第83話 湯けむりの夜に
湯上がりの夜。
俺は、山奥にひっそりと佇む奉龍院所有の温泉宿の廊下を歩いていた。
障子越しに灯る橙色の光と、どこか懐かしい畳の匂い。人里離れた秘湯で、政財界の重鎮すらもこっそり訪れる特別な場所――そんな施設を、今回は丸ごと貸し切りだ。桜子が手配したものだが、さすがは奉龍院。スケールが常識外れすぎる。
浴衣姿でふらりと歩いていると、角を曲がった先で誰かと出くわした。
「隆行さん」
声の主は紗綾だった。
頬をほんのり染め、まだ湯気の残る髪をタオルで押さえながらこちらを見つめている。
「紗綾。随分顔が赤いな」
「お湯が少し熱かったせいかもしれません。でも……きっとそれだけじゃなくて」
紗綾は小さく笑い、視線を落とす。俺は彼女に歩み寄り、タオルを受け取って軽く髪を拭ってやった。
濡れた髪の水滴が落ちないようにそっと指先で拭き取ると、紗綾は肩をすくめる。
「ん……篠宮さんに髪を拭いてもらえるなんて、なんだか不思議です」
「不思議って?」
「こうしていると、まるで……夫婦みたいです」
真っ直ぐな言葉に、俺は少し面食らった。
「それは……いい意味で言ってるんだよな?」
「もちろんです」
紗綾はまっすぐな目で俺を見上げる。
「私はずっと、あなたと並んで歩いていたいんですから」
その視線に、胸の奥がじんわり熱くなる。温泉の余熱ではなく、彼女の想いが俺を温めているのだと分かっていた。
やがて二人で囲炉裏端に戻ると、深雪が待っていた。
「おかえりなさい。どうぞ」
彼女は冷たい焙じ茶を差し出してきた。
「ありがとう、深雪」
一口含むと、香ばしい香りと優しい甘みが口に広がる。
「やっぱり君は気が利くな」
深雪は微笑んだが、すぐに視線を伏せる。
「……私は表に立つような存在じゃありません。支えるのが役目で、それで十分なんです」
「そう思うのか?」
「ええ。桜子や紗綾のように華やかな人が前に立つべきです。私は影で構いません」
俺は湯呑みを置き、真剣に言った。
「でもな、俺からすれば誰が前で誰が後ろとか関係ない。深雪がいてくれるから、俺は安心して前に立てるんだ」
その言葉に、深雪の瞳が揺れる。
「……ずるいですね。そんな風に言われたら……ますます、離れられなくなります」
ほんのり紅潮した頬を見て、俺は微笑むしかなかった。
廊下から賑やかな声が響く。
「たかゆきサーン! ミルフィ、もっかい一緒に温泉入りたいデース!」
駆け込んできたのは、金髪ロングをタオルでまとめた褐色美女――ミルフィミー・アーガス。
すでに頬は真っ赤で、手には徳利が握られている。
「おい、飲みすぎだぞ」
「ノープロブレム! むしろ酔って甘えたいデース!」
彼女は俺に抱きつき、そのままハグをせがんでくる。
「たかゆきサーン! ミルフィを褒める! ハグする! チューチューする!」
「おいおい……」
周囲の皆が呆れる中、俺は仕方なく彼女の頭を軽く撫でた。
「はいはい。よく頑張ったな、ミルフィ」
「イエースッ! ミルフィ幸せデース!」
「問題無い。フィルはもう寝る」
今度はフィルが無言でやってきて、当然のように俺の膝に頭を乗せてきた。
「……膝、貸す」
「おい、勝手に枕にするな」
「のんびりするのがフィルの仕事」
相変わらずのマイペースだ。けれど、その安らかな寝顔を見ていると、俺もつい笑ってしまう。
「おじ様、おじ様っ!」
桜子が駆け寄ってきて、両手を広げた。
「明日の朝湯も一緒に入りましょう! 奉龍院特製の牛乳もご用意いたしましたわ!」
「桜子ちゃん、もう少し落ち着こうか」
「だって、これはおじ様のための旅行なんですもの! 奉龍院総出でおもてなししておりますのよ!」
声を弾ませる姿に、俺は思わず笑ってしまう。
そこへ、七菜香がタオルを頭にかぶったまま顔を出す。
「……おじさん、今日、すっごく楽しかったんだぞ!」
「そうか。それは良かった」
「七菜香、もっともっと一緒にいたいんだぞ!」
「そうだな。これからも、ずっと一緒に過ごそうな」
屈託のない笑顔に、俺の心も和んでいく。
夜が更けていく。
縁側に腰を下ろすと、次々と恋人たちが並んで座ってきた。
紗綾は俺の肩に頭を預け、深雪は控えめに隣で正座。
桜子は堂々と膝に寄り掛かり、フィルは膝枕を確保。
ミルフィは背後から羽交い締めのように抱きつき、双子は「わたしたちもー!」と両袖にぶら下がる。
七菜香は小さく「おじさんの隣は七菜香なんだぞ」と言って、頬を膨らませながら隙間に入り込んできた。
まるで、誰も俺を独り占めしたがっているみたいに。
月明かりが差し込む縁側で、俺は胸の奥から実感する。
――ああ、本当に俺は幸せ者だ。
その夜、温泉宿は笑い声と湯けむりに包まれていた。
そして俺の心は、これ以上なく満たされていたのだった。
◇◇◇
夜更け。
温泉宿の奥、誰も使っていない露天風呂に足を運んだ。
湯けむりが月明かりに照らされ、幻想的に揺らめいている。岩肌を伝う湯音だけが響き、静寂に包まれた空間はまるで別世界のようだった。
「……やっぱり来ていたんですね」
背後から、控えめな声が届いた。振り向けば、浴衣を脱ぎかけの紗綾が、タオルで体を覆いながらこちらに歩み寄ってくる。
「紗綾……」
「少しだけ、お邪魔してもいいですか?」
「もちろん」
そう言うと彼女は照れくさそうに微笑み、湯船へと足を踏み入れる。お湯が静かに揺れ、二人の間に柔らかな距離が生まれた。
「ふぅ……あたたかいですね」
紗綾は肩まで浸かり、ほっと息を吐いた。頬はほんのり桜色に染まり、濡れた髪がうなじに張り付いている。
「最近は忙しかったからな。紗綾も疲れてただろう」
「ええ……でも、隆行さんが隣にいてくれるだけで、私は頑張れるんです」
視線を合わせると、彼女はふっと笑みを浮かべ、寄り添うように少しだけ体を傾けてきた。肩と肩が触れ合い、温泉の熱よりもずっと熱い鼓動を感じる。
「……ねえ、覚えていますか? 最初に秘書としてあなたを支えると決めた日のこと」
「もちろんだ。あの時の真剣な眼差し、今でも忘れてないよ」
「私、あの日から決めていたんです。たとえどんな未来になっても、絶対にあなたの隣にいるって」
彼女の言葉は真摯で、胸に響いた。
気がつけば俺は、自然と紗綾の手を取っていた。湯の中で指先が触れ合い、絡み合う。
「隆行さん」
名前を呼ばれる声が、夜気に溶ける。
「私にとって……あなたは、ただの恋人やパートナーじゃありません。生涯をかけて、支えたい人です」
その強い眼差しに、俺は心から答えを返す。
「……ありがとう、紗綾。お前がいてくれるから、俺は前に進めるんだ」
肩を抱き寄せると、彼女は小さく身を震わせ、でも拒むことなく俺に体を預けてきた。湯気の中で、互いの温もりだけが確かな現実として存在している。
月明かりが白く照らす湯面。
その下で、俺達は静かに寄り添い、未来を誓うようにしばらく言葉を交わした。
「……隆行さん、こうして二人きりで温泉に入るなんて、夢みたいです」
「夢じゃないさ。これからだって、何度でも一緒に来よう」
「はい……約束です」
彼女の笑顔を見て、俺も自然と笑みがこぼれる。
その夜の混浴は、誰にも邪魔されない、俺と紗綾だけの大切な時間となった。




