第53話 クソ野郎
シェルリンが登校してきたことに気がついて、喜び勇んで扉口に駆け寄った。
近づいてみて、足が止まる。
シェルリンの顔が青ざめた。ユリウスを見てはっきりと。
これ以上近づいて怖がらせてはいけないと思い……いやちがうな。これ以上近づいて拒絶されるのが怖く、少し離れた位置から声をかけた。
シェルリンはユリウスの言葉に返事をし、席まで一緒に歩いてくれたけれども席に着き、ユリウスが離れると安堵していたように見えた。
何か怖がらせるようなことを、嫌がられるようなことをしてしまったのだろうか。
考えを巡らせるうちに、フルーツサンドの場面を思い出す。
シェルリンの手を取り、フルーツサンドを食べた。あれか?
いや、その後あった時はこんな風に拒絶は示されていなかったはずだ。
「ユリウス、シェルリンに何かしたの?」
ニヤニヤしながらカールが言う。
いや……と言い淀むユリウスを見て、シェルリンの様子を見て、ふっと笑った。
「へぇ、まだ僕にもチャンスありそう」
カールの言葉を聞いて、言いようものない不安がユリウスの中を駆け巡る。
チャンス、チャンス、チャンス……。
唯一の王子であるユリウスは将来王になることが決まっている。
王座から二人の仲睦まじい様子を見ることになるのか……? それとも私はシェルリン以上に心惹かれる存在に出会うことができるのだろうか。
悶々と考えているうちに一日が終わる。
寮への帰り道、校医のトビアスとシェルリンが二人で保健室に入っていくのを見かけた。
普段なら何も気にならない一シーン。けれど、何故だかシェルリンが他の男と一緒にいるというだけで心が落ち着かない。
保健室の壁に寄りかかり、何気ない風に立つ。
廊下を歩く学友たちが挨拶してくれるのを、律儀に返しながら、自分の背中はぴったりと壁に張り付き、耳はいかなる物音も聞き逃さぬよう鋭敏になっている。
それでも中からは人がいる気配のような音はするものの、話し声は聞こえない。
こんなことをやってはいけないと思う一方で、同じ学生であるユリウスが保健室を訪れても何も問題ないだろうとも思う。
そっと部屋に入るとソファの近くで立っている二人が見えた。
そのあまりの距離の近さにぎょっとして近くの棚の陰に隠れる。
知らなかった。二人は……そういう関係なのか?
「君の……君のその目が」
トビアスの声が聞こえた。
二人きりの保健室、接近した男女というシチュエーションも相まって、妙に熱っぽい声に聞こえる。
今から飛び出して邪魔してやりたいと思う一方で、今朝のシェルリンの反応を思い出して体が止まる。
くそっ! 今ユリウスはシェルリンに嫌われているか、怖がらせているのだ。
そんな野郎が出て行ってどうなる? 余計に嫌われるだけではないか。
ユリウスが逡巡しているうちにシェルリンのか弱い声が聞こえてきた。
「や、やめてください」
その声は明確に拒絶をしていて、怖がっているようだった。
考えるより先に体が動き、ユリウスはシェルリンとトビアスの間に体を滑り込ませた。
シェルリンに伸ばしてきていたトビアスの手を乱暴に払いのけてハッとした。
一呼吸おいて、口を開く。
「シェルリンは嫌がっています」
あと一瞬理性を取り戻すのが遅かったら、シェルリンの体をトビアスから引き離し、この腕に閉じ込めてしまいそうだった。
トビアスにも怒りから無遠慮に怒鳴ってしまいそうだった。
なんだ、このどうしようもない怒りのような、どこにもぶつけようもない感情は。
シェルリンの手を取り保健室を出る。
歩いている間も、頭の中ではずっとさっきの場面が繰り返されて怒りが収まらない。
近づくトビアス、嫌がるシェルリン。
あんな奴が校医だなんて!
シェルリンに手を出そうとしたんだぞ。信用ならない。
怒りでどうにかなりそうだったと。
「ユリウス殿下?」
シェルリンの声に振り向けば、いつの間にか講堂の裏まで来ていたことに気がつく。何をやっているのか。
シェルリンはユリウスに対しても怖がっていたというのに。
手を引き、こんな人気のないところまで連れてきたら、さらに怖がらせるに決まっている。
なぜ寮へ送り届けなかったのかと後悔しても後の祭り。
「その……大丈夫か?」
恐る恐る声をかける。
シェルリンの瞳が不安に揺れる。
あぁ、また失敗した。不安にさせている。それは、ユリウスと二人きりのこの状況に対してかもしれなかった。
やはり、早く寮へ送り届けよう。
アメリアやカリーナに気にかけるように言えばいい。
きっとユリウスよりもシェルリンの力になってくれるだろう。
突然、シェルリンの目に涙がたまり始め、ポロリと一滴の涙が流れ落ちた。
「す、すまないっ!」
フルーツサンドのこと、怖がらせたこと、今もまた二人きりになってしまっていること……何に対して謝っているかわからない。
それほどユリウスは動揺していた。
なんとかハンカチを手渡し、背を撫でてあげようと腕を上げる。
待て。シェルリンは私にも怖がっているんだぞ! とシェルリンに触れる直前で気がつく。
背を撫でて、安心させたい。抱きしめてその涙ごと守りたい。
そんな思いが、上げた腕を降ろさせない。
少しの間、シェルリンの死角で腕を不格好にあげたままでいたが、一息ついてようやく腕を降ろした。
降ろした腕が落ち着かない。まるで腕に意思があるかのように、まだ腕はシェルリンの方へ向かいたがっている。
くそっ! 私はトビアスと変わらないとんだクソ野郎だ。
「ユリウス殿下、ありがとうございました。あの、私のことは……どうか知らなかったことにしていただけませんか」
まだ瞳はうるんでいるが、涙が止まったらしいシェルリンがおずおずと切り出した。内心はまだ落ち着かなかったが、どうにか頑張って表情に出ないようにした。
何も言わないユリウスに、シェルリンは不安そうだ。
その顔に、ようやくなだめた腕が再び上がりそうになる。
なぜだろうか。
シェルリンが王子妃として妥当だと思っているからだろうか。
ただ目の前に不安そうなシェルリンがいるから、浮かんだ疑問をさっさとどこかに放り投げた。
「それはできない。トビアス先生にも」
「トビアス先生には! 私からも話をします。今は無理ですが、いつか……しますわ。お願い、します」
シェルリンが頭を下げる。
トビアスには退任してもらうと言うはずだった。公にシェルリンの名前は出さないから安心してほしいとも。
でも、必死に頭を下げるシェルリンに、いつの間にかユリウスの口から「わかった」という声が漏れていた。
「ただし、その話し合いには私も参加する」
再びトビアスと二人きりになる話し合いなどとんでもない。
シェルリンは静かに「はい」と答えた。
それから寮へ送ることになって、シェルリンとユリウスは無言のまま歩いた。
女子寮に着くと、中からカリーナとアメリアがやってきてシェルリンをあっという間に連れ帰った。
シェルリンと別れた後、ユリウスは足早に保健室に戻る。
トビアスは何か思案顔だ。
「シェルリンが望まないから、今回は何もない。だが、先生がしたことは学校医として相応しい態度ではなかった。だから、次はない。いいな」
「シェルリンさんはなんて?」
もう後がないぞと伝えたにもかかわらず、トビアスは反論も恐縮もせず、シェルリンについて質問をしてくる。
この男がまだシェルリンのことを知りたがっているのが、ユリウスを苛立たせた。
「いつか話すと」
「そうですか。なら、私は待ちましょうかね」
やましいことをしていたのは向こうのはず。
なぜそんなにも余裕なのかわからない。
まるでシェルリンとトビアスの間に二人しか知りえないものがあるようで、イライラが募る。
「その場には私も立ち会うから、そのつもりで」
苦し紛れに、言い捨てて保健室を出る。
なぜだろう。
客観的に見れば、トビアスはシェルリンに迫って、断られ、仕事としてももう後がないという崖っぷち。一方ユリウスはシェルリンを救ったし、学生とはいえ王子だ。いづれ王になる身分で、やろうと思えばトビアスを退職に追い込むことだってできる。今回は正当な理由があるのだから、尚更だ。
なのになぜだろう。
保健室を出たユリウスはまるで負け犬のような気分だった。
もっと。もっと大人にならなければ。
誰からも、何からもシェルリンを守れるように。




