・ネビュラ産……は昨日カスミ弁護士の夜に使いましたので、今夜は違います。国産の菊花茶です。秋の夜に飲むものとして、少し前に取り寄せておきました」
「よく取り寄せますわよね、あなたは」
「先を読む仕事ですので」
菊花茶を一口飲んだ。
淡い甘みと、かすかな苦みが、舌の上で重なった。花の香りが、後からふわりと来る。
焼き菓子を手に取った。
硬い。でも、かじると麦の香ばしさと、蜂蜜の甘みが、ゆっくりと広がる。噛むほどに、甘みが深くなっていく。
(出港前夜の菓子。……私は今夜、出港するわけではありませんわよ。でも、シリルは「たたんでしまう前に、甘いものを」と思ったのかもしれませんわね)
「シリル」
「はい」
「フォル・ネビュラへは、いつ出発できそうですか」
「国内の最終残務が完了してから、と考えています。……スラッジ書記官の証言記録は今週中に。スラム廃業の倉庫の処理は来週頭に。ゼッペの動線確認は三日ほどを目途に。それらが片付けば、旅程を確定できます」
「早ければ、二週間後ですわよね」
「はい。……少し急ぎますが、可能な工程です」
(二週間後。……第一章の大掃除の後片付けをして、掃除道具を干して、たたんでしまったら、次の掃除場所へ出発する。それが、今の私の仕事の流れですわよ)
「分かりましたわよ。……明日の午前、旅程の三案を見せてくださいな」
「準備しております」
菊花茶をもう一口飲んだ。
台所の窓の外、秋の夜が静かに続いていた。
王都の灯りが、遠くに見える。
(今夜、霧の手紙を受け取った。「Dはもう動いている」。……それが何を意味するか、まだ全部は見えていない。でも、動いているということは、どこかで音がするはずですわよ。カスミ弁護士が言っていましたわ。霧があると、音が遠くまで届く、と)
(フォル・ネビュラへ行けば、霧の中で、音が聞こえるかもしれない)
焼き菓子の最後の一口を、ゆっくり噛んだ。
麦と蜂蜜の甘みが、ゆっくりと消えていった。
(出港前夜の甘み。……悪くありませんわよ)
私はカップを置いた。
「今夜はこれで、おやすみなさいましですわよ」
「おやすみなさいませ、お嬢様。……良い旅立ちの準備になりましたら幸いです」
「規則違反の謝罪は、まだ受け取っていませんわよ」
「改めて、誠に申し訳ございませんでした。また明日も規則違反いたします」
「……本当にそうしそうですわよね、あなたは」
台所の灯りが、二人の影を壁に落とした。
菊花茶の花の香りが、夜の台所に、ゆっくりと溶けていった。




