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5話 魔都の権力者

●主人公視点


 冒険者になりました。


 初めての依頼も、無事に達成しました。


 ついでに、ランクも上がりました。


 今日は、よく働いたと思います。


 なので、そろそろ宿で休んでもいいと思うんですよ。


「……領主様が、お呼びです」


 組合の出口で、そう言われた。


 どうも。


 休むタイミングを失った修羅です。


〈え?〉

〈今度は領主?〉

〈初めて街に来た日の予定じゃない〉

〈飯食って寝るだけだったはずなのに〉


 俺も、そう思ってます。


 声をかけてきたのは、紺色の上着を着た男だった。


 胸元には、街の門でも見た紋章。


 剣は下げているけど、鎧は着ていない。


 男は一礼すると、俺と隣のマルクさんへ顔を上げた。


「突然のことで、申し訳ございません。領主館にて、ご挨拶の機会を頂きたいとのことです」


「……俺に、ですか?」


「はい。修羅様に」


 様。


 慣れない呼ばれ方だ。


 俺は、念のため後ろを見た。


 リゼさんが、受付からこちらを見ている。


 その隣では、ガレスが水の瓶を持ったまま固まっていた。


 別の修羅さんは、いなかった。


「何か、しましたっけ」


「街道と西の牧場での件について、お礼を。また、個人的にお話ししたいことがあると伺っております」


 個人的。


 その言い方が、少し気になる。


 俺はマルクさんを見た。


 マルクさんは、男の顔を確かめてから頷いた。


「領主館の方で、間違いありません」


「知ってるんですか?」


「商会の倉庫を借りる際、こちらの方に手続きをしていただきましたので」


 なるほど。


 男が、穏やかに頭を下げる。


「ご都合が悪ければ、日を改めます。無理にとは申し上げておりません」


 俺は、肩のイトを見た。


 イトは俺を見ている。


 疲れているのは、疲れている。


 でも、領主に呼ばれる機会なんて、普通はなさそうだ。


「……長くならなければ」


「ありがとうございます。お連れ様も、ご一緒にどうぞ」


 マルクさんが、少し意外そうな顔をした。


 俺は、その袖を軽くつまんだ。


「一緒に来てもらって、いいですか」


「もちろんです」


 返事が早い。


 ありがたい。


 こういう場所へ一人で行く自信は、まだない。


     ◇


 領主館は、街の奥にあった。


 大通りを進み、広場を抜け、緩い坂を上る。


 その先にあるのは、庭を囲む石の塀と、大きな門。


 門の向こうには、三階建ての館が見えた。


 白っぽい壁。


 黒い屋根。


 入口へ続く階段には、左右に兵士が立っている。


「……ちゃんと、お金持ちの家ですね」


〈感想が素直〉

〈修羅の家も三階層あるぞ〉

〈縦の向きが逆だけど〉


「うちは、階段が下に続くので」


 それに、庭もない。


 入口の前に岩と木はあるけど、あれを庭と呼んでいいのかは分からない。


 館へ入ると、足音が変わった。


 石の床。


 高い天井。


 壁には、絵と大きな地図が飾られている。


 俺は斧を体へ寄せた。


 うっかり何か壊したら、今日の報酬が消えそうだ。


「武器は、こちらでお預かりいたします」


「あ、はい」


 入口で斧を預ける。


 短剣も外す。


 イトはどうしようかと聞くと、案内の男は少し笑った。


「その方は、ご一緒にと申しつかっております」


 その方。


 イトの待遇が、妙にいい。


〈イト様〉

〈先に話が通っている〉

〈領主、分かってるな〉


 案内されたのは、二階の部屋だった。


 大きな扉の前で、男が足を止める。


「失礼いたします。修羅様と、マルク様をお連れしました」


 中から、椅子の動く音がした。


 次に。


 ごんっ。


 何かをぶつけた音。


「……っ、どうぞ!」


 少しだけ、上ずった声だった。


     ◇


 部屋へ入る。


 大きな机。


 高い窓。


 壁いっぱいの本棚。


 そして、机の向こうに一人の青年が立っていた。


 銀色の髪。


 額の左右から伸びた、短い黒い角。


 俺と同じ鬼に近い顔立ちだけど、ずっと細身だ。


 濃紺の服には細かい刺繍が入り、肩には短い外套をかけている。


 立派な格好だった。


 ただ。


 片手で、膝を押さえていた。


「……大丈夫ですか?」


「はい。何も問題ありません」


 青年が、すっと姿勢を正す。


 俺を見る。


 肩のイトを見る。


 もう一度、俺を見る。


 その口元が、少しだけ緩んだ。


 すぐ、引き締める。


「ようこそ、ヴァルグへ。私が、この街を治めている――」


 そこまで言って、止まった。


 目が合う。


 数秒。


 青年が、ゆっくり息を吸った。


「……すみません」


「はい?」


「先に、握手していただいてもいいですか」


 俺は、止まった。


 隣で、マルクさんも止まった。


 案内してきた男だけが、静かに目を閉じた。


〈ん?〉

〈領主?〉

〈今なんて?〉


「握手、ですか」


「はい。あ、もちろん、嫌でしたら大丈夫です。お疲れでしょうし。いや、でも、できれば」


「……いいですけど」


 手を出す。


 青年が、机の横を回ってきた。


 早足だった。


 目の前まで来て、一度、服で手を拭く。


 その仕草に、見覚えがあった。


 今日、マルクさんがイトへ触る前にもやっていた。


 両手で、俺の手を握る。


「……本物だ」


「本物、ですね」


「温かい」


「生きてるので」


 青年が、顔を上げた。


 ものすごく、嬉しそうだった。


〈あっ〉

〈こっち側の人だ〉

〈領主様、視聴者じゃん〉

〈握手のために呼んだのか?〉


 そのとき。


 青年の視線が、俺の横へずれた。


 流れているはずのコメントの辺りへ。


「……あ」


 手が、ゆっくり離れる。


「配信」


「してます」


「…………」


 青年は、こちらを見たまま黙った。


 それから、案内の男へ顔を向ける。


「ベルン」


「はい」


「僕、今、どの辺りから」


「扉をお開けしたところからではないかと」


 青年が、目を閉じた。


〈全部です〉

〈膝ぶつけた音から聞こえてたぞ〉

〈領主の威厳、短い命だった〉


 マルクさんが、横で小さく咳をした。


 笑いを隠している。


「……分かります」


 ぽつりと、呟いた。


 今日、同じことを経験した人の声だった。


     ◇


「改めまして」


 全員が椅子へ座ったところで、青年が口を開いた。


「ヴァルグの領主を務めています。プレイヤー名は、セイルです」


「……プレイヤー?」


 思わず聞き返した。


 セイルさんが頷く。


「はい。βテストから参加しています」


 俺は、部屋を見回した。


 机。


 本棚。


 窓の向こうに見える、街の屋根。


「これ、全部……?」


「僕の私物、というわけではありませんよ。館も、兵士も、街のお金も。領主として扱う責任があるだけです」


 セイルさんが、苦笑した。


「最初から、この街の領主の息子という立場でした。父にあたる先代が退いた後、β期間中に引き継いだんです」


「そんな始まり方も、あるんですね」


「あります。剣を振るより先に、倉庫の不足分を調べることになりました」


〈領主プレイヤー、いたのか〉

〈ヴァルグの公示に名前出てる人だ〉

〈西門の補修、こいつが決裁したやつ?〉

〈俺たちが兎追ってる間に予算組んでたのか〉


 俺は、セイルさんを見た。


「戦ったりは、しないんですか?」


「訓練はしています。護身用に」


 少しだけ、視線が逸れた。


「実戦では、兵士の邪魔にならない位置に立つことから覚えています」


 マルクさんが、深く頷いた。


「大切ですね」


「はい」


 妙な連帯感が生まれている。


「ただ、修羅さんの配信を見て、斧も試したんです」


「おぉ」


「腕を痛めました」


「……無理は、しない方が」


「医師にも言われました」


〈真似するなって言っただろ〉

〈言ってないけど見れば分かるだろ〉

〈領主が執務できなくなる〉


 セイルさんは、少し照れたように笑った。


「最初に見たのは、火を起こしていた回です」


「……そこですか」


「はい。すごく強いのに、火がつかなくて困っていて」


「強さで、つくものじゃなかったので」


「あのとき、ちょうど帳簿を見ていたんです。収入と支出が合わなくて、何度計算しても駄目で」


 俺を見る。


「そちらも、何度石を叩いても駄目で」


「……仲間意識、感じてました?」


「とても」


 コメントが、一気に流れた。


〈領主と原始生活者の共通点〉

〈片方は財政、片方は火〉

〈文明の両端で困ってる〉


「それで見続けていたら、家を作って、仲間が増えて、ドラゴンに挑んで、最後は大会で優勝したでしょう」


 セイルさんの声が、少しずつ弾む。


「あの決勝の最後、斬撃を受けながら踏み込んだところ! あそこで下がらずに――」


「領主様」


 ベルンさんが、静かに声をかけた。


 セイルさんの口が止まる。


「……はい」


「ご用件を」


「分かっています」


 姿勢を正す。


 咳払いを一つ。


「街道での救助と、牧場の被害を防いでいただいた件、街を預かる者として、お礼を申し上げます」


 セイルさんが、頭を下げた。


 俺も、慌てて背筋を伸ばす。


「いえ。たまたま通ったので」


「それでも、助かった者がいます。ありがとうございます」


 さっきまでとは違う声だった。


 俺は少し迷ってから、頷いた。


「……はい」


 セイルさんが顔を上げる。


 そして、机の端に置いてあった紙へ手を伸ばした。


「そのうえで、ご相談があります」


     ◇


 広げられたのは、地図だった。


 ヴァルグ。


 その東へ延びる道。


 いくつかの街と、川。


 さらに向こうには、海岸線が描かれている。


「僕は、東への探索を進めたいと考えています」


 セイルさんが、地図へ指を置いた。


「正式リリースで、新しい大陸が追加されましたよね」


「はい。東にも、ありましたね」


「暁雲大陸アウレリア。翼人の暮らす大陸です」


 聞いた名前だ。


 でも、俺の世界地図では、その辺りは真っ黒だった。


 名前と方角しか分からない。


「当然、そこへ渡る航路はありません。この地図にも、載っていません」


 セイルさんが、紙の端を示す。


 描かれているのは、既存の沿岸部までだった。


「ですから、まずはガルド東側の道を確かめたいんです。港へ物を運べるか。橋は使えるか。途中に、どれほど危険な魔物がいるか」


 指が、ヴァルグから東へ動く。


「交易に使える道が整えば、船を用意する話もできます。ただ、今は各地からの情報が古く、分からない区間も多い」


 俺は、地図を見た。


 道は、長い。


 今日、歩いてきた距離よりも、ずっと。


「そこを、調べてほしいってことですか?」


「はい。調査隊の護衛と、危険な魔物への対応をお願いできないかと」


 セイルさんが頷いた。


「もちろん、一人で全部とは言いません。案内人や測量のできる者、荷物を運ぶ者も付けます。報酬と必要な装備も、正式に用意します」


 隣で、マルクさんが地図を見つめている。


 さっきまでとは違う、真剣な顔だ。


 俺も、もう一度、東の方を見る。


 知らない道。


 新しい魔物。


 その先には、海。


 面白そうだった。


 ものすごく。


 でも。


「……今は、無理です」


 口にすると、部屋が静かになった。


 セイルさんの指が止まる。


「それは、条件の問題でしょうか。報酬でしたら――」


「いえ。そこじゃなくて」


 俺は、自分の手を見た。


 さっき、鎧角獣へ斧を振った手。


 まだ、少し疲れが残っている。


「俺、今日、初めてこの街に来たんです」


「……はい」


「街のことも、周りの魔物も、ほとんど知りません。さっきも、知らない魔物を相手にして、蹴られて転がりました」


 脇腹を触る。


 痛みは薄くなったけど、ぶつけられた感覚は覚えている。


「一人なら、危なくなったら逃げられます。イトと一緒なら、隠れる場所も探せます。でも、調査する人や、荷物を運ぶ人がいるんですよね」


「はい」


「その人たちを連れて、知らない場所へ行くのは……まだ早いです。俺が戦えたとしても、みんなを無事に帰せるかは、別なので」


〈それはそう〉

〈今日も荷車止まってたもんな〉

〈自分が勝つのと護衛は違う〉

〈大会優勝したから何でもできるわけじゃないしな〉


 セイルさんは、黙って聞いていた。


 俺は続ける。


「それに、家に残してきた魔物たちもいます。村の人に見てもらってますけど、長く空ける準備はしてません」


 今日の旅ですら、初めてのことが多い。


 いきなり大きな探索隊の役目を引き受けるには、分からないことが多すぎた。


「まずは、ここで依頼を受けたり、周りを歩いたりしてみたいです。その後で、自分にできるか考えたいので」


 俺は、セイルさんを見た。


「すみません。今は、引き受けられません」


 セイルさんが、ゆっくり息を吐いた。


 少しだけ、肩が下がる。


 残念そうだった。


 でも、怒ってはいなかった。


「……そうですね」


 地図から、手を離す。


「僕、少し急いでいました」


 視線が、窓の外へ向く。


 街の屋根に、夕方の光が当たっていた。


「新しい大陸が出て、他の街でも探索の話が始まっています。ヴァルグからも、何か進めなければと思って」


 それから、俺を見た。


「そこへ、修羅さんが来たと聞いたので。……頼めば、道が開ける気がしてしまいました」


「俺、そんなに便利じゃないですよ」


「はい。今、よく分かりました」


 セイルさんが、少し笑う。


「断ってくださって、ありがとうございます。準備する側も、まだ足りていませんね」


 横で、ベルンさんが静かに頷いた。


 どうやら、同じことを考えていたらしい。


 マルクさんも、口を開いた。


「補給の相談でしたら、商会としてお手伝いできます。最初から海を目指すのではなく、途中の街まで荷物を運ぶところから、でしょうか」


「……お願いできますか?」


「内容を見てから、お返事します」


 即答は、しない。


 セイルさんが頷く。


 俺は、そのやり取りを見て、少し安心した。


     ◇


「それと」


 セイルさんが、立ち上がった。


 本棚ではなく、横に置かれた浅い引き出しを開ける。


 中には、丸めた紙が何本も並んでいた。


 そのうちの一つを取り出し、机へ広げる。


「こちらを、お渡ししたかったんです」


 さっきより、大きな地図だった。


 中央に、ヴァルグ。


 西には黒牙山脈。


 南には湿原。


 北には山々。


 森や川、いくつもの街の名前が書かれている。


 俺は、思わず身を乗り出した。


「……これ」


「魔境ガルドの概略図です」


 セイルさんが、少し嬉しそうに言う。


「主要な街と、大きな川、山地。それに、街同士をつなぐ道をまとめた物です」


「こんなに、街があるんですね」


 指で追う。


 黒鉄都市ドランガ。


 牙城ラグザ。


 港都ネレイス。


 森の中には、霧森の町ミストラ。


 その外側に、幽翠の大森林と書かれている。


 俺が歩いてきた場所は、地図全体のほんの一部だった。


「……広いな」


〈おおおお〉

〈地図だ!〉

〈ドランガって北だったのか〉

〈港都の位置、初めてちゃんと見た〉

〈これ欲しい〉


「いいんですか? もらって」


「はい。軍用の地図ではありません。商人や使者が使う物と同じです」


 セイルさんが頷く。


「街を治めていると、こういう物は必要になります。税を納める村がどこにあるかも、荷物がどの道を通って来るかも、知らずにはいられませんから」


 俺は、マルクさんを見た。


 マルクさんも頷いた。


「この辺りは、僕の持っている物より新しいですね。橋の位置が修正されています」


「巡回と商人から集まった報告を、写しへ反映しています。ただ、全て最新というわけではありません」


 セイルさんが、地図の端を指した。


 小さな文字で、更新された時期が書かれていた。


「ここは、古い情報が多い地域です。道が描いてあっても、必ず通れるとは限りません。細い獣道や、個々の魔物の生息場所までは載っていません」


「なるほど……」


「それでも、どちらへ行けば何があるかは、分かると思います」


 目の前に、共有の確認が表示された。


【地図情報を取り込みますか?】


【提供者:ヴァルグ領主府】


【情報種別:魔境ガルド概略図】


 承認する。


 自分の地図を開いた。


 黒い領域の中に、いくつもの地名が浮かぶ。


 大きな山の連なり。


 川の流れ。


 街を結ぶ道。


 ただし、その間は黒いままだ。


 森の名前は分かっても、中の道までは見えない。


 海岸の位置が示されても、その沖は何も分からない。


 俺が歩いた場所だけが、細かく残っている。


「……全部、見えるようになるわけじゃないんですね」


「はい。僕自身、ここに描かれた場所を全て歩いたわけではありません」


 セイルさんが笑った。


「報告を集めて知っていることと、自分で見たことは、違いますから」


〈概略だけ増えた〉

〈でもこれだけでだいぶ違うな〉

〈道の外はちゃんと黒い〉

〈探索しなくてよくなるわけじゃないんだな〉


 俺は、しばらく地図を眺めていた。


 北の街。


 東の城。


 南の港。


 森の中の町。


 行こうと思えば、行ける。


 もちろん、今日明日には無理だけど。


「……どこから行こうかな」


 口に出すと、セイルさんが笑った。


 さっきまでの領主の顔より、ずっと楽しそうだった。


「僕も、そこを考えている時間が好きです」


     ◇


 地図を巻き、布の筒へ入れてもらった。


 街道での救助に対する礼として受け取ってほしい、ということだった。


 探索を引き受ける条件ではない。


 俺が気にするより先に、セイルさんがそう言ってくれた。


「ありがとうございます。大事に使います」


「はい。知らない場所へ行かれたら、ぜひ、お話を聞かせてください」


「そのくらいなら、いくらでも」


 俺が頷くと、セイルさんの顔が明るくなった。


「本当ですか」


「はい。配信でも、やると思いますし」


「見ます」


 早い。


「時間が合えば、見ます」


 ベルンさんを見る。


 言い直した。


〈仕事しろって目で見られた〉

〈領主にも視聴時間制限がある〉


 立ち上がろうとしたところで、セイルさんが何かを思い出したように手を上げた。


「あの。最後に、もう一つだけ」


「はい」


「これは、領主としてではないのですが」


 引き出しから、一枚の紙を出す。


 少し厚い、きれいな紙だった。


 その上に、ペンを置く。


「……サインを、お願いしても」


 俺は、紙を見た。


 ペンを見る。


 セイルさんを見る。


「俺、サインないんですけど」


「お名前だけでも!」


「普通に、修羅って書くだけになりますよ」


「それが欲しいんです」


〈ファンに戻った〉

〈ずっと我慢してたんだな〉

〈領主の頼みより圧が強い〉


 俺は、ペンを取った。


 紙の真ん中へ、名前を書く。


 修羅。


 ちょっと、字が大きくなった。


「……これで」


 差し出す。


 セイルさんが、両手で受け取った。


 しばらく、見つめる。


 それから、ベルンさんへ向き直った。


「これを、飾る物を」


「後ほど、用意いたします」


「机の横に」


「執務に支障のない位置で」


「……はい」


 マルクさんの肩が震えていた。


 俺は、何となく耳が熱くなる。


 やめてほしい。


 いや、喜んでもらえたのは嬉しいけど。


 あの字、もう少し丁寧に書けばよかった。


 すると、肩のイトが机へ前脚を伸ばした。


 紙の角へ、ちょんと触れる。


 セイルさんが、息を止めた。


「……ベルン」


「はい」


「今、ここに」


「拝見しました」


「イトちゃんが」


「はい」


「触りました」


 ベルンさんは、少しだけ間を置いた。


「では、そちらの紙も保管いたしましょう」


〈価値が上がった〉

〈修羅直筆、イト接触済み〉

〈商人さん、査定お願いします〉


 マルクさんが、すっと背筋を伸ばした。


「売り物には、しない方がよろしいかと」


「売りません」


 セイルさんの返事は、今日一番はっきりしていた。


     ◇


 館を出る頃には、空が赤くなっていた。


 斧を受け取り、階段を下りる。


 手には、地図の入った筒。


 肩には、イト。


 隣には、マルクさん。


 俺は、一度だけ館を振り返った。


 二階の窓に、人影が見える。


 セイルさんだった。


 こっちに気づいて、手を振る。


 俺も振り返す。


 その後ろへベルンさんが現れ、何かの書類を差し出していた。


 セイルさんの肩が、少し下がった。


〈頑張れ領主〉

〈憧れの人が帰ったので仕事です〉

〈あの人のおかげで街の道が直るんだな〉


「……いろんな遊び方が、あるんですね」


 俺が言うと、マルクさんが頷いた。


「ええ。戦う方もいれば、街を回す方もいます。僕は、その間で荷物を運んでいます」


「俺は……」


 斧を見る。


 地図を見る。


「とりあえず、もう少し強くなります」


 東の探索は、面白そうだった。


 いつか、行ってみたい。


 でも、その前に。


 自分で歩いて、戦って、知らないことを減らしていこう。


 その先で、できそうだと思えたら。


 今度は、俺から話をしに来てもいい。


「まずは、明日ですね」


「はい。その前に、今日は休みましょう」


 マルクさんが、通りの先を示した。


 窓に明かりの灯った、宿。


 扉の横には、大きな角の生えた鹿を描いた看板が掛かっている。


「角の大きな方も泊まれる部屋があります。イトちゃんの件も、先ほど確認が取れました」


「仕事、早いですね……」


「商人ですので」


 扉が開く。


 中から、温かい料理の匂いがした。


 俺は、地図の筒を脇へ抱え直す。


 北へ行くか。


 東へ行くか。


 森へ向かうか。


 考えることは、たくさんある。


 とりあえず今日は。


「……ベッド、楽しみだな」


 頭の上で、イトの脚が小さく動いた。

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