第70話 桜子の告白と提案
「この身、おじ様に捧げます。どうか受け止めてくださいまし」
「篠宮さん、私も……同じ想いです」
桜子と沙織。二人は頬を染め、俺の胸にそっと身を寄せてきた。
龍神騒動から数ヶ月。春の桜が再び舞う頃、二人はもうすぐ高校三年生になる。
「……二人とも、本当に大人になったね」
桜子が顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「いえ。私たちはまだ未熟です。でも、だからこそ支えて欲しいんです」
沙織もまた、控えめに頷きながら続ける。
「私も、篠宮さんの隣で強くなりたい。だから……」
胸の奥が熱くなった。奉龍院で結ばれた“スピリットリンク”。あの瞬間から、俺と二人は確かに運命の糸で繋がっていた。
「大切にするよ。二人とも」
俺は彼女たちを優しく抱き寄せた。窓の外を舞う桜色の花びらが、部屋の中まで忍び込んでくる。まるで祝福のように。
「篠宮さん……こうして抱きしめてもらうと、不思議と安心します」
沙織の声が、かすかに震えていた。
「私も……胸の奥まで温かくなって……涙が出そうです」
桜子の小さな肩を抱き、頭を撫でる。触れ合うだけで、心が直接伝わってくる。
「沙織ちゃんは、もっと自分に自信を持っていいんだよ」
「……はい。篠宮さんにそう言ってもらえると、強くなれる気がします」
「桜子ちゃんも、ずっと一人で背負ってきたものがあったね」
桜子は静かに目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げた。
「……ええ。でも、今は違います。おじ様がいる。沙織ちゃんもいる。だから私は、もう一人ではありません」
その笑顔には、もう以前のような影はなかった。
「ねえ、おじ様」
「篠宮さん」
二人の声が重なる。見上げてくる瞳は、不安も迷いもなく、ただ純粋な信頼と愛情に満ちていた。
「「ずっと一緒にいてください」」
同じ言葉が、ぴたりと重なった。
俺は笑みを浮かべ、力強く頷く。
「もちろんだ。俺も、君たちと一緒に生きていきたい」
三人は抱き合った。
ただそれだけのことなのに、胸の奥から溢れる温もりは、この上ない幸福だった。
◇◇◇
数日後。奉龍院を再訪した俺たちは、桜子の新しい一歩を見守っていた。
「この度は……いろいろと迷惑をかけてしまいました」
桜子が静かに頭を下げた。
「いいんだよ。やり直せるなら、何度だってやり直せばいい」
「……おじ様は、本当に……優しい方ですね」
その顔には、もう悲壮な色はなく、未来への淡い光が宿っていた。
「桜子ちゃん、笑って」
「……はい。これからは、この笑顔を大切にして生きていきます」
隣で沙織が柔らかく微笑む。
二人の笑顔に囲まれて、俺は強く思った。
――この子たちを、絶対に守り抜こう。
最後の夜、二人は小さな声で囁いた。
「篠宮さん……私、篠宮さんが大好きです」
「おじ様、私も……あなたのことが何より大切です」
俺はそっと彼女たちを抱きしめ返した。
「ありがとう。俺も君たちが大好きだ。これからも、ずっと一緒にいよう」
夜空に満開の桜が散り、静かな月が三人を照らしていた。
◇◇◇
春の名残が漂う午後。奉龍院の離れは、磨かれた床板と白檀の香りが静かに混じり合っていた。
俺の向かいに坐るのは、小柄な当主――奉龍院桜子。黒曜石のような瞳は、年齢に似合わぬ覚悟を湛えている。
「まずは、このたびの一件――龍神の騒擾を鎮めてくださったこと、深く感謝いたしますわ。おじ様」
桜子が一礼する。呼び名に、隣の紗綾が肩を震わせ、深雪が小さく苦笑した。
「こちらこそ。君が戻ってきてくれて、ほっとしてる」
「礼だけでは済みませんの。――提案がございます」
扇を畳み、桜子はまっすぐに俺を見据えた。
「奉龍院を、あなたに委ねたいのです」
空気が一瞬、止まる。
深雪の視線が静かにこちらへ流れ、紗綾が小さく息を呑んだ。
「待って。言葉の通りに受け取っていいの?」
深雪の声が低く響く。
「ええ。腐れた龍神の影響を断ち切った今、わたくし達には新しい守護と秩序が要ります。その中心に――おじ様がふさわしい」
桜子はわずかに頬を染めながらも、声は揺るがない。
「人ひとりの膝に帝国を載せるのは、重すぎる荷だよ」
俺は穏やかに返す。
「君の努力でここまで維持してきたのに」
「維持では足りませんの。変革が要る。けれど、わたくしひとりでは、きっとどこかで独善になる。……だから手を取りたいのです」
言葉の切実さに、俺は湯呑に口をつけ、少し間を取った。焙じ茶の香ばしい熱が舌を撫でる。
「仮に受けるとしても、“明け渡し”は違う。奉龍院の矜持も歴史も、君の手腕も、消してはならない。――対等に組むべきだ」
「対等……?」
「水無月と奉龍院、互いの強みを持ち寄って合併する。表向きは共同運営。実務のトップは俺が担う。ただし、意思決定は両輪で回す。君と俺で、だ」
桜子の睫毛がわずかに震え、深雪が満足げに目を細める。紗綾は安堵の微笑みで、俺の袖をそっと摘まんだ。
「……面白い」
桜子が小さく呟いた。
「責任も栄誉も、分かち合う。君は君の居場所を手放さなくていい」
短い沈黙。庭の新緑を渡る風が、簾を小さく鳴らす。
「条件がございます」
桜子が静かに続けた。
「まず、旧来のしがらみは切る。わたくしが責任を持って浄化します。次に、人事は“信頼に足る者”のみ。……あなたの“感応”で見極めて」
神力による人心の見極め。重いが、避けられない。
「私からも条件を」
深雪が身を乗り出す。
「合併の法務・資本政策は私が全面監修します。株主の説得とガバナンス設計は、時間がかかる。拙速は禁物」
「現場は私が回します」
紗綾がメモを走らせながら言った。
「社内の不安を潰して、移行計画を作る。現場の声、全部拾って社長に届けるから」
“社長”という言葉に、俺は思わず苦笑した。
「――決めましょう」
桜子が小さな掌を差し出す。
「水無月と奉龍院は、対等に手を組む。新しい守りと、前に進む力のために」
俺はその手を取った。驚くほど温かい。
「約束しよう。誰ひとり置いていかない。君の誇りも、仲間の未来も」
桜子はわずかに目を潤ませながらも、微笑は凛としていた。
「おじ様――いえ、隆行さん。これより、どうぞよろしく」
「こちらこそ。桜子、頼りにしてる」
脇から深雪が咳払いをする。
「では実務です。合併準備室を立ち上げます。法務・財務・人事・広報――各ユニットの責任者候補を今週中に提示。桜子様側のキーパーソン、開示を」
「すぐに名簿を出しますわ。古参の一部は“説得”が必要。蓮井に段取りさせます」
「社内説明のロードマップ、作ります。来週は管理職向けタウンホール、再来週に全社集会。噂の先回りが要です」
流れが一気に現実の速度を帯びる。
俺は掌を軽く打ち合わせ、席を立った。
「動こう。これは“誰かの帝国”じゃなく、“みんなの未来”の話だ」
障子の向こうで陽が傾き、庭石の影が長く伸びている。
これから山ほどの障害が待っている。利害、古い忖度、外からの冷ややかな目。
それでも――手は、もう離さない。
支配ではなく、伴走を。独善ではなく、合奏を。
新しい季節が、本当に始まる。




