第68話 生け贄の巫女
桜子ちゃんの身体を乗っ取った“龍神”は、冷たく全てを見下ろす瞳で俺を吹き飛ばした。
神力の奔流は物理衝撃へと変換され、俺の身体を軽々と浮かせる。
「ぐあっ!」
地面に叩きつけられ、尻に鈍痛が走る。呻きながらも、俺は立ち上がり、龍神の名を名乗った桜子に呼びかけた。
「待てッ! お前は桜子ちゃんの身体をなんだと思っている。その子は普通の――ただの女の子なんだ!」
『知ったことか。ようやく現世に顕現したのだ。貴様の神力が呼び水となったのは僥倖と言うほかあるまい』
「待てッ!」
必死の声も空しく、龍神の姿はふっと掻き消えた。
一瞬だけ、助けを求めるような桜子本人の瞳が見えた気がした。
「くそっ……!」
奴の気配は刻みつけた。恐らく奉龍院の屋敷に戻ったのだろう。距離は一瞬で遥か彼方へと伸び、その身体から放たれる神力は完全に龍神一色。丘の向こうから立ち昇る禍々しい黒のオーラは、見ているだけで胃が軋む。
多分――桜子が俺に心を開きかけた、その隙を突かれて身体を乗っ取られたのだ。
昨日まで感じていた濃厚な邪悪の気配。それこそが桜子暴走の理由。
「どうすれば……あれを止められる……」
その時、ポケットのスマホが鳴り響いた。画面には「蓮井」の文字。桜子付きのメイドだ。
「蓮井さんか。龍神とやらが――」
『こちらでも確認しました。奴は奉龍院の屋敷へ戻っています。どうか……どうか神たる力で桜子お嬢様をお救いください!』
必死の声に一瞬迷いが生じる。だが、このまま放置していいはずがない。龍神なんてどう相手取ればいいか分からない。だが――やるしかない。
「分かった。龍神と直接やり合う。奉龍院屋敷へ入る手引きを頼む」
『はい……! 恐らく龍神は人間支配に乗り出すはず。我々ではもう止められません。どうか、よろしくお願いします』
「……人間支配だと!?」
『龍神の呪いは神力を媒介にして人々の心を支配するのです。奉龍院が巨大に成長したのも、その力を間接的に利用したから。もし龍神が直接行使すれば……奉龍院に属する全員が操り人形になるでしょう。私も、時間の問題です。どうか周囲に危険が及ぶ前に……!』
冗談抜きで悠長にしている場合ではなかった。
俺は迷いを振り払い、蓮井の手引きで奉龍院の屋敷へと急いだ。
◇◇◇
奉龍院の屋敷は、俺達が暮らす街の外れ――広大な山林の奥にそびえていた。
鬱蒼とした木々を切り拓き、権力の象徴として築かれた巨大な本殿は、もはや“屋敷”というより“城”だ。石垣に囲まれ、重々しい朱塗りの門が出迎える。
蓮井の導きで俺は裏口から侵入した。廊下は妙に静まり返り、進むごとに空気は重く、息苦しくなる。
奥へ奥へ……まるでRPGのラストダンジョンを進むかのように、闇の気配が濃厚になっていく。
「ッ……嫌な感じだ……」
その時、奥から微かな気配を感じ取った。
――知っている。これは、沙織ちゃんだ。
「沙織ちゃん!?」
俺は障子を開け放ち、視界に広がった光景に息を呑む。
畳の大広間。奥に鎮座するのは、桜子を器とした“龍神”。
その隣には、黒い靄に絡め取られ、宙に吊られるように縛られた沙織ちゃんの姿があった。
「来たな、人間……」
低い声が響き、龍神の双眸が俺を射抜く。
同時に、沙織ちゃんが呻くように声を発した。
「しの……みや……さん……」
意識がある。安堵したのも束の間、状況は最悪だ。完全に人質。
「沙織ちゃんをどうするつもりだ!」
「桜子が入れあげていた娘……良い素材だ。我が儀式の生け贄に相応しい」
生け贄……!?
「ふざけるな! そんなことのために彼女を巻き込むのか!」
「我は元来、この日の本を支配していた存在。だが古の陰陽師に封印された。残滓の神力を利用して奉龍院は繁栄した。ならば、この家は我がもの同然。少女の心臓を供物に奉龍院を完全支配する。それこそ正しき姿よ」
吐き気のするほど身勝手な理屈に頭がくらむ。
「友情は命を捧げることでこそ成就する。感謝するのだな、小娘」
「桜子ちゃん……お願い、やめて……桜子ちゃんは、そんなことしない……!」
必死に呼びかける沙織ちゃん。しかし、龍神は冷たく笑った。
「まだ分からぬか。お前の家を追い詰めたのは桜子自身だ」
「……え?」
龍神は愉快そうに続ける。
「いじめを煽り、助けるふりをして依存させた。全ては孤独を埋めるための策略。桜子はお前を手中に収めるために――」
「やめろっ!!」
俺の怒声も虚しく、沙織ちゃんの顔が絶望に染まる。
しかし次の瞬間――彼女の瞳に宿った光が、龍神の言葉を打ち砕いた。
「そんなの……どうだっていい!」
「……何?」
「桜子ちゃんは、桜子ちゃんだもん! 私の友達! たとえどんなことをしてたって……大好きな友達を見捨てたりしない! 桜子ちゃんを返して!!」
涙を浮かべ、必死に叫ぶ沙織ちゃん。その声は龍神をも揺さぶる。
……桜子。
君は本当は分かっているんだろう?
孤独から生まれた歪んだ独占欲ではなく――本物の友情に触れて、救われたいと思っていることを。
俺は一歩踏み出し、龍神の冷たい視線を真っ直ぐに受け止めた。
「聞いたか龍神。これが人間だ。桜子ちゃんは、お前の呪縛なんかじゃない」
畳が軋み、闇が蠢く。
次の瞬間――広間の空気が爆ぜる。
龍神と、俺との直接対決が、始まろうとしていた。




