第69話 友情の勝利
「そんなの関係ない!! 私にとって桜子ちゃんは大切なお友達だもんっ!」
闇に縛られ宙に浮く沙織ちゃんの叫びは、石造りの本殿に澄んだ鐘のように響き渡った。震える声なのに、芯がある。怯えも痛みも全部抱えたまま、それでもなお前へ踏み出す声だった。
「私は知ってるッ! 桜子ちゃんは優しくて、頭が良くて、友達思いで……でも不器用で寂しがり屋で、なんでも持ってるのに何にも持ってない。私と同じ、生き方の上手くない、普通の女の子なんだから!!」
黒い霧の中心――桜子の姿を借りた“龍神”が、薄笑いを浮かべる。冷ややかな黄金の瞳がこちらを射抜いた。
「ふふ……友情、か。人の子らしい理想よ。だがその言葉、我が内なる桜子を激しく震わせておるぞ。むせび泣き、己の弱さを恥じ、なお貴様に縋ろうとしている」
「桜子ちゃん!? 聞こえてるのッ!!? お願い、戻ってきて! もとの優しい桜子ちゃんに戻って!」
「無駄だ。貴様は供物となる。心臓は火床に、血は祭具に。絶望に沈む桜子の涙で我は完全に顕現する」
龍神の袖がふわりと揺れた瞬間、闇の縄がきしみ、沙織ちゃんの身体が更に高く釣り上げられる。細い手足が宙を掻く。今にも軋む音が聞こえそうな緊張に、俺の中で何かがブチッと切れた。
「――やめろっ!!」
反射よりも速く、神力を解き放つ。胸骨の奥で発電するような熱が一気に全身へ駆け上がり、視界は白く、耳鳴りは澄んだ高音へ変わる。俺の神力は、黒ではない。陽の色だ。芽吹きと癒しの色、守るための光だ。
「ぬっ……なんだ、この波動……!」
白金の奔流が畳を撫でる風を生み、闇の縄をはじき飛ばした。裂け目からこぼれた光が紐のようにほどけていき、闇は煙のように後退する。沙織ちゃんの身体が落ちる――その瞬間にはもう俺は駆け出していて、腕のなかに軽い体温を受け止めていた。
「沙織ちゃん!」
「しの……みや、さん……だいじょうぶ、です……ありがとう……。でも、桜子ちゃんが……」
「分かってる。ここからだ」
抱き上げた体温に、ぎゅっと心の焦りが収まっていく。彼女をそっと下ろし、俺は視線を龍神へ戻した。
「そ、そんな馬鹿な。封の一部とはいえ、この我を押し返すほどの光……。人の身で、なぜそこまで」
「――桜子ちゃん。聞こえるか? 君の身体は君のものだ。誰にも奪わせない」
桜子の瞳が一瞬だけ揺れる。そこに、かすかな戸惑い――そして救いを求める光が点った。
「沙織ちゃん。もっと呼びかけてくれ。君の言葉を、俺の神力に乗せる」
「はいッ!」
俺は沙織ちゃんの肩へ掌を添える。触れた瞬間、ふわりと桃色のきらめきが走り、心と心が細い糸で結ばれる感覚――スピリットリンク。温かくて、かすかに甘い、春先の風みたいな気配が胸の奥へ染み込んだ。
「桜子ちゃん! 戻ってきて! 私、桜子ちゃんのこと大好き! 嫌いになんてならない! 一緒にいようよ!」
「一緒にお勉強して、遊びに行って、たくさん笑って、時々ケンカして、すぐ仲直りして――普通の、女の子同士の友だちでいたいの!」
その言葉の一つひとつが、俺の光に乗って龍神の胸へ突き刺さる。黒がざわめき、畳の上に影のさざ波が立った。龍神の表情が歪み、桜子の口元から震える吐息が漏れる。
「さ、沙織……ちゃん……」
桜子の声だ。沈んだ水面から浮かび上がる気泡のように、かすかだが確かな声。龍神が奥へ押し込めようとするたび、沙織ちゃんの声が追いすがり、俺の光がその背を押す。
「己が友情など、脆い幻にすぎぬ! 龍脈は我のもの、奉龍は我の器! ――ッ、この力、消えぬ……!」
黒が噴き上がった。柱に刻まれた結界文様が青白く明滅し、障子がバン、と弾け飛ぶ。突風とともに、黒い鱗のような粒子が室内を渦巻いた。畳がきしむ。壁が鳴る。龍神の咆哮が頭蓋に直接響いた。
「負けないッ!」
沙織ちゃんの声が、風に割り込んだ。透き通るのに強い、不思議な声だ。その瞬間、俺の背中に、誰かの掌が重なる感覚があった。――深雪、紗彩、フィル、玲緒奈、みんなの気配。ここにはいないのに、確かに背中を支えてくれている。俺は胸の光量を一段、いや二段、上げた。
「――ッおおおおおおおおおおお!!」
白と黒が正面衝突する。耳がキンと鳴る。視界が白と黒の稲妻で満たされ、木組みの梁が震え、外の庭石がゴロリと転がった。だが押せる。押し返せる。龍神の闇は、独りきりの冷たさでできている。俺たちの光は、寄り添う温かさでできている。
『ば、馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿なぁあああああ!! 龍脈の支配者たる我が、友情ごときの言霊と人の光に……!』
龍神の虚空吠えが最後の抵抗を上げる。だが、黒はほどけ、煤のように散り、霧雨みたいに消えていく。襖が一斉に外へ吸い出され、吹き荒れた風の中心で、桜子の身体を縛っていた禍は――ふっと、灯りを落とすように消えた。
静寂。耳鳴りだけが残る。破れた障子から射す夕光が、粉塵の粒を金色に染めている。
「……はぁ……はぁ……龍神は?」
「……いません。いなくなりましたわ」
桜子が膝をついて座り、肩で息をしながらも、確かな目でこちらを見た。もう黄金の冷たさはない。深い黒の瞳に、涙が縁を濡らしている。
「よかった……!」
安堵で膝が笑った。力が抜ける。だがそれで終わりではない。俺は沙織ちゃんに目配せし、ゆっくりと桜子へ歩み寄った。
「桜子ちゃん。怪我は?」
「ええ……大丈夫ですわ。……沙織ちゃん、ごめんなさい。わたくし……酷いことばかり……」
「ううん。いいの。全部、もういいの。私ね、桜子ちゃんの“ごめんね”より“一緒にいて”が聞きたい」
その言葉に、桜子は堪え切れず笑った。泣き顔のまま、嗚咽の合間に、小さく、小さく頷く。
「……一緒に、いて」
「うん!」
ふたりはぎゅっと抱き合った。髪が触れ、肩が触れ、体温がまじる。破れた障子の向こうで風が葉を揺らし、かさ、と音を立てた。俺はそれを見届け、胸の底に溜まっていた息をゆっくり吐いた。
◇ ◇ ◇
騒動から数日。奉龍院の屋敷は蜂の巣をつついたような混乱ののち、嘘のように静けさを取り戻していた。現当主の時臣をはじめ、龍神の呪縛に触れた幹部たちは軒並み昏倒。意識が戻った者から順に、己の過ちと穴の埋め方に奔走しているらしい。桜子は事実上、その指揮を一手に握り、右へ左へと休む間もなく動いていた。
そんな彼女から正式な招待を受け、俺と沙織ちゃんは、畳を新しく張り替えたばかりの同じ本殿を再訪した。今度は開け放たれた障子から、よく手入れされた庭の緑と、凛とした茶の香りが流れ込んでいる。
「この度は――様々な面で、ご迷惑とご無礼の限りを……そして、救っていただいたことに、心より感謝申し上げます」
畳に膝をつき、深々と頭を垂れる桜子は、制服姿だった。黒髪はいつものように艶やかに、けれどどこか軽やかに見える。
「顔を上げて。済んだことだよ。龍神は?」
「完全に気配が絶ちました。……本当に、あっけないくらい。でも、こうして静かでいられるのは久しぶりで……少し、怖いくらいに安心しますわ」
「それでいい。静かなのが本来だ」
「それと……篠宮様。以前、奉龍院が水無月へ仕掛けた数々の妨害、そして――明石家への非道。すべて、わたくしの責です。償いは必ず」
「桜子ちゃん――」
「大丈夫、沙織ちゃん。言わせてあげて」
桜子は一度だけ目を閉じ、まっすぐ俺を見る。その瞳に、甘えも虚勢もない。
「わたくしは、龍神の囁きを言い訳にして、自分の寂しさと独占欲を正当化していました。友だちを“囲い込む”ことでしか、関係を築けなかった。……でも、もう違います。向き合い方を、覚えました」
「なら、あとは行動で見せればいい。謝罪よりも、君がどう変わるかの方が周りはずっと見てる」
「……はい」
ほんの少し唇が震えた。けれどその返事は、芯の通ったきれいな音だった。
「それから――篠宮のおじ様」
「おじ様?」
思わず苦笑した俺に、桜子は頬を染め、でも引かなかった。
「……もう一度だけ。抱きしめていただけませんか。短い時間で構いません。あの時、わたくしはようやく“助けて”と言えました。あの感覚を、ちゃんと自分のものにしたいのです」
「いいよ。おいで」
呼吸を合わせるように、そっと腕を開く。桜子は一歩、二歩。ためらいがちに近づいて、最後の一歩は駆け足気味に。小さな肩が胸に触れ、すぐに細い腕が背に回る。心が近づいたところで――ふ、と柔らかな光が胸の奥へ灯った。
スピリットリンク。光が交わる。彼女の心に巣食っていた冷たい棘のようなものが、あたたかく溶けていくのが分かる。代わりに芽吹いたのは、春の双葉のように頼りない――けれど確かな、他者を信じる力だ。
「……ああ……温かい、ですわ。おじ様の光、ほんとうに……。わたくし、多分、もう大丈夫。“ひとりじゃない”って、ちゃんと言えます」
「うん。もうひとりじゃない」
腕の中の体温が、わずかに震えて、落ち着いて、ゆっくり離れていく。桜子は目尻を指で押さえ、いつもの凛とした微笑に戻った。
「篠宮さん」
横で見守っていた沙織ちゃんが、こちらに向き直る。彼女の瞳も、光をたたえていた。
「私も――もっと強くなります。桜子ちゃんの隣に、ちゃんと立てる私に」
「うん。ふたりなら、きっとどこまででも行ける」
桜子が照れくさそうに咳払いをして、ほんの少し視線を逸らす。
「……それと、篠宮様。さっき“おじ様”と呼びましたけれど……それは敬愛の呼び名です。ですが、わたくし個人としての――恋慕も、嘘ではありませんわ」
沙織ちゃんが目を瞬かせ、頬を赤らめる。俺は苦笑しながらも、目を逸らさず頷いた。
「気持ちは、受け取った。結論を急ぐものでも、押し付けるものでもない。君の歩幅でいい。なにより今は、ふたりの“ふつう”の時間を取り戻すことが先だ」
「……はい。ありがとうございます」
短い沈黙ののち、桜子がぽつりと言った。
「――春になったら、この丘で、みんなでお花見をしませんか。お爺さまが好きだった桜の下で。わたくし、ちゃんと皆さんに頭を下げます。深雪さんにも」
「最高だな。弁当は俺が背負っていくよ」
「いえ、そこはわたくしに。奉龍院の総力を上げて最高の重箱を」
「それはそれでスケールが過ぎるよ、桜子ちゃん」
三人で笑った。窓から射す陽は傾きかけ、庭の影は少しずつ長くなる。けれど、影の輪郭は柔らかかった。もう、あの冷たい黒はどこにもない。
屋敷を辞す間際、桜子が一歩進み出て、丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございました、篠宮のおじ様。沙織ちゃん。これから、どうかよろしくお願いします」
「うん、こちらこそ」
「こちらこそ、ですわ」
門の外に出ると、山の端に沈む夕日が街並みを朱に染めていた。風は冷たいのに、頬の内側はあたたかい。隣を歩く沙織ちゃんが、ふと手を伸ばし、俺の袖をつまむ。目が合うと、彼女は照れたように笑って、すぐ前を向いた。
――万年課長から、会社を追い出されかけたあの日から始まった騒動は、思えば全部ここへ流れ着いたのだろう。過去に仕掛けられた策も恨みも、龍神という薄闇も。根っこから抜いた今、ようやく“本当の意味で”片が付いた。
春はもうすぐそこだ。桜の蕾は膨らみ、固い殻を内側から押し広げている。花が開くように、俺たちの毎日もきっと、これから何度でも咲き直せる。
「お花見、楽しみですね」
「そうだな。賑やかになる」
「はい、きっと」
風が、やわらかく背中を押した。新しい季節の匂いがした。




