第71話 合併準備室、始動
桜子との握手から三日後。
水無月本社の大会議室は、まだ段ボールと書類の山が積み上がる“臨時合併準備室”と化していた。
深雪がホワイトボードに大きく筆を走らせる。
「ここからが本番ね」
「水無月×奉龍院 合併準備室」
横で紗綾が資料を配り、参加者たちの視線を一気に集めた。
桜子が静かに口を開く。
「まずはキーパーソンの洗い出しから始めましょう。奉龍院側の幹部候補を」
彼女は名簿を指で軽く叩きながら続ける。
「蓮井を筆頭に、財務を任せられる人材を数名。……ただし古参の中には“龍神派”だった者もおります。全ては洗い出す必要がございますわ」
声にはまだ少女の柔らかさが残るが、言葉は当主そのものだ。
俺は配られた名簿に目を落とす。数十名の名前の横に赤いチェックと青い丸。赤は抵抗勢力、青は信頼厚い――だが、その線引きすら不完全だ。
「私が直接、面談します」
宣言すると、桜子の肩からわずかに力が抜けた。
「おじ様の眼にかければ、虚偽はすぐ暴かれるはず。……どうかお願いします」
「任せとけ」
◇◇◇
その日の午後。
準備室に現れたのは、奉龍院古参の会計責任者・江崎。白髪交じりの壮年が、細い目を細めて俺たちを値踏みしている。
「水無月の人間に、我らの帳簿を明け渡せというのか」
低い声に挑発が混じる。
だが俺の神力は、彼の胸奥に揺らぐ光を捉えていた。恐れと迷い。悪意ではない。
「あなたは龍神の呪縛を受けかけた。だが完全には堕ちていなかった」
江崎の目が見開かれる。
「……なぜ、それを」
「俺には分かる。桜子のために働きたいんだろう? だが恐れている。奉龍院が外に飲まれることを」
肩が震え、深雪が静かに言葉を継いだ。
「だからこそ“合併”なのです。奉龍院の誇りを守りながら、新しい経済を動かす。あなたの経験が不可欠です」
「……私が、まだ役に立つのか」
小さな呟きに、桜子がゆっくり歩み寄る。
「ええ。江崎さん。わたくしは、あなたに残ってほしい」
老幹部は沈黙し、やがて深く頭を垂れた。
第一の抵抗は、溶けた。
◇◇◇
準備室が静まり返った後、紗綾が俺の腕を軽く小突く。
「上出来ですよ隆行さん。……でも、これからが大変です」
「だろうな。信じられないくらいの量の仕事が待ってる」
窓の外では、都心のビル群に夕日が沈みかけていた。
なのに、心は不思議と軽い。
「桜子、深雪、紗綾……みんなでやれば、できる」
三人はそれぞれ違う笑みを浮かべた。
準備室の空気は、確かに熱を帯び始めていた。
◇◇◇
熱気が上がってきたのも束の間、最大の関門が立ちはだかる。
――株主総会。
水無月と奉龍院、両家の株主を一堂に集め、正式に合併を承認させる。
これを突破しなければ、手を繋いだ意味すら消える。
深雪が冷徹な声で告げた。
「問題は強硬な反対派株主です」
ホワイトボードに大株主の名が並び、赤いマーカーで幾つかが強調されている。
「古参の財閥系、それから奉龍院の旧家系。龍神の呪縛が抜けても、“外様に権力を渡したくない”と考えている連中が多数います」
「要は、俺が信用ならんってことか」
「そういうことです」
紗綾が困ったように眉を下げた。
「ただ、完全に敵対しているわけじゃありません。数字と実績で納得させられれば……」
深雪が資料を掲げる。
「そこは任せて。経済計画を練るのは私の得意分野ですから」
資産統合シミュレーションがびっしり書き込まれている。
「五年後の利益予測。両者の資産を一本化すれば、現状の倍以上に成長する見込みがあります」
「……これだけの数字を叩きつければ、無視はできまいな」
俺は唸りながらページをめくった。
だが、心の奥底に嫌な気配がわずかに漂う。神力の直感だ。
◇◇◇
数日後。
株主総会の前哨戦、非公式懇談会。高級ホテルの一室に、丸テーブルを囲む。
俺と桜子、深雪、紗綾が並び、株主たちと向き合う。
口火を切ったのは白髪交じりの男――旧財閥の御曹司、芦原。
背筋を反らし、冷笑を浮かべて。
「水無月と奉龍院が合併? 笑わせる」
「血も歴史も違うものを無理に混ぜれば、必ず腐敗する。貴様らのような成り上がりに、奉龍院を任せられるものか」
空気が凍りつく。
桜子の眉がピクリと動いたが、彼女は沈黙を選んだ。
代わりに深雪が静かに立ち上がる。
「芦原様。腐敗の危険を説くのは結構です。しかし、数字をご覧になってからでも遅くはないのでは?」
資料を示し、一つひとつ冷静に説明していく。
成長予測、国際競争力、株主配当の増加――
他の株主たちが徐々にざわめき始めた。
「確かに……数字上は利益が倍増する……」
「株価も安定するな……」
だが芦原は鼻で笑う。
「所詮は机上の空論だ。貴様らが龍神の呪縛を完全に払った保証など、どこにある?」
その瞬間、俺は感じた。
芦原の胸に残る、濁った影。龍神の残滓が、まだ燻っている。
「……保証なら、俺がする」
立ち上がると、視線が一斉に集まる。
「龍神の残滓を感じる。芦原、お前の胸にいまだ潜んでいるだろう」
「な、何を……!」
右手を掲げ、神力を解き放つ。
青白い光が会場を包み、芦原の胸から黒い靄が立ち上った。
目の前で、男の身体を蝕んでいた邪気が掻き消えていく。
「――これが証明だ。俺は龍神に抗い、退けることができる。奉龍院を守れるのは、俺と仲間たちだけだ」
沈黙。
次の瞬間、拍手が沸き起こった。
「す、すごい……」
「これほどの力を持つなら……」
「本当に新しい守護神になれるのでは……」
空気が一変する。
芦原は青ざめて椅子に崩れ落ちた。
◇◇◇
懇談会を終えた帰り道。
桜子が俺の袖をそっと掴む。
「おじ様……ありがとうございます。これで、きっと株主総会も」
「ああ。だが気を抜くな。まだ他にも“影”は潜んでいる」
深雪と紗綾も静かに頷いた。
戦いは始まったばかり。
本当の勝負は、数週間後の株主総会当日――。




