第84話 月明かりの宿にて
湯から上がり、宿の廊下を歩く。木の床は足裏にひんやりとして心地よい。障子の向こうからは柔らかな明かりが漏れ、虫の声と川のせせらぎが遠くから聞こえてくる。
部屋の襖を開けると、そこには浴衣姿の深雪が静かに座っていた。
肩までの黒髪は湯気を含んで艶やかに光り、頬はまだほんのり紅潮している。彼女は畳に正座し、両手で湯呑を包んでいた。
「……おかえりなさいませ、隆行さん」
深雪の声は、控えめながらも温かかった。
俺が腰を下ろすと、彼女はそっと湯呑を差し出してきた。
「どうぞ。湯上がりには、冷やしたお茶が良いかと思いまして」
「ありがとう。……気が利くね、深雪」
ひと口含むと、ほどよい冷たさと香ばしい香りが広がり、火照った体を落ち着かせてくれる。
彼女は湯呑を胸の前に置いたまま、静かに視線を伏せていた。
「深雪。温泉、楽しめた?」
「ええ……とても。けれど……」
小さくため息をつき、彼女は畳へと視線を落とす。
その声音には、懐かしさと切なさが入り混じっていた。
「こうして誰かと温泉に来るのは、本当に久しぶりなんです。奉龍院にいた頃は、常に上乃介様をお支えすることだけが務めでしたから」
彼女の口から、かつての夫の名が出る。
上乃介。奉龍院の元当主にして、彼女が長らく仕えてきた人物。
「彼を亡くしてからも……私は自分に休むことを許せませんでした。立ち止まったら、自分が崩れてしまう気がして。だから、笑って過ごして、奉龍院を守り続けて……」
深雪はかすかに唇を噛む。
その指先が小刻みに震えているのを見て、俺は茶を置き、彼女の隣へと腰を移した。
「……深雪。もう、一人で背負わなくてもいいんだ。俺がいる」
それは自然と口をついて出た言葉だった。
彼女は驚いたように顔を上げ、瞳を揺らす。
しばしの沈黙の後――深雪はゆっくりと俺の胸に身を預けてきた。浴衣越しに伝わる体温が、確かに震えている。
湯上がりの部屋。浴衣姿の深雪は、火照った頬に涼やかな笑みを浮かべる。
「隆行さん……」
彼女の声は、湯気の余韻を残すように柔らかい。
「私は……隆行さんを上乃介様の代わりにしているつもりはありません。あの方はあの方、私にとってかけがえのない大切な人でした。でも……」
一拍置いて、深雪は俺の手を両手で包み込む。指先が微かに震えている。
「でも……隆行さんに出会って。あなたが迷いなく私を受け入れてくださった時、初めて気づいたんです。私はまだ……人として、女として、生きてもいいのだと」
静かな告白。その響きに、胸の奥が熱くなる。
「この数年……共に過ごし、愛を重ねるたびに、私は確かに救われてきました。
隆行さんに抱きしめられるたび、過去の傷が癒えていき、ただの奉龍院の未亡人ではなく――一人の女として、あなたに必要とされているんだと感じられたんです」
深雪はまっすぐ俺を見つめてくる。その瞳に宿る光は、過去の痛みに押し潰された彼女を立ち上がらせた希望そのものだった。
俺は彼女の手を強く握り返す。
「……ありがとう、深雪。俺にできることは多くないかもしれないけど、これからもずっと、君の傍にいる」
深雪は小さく微笑み、そっと肩を寄せてきた。
「それだけで、私は十分幸せなんです。……隆行さん」
胸の奥が大きく揺さぶられる。
彼女は過去に縛られたままではない。自分の意志で、新しい未来を選ぼうとしている。
俺は静かに彼女の肩を抱き寄せた。
「ありがとう。……そう言ってくれて、本当に嬉しいよ」
深雪の瞳が柔らかく細まり、唇に淡い笑みが浮かぶ。
「隆行さん。私は……やっと、自分の居場所を見つけられたのかもしれません」
その言葉には、長い孤独の果てに辿り着いた安堵の響きがあった。
深雪は、ぽつりぽつりと昔のことを語り出した。
「学生の頃の私は……『西野真理恵』さんのように、周囲から慕われるような存在ではありませんでした。ただ奉龍院の家に嫁ぎ、上乃介様の隣に立つことでしか、自分の価値を示せなかったんです」
彼女の言葉に、俺はかつての姿を想像する。奉龍院の名にふさわしい淑女として、常に完璧を求められる日々。
「夫を亡くした時……奉龍院を守る責任を負った時……私の人生は、終わったようなものでした」
深雪は目を伏せる。
その肩はわずかに震え、しかし泣くことはなかった。泣くことすら自分に許さなかったのだろう。
「でも……隆行さんに出会って。あなたが迷いなく私を受け入れてくださった時、初めて気づいたんです。私はまだ……人として、女として、生きてもいいのだと」
その告白に、胸の奥が熱くなる。
「この数年……共に過ごし、愛を重ねるたびに、私は確かに救われてきました。
隆行さんに抱きしめられるたび、過去の傷が癒えていき、ただの奉龍院の未亡人ではなく――一人の女として、あなたに必要とされているんだと感じられたんです」
俺は深雪の手を取り、その温もりを確かめた。
彼女の指は細く、冷たさと温かさが入り混じっている。
「深雪。これからは、俺と一緒に歩もう」
「……はい。隆行さん」
彼女は静かに微笑み、肩を預ける。
窓の外では風が木々を揺らし、虫の声が夜の帳に溶けていく。
温泉宿の一室。
誰にも邪魔されない時間の中で、俺たちはただ互いの存在を確かめ合った。
過去に縛られてきた彼女が、今こうして未来を語ってくれる。
その事実が何よりも嬉しかった。




