7話 レベル上限と救助
●主人公視点
イトが、人の姿で歩けるようになってきました。
どうも、修羅です。
最初は一歩進むたびに足元を見ていたけど、最近は少し遠くまで見ながら歩いている。
ただし。
「……袖、離しても大丈夫ですよ?」
俺の袖には、白い糸。
その先は、イトの指へつながっていた。
「つながる」
「はい。つながってますね」
引っ張られる。
少しだけ、そちらへ寄る。
イトが頷く。
確認は終わったらしい。
〈安全確保〉
〈手を繋ぐより確実だからな〉
〈修羅が迷子になるのを防いでる〉
「俺、そこまで方向音痴じゃないですよ」
そんなことを話しながら、組合へ入った。
今日は、イトと二人だ。
リィナさんは街の薬師の店へ行っている。
持ち込んだ薬草の品質を褒められ、選別の仕事を手伝ってみないかと誘われたらしい。
昨日の夕食では、その話を少し嬉しそうにしていた。
俺も、今日は仕事をしてこよう。
◇
「こちらの調査依頼は、いかがでしょう」
リゼさんが出してくれた紙には、古い坑道の絵があった。
【旧採掘坑・迷宮化調査】
【依頼ランク:E】
【依頼内容:入口付近の地形、魔物、異常の有無を確認すること】
【備考:採掘を終えた坑道で、新たな通路が発見された。作業員が蟻型の魔物を目撃。調査範囲は入口から最初の広間までとする】
「迷宮化?」
「以前の見取り図にない通路が、できているそうです。作業員は魔物を見て、すぐ引き返しています」
リゼさんが、別の紙を並べる。
古い坑道の見取り図だった。
入口から、緩い下り坂。
その先に、丸い広間。
「ここまでは、昨日、作業員が往復しています。ただし、その奥は未確認です。まずは安全に入れる状態かを調べ、詳しい調査隊を出す判断に使います」
「なるほど」
「奥へ進む依頼ではありません。入口に変化があれば、そこで戻っていただいて構いません」
「分かりました」
俺は地図を確かめた。
街から、それほど遠くない。
狭い通路なら、大きくなったイトでも入れそうだ。
隣を見ると、イトも紙を覗いていた。
「どうですか?」
「いく」
短い返事。
俺は頷いた。
「じゃあ、調べてきます」
◇
坑道の入口には、木の柵が立っていた。
その横に、作業用の小屋。
留守番をしていた男へ組合証を見せると、すぐに柵を開けてくれた。
「無理はしないでくれよ。昨日は小さいのしか見なかったらしいが、奥で何が増えてるか分からん」
「はい。広間まで、見て戻ります」
坑道へ入る前に、イトが蜘蛛の姿へ戻った。
服は袋へしまう。
白い脚が、岩を確かめるように動いた。
戦うなら、まだこちらの姿の方が慣れている。
「よろしくお願いします」
前脚が上がる。
俺は灯火を出し、入口を振り返った。
外は明るい。
木の柵と、小屋の屋根が見える。
帰る場所を確かめてから、歩き始めた。
◇
坑道は、静かだった。
古い支柱。
壁に残った、掘り進めた跡。
足元には、小石と砂が積もっている。
見取り図と比べながら進む。
最初の曲がり角。
少し先に、二本の支柱。
そこまでは、合っていた。
「……蟻、いませんね」
〈奥かな〉
〈見えないだけかもしれんぞ〉
索敵へ意識を向ける。
前方で、何かが擦れた。
乾いた、小さな音。
広間が見えた。
灯火を少し持ち上げる。
床の中央に、黒い石があった。
腰くらいの高さ。
その表面に、赤い筋が走っている。
「……あれ、採掘用の物じゃないですよね」
鑑定を使った。
【迷宮核】
【状態:起動待機】
俺は、足を止めた。
「イト。戻り――」
足元が、光った。
踏んでいた床に、細い線が浮かぶ。
背後で、重い音がした。
振り返る。
来た道へ、岩の板が下りていた。
入口が、塞がっている。
【迷宮が起動しました】
【閉鎖領域を形成します】
【試練:群蟻の間】
「……いや」
もう一つ、表示。
【生存者を確認】
【群れを排除してください】
壁の穴から、黒い脚が出た。
◇
蟻だった。
ただし、大きい。
俺の膝より高い位置に頭がある。
太い顎。
節の目立つ脚。
艶のある黒い甲殻。
【黒牙蟻 Lv.38】
【HP:510/510】
一体。
二体。
左右の穴から、続けて出てくる。
「……話が、違いますね」
〈入口塞がった?〉
〈起動待機って出てたぞ〉
〈戻れるか確認して!〉
俺はイトと後退した。
岩の板へ手を当てる。
押す。
動かない。
斧の柄で叩く。
鈍い音が返るだけ。
その間にも、蟻が近づいてきた。
「イト、右!」
糸が飛ぶ。
先頭の脚が止まる。
俺は左の一体へ斧を振った。
頭の横へ、刃が入る。
倒れた体を越えて、次が来る。
「〈鬼装〉!」
斧へ力を通す。
横へ振る。
二体目が倒れた。
イトが壁へ上り、通路の片側へ糸を渡す。
蟻が絡まり、後ろの一体がぶつかった。
俺は、そこをまとめて叩いた。
【経験値を獲得しました】
【経験値を獲得しました】
五体。
八体。
十体。
全部倒せば、開く。
そう思った。
壁の穴から、また脚が出てきた。
◇
「……まだ、来ますね」
最初の一群を倒した後、少しだけ間があった。
その間に、広間を見た。
中央の核。
壁には、八つの穴。
奥へ続く扉らしき物はある。
でも、継ぎ目があるだけで、取っ手も何もない。
核へ近づくと、新たな表示が出た。
【制御情報の読み込みに失敗しました】
【終了条件を再照合しています】
俺は、文字を見た。
もう一度、読む。
「……失敗?」
壁の穴が、赤く光る。
蟻が、出てくる。
〈それ大丈夫なやつ?〉
〈終了条件って〉
〈運営に送った方がいい〉
次の群れを倒し、俺はメニューを開いた。
緊急の不具合報告。
場所と、表示された内容。
配信中であることも送る。
返信は、間もなく届いた。
【報告を受け付けました】
【現在、該当領域の状態を確認しています】
【緊急離脱を選択した場合、キャラクター死亡時の処理を行い、安全な地点へ帰還します】
続いて、従魔についての説明。
俺は、そこで指を止めた。
イトは、生き残っている。
俺だけ戻った場合、従魔は自動で一緒に帰還するとは限らない。
通常の送還も試した。
【閉鎖領域内のため、送還できません】
足元へ、イトが戻ってきた。
前脚が、俺の脛へ触れる。
俺はしゃがんだ。
「……一人では、帰りませんよ」
〈修羅〉
〈対応待とう〉
〈今はMP残して戦え〉
頷く。
そのとき、中央の核から、蟻の死体へ細い光が伸びた。
黒い体が崩れる。
消えていく。
直後、穴の奥が赤くなった。
俺は、核を見た。
「……お前、回収して、また作ってるんですか」
返事は、ない。
ただ、次の蟻が出てきた。
◇
そこからは、時間の使い方を変えた。
最初のように、一気に倒さない。
八つの穴を、全部見張ろうともしない。
広間の端。
壁が内側へ張り出し、二方向からしか近づけない場所がある。
そこへ、袋を移した。
イトが糸を張る。
蟻の進む道を、狭める。
俺は、その出口で斧を構えた。
「一体ずつです。急がなくていい」
蟻が来る。
前脚が糸へ触れる。
止まった頭へ、斧。
次。
顎を避け、首の付け根。
次。
同じ場所へ刃を入れる。
鬼装は、必要なときだけ。
鬼力も、使い続けない。
喰命でHPは戻る。
でも、腕の重さと、乾いた喉までは戻らなかった。
「イト。水、飲みましょう」
群れが途切れた短い間に、革袋を開ける。
蓋へ少し注ぐ。
イトが近づく。
俺も、一口だけ飲んだ。
食料はある。
いつもの癖で、余分に持ってきていた。
それが、ありがたかった。
【種族レベルが上がりました】
表示が出る。
体が、少し動かしやすくなる。
でも、蟻は止まらない。
倒す。
また、出てくる。
俺は数えるのを、やめた。
◇
途中、サポートから連絡が来た。
閉鎖領域の制御不具合を確認。
修復には時間がかかる。
俺とイトを一緒に帰還させる方法も、確認中。
現実側の接続については、無理をせず、継続が難しければ連絡してほしい、とあった。
俺は、残っている水を見る。
イトを見る。
まだ、動ける。
「……待ってる間に、倒してます」
そう返した。
配信のコメントが流れる。
〈一人じゃないぞ〉
〈水の残り、ちゃんと見て〉
〈右の糸、切れそう〉
顔を上げる。
右の壁際。
白い糸が、細くなっていた。
「ありがとう。イト、右、お願いします」
イトが動く。
俺は、その分だけ位置をずらした。
蟻が、顎を開く。
刃を差し込み、捻る。
倒す。
また、倒す。
最初は不気味だった脚の音も、次第に聞き分けられるようになった。
近い一体。
糸に絡んでいる一体。
壁の奥から、新しく出てくる群れ。
見なくても、ある程度分かる。
【〈索敵〉のレベルが上がりました】
表示を横目で見て、斧を振る。
刃が甲殻へ当たる角度も、少しずつ変わった。
硬い所へ力任せに入れない。
頭が上がる瞬間。
脚を伸ばす瞬間。
そこを、狙う。
【〈斧術〉のレベルが上がりました】
「……今日の授業、長いですね」
自分で言って、少し笑った。
イトの前脚が、足へ触れる。
俺は、一度だけ下を見た。
「大丈夫です。まだ、いけます」
◇
蟻の種類が、変わった。
黒い体の中に、赤茶色の大きな個体。
頭が広い。
顎も、長い。
【重顎兵蟻 Lv.52】
【HP:1,140/1,140】
「……追加、ですか」
壁の光が、前より強くなっている。
核へ鑑定を使う。
【迷宮核】
【状態:過剰稼働】
【討伐された侵入個体の魔力を回収中】
【終了条件を再照合しています】
俺は、短く息を吐いた。
倒すほど、次を作る。
新しい群れを処理する力が増えているのかもしれない。
奥から、兵蟻がもう一体。
俺は斧を握り直した。
「イト。大きい方、片脚だけでいいです」
白い糸が飛ぶ。
兵蟻が顎で糸を切る。
その後ろへ、別の糸。
俺が正面へ入る。
顎が、こちらを向く。
その隙に、イトの粘着糸が後脚へ重なった。
「〈崩し〉!」
斧を顎の外側へ掛ける。
横へ、引く。
体が流れる。
踏み直そうとした脚は、動かない。
兵蟻が傾いた。
首の横へ、刃を叩き込む。
一発では、倒れなかった。
引き戻す。
もう一発。
【経験値を獲得しました】
【種族レベルが上がりました】
俺は、表示を見た。
【種族Lv:59 → 60【UP!】】
六十。
入ったときは、四十五だった。
いつの間にか、十五も上がっている。
〈上がり方がおかしい〉
〈何体倒したんだこれ〉
〈今は強くなる方が助かる〉
その通りだった。
腕の力が増える。
足が、まだ前へ出る。
戦うたび、昨日までなら無理だった動きができる。
喜ぶ余裕はなかった。
俺は、次の蟻へ斧を振った。
◇
どれくらい経ったのか。
手のひらが、柄の形を覚えていた。
休むと、指が開きにくい。
水を飲む。
乾いた肉を、少しずつ噛む。
イトにも、食べさせる。
糸を張る役と、斧を振る役。
それを、何度も繰り返した。
イトのMPが減れば、俺が前へ出る。
俺のスタミナが減れば、イトが通路を厚く塞ぐ。
その奥で、灯火を消して座る。
壁の赤い光だけでも、今は輪郭が見えた。
小さな脚音が近づく。
イトの脚が、肩へ触れる。
交代。
俺は立ち上がった。
「……ありがとう」
斧を構える。
【種族Lv:76 → 77【UP!】】
また、表示。
蟻が来る。
前より、大きい。
でも、遅く見えた。
足をずらす。
斧を振る。
一撃で、頭が落ちる。
次の一体へ、刃を返す。
息が、少し楽になった。
自分がどれだけ強くなったのか、分からない。
分かるのは、まだ守れていることだけだった。
◇
サポートから、再び連絡が来た。
【制御修復を実行します】
【安全確保のため、対象領域内の魔物を排除してください】
【次回の生成を停止後、出口を開放します】
俺は、表示を読み直した。
「……終わる」
口にした瞬間、肩の力が抜けかけた。
慌てて、斧を握り直す。
まだだ。
まだ、目の前にいる。
壁の穴が、全部光った。
黒い蟻。
赤い兵蟻。
さらに、その奥から、白い筋の入った甲殻が見えた。
【鉄殻大蟻 Lv.68】
【HP:2,480/2,480】
「……最後まで、盛るんですね」
〈最後だ〉
〈落ち着いていこう〉
〈帰るぞ!〉
俺は、イトを見た。
白い脚が、床を踏みしめる。
いつものように、前脚が上がった。
「はい」
俺も、頷いた。
「帰りましょう」
鬼力を発動する。
斧へ、鬼装。
体の奥から、熱が上がった。
小さな蟻が先に来る。
踏み込む。
斧を振る。
一体が倒れる。
その後ろの兵蟻へ、刃を返す。
イトの糸が、右側の群れを止めた。
俺は左を抜く。
大蟻の顎が、迫る。
斧で受ける。
重い衝撃。
でも、足は動かなかった。
俺は、顎を外へ流した。
「〈崩し〉!」
体勢を崩す。
そこへ、白い糸が走る。
脚が止まる。
俺は斧を引き上げ、首の継ぎ目へ叩きつけた。
一撃。
抜く。
もう一撃。
大きな体が、沈む。
【経験値を獲得しました】
【種族レベルが上がりました】
まだ、いる。
残った兵蟻が、跳ねるように向かってくる。
俺は一歩、横へ。
その首へ、斧。
次。
次。
最後の一体が、イトの糸へ絡まった。
俺は、息を吐いた。
斧を持ち上げる。
振り下ろす。
脚の音が、止まった。
◇
【種族レベルが上がりました】
【種族Lv:99 → 100【UP!】】
【現在の種族におけるレベル上限に到達しました】
俺は、動かなかった。
斧を下ろしたまま、表示を見る。
百。
その下へ、もう一つ。
【進化条件を満たしました】
でも、今は開かなかった。
後ろで、岩が動く音がした。
振り返る。
塞がれていた通路が、ゆっくり開いていく。
その奥から、灯りが見えた。
誰かの、声。
「おい! 聞こえるか!」
人の声だった。
俺は、イトへ手を伸ばした。
大きな前脚が、掌へ重なる。
生きている。
二人とも。
「……帰れますよ」
言うと、喉が少し痛かった。
イトが、近づいてくる。
俺はその白い体へ、額をそっとつけた。
「お疲れ様です。本当に」
脚が、背中へ触れる。
少しの間、そうしていた。
コメント欄が、流れていた。
〈よかった〉
〈二人とも無事だ〉
〈帰ろう〉
俺は、立ち上がった。
斧を持つ。
袋を拾う。
イトの歩く速度に合わせて、通路へ向かった。
途中で、一度だけ表示が目に入った。
【種族:鬼】
【Lv:100/100】
【進化可能】
俺は、それを閉じた。
新しい力のことは、後でいい。
今は、外へ出たい。
リィナさんに、無事だと伝えたい。
それから、水を飲んで。
イトと、ご飯を食べよう。
通路の向こうで、灯りが揺れていた。
「いたぞ!」
駆け寄ってきた兵士が、俺の前で足を止める。
顔を見る。
肩を見る。
斧を見る。
何か言いかけて、そのまま俺の腕を支えた。
「もう大丈夫だ。歩けるか?」
「……はい」
一歩、足を出す。
膝が、曲がった。
「あれ」
立ち直そうとしたけど、力が入らない。
兵士が慌てて肩を貸してくれた。
「担架を!」
「いや、歩け……」
「今は乗れ」
はっきり言われて、俺は口を閉じた。
振り返ると、イトの前にも救助の人がしゃがんでいた。
「この子は、どう運べばいい?」
「脚、引っ張らないでください。あと……一緒に」
「分かった。離さないから」
毛布が、地面へ広げられる。
イトが俺を見た。
俺は、手を伸ばした。
「大丈夫です。もう、戦わなくていいので」
前脚が、指へ触れる。
それを確かめたところで、俺は担架へ寝かされた。
◇
外は、暗かった。
入口の前には灯りが並び、荷車と、大きな天幕が用意されていた。
冷たい風が顔へ当たる。
土と、草の匂い。
さっきまで吸っていた空気とは違う。
「……外だ」
呟くと、横を歩いていた兵士が頷いた。
「ああ。外だ」
天幕へ運び込まれる。
斧を預け、袋を下ろされる。
防具の紐へ手が伸びたとき、俺は反射的に腕を動かした。
誰かの手首へ、指が触れる。
「修羅さん」
リィナさんの声だった。
顔を向ける。
彼女が、そこにいた。
白い髪が少し乱れ、外套の前を片手で押さえている。
「防具を、外しますね」
「……はい」
俺は、手を離した。
リィナさんが留め具を外す。
胸元の圧迫がなくなって、ようやく大きく息を吸えた。
医師らしい男が、腕と脇腹を確かめる。
「深い傷は少ない。だが、擦り傷と打撲が多いな。手を開けるか」
指を伸ばそうとする。
途中で、止まった。
握っていた形から、うまく戻らない。
「ゆっくりでいい」
温かい布が、手へ当てられた。
リィナさんが指を一本ずつ支え、医師が傷んだ掌を洗っていく。
水が触れて、痛みが走った。
「っ……」
「皮が剥けている。よく、この状態で握っていたな」
「途中から、あんまり……」
分からなかった。
斧を落とさないことばかり、考えていた。
傷へ薬を塗られ、柔らかい布が巻かれる。
医師は俺の目を覗き込み、呼吸を確かめた。
「回復する力が働いていても、休息まで済んだことにはならん。今夜は戦うな。歩き回るのも駄目だ」
「……はい」
返事をすると、横から小さな音がした。
イトだった。
隣の寝台へ、大きな毛布ごと運ばれている。
脚の一本へ手を伸ばした治療師が、少し困った顔をした。
「蜘蛛の姿は、詳しく診た経験が少なくてね。触って嫌がる場所を教えてもらえるかな」
俺は体を起こしかけた。
すぐに、肩を押さえられる。
「寝たままで」
「……はい。脚の内側、何度か壁に擦ってました。あと、糸を出し続けてて」
治療師が頷く。
リィナさんがイトのそばへ移り、静かに声をかけた。
「イトさん。一本ずつ、見せてくださいね」
前脚が上がる。
泥を落とした布に、黒い汚れがついた。
関節の近くには、細かな傷があった。
俺は、それを見ていた。
「……気づかなかった」
声が、勝手に出た。
「戻ってくるたび、見てたのに」
リィナさんが顔を上げた。
少しだけ俺を見てから、イトの脚へ布を当て直す。
「今、見つけられました。手当てもできます」
俺は、頷いた。
それ以上は、何も言えなかった。
◇
配信は、救助されたところで終了していた。
視聴者へ無事を伝えてから、休んだ方がいいと勧められたからだ。
今は、コメントも表示されていない。
天幕の外を歩く足音。
湯を沸かす音。
布を絞る、水の音。
脚が擦れる音は、しない。
それなのに、物音がするたび顔を向けてしまう。
入口の布が揺れた瞬間、俺は手を握った。
掌が痛む。
「……蟻じゃないです」
自分に言った。
隣で、イトも体を起こしかけていた。
目が合う。
俺は寝台から手を下ろした。
白い前脚が、そっと重なる。
「もう、来ませんよ」
今度は、イトへ言った。
その脚から、少し力が抜けた。
リィナさんが器を持って戻ってくる。
「少しずつ、飲んでください」
温かい汁物だった。
手を伸ばすと、布を巻いた指では器が持ちにくい。
彼女が底を支えてくれた。
一口、飲む。
塩の味がした。
温かかった。
「……うまい」
リィナさんが、ようやく笑った。
でも、すぐに俯く。
「帰るって、言っていたので」
器を持つ手が、少し揺れた。
「暗くなっても戻らなくて。組合で、調査に入ったままだと聞いて……」
「……すみません」
「帰ってきてくださったので」
彼女は首を振った。
「今は、休んでください」
俺は、もう一口飲んだ。
隣では、イトも浅い器から水を飲んでいる。
二人とも、ここにいる。
斧を握っていなくても、大丈夫だった。
器を返し、毛布へ体を沈める。
手を下ろすと、また前脚が触れた。
「……イト」
小さく呼ぶ。
脚が、一度動いた。
「おやすみなさい」
返事を確かめてから、俺は目を閉じた。




