第51話 揺らぐ父の心
夜更けのホテルの一室。
豪奢な照明に照らされた部屋で、ゲオールグ=エレノフスクはグラスを傾けていた。
彼の表情は、いつもの堂々としたものではない。娘を思う父親としての複雑な顔だった。
(フィルに続いて、マリーとサリーまで……。三人がそろって一人の男に惹かれるとは……)
誠実な男だとは分かっている。
篠宮隆行――紗彩の許嫁であり、フィルの恋人でもある青年。会って話してみれば、その人柄は一目で分かった。
だが、それでも父親の心は揺れる。
「あなた、まだ悩んでいらっしゃるの?」
背後から、妻アナスタシアが柔らかい声で問いかける。
彼女は紅茶を盆に載せ、夫の隣に腰を下ろした。
「……娘を三人も、一人の男に託すのだぞ。父親として、簡単に頷けるものではない」
「ふふ、それでもあなた、会ったでしょう? あの子たちがあんなにも幸せそうに微笑む姿を」
アナスタシアの瞳が静かに光る。
母として、娘たちの幸福を第一に考えているからこそ、その言葉には重みがあった。
◇ ◇ ◇
ゲオールグはワイングラスを置き、天井を仰ぐ。
「……隆行君は、確かに誠実だ。だがな……男というものは移ろいやすい。ましてや、彼の周りには既に多くの女性がいる。フィルだけではない、紗彩も深雪も……玲緒奈までもが彼を愛している」
「それの何が問題ですの? 誰か一人を粗末にしているわけではないでしょう?」
「だが……だがな、娘が“愛される一人”になるより、“唯一無二の存在”でいてほしいと思うのは、父親のエゴなのだろうか……」
苦悩の吐露。
豪胆な男として知られる彼の姿からは想像もつかない弱さだった。
◇ ◇ ◇
アナスタシアは静かに笑みを浮かべ、夫の大きな手を両手で包んだ。
「あなた、あの子たちは“唯一”を求めていません。彼女たちが求めているのは、“共に歩んでくれる人”。そして、その未来を共に築ける仲間たちです」
「……」
「フィルも、マリーも、サリーも、みんな分かっているのです。彼の隣には他の女性もいることを。けれど、彼女たちはそれを“幸せのかたち”だと受け入れている。私たちが口を出すことではないでしょう?」
ゲオールグの胸に、重い石が落ちたような沈黙が流れた。
(そうか……娘たちは、私よりもずっと大人なのかもしれないな)
ようやく苦笑がこぼれる。
そして立ち上がった彼は、グラスをテーブルに置き、力強く頷いた。
「よし……篠宮隆行。次に会ったときは、徹底的に試させてもらおう。それで本当に三人を任せられるかどうか、見極めてやる」
アナスタシアはその言葉に安堵し、夫の腕に寄り添う。
夜の帳が降りる中、二人の決意が静かに固まっていった。
◇ ◇ ◇
翌日。
フィルのマンションのリビングに集まった俺たちは、思いがけない訪問客を迎えることになった。
――フィルの父、ゲオールグ=エレノフスク。
その堂々たる体躯は、まるで鎧をまとった戦士のよう。
だが瞳には、父としての真剣な光が宿っていた。
「篠宮隆行君」
「は、はい」
呼ばれた瞬間、背筋が自然と伸びた。
ゲオールグ氏の声は重く、だが冷たくはない。
「君の誠実さは、娘たちから何度も聞いている。私も昨日、直接その目で見た。……だがな」
一拍置いて、彼は言葉を続けた。
「父親として、簡単に三人の娘を任せることはできん。だからこそ――試練を課す」
◇ ◇ ◇
リビングの空気が張り詰める。
隣のフィルは小さく息を呑み、紗彩も深雪も緊張した面持ちで成り行きを見守っていた。
「試練……ですか?」
「ああ。君が本当に娘たちを守り、幸せにできる男なのかどうか。私が納得するだけの証を見せてもらう」
彼の眼光は鋭く、しかし敵意ではなく“父としての想い”が宿っているのが分かる。
「……具体的には、どのような?」
恐る恐る問うと、ゲオールグ氏は腕を組み、低く笑った。
「この春までに、君が役員の座を勝ち取ることだ」
その場にいた全員が驚きの声をあげた。
「や、役員!?」
「そんな、急に……!」
俺も思わず声を上げる。だが、ゲオールグ氏の表情は揺るがない。
「娘を託すのだ。凡庸な立場の男には任せられん。だが君ならできる。――いや、できなければならん。私の娘たちは、それほど価値のある存在だからな」
◇ ◇ ◇
フィルが父に歩み寄り、小さな声で訴える。
「お父さん、隆行ならきっと出来る。でも……少し厳しすぎる」
「甘やかすな、フィル」
その言葉に娘は言い返せず、唇を噛んだ。
代わりに紗彩が一歩前に出る。
「私も同じ考えです。隆行さんは必ず役員になれる。だからこそ、これは“試練”ではなく“未来の約束”なんです」
ゲオールグはしばし黙し、やがて満足げにうなずいた。
「……良い仲間を持ったな、隆行君」
そして改めて俺の目を見据える。
「どうだ、君はこの約束を受けるか?」
◇ ◇ ◇
心臓が激しく脈打つ。
だが、不思議と恐怖はなかった。
これまで俺を支えてくれた恋人たちが隣にいる。その想いが、背中を押してくれる。
「はい。必ずや、春までに役員の座を勝ち取り、三人の娘さんを正式に迎え入れることを誓います」
力強く言い切った瞬間、ゲオールグ氏は大きな笑みを浮かべた。
「よし、それでいい! ――これが、試練の約束だ」
こうして俺は、愛する者たちを守るために、新たな戦いへと挑む決意を固めた。




