第52話 役員会への道
ゲオールグ氏から課せられた試練――春までに役員入りすること。
それは単なる昇進の話ではない。彼の娘たちを正式に迎えるための“父の誓約”であり、同時に俺自身が乗り越えるべき壁でもあった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
俺は会社のデスクに向かいながら、深呼吸を繰り返していた。
普段と変わらぬオフィスのざわめきが、今日はなぜか遠くに感じる。
「篠宮さん、おはようございます!」
元気よく声をかけてきたのは後輩の田村だ。書類の束を抱えて走ってくる姿は、かつての自分を見ているようで少し微笑ましい。
「ああ、おはよう。……それ、俺が引き受けようか?」
「いえ! でも、手伝っていただけると助かります!」
笑顔で頷き、資料を整理する。
ほんの些細なことだが、こうして“仲間の信頼を積み重ねる”ことが、やがて大きな評価につながるのだと分かっていた。
◇ ◇ ◇
昼休み。
紗彩から届いたメッセージには、いつものように詳細な指示が並んでいた。
《午後の会議、想定質問は5つ。資料のグラフは6ページ目を強調してください。社長は必ずそこに食いつきます》
俺は思わず苦笑する。
彼女の頭脳はやはり規格外だ。準備を徹底的に整えてくれるその支えに、どれだけ助けられているか分からない。
(紗彩が導いてくれる。フィルや深雪、玲緒奈たちも信じてくれている。……だったら俺は、それに応えるだけだ)
◇ ◇ ◇
午後の会議。
社長室で交わされた言葉が頭をよぎる。
――「君が本当に娘たちを守れるかどうか、証を見せてもらう」
緊張感の漂う会議室で、俺はプレゼンを始めた。
「今回の新規プロジェクトでは、コスト削減だけでなく市場拡大を視野に入れるべきです。その理由は――」
スクリーンに映し出されたグラフと数値をもとに、堂々と語る。
予想通り、社長が質問を投げかけてきた。
「この市場拡大にリスクはないのか?」
「あります。しかし、そのリスクは既存の取引先ネットワークを活用することで半減可能です」
淀みなく返すと、会議室の空気が変わった。
取締役たちの目に、俺を一目置く光が宿る。
◇ ◇ ◇
会議を終えてデスクに戻ると、フィルから電話がかかってきた。
『隆行、お疲れさま。会議の空気、こっちまで伝わってきた。みんなが隆行を認め始めてる』
「……そうか。ありがとう、フィル」
『お父さんの試練、絶対に乗り越えよう。フィルも、みんなもついてる』
電話越しの声に胸が熱くなる。
俺は受話器を強く握りしめ、改めて決意した。
(春までに必ず役員になる。そして――愛する彼女たちを守る。いや、幸せにする)
戦いは始まったばかりだ。
役員会での発表が終わり、俺は確かな手応えを感じていた。
だがその影で、俺の台頭を快く思わない者たちが確実に動き出していた。
◇ ◇ ◇
夜のビル街。
水無月コーポレーションの関連会社が入るビルの一室に、数人の男たちが集まっていた。
「……篠宮隆行、か。近頃やたらと名前を耳にするな」
「社長やエレノフスク支社長からの信任も厚いらしい」
「それが問題なのだ。あの男が役員に上がれば、我々の立場が危うい」
薄暗い会議室に煙草の煙が立ちこめる。
彼らは古参の役員たちであり、既得権益を守ることに必死な者たちだ。
「手を打つしかない。あの男を失脚させねばならん」
「だが証拠もない。能力も実績も申し分ない。どうやって?」
「方法ならある。……女だ」
ぞっとする笑みが浮かぶ。
狙われるのは、俺の恋人たち――。
◇ ◇ ◇
翌日。
会社の帰り道、俺は何気なく背後に気配を感じた。
神力を解放せずとも、鍛えた感覚が異様な視線を捉える。
(つけられてる……?)
振り返ると、黒いスーツ姿の男が人混みに紛れて消えていった。
「隆行さん、どうかしました?」
隣を歩く深雪が不安そうに覗き込む。
「いや……気のせいかもしれない。けど、用心しておこう」
◇ ◇ ◇
その夜。
紗彩から衝撃的な報告が届いた。
「……隆行、社内の極秘資料が外部に漏れてる」
「なんだって!?」
「調べたら、どうやら“あなたの仕業だ”って形に仕立て上げられてる」
冷水を浴びせられたような感覚。
まだ何もしていないのに、既に罠は仕掛けられていた。
「このままじゃ、不正流出の犯人にされる。役員入りどころかクビだよ」
「……やっぱり動き出したか」
俺は拳を握りしめる。
これは単なる出世争いじゃない。
“愛する人たちを守るための戦い”だ。
(いいだろう……正面から潰す。俺を侮ったこと、後悔させてやる)
夜風が街灯を撫でる頃、俺たちはそれぞれの持ち場で互いの気配を確かめ合っていた。
役員会での不正流出の濡れ衣。証拠を突きつけられれば、一夜で全てを失いかねない。だが俺は、誰にも黙って動いているわけではない。紗彩と深雪、フィル――俺の側にいる全員が、もう一度だけ信じてくれている。
「今夜、尾行していた男の動きを押さえます。隆行さん、用心して」
紗彩は小さな端末を差し出しながら囁いた。暗がりの中でも視線が鋭い。彼女が仕切ると、周囲の空気がキュッと締まるのを感じる。
予定はこうだ。まず俺が背後を誘導して相手を引き出す。紗彩と深雪は逃げ場を塞ぐ位置へ。フィルは……いつもどおり、優しく、でも確実に俺を守る役割を選んだ。
午後十一時。繁華街の脇道に差し掛かると、想定通り黒い影がふたつ、影法師のように現れた。男たちの動作はぎこちないが、慣れている。逃がしてはならない。
「来たな」俺が低く言うと、男の一人がニヤリと笑った。
「篠宮さん、夜遅くにふらふら歩くのは危ないですよ。あなたのような人間が“偶然”通りかかると、都合のいいことも起こるものですからね」
声は整っている。だが冷たい。組織の臭いがする。
男が手に隠し持った端末をポケットに押し込む。誘導に使ったのはどうやらそれらしい。後ろに回り込んだ別働隊が出入り口を封鎖するように動き出す。
俺は静かに息を吸った。身体の奥で、かつて無自覚に湧き上がっていた何かが反応する。だが今は違う。アナさんに教わったこと。体内に渦巻くエネルギーを、制御する――防御に使うのだ。
次の瞬間、目に見えぬ力が胸の内から外へと弾けた。男たちの動きが一瞬、狂う。まるで見えない手で風を掴まれたように、足がもつれる。だがそれは俺の攻撃ではない。防御線、というより“抑止”――相手に致命的なダメージを与えるつもりはない。捕まえるための一瞬の隙を作るだけだ。
「今!」紗彩の声が合図となり、深雪とフィルが同時に姿を現した。
深雪は冷静に相手の視線を遮るように動き、紗彩は軽やかに走り込み相手の手首を取る。フィルはその柔らかな笑みで男の肩を掴み、ものの数秒で二人を地面に押さえつけた。
取り押さえられた男たちは驚愕の表情を浮かべる。だが表情の裏には「想定外」の焦りが見える。逆にこちらは落ち着いている。計画通りだ。
「誰の命令で動いた。会社の内部の誰だ」深雪が冷たく訊ねる。彼女の目は、社内の“古い力”を見抜くように鋭い。男は呻き、口を噤む。だが紗彩はその手を強く締め、簡潔に言った。
「証拠は押さえた。ここで自白しなさい。抵抗すればそのまま警察に」
その声には脅しでも威嚇でもない、徹底した確信が含まれていた。経験と準備が生み出す強さだ。
男はしぶしぶ口を開いた。名前を、経緯を、そして“誰に頼まれたか”を吐き出していく。核心の一文字――“旧役員”という単語が出た瞬間、俺の胸は固くなった。やはり、そうか。
「ならば俺たちは次の段階へ行く」俺は淡々と告げた。夜の静けさの中で、言葉の重みが増していく。「証拠を持って出る。君たちが仕組んだことは、きっと白日の下に晒される」
◇ ◇ ◇
捕縛は短時間で終わり、男たちは警察へと引き渡された。だが俺たちが掴んだのは末端の者たちであり、真の黒幕はさらに深く、もっと巧妙に仕組んでいる。今回の襲撃は、その前哨戦に過ぎないのだ。
社に戻ると、夜明け前の静けさの中でフィルが俺の手を握ってくれた。温かく、確かな重みがあった。
「大丈夫?怖かったよね」彼女は小さな声で言う。
「うん。だが、これで誰かが守られているって分かった」俺はそっと微笑む。
仲間の顔。信頼。そこにあるものが、何よりの防御だと確信した。
だが、窓の外の街はまだ静かに光を蓄えている。黒幕は一度失敗してもなお諦めない。次に動くのはもっと巧妙に、もっと危険な一手だろう。俺たちは、そのためにもっと強くならなければならない。
夜が明ける。新しい一日が動き出すとき、俺はもう決めていた。
──守るべき者のために、すべてを賭けると。




