22話 ワールドクエスト 二日目
俺はガランさんの右へ入り、斧を構えた。
午後の光が、刃の縁へ反射している。
前方の林は、まだ静かだった。
ただ、後ろから聞こえる話し声は、いつもと違う。
「……海の方らしいぞ」
隣の列から、そんな声がした。
盾の向きを確かめていた兵士が、顔を上げる。
「どこだ?」
「ラグナート。港へ入られたって」
俺の手が、少し止まった。
昨夜の映像が浮かぶ。
船。
長い桟橋。
鉤槍を持つ、日に焼けた男。
その後ろを走っていた人たち。
あの場所か。
ガランさんも、声の方を見ていた。
「……街の中までか」
「分からん。今、確認してる」
話していた人も、それ以上は続けなかった。
誰かが知っている。
でも、誰も全部は知らない。
昼の食事中から、その状態が続いていた。
◇
ほどなくして、伝令が来た。
指揮役へ紙を渡し、短く何かを伝える。
受け取った人は一度目を通し、近くの列へ声をかけた。
「他戦域の情報を共有する。手は止めず、聞いてくれ」
俺たちは、顔を向けた。
「海都ラグナートで、外港の防衛線を突破された。敵の一部が倉庫地区へ上陸。現在、内港の防衛線で迎撃中だ」
誰かが、低く息を吐いた。
俺も、斧の柄を握り直す。
「住民の避難と物資の移送は継続している。都市中枢が落ちたという報告ではない。こちらから戦力を動かす指示も、今のところ出ていない」
そこまで聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
終わったわけではない。
まだ、守っている。
隣の槍兵が、小さく呟いた。
「……耐えてるんだな」
俺は、頷いた。
「はい」
指揮役は、紙を畳んだ。
「水中から別の群れが入り込んだという報告もある。こちらも正面だけを見るな。横と後ろは、決められた担当が確認する。全員で振り返る必要はない」
何人かが、前へ顔を戻した。
俺も、そうする。
今、見るべき場所。
俺の前には、まだ敵が来ていない。
でも、来る。
そのとき、ここを空けるわけにはいかなかった。
◇
〈ラグナートだったか〉
〈現地の配信、倉庫の間で戦ってる〉
〈全部落ちたわけじゃないって〉
〈商人の人たち、荷車動かしてるぞ〉
〈オルゼンさんが戻ってきたって話もある〉
コメントも、少しずつ一つの場所へ集まり始めた。
大きな海獣へ対応している間に、別の魔物が入り込んだ。
荷物を下ろす場所で、戦いになった。
木箱を並べて、道を塞いでいる。
逃げる人と、戻る人を分けている。
短い言葉だけど、さっきまでより景色が浮かんだ。
「……倉庫の人たちも、戦ってるんですね」
俺が言うと、ガランさんが頷いた。
「こっちも、さっき荷車を守った」
「はい」
「あっちは、それが街の中まで来たんだろうな」
俺は、午前中の道を思い出す。
マルクさん。
止まりかけた荷車。
木の上から下りてきた猿。
あれが、もっと広い場所で起きているのかもしれない。
視界へ、新しいコメントが流れた。
〈ラグナート組です。俺のいる通りは、まだ持ってる〉
〈後ろに人が逃げてるから、今は下がれない〉
俺は、それを読んだ。
返事を考える。
頑張れ。
それだけでいいのか、少し迷った。
結局、短く口を開いた。
「……こっちも、守ります」
ガランさんが、隣で盾を持ち上げた。
そのとき、城壁の上から笛が鳴った。
◇
【世界大侵攻・第二日】
【第5波を確認しました】
【主要接近方向:東・北東】
前方の林が、揺れた。
黒い背中。
灰色の翼。
そして、太い腕で木の枝を押しのける、大きな影。
角盾オーガ。
昨日より、盾の数が多い。
「……また、前を固めてきますね」
俺は、近づく一体へ鑑定を使った。
【角盾オーガ Lv.71】
【HP:4,260/4,260】
数字を、声に出して伝える。
指揮役が頷く。
「前列、受ける準備! 外側の警戒は継続!」
ガランさんが、盾を低く構えた。
俺も、斧を持つ。
足元を見る。
朝に埋めた地面は、まだ大丈夫だ。
後ろの道。
目印の布。
イトは、その外側で糸を張っていた。
「イト。戻る場所は、さっきと同じです」
前脚が上がる。
俺は、前へ向き直った。
◇
最初の走狗が、盾へぶつかった。
「右!」
「出ます!」
踏み込む。
斧。
低く戻す。
次の一体は、俺の足元を狙っていた。
魔力の手を出す。
頭を外へ流し、普通の両手で斧を返した。
倒れる。
後ろで、糸が張る音。
俺は顔を向ける。
右前に、止まった走狗。
その向こうに味方はいない。
「右前、撃ちます!」
斧閃。
赤い弧が、走った。
午前中より、狙う時間が短くなっている。
刃へ集めた力が、散らずに前へ抜ける。
走狗が崩れた。
【経験値を獲得しました】
斧を戻す。
息を吐く。
次。
斧術の補助も、少し変わっていた。
腕で無理に刃を引っ張らなくても、体の回転に斧がついてくる。
振り終わった場所から、次の構えへ戻しやすい。
力が増えたから、振り回す。
それだけでは、なかった。
〈動きが止まらない〉
〈午前中より斧返すの速いな〉
〈近距離と斧閃の切り替えが自然になってる〉
ガランさんの盾が、鳴った。
俺は、すぐ隣へ戻る。
その右へ、また道が開いた。
◇
オーガの列が、近づいてきた。
前の盾が、矢を受ける。
その後ろを、別の個体が歩く。
さらに、盾の間から走狗が出てくる。
正面で止まったと思った瞬間、足元へ潜ろうとする。
「低いの、来ます!」
俺は斧を短く持ち、頭へ柄を当てた。
カゲロウさんの槍。
倒れる。
その上から、棍棒が落ちた。
「下がる!」
ガランさんの声。
俺も、同時に足を引いた。
地面が弾ける。
土が、籠手へ当たる。
オーガが、棍棒を引き抜こうとする。
俺は、そこへ斧閃を放った。
腕へ、赤い刃。
動きが、少し遅れる。
ガランさんが盾を押し込んだ。
「今!」
俺は、右へ入る。
羅刹腕で、盾の上縁へ触れる。
相手が、引き戻そうとする。
その力へ、逆らいすぎない。
足を動かす。
斜めへ。
「〈崩し〉!」
盾が開く。
肩の下へ、斧。
深く入った。
オーガが吠える。
俺は、すぐ戻った。
その瞬間、後ろのオーガが前へ出た。
また、盾。
「……入れ替わり、速いですね」
俺が言うと、ガランさんが息を吐いた。
「ああ。正面から順番にやってたら、こっちが先に疲れる」
右の林を見る。
横から近づく、別の影。
カゲロウさんが声を出す。
「北東からも、来てる!」
前だけではない。
分かっていた。
分かっていたけど、実際に両方から来ると、胸の奥が狭くなる。
◇
北東側の列で、大きな音がした。
盾が、地面へ倒れる。
一人のプレイヤーが、尻から滑った。
その前へ、猪。
鎧背牙猪が、頭を振る。
近くの槍兵が、慌てて下がった。
「右、押されてる!」
誰かが叫ぶ。
俺は、そちらへ顔を向けた。
走りたい。
でも、目の前にもオーガがいる。
ここを離れれば、ガランさんの右が空く。
俺は、声を出した。
「右側、援護が必要です!」
指揮役が頷く。
予備の盾役が、そちらへ走る。
その間に、猪がもう一歩進んだ。
倒れた人が、起きようとしている。
手をつく。
でも、すぐ前に大きな頭がある。
足が、動かない。
俺は、斧を握った。
距離がある。
十メートル、少し。
近くへ出る必要がある。
「ガランさん、二歩だけ前へ! 右へ撃ちます!」
「行け! 前は受ける!」
俺は、踏み込んだ。
猪の顔ではない。
上がった前脚の、内側。
赤い弧を、低く放つ。
刃が当たる。
猪が、こちらへ首を向けた。
倒れた人の前から、牙が離れる。
「今! 立って、盾の後ろへ!」
俺は叫んだ。
その人が顔を上げる。
駆け寄った兵士が腕を掴み、引き起こした。
猪が、こちらへ向こうとする。
その後脚へ、白い糸。
イトだった。
体が揺れる。
予備の盾が、その正面へ入った。
俺は、斧を引き戻す。
戻る。
ガランさんの右へ。
「戻りました!」
「分かった!」
盾が、少し寄る。
俺は、その後ろで息を吸った。
助かった。
そう思ったところで、右側から別の声が聞こえた。
「……港も破られたんだろ。こっちも、下がった方が――」
最後までは、聞こえなかった。
でも、その一言で周りの足が少し止まった。
さっきの猪。
倒れた盾役。
昼に届いた、海都の話。
全部が、重なっている。
◇
俺も、怖かった。
下がるときに下がるのは、大事だ。
でも、今の声は、合図ではない。
隣へ伝える前に、一人ずつ足が引けたら。
その隙間へ、敵が入る。
俺は、ガランさんを見た。
盾は、まだ立っている。
カゲロウさんの槍も、前を向いていた。
イトの糸が、右側へ渡る。
少し遠くでは、ゼルガさんが大きな盾を戦槌で横へ弾いていた。
誰も、ここを捨てていない。
俺は、大きく息を吸った。
「大丈夫です!」
思っていたより、大きな声が出た。
近くの人が、顔を向ける。
俺は、前を指した。
「盾、立ってます! 右も、止まりました!」
言いながら、自分でも確かめる。
嘘ではない。
実際に、止まっている。
「一人で受けなくていいです! 戻るなら、声をかけて! 俺も、ここにいます!」
声が、喉を抜けた。
胸の奥で、魔力が動く。
斧へ通したときとは、違う感覚。
自分の声へ、少しだけ力が乗った。
【行動経験が一定値に達しました】
【仲間との継続した協同行動を確認しました】
【〈戦声 Lv.1〉を獲得しました】
俺は、文字を読む暇がなかった。
正面の走狗が、飛びかかってくる。
ガランさんが、盾で止めた。
「右、空ける!」
「出ます!」
俺は、斧を振った。
倒す。
戻る。
右側から、返事が来た。
「こっちも、持ってる!」
「交代、入った!」
「槍、出せるぞ!」
止まりかけていた足が、また動いた。
〈新スキル!?〉
〈戦声って出た!〉
〈今の声、ちょっと響き違ったぞ〉
〈見てるこっちまで背筋伸びた〉
ガランさんが、盾の向こうで笑った。
「いい声だな」
「……喉、少し疲れました」
「なら、毎回叫ぶなよ」
「はい!」
返事だけは、まだ大きかった。
◇
右の猪が倒れた。
予備の盾役が、その前へ立つ。
負傷した人は、後ろへ運ばれていった。
入れ替わりに、別の前衛。
列が、戻る。
指揮役が、短く声を上げた。
「そのまま維持! 押し返すのは、中央から!」
俺たちは、すぐには前へ出なかった。
ゼルガさんが、正面のオーガへ近づく。
棍棒が落ちる。
彼女は横へ半歩ずれ、戦槌を下から振った。
盾が跳ね上がった。
そこへ、隣の兵士たちの槍。
オーガが、後ろへ下がる。
合図。
「前へ、二歩!」
ガランさんが進む。
俺も、合わせた。
足元を見る。
倒れた走狗を、踏まない。
右の道が、少し開く。
カゲロウさんが、こちらを見る。
頷いた。
「脚、狙う」
「はい」
槍が、オーガの足元へ入る。
盾が下がる。
俺は、魔力の腕で上縁を押さえた。
普通の両手で、斧。
脇へ。
抜く。
戻る。
オーガの体が傾く。
そこへ、斧閃。
赤い弧が、開いた肩へ当たった。
大きな体が膝をつく。
最後は、ガランさんの斧が首元へ入った。
【経験値を獲得しました】
【種族レベルが上がりました】
俺は、息を吐いた。
誰が最後に倒すかは、気にならなかった。
前へ来た相手が、止まった。
それで、よかった。
◇
交代で後ろへ戻ったとき、手が汗で濡れていた。
水を受け取る。
一口。
喉が、少し痛い。
俺は、新しいスキルを開いた。
【戦声 Lv.1】
【魔力を乗せた声で、近くの仲間の動揺を和らげ、意識を戦闘へ向けやすくする】
【恐怖や混乱を完全に無効化するものではない】
【声の届く範囲と、相手の状態によって効果が変わる】
【消費MP:20】
【再使用まで:180秒】
「……味方へ使う、声なんですね」
〈威圧と逆方向か〉
〈敵を怯ませて、味方を立て直す〉
〈初めて支援っぽいスキル覚えたな〉
〈修羅が声出すと、実際に前にいるから説得力あるんだよな〉
俺は、少し首を傾げた。
みんなを指揮したかったわけではない。
ここには、まだ盾がある。
まだ、一緒に戦える人がいる。
それを、伝えたかっただけだ。
近くへ、さっき倒れた盾役の人が歩いてきた。
腕へ布が巻かれている。
「……さっき、ありがとう」
俺は、顔を上げた。
「いえ。腕、大丈夫ですか?」
「しばらく休めって。でも、折れてはいない」
その人は、俺の前で少し迷った。
「声、聞こえた。俺、起きた後も、もう一回受けるのが怖くてさ」
視線が、前線へ向く。
「でも、右に人が戻ったって分かって……足が、止まらなくなった」
俺は、手の中の器を持ち直した。
「……よかったです」
「うん」
短く頷いて、その人は治療所へ戻っていった。
俺は、その背中を少し見送った。
声にも、使い道がある。
斧を振るだけでは、届かない所へ。
◇
前へ戻ると、太陽が少し西へ傾いていた。
まだ、夕方ではない。
第5波は、続いている。
ただ、最初ほど敵の列は揃っていなかった。
盾持ちの間が、空く。
走狗が、先へ出すぎる。
鳥が、上空で旋回する。
そこへ、リュカさんが大きく回り込んだ。
飛行する影が外へ押し出され、城壁の弓兵が狙う。
俺たちは、地上。
鬼装を維持し、目の前へ来る相手を倒した。
斧。
槍。
盾。
糸。
何度も、同じことを繰り返す。
その中で、斧閃が少し変わった。
放った刃が、遠くでも散りにくい。
狙った場所へ、真っすぐ進む。
猪の脚へ当てる。
オーガの武器を持つ腕へ。
追わずに、止める。
【〈斧閃〉のレベルが上がりました】
【Lv.3 → Lv.4】
俺は、表示を横へ送った。
次に、盾を引いたとき。
相手の足が、どちらへ踏ん張っているか。
腕に伝わる力で、少し早く分かった。
【〈崩し〉のレベルが上がりました】
【Lv.2 → Lv.3】
強くなっている。
でも、その変化を試すために、列を離れる必要はない。
同じ場所で、同じ相手を受ける。
その一回が、少しずつ速くなっていた。
〈斧閃も崩しも上がった!〉
〈どんどん隙がなくなっていく〉
〈昨日より一回で削る量が増えてるな〉
〈味方との合わせ方もよくなってる〉
ガランさんが、盾を少し開く。
俺は、その隙間へ迷わず入った。
◇
最後のオーガは、二体並んで来た。
片方が前。
もう片方が、少し後ろ。
俺たちだけで追いかけず、隣の部隊と足並みを合わせた。
右側は、ガランさん。
左側は、別の大盾。
真ん中を、槍が狙う。
オーガが盾を寄せる。
その外側へ、イトの糸。
腕が、少し引かれる。
俺は、斧を持ち上げた。
「右、入ります!」
ガランさんが押す。
相手の盾が止まる。
羅刹腕を、縁へ。
引く。
開く。
斧を、肩へ。
その後ろから、もう一体の棍棒。
俺は低く下がった。
振り抜かれた腕が、前のオーガへぶつかりかける。
動きが止まった。
俺は斧閃を、斜めに放つ。
棍棒を持つ腕へ当たる。
カゲロウさんの槍が、その脚を突いた。
二体の間が、崩れる。
「前、詰める!」
指揮役の声。
ガランさんと、隣の盾が進んだ。
俺も、その横へ。
今度は、大きく振らない。
短く。
確実に。
一体目が倒れる。
もう一体は、後ろへ下がろうとした。
足元へ、白い糸。
俺は斧を、もう一度振った。
◇
【第5波の撃退を確認しました】
【東門および北東防衛線を維持しました】
表示が出た。
俺は、その場で斧を下ろした。
隣から、大きな息。
ガランさんだった。
「……止めたな」
「はい」
俺も、頷く。
すぐに大きな歓声は上がらなかった。
みんな、疲れていた。
ただ、一人が盾を軽く叩いた。
隣の人が、それに応える。
少しずつ音が増えて、最後に声が上がった。
「守ったぞ!」
俺は、口元を緩めた。
怖いまま、戦った。
不安が消えたから勝てたわけではない。
隣の盾が見えていた。
後ろの糸があった。
戻る場所を、知っていた。
それで、もう一度前へ出られた。
◇
休憩場所へ戻り、俺は通知を開いた。
何度も出ていた、成長の記録。
【種族レベルが上がりました】
【羅刹Lv:72 → 85【UP!】】
「……八十五」
数字を、声に出す。
〈八十五!?〉
〈進んだあああ!〉
〈第二日の午後でここまで来た!〉
〈あと十五……〉
百。
上限の数字を、少しだけ意識した。
でも、今は追いかけない。
次の相手が来れば、また戦う。
必要な場所で、必要なことをする。
その先で届けばいい。
俺は、スキルの通知も確認した。
【新規獲得】
〈戦声 Lv.1〉
【スキル成長】
〈斧閃 Lv.3 → Lv.4〉
〈崩し Lv.2 → Lv.3〉
新しい声。
届くようになった刃。
前より、引きやすくなった盾。
できることが、また増えていた。
そこへ、リィナさんが来た。
手には、水と布。
「お帰りなさい」
「ただいまです」
いつもの返事をする。
彼女は俺の手を確かめてから、少し声を落とした。
「海都の続報が、来ています」
俺は顔を上げた。
近くにいたガランさんも、こちらを見る。
「倉庫地区の内側で、新しい防衛線を作れたそうです。避難と物資の移送も、進んでいると」
俺は、しばらく黙った。
全部取り戻した、という話ではない。
安全になった、と言えるわけでもない。
でも、止まっていない。
まだ、守っている。
「……そうですか」
胸の奥から、少しだけ力が抜けた。
〈こっちでも聞いた〉
〈海都、持ち直してる〉
〈まだ戦ってるけど、線は作れたって〉
俺は、コメントへ目を向けた。
昼より、言葉が少しはっきりしている。
どこで。
誰が。
何をしているか。
それが分かるだけで、こんなに違う。
俺は、水を受け取った。
「ありがとうございます。伝えてくれて」
リィナさんが頷く。
隣で、イトが人の姿へ戻り、椅子へ座った。
俺の器を見る。
「みず」
「はい。イトの分も、ありますよ」
小さな器が渡される。
俺たちは、並んで飲んだ。
まだ日は、落ちていない。
今日も、最後の波が残っている。
でも、その前に少し休める。
俺は斧を足元へ置き、空を見上げた。
遠くの海でも、誰かが同じように水を飲めていたらいい。
そんなことを思いながら、次の鐘を待った。
次の鐘が鳴ったのは、日が傾き始めた頃だった。
【第6波を確認しました】
【主要接近方向:東】
俺は、空になった水の器を返した。
ガランさんが盾を持ち上げる。
イトは、椅子から下りてリィナさんの横へ行った。
少しして、白い蜘蛛の姿で戻ってくる。
「……行きましょうか」
前脚が上がった。
リィナさんが、俺の鞄へ小さな包みを入れる。
「食べられるときに、少しずつ」
「はい。ありがとうございます」
俺は斧を取り、門へ向かった。
◇
第6波は、始まった直後から激しかった。
走狗の群れ。
その後ろに、盾を並べたオーガ。
空には、鉤鳥。
昨日より、互いの距離が近い。
一体を倒したところへ、次の影が入ってくる。
「右、出ます!」
盾の横へ。
斧を振る。
戻す。
赤い弧を、糸に止まった走狗へ放つ。
倒れる。
そこへ、猪。
「大きいの、来る!」
ガランさんの声。
俺は、立つ場所を変えた。
正面へ入らない。
盾が流す側の外へ。
鬼装の刃を、前脚の内側へ叩き込む。
猪の体が傾いた。
イトの糸。
カゲロウさんの槍。
俺は、倒れかけた首へ斧閃を放つ。
【経験値を獲得しました】
次。
前へ。
戻る。
もう、そのたびに頭の中で順番を唱える必要はなかった。
ガランさんの盾が動けば、空く場所が分かる。
イトの糸が張れば、止まる相手が見える。
俺が声を出す前に、槍が少し引かれることもあった。
〈噛み合ってるなあ〉
〈最初の訓練見てたから感動する〉
〈午前中よりさらに速い〉
日が沈むにつれ、目印の布の横に灯りが置かれた。
城壁の上にも、火。
影が、揺れる。
俺は、相手の顔より足元を見る時間を増やした。
暗くなると、距離が少し分かりにくい。
飛び込む前に、一度確かめる。
それでも、数は多かった。
交代して、水を飲む。
食べ物を一口。
また、前へ。
最後のオーガを倒したときには、空から赤い色が消えていた。
【第6波の撃退を確認しました】
【東門防衛線を維持しました】
俺は、長く息を吐いた。
「……止めましたね」
「ああ」
ガランさんが盾を下ろす。
肩が、大きく上下していた。
表示を開く。
【種族レベルが上がりました】
【羅刹Lv:85 → 94【UP!】】
九十四。
俺は、その数字へ少し見入った。
「……あと、六つ」
〈近い!〉
〈明日には百いきそう〉
〈また進化か?〉
〈羅刹の次、何になるんだろ〉
分からない。
でも、少し楽しみになった。
鬼のときは、百で上限だった。
次も同じなら、あと六つ。
俺は表示を閉じ、斧を持ち直した。
「まずは、戻ります」
◇
門の内側には、温かい灯りが並んでいた。
料理の匂い。
水を注ぐ音。
空いた器を重ねる人。
昨日と、似た景色。
俺は、その中へ戻った。
リィナさんが俺たちの姿を見つけ、こちらへ来る。
「お帰りなさい」
「ただいまです」
装備を外す。
手を見せる。
脚の傷も、確かめてもらう。
大きな怪我はなかった。
小さな擦り傷へ薬を塗ってもらい、俺は椅子へ座った。
イトも人の姿へ戻り、隣へ腰を下ろす。
匙が渡される。
器から、湯気。
「……いただきます」
一口食べる。
ようやく、肩が下がった。
ガランさんは、食事の前に盾を修理所へ持っていった。
カゲロウさんは報告。
ユズリハさんも、糸を張った場所の確認へ向かっている。
それぞれの仕事が、少しずつ終わっていく。
俺は、頭上を見た。
星が、出始めていた。
「今日も、長かったですね」
呟くと、リィナさんが頷いた。
「はい。海都の方も、内港で迎撃を続けているそうです」
「……まだ、続いてるんですね」
「物資を動かす準備は、こちらでも進めています。今は、送れる便がないので、必要な物を揃えていると」
俺は頷いた。
向こうも、今頃食べられているだろうか。
そんなことを考えながら、もう一口。
そのときだった。
広場の奥から、怒鳴り声がした。
「灯りを増やせ!」
顔を上げる。
城壁の上で、火が一つ動いた。
続けて、短い笛。
一度ではない。
何度も。
休憩していた人たちが、そちらを向く。
俺も、匙を止めた。
夜の空を、何かが横切った。
◇
最初は、鳥かと思った。
でも、翼の動きが違う。
大きな膜。
長い尾。
そいつが城壁の灯りを避け、暗い場所へ向かっている。
次の瞬間、壁の上から叫び声が上がった。
「上だ! 頭を下げろ!」
何かが、石へぶつかった。
重い音。
火の粉が散る。
広場の空気が、一瞬止まった。
それから、鐘が鳴り始めた。
昼とは違う。
短く、速く。
【緊急警報】
【第7波を確認しました】
【夜間侵攻が発生しています】
【各防衛部隊は指示を確認してください】
「……七?」
声が出た。
周りでも、椅子が鳴った。
「まだ来るのか!?」
「昨日は、なかっただろ!」
「夜番、外の様子は!」
俺は、器を机へ置いた。
昨日と同じように、夕方の波を越えれば休めると思っていた。
でも、告知に出ていたのは、主要な侵攻時間。
それ以外は絶対に来ないなんて、書いていなかった。
頭で理解するより先に、門の方から声がした。
「東外周、接触!」
俺は、立ち上がった。
◇
「全員、勝手に門へ集まるな!」
ゼルガさんの声が、広場を通った。
戦槌を持っている。
いつ、手へ取ったのか分からなかった。
「夜の担当は持ち場へ! 休憩中の部隊は、指揮の下で交代する! 灯りのない場所へ走るな!」
人の流れが、変わった。
立ち上がったまま止まっていた人が、担当者の前へ向かう。
荷車が、道の端へ寄せられる。
治療所の入口へ、灯りが追加された。
俺は足元の斧を取った。
ガランさんが、修理所から戻ってくる。
手には、別の盾。
「行けるか」
「はい。少しは、休めました」
「俺もだ」
イトが、俺の袖を掴む。
顔を向ける。
眠そうだった目が、今は大きく開いていた。
「いく」
俺は一度、その顔を確かめた。
「一緒に。暗い所へ、一人で出ないでください」
頷きが返る。
リィナさんが、水の容器を差し出した。
補充したばかりらしい。
俺は受け取り、鞄へ入れた。
「……また、戻ります」
「はい」
返事の後、彼女はすぐに治療所へ向かった。
俺たちも、持ち場へ走り出した。
◇
夜の門外は、昼と別の場所だった。
灯りの届く地面。
その先の、黒い草地。
林は、ほとんど見えない。
音だけが、先に来る。
草を踏む音。
低い息。
爪が、石を擦る音。
「……見えにくいですね」
俺は灯火を出した。
手元と、足元。
全部を照らせるわけではない。
でも、目印の杭は見えた。
ガランさんが盾を構える。
「遠くは見張りに任せる。近づいたのを、受けるぞ」
「はい」
城壁から、光が放たれた。
魔法の灯りが草地の上へ浮く。
その下で、何体もの黒い体が動いていた。
犬に似ている。
でも、昼の走狗より脚が細く、耳が大きい。
【夜走狗 Lv.63】
【HP:1,120/1,120】
【暗所での活動を得意とする魔物。
優れた聴覚を持ち、足音や武器の接触音を頼りに獲物へ接近する。】
俺は、情報を声に出した。
「音で、来るみたいです!」
近くの人が頷く。
その直後、一体が灯りの縁から飛び込んだ。
盾へ、衝撃。
「右!」
「出ます!」
いつもの声。
俺は、その一言で足を動かせた。
斧を振る。
黒い体が倒れた。
低く戻す。
次は、左。
糸が張る。
イトの白い腹が、壁際の灯りに見えた。
位置が分かる。
俺は、赤い刃を放った。
止まった影へ当たる。
【経験値を獲得しました】
数字を見る前に、次の音がした。
◇
頭上で、羽ばたき。
俺は、顔を上げすぎないようにした。
地上の相手は、まだいる。
「上、二!」
城壁から、報告。
膜の翼を持つ魔物が、灯りへ向かって下りる。
狙いは、人ではなかった。
松明の台へ、爪が掛かる。
灯りが、倒れた。
暗くなる。
「灯り、守れ!」
誰かが叫ぶ。
俺は、斧を構えた。
味方のいない方向。
翼が開く。
その胸へ、斧閃。
赤い弧が、闇を切った。
魔物が、地面へ落ちる。
近くの槍兵が仕留め、その後ろで別の人が灯りを立て直した。
〈灯り狙うのかよ!〉
〈夜の敵、嫌すぎる〉
〈赤い斬撃が見えるの助かるな〉
俺は、呼吸を整えた。
何を狙っているか。
ただ、噛みつくだけではない。
暗くしてから、地上の群れが入ってくる。
俺は、そのことを指揮役へ伝えた。
灯りのそばへ、盾が一枚追加された。
人も、変わる。
驚いたままではいられない。
気づいたことから、直していく。
◇
夜走狗は、速かった。
ただ、体は重くない。
近づいてきた瞬間を、斧で取る。
無理に大きく振らない。
影を追って、暗闇へ出ない。
昼のうちに練習した戻り方が、ここでも助けになった。
ガランさんの右。
その少し後ろに、灯り。
俺が下がれば、盾が正面を向く。
新しい敵でも、全部を最初から覚え直すわけではなかった。
「右前、止まった!」
ユズリハさんの声。
俺は、目印の向こうを見る。
糸に絡んだ、一体。
「撃ちます!」
斧閃。
倒れる。
【種族レベルが上がりました】
表示が、端へ出た。
九十七。
あと、三つ。
俺は斧を引き戻した。
今は、数えない。
前の相手。
横の味方。
足元。
そこを、一つずつ。
◇
前線へ、重い足音が近づいた。
黒い体。
低い頭。
額と肩を、厚い外殻が覆っている。
昼の鎧背牙猪より、毛が長い。
【黒鎧牙猪 Lv.74】
【HP:2,860/2,860】
俺は情報を伝えた。
ガランさんが、足を置き直す。
「一体目、右へ流す!」
「分かりました!」
猪が止まる。
暗い地面を、前脚が掻いた。
突進。
盾へ、激突する。
ガランさんの体が、半歩押された。
でも、向きは変わる。
俺は、左へ入った。
脚の内側へ、斧。
刃が通る。
猪が、走り抜ける。
その先へ、イトの糸。
後脚が、引かれた。
俺は追わずに、斧を構える。
「右前、斧閃!」
赤い刃が、首の下へ入った。
猪が傾く。
カゲロウさんの槍が、横から伸びた。
大きな体が、地面へ倒れる。
その後ろから、二体目。
俺は、もう一度位置へ戻った。
同じことを、繰り返す。
ただし、同じ相手だとは思わない。
速さ。
頭の高さ。
踏み込む脚。
見える範囲で、確かめる。
斧を振る。
戻る。
三体目を倒したとき、通知が重なった。
【種族レベルが上がりました】
【羅刹Lv:99 → 100【UP!】】
俺は、その数字を見た。
百。
来た。
そう思った。
でも、その下には何も出なかった。
◇
次の走狗が、盾へ飛びついた。
俺は反射的に、右へ出る。
斧。
戻る。
【経験値を獲得しました】
表示は、それだけだった。
上限に到達したという文字も。
進化できるという通知も。
何も、ない。
「……あれ」
〈百!〉
〈カンスト!?〉
〈進化通知は?〉
〈今、何も出なかった?〉
俺も、そう思っていた。
でも、確認する時間はない。
前から、また黒い影。
俺は、斧を構えた。
鬼力を発動する。
体の奥が熱くなり、夜の冷たい空気が頬へ当たった。
肩へ飛び込んでくる一体を、柄で外す。
魔力の腕で、次の一体の進路をずらす。
斧を、低く振った。
倒れる。
イトの糸が、右を止める。
そこへ、赤い刃。
次。
もう一体。
しばらくして、また表示が出た。
【種族レベルが上がりました】
【羅刹Lv:100 → 101【UP!】】
「……上がるんだ」
声が、漏れた。
〈えっ〉
〈百一!?〉
〈上限じゃない!〉
〈羅刹、百超えるのかよ!〉
俺は、一瞬だけガランさんを見た。
「まだ、上がるみたいです」
「それは、いい知らせだな!」
盾が、また鳴った。
「詳しい話は、戻ってから頼む!」
「はい!」
俺は前へ向き直った。
百で終わりではない。
なら、まだ強くなれる。
それは、今の俺にはありがたかった。
◇
交代で下がったときには、空は完全に黒くなっていた。
夜番の部隊と、入れ替わる。
俺たちは、灯りのある場所へ戻った。
水を受け取る。
指を開く。
イトが、横へ体を下ろした。
俺は、その前脚へ手を添えた。
「……大丈夫ですか」
脚が、一度動く。
俺は頷き、表示を開いた。
【種族:羅刹】
【Lv:103】
それだけ。
上限の数字は、書かれていない。
進化の項目も、増えていなかった。
俺は、少し考える。
「鬼のときは、百だったんですけどね」
〈種族で違うんじゃない?〉
〈上位種だから必要レベル増えるのかも〉
〈百二十とか?〉
〈百五十説〉
〈二百だったらどうする〉
「……二百は、ちょっと遠いですね」
苦笑する。
百五十。
その数字を、頭の中で並べてみた。
鬼になったときも、小鬼の頃より先が長かった。
羅刹は、さらにその上。
「もしかして、百五十まで上げないといけないんですかね」
言ってから、首を傾げる。
分からない。
百十かもしれない。
百五十かもしれない。
進化に、別の条件があるのかもしれない。
今、分かるのは一つだけだった。
「百で終わりでは、なかったです」
〈確定してるのはそこだな〉
〈まだ伸びる余地あるの熱い〉
〈ただ、今から五十は大変だぞ〉
俺は、前線を見た。
灯りの向こうで、まだ盾が動いている。
矢が飛ぶ。
魔法が、夜を照らした。
「……戦う相手は、まだ来てますね」
そう言うと、横から声がした。
「だからって、休憩を飛ばすんじゃないよ」
ゼルガさんだった。
俺は、器を持ち直した。
「飛ばしません」
「よし」
彼女は夜の前線へ顔を向けた。
少しの間、そのまま見ている。
「今夜は、交代を短くする。眠いまま立たせるわけにはいかないからね」
近くの担当者が頷く。
新しい時間割が、紙へ書き込まれた。
夜は休めると思っていた。
でも、敵は来た。
そのせいで、俺たちもやり方を変えなければならない。
◇
少しして、セイルさんから全体への連絡が届いた。
【ヴァルグ防衛隊への連絡】
【夜間侵攻に対応するため、部隊の交代予定を変更します】
【各担当窓口で、休息と配置の時間を確認してください】
【現在、東門および北東側の防衛線は維持されています】
俺は、最後の一行を読んだ。
維持している。
まだ、通していない。
リィナさんが、新しい水を持ってきた。
その顔には、疲れが見えた。
でも、俺を見つけると、足を少し速める。
「修羅さん」
「はい。大きな怪我はありません」
先に言う。
彼女は俺の手と顔を確かめてから、頷いた。
「分かりました。次の交代まで、こちらで休んでください」
「はい」
器を受け取る。
温かかった。
冷えた指へ、熱が移る。
隣で、イトが脚を畳む。
その白い体へ、リィナさんが布をかけてくれた。
俺は、斧を横へ置いた。
百を超えても、終わらなかった。
夜になっても、敵は来た。
思っていたより、先は長い。
でも、前には盾があり、後ろには灯りがある。
交代する人も、戻る場所も。
俺は、少しだけ目を閉じた。
次に呼ばれたら、また立とう。
そのときには、今より少し強い自分で。
遠くで鳴る盾の音を聞きながら、俺は器を両手で包んだ。




