36話 決勝トーナメント 準々決勝第二試合
●主人公視点
客席へ戻ると、舞台の中央に大きな岩が二つ置かれていた。
その間は、広く空いている。
外側には低い段差があり、回り込む道もあった。
俺は斧を下ろし、隣の席を見た。
さっきまで、そこに白い狼がいた。
今は、いない。
舞台の入口から、ヴァイスが現れた。
顔を上げる。
鼻先が、一度だけ動いた。
対面の扉へ、視線を向ける。
セレネが、歩いてきた。
杖を右手に持ち、空いた左手で袖を引き上げている。
ジンとの試合で負った傷は、もうなかった。
ただ、向かい合ったときの顔つきは、あの試合の最初より慎重に見えた。
『準々決勝、第二試合!』
ミナの声が響く。
『炎と氷で戦場を組み立てるセレネ選手! 対するは、糸と毒を突破した白狼、ヴァイス選手です!』
ヴァイスが、低く構えた。
セレネの目が、四本の脚を追う。
「速そうですね」
声が拾われた。
ヴァイスは、少し口を開いた。
「速いぞ」
客席から、小さな笑いが起きる。
セレネも笑った。
「……知ってます」
杖先が、上がる。
俺は、膝へ手を置いた。
【試合開始】
◇
ヴァイスは、正面へ行かなかった。
左へ。
弧を描くように走り、セレネの横を狙う。
火球が飛んだ。
白い体が、わずかに低くなる。
炎が頭上を抜ける。
次の一発。
ヴァイスは足を止めず、外側へ。
速い。
セレネの杖が、追っていた。
その先端が、少し下がる。
霜。
白い地面が、ヴァイスの進む先へ広がった。
彼は、すぐに方向を変えた。
大きく跳ばない。
短く脚を運び、凍る前の床を踏む。
「……見てますね」
俺が言うと、ロックがうなずいた。
ジンの試合を、一緒に見ていた。
跳んだ先を狙われることも、足を止められることも、知っている。
ヴァイスは、霜の外を回った。
そのまま、セレネへ。
距離が、急に縮む。
「〈疾駆〉!」
白い影が、岩の横を抜けた。
セレネの足元に、氷が立つ。
柱。
ヴァイスは、その手前で体をひねった。
横へ抜ける。
牙が、杖を持つ腕へ向かった。
◇
セレネが、腕を引いた。
袖が裂ける。
前腕から、赤いものが散った。
ヴァイスは噛み直そうとせず、そのまま走り抜ける。
振り返る。
四本の脚が、床をつかんだ。
セレネは、まだ向き直れていない。
今度は、脚。
白い頭が、低く沈んだ。
杖先が、床へ向く。
火球が、二人の間で爆ぜた。
ヴァイスが首を引く。
頬の毛が、赤く照らされる。
炎の脇へ抜けるが、肩には届いていた。
焦げた毛が、少し舞った。
それでも、彼は立っていた。
セレネの膝にも、細い傷が残っている。
『ヴァイス選手、最初の接近で腕へ届きました! セレネ選手も、至近距離の炎で追撃をしのぎます!』
歓声が上がる。
俺は、ようやく息を吐いた。
「……近づくの、早いですね」
「離れるのも、早いです」
ロックが言った。
確かに。
ジンは、近づいたところに残って攻めた。
ヴァイスは、一度触ったら走り抜ける。
同じ接近戦でも、違う。
セレネは腕へ目を落とし、指を一度動かした。
杖を、握り直す。
それから、地面へ短く霜を広げた。
自分の周り。
小さな白い輪になった。
◇
ヴァイスが、その外を歩いた。
速くはない。
セレネの杖先を見る。
耳が、ときどき岩のほうへ動く。
彼女が火球を放った。
ヴァイスは避けた。
また、同じ速さで歩く。
追いかけすぎない。
セレネも、次々には撃たなかった。
杖を向けたまま、少しずつ後ろへ下がる。
足元の霜が、薄くなる。
その先へ、新しい霜。
白い場所が、ずれていった。
「……ついて歩いてますね」
俺は、彼女の足元を見た。
自分の周りを、一度に全部凍らせるわけではない。
必要なところへ、少しずつ。
ヴァイスの鼻先が下がる。
体が、前へ傾いた。
セレネの杖が、動く。
火球。
ヴァイスは、その瞬間に走った。
炎の外側。
霜の狭いところ。
そこを、一歩で越える。
跳ぶというより、長く伸びるような動きだった。
セレネが後ろへ下がる。
牙が、上着の裾を捕らえた。
ヴァイスが引く。
体が、前へ傾く。
杖の先が、上を向いた。
「入った……!」
俺は、身を乗り出した。
その足元から、氷が伸びた。
ヴァイスの腹の下。
太い柱ではない。
短い氷が、前脚と後脚の間へ突き出した。
白い体が、持ち上がる。
彼が上着を離した。
着地する。
その床は、凍っていた。
◇
前脚が、滑った。
ヴァイスの胸が、床へ近づく。
セレネの杖先が、そこへ向いた。
赤い光。
ヴァイスは、後脚で蹴った。
横へ。
氷の上で、体が流れる。
火球が、脇腹へ当たった。
白い毛が、炎に包まれる。
体が転がった。
俺の腰が、席から浮いた。
ヴァイスはすぐに起きた。
四本の脚で立つ。
口から、荒い息。
片方の脇腹が、赤くなっていた。
〈まだいける!〉
〈今の痛いぞ〉
〈氷の上に落としたのか〉
セレネも、すぐには追撃しなかった。
上着の裾が裂けている。
引かれたときに膝をひねったのか、左脚を少し引いていた。
それでも、杖は下がらない。
ヴァイスが、顔を上げた。
黄色い目が、彼女を見た。
「……一歩、遅かったな」
自分へ言ったような声だった。
◇
そこから、ヴァイスの走り方が変わった。
大きく回る。
岩を挟む。
セレネの姿が隠れる場所を使い、左右を変えた。
杖先が見えたところからは、近づかない。
火球が岩へ当たる。
炎が広がる。
その反対側から、白い影。
セレネが振り返る。
間に合わない。
牙が、脇腹へ入った。
彼女の顔が、痛みで歪む。
ヴァイスは、すぐ離れた。
その脚へ、霜が走る。
踏まない。
岩へ前脚をかけ、低く蹴って外へ抜けた。
着地した場所には、氷がない。
今度は、追撃されなかった。
俺は、思わず声を出した。
「……よし」
セレネが、片手で脇腹を押さえる。
指の間へ、血。
白い狼は、少し離れたところで止まった。
肩が、大きく上下している。
彼の脚も、最初ほど軽くは見えなかった。
疾駆。
何度も曲がり、何度も加速する。
俺が斧を振り続ければ疲れるように、走り続けるのにも限りがある。
ロックが、小さくつぶやいた。
「……あと、何回いけるんでしょう」
俺には、答えられなかった。
◇
セレネが、岩へ背中を寄せた。
左右の逃げ道を確かめる。
そこから、杖を横へ動かした。
霜が、床を走る。
正面ではない。
右側の道。
広く、長く。
ヴァイスは、左へ移った。
そちらには、まだ凍っていない床がある。
セレネの杖が、その先へ向く。
火球。
彼は、外へ避けた。
その着地点へ、また霜。
ヴァイスが足を引く。
前へ出られない。
右は、白い。
左には、炎。
正面には、杖。
彼は一度、岩の陰へ入った。
姿が消える。
俺は、頭上の映像を見る。
ヴァイスは、そこで立ち止まっていた。
前脚を一度浮かせ、戻す。
呼吸を、整えている。
セレネも、深く息を吸っていた。
岩を回って、追いかけたりはしない。
杖を構えたまま、待つ。
さっきから、魔法の数が減っていた。
大きな火球も、撃っていない。
残りのMPを、最後の接近へ残しているのかもしれない。
「……来るところ、作ってますね」
俺が言うと、ロックがうなずいた。
通れる場所を、残している。
でも、そこはセレネが見ている。
ヴァイスも、きっと分かっていた。
◇
白い頭が、岩の横から出た。
すぐに、引く。
火球は来ない。
セレネの杖だけが、そちらへ向いた。
反対側へ、脚が出る。
今度も、撃たない。
ヴァイスが姿を現した。
低く構える。
尾が、動きを止めた。
「……次、行くんですね」
俺の声に、返事はなかった。
ロックも、舞台だけを見ていた。
ヴァイスの前脚が、床を掻く。
爪が、短い音を立てた。
セレネが、左手を杖へ添えた。
「〈疾駆〉」
白い体が、走った。
◇
最初は、右。
凍った道へ向かう。
セレネの視線が、そちらへ動く。
ヴァイスは、その手前で脚を踏み替えた。
左へ。
杖が、追った。
火球。
彼は、前へ跳ばなかった。
体を低くし、炎の内側へ入る。
顔の横が、赤く染まった。
頬が焼ける。
それでも、進む。
セレネが、杖を下げた。
足元へ、霜。
ヴァイスは、床を見ていた。
前脚が、白いところへ触れる直前。
大きく、伸びる。
氷の輪を、越えた。
「……いける!」
俺は、立ち上がった。
セレネの右腕。
杖を持つ手。
そこへ、牙が向く。
彼女の目が、わずかに細くなった。
杖先は、ヴァイスへ向かなかった。
自分の、後ろ。
岩の根元へ。
短い氷柱が、斜めに突き出した。
彼女の体が、それを避けるように横へずれる。
ヴァイスの牙が、腕の外側を裂いた。
血が散る。
でも、つかめない。
着地。
前脚が、床へついた。
その下が、白く光った。
◇
俺は、そこで初めて気づいた。
霜は、セレネの周りだけではなかった。
さっき右へ広く伸ばした白い地面。
それが、岩の陰を回り、彼女の後ろまでつながっている。
ヴァイスが跳び越えたのは、手前の輪だけだった。
前脚が、滑った。
彼はすぐに後脚を引きつける。
踏み直す。
その動きへ、氷柱。
胸の前。
低く、太い。
白い体が、正面からぶつかった。
息が、短く漏れた。
ヴァイスは、まだ顔を上げた。
目の前に、セレネ。
近い。
牙が、もう一度開く。
彼女は、下がらなかった。
杖を、氷柱の横へ差し出す。
赤い光。
「――っ!」
ヴァイスが、首をひねった。
炎が、肩へ入る。
体が横へ飛んだ。
それでも、彼は床を蹴ろうとした。
前へ。
ほんの一歩。
脚が、うまく立たなかった。
セレネの杖が、もう一度光る。
小さな火球。
低く放たれた炎が、白い胸へ届いた。
ヴァイスの体が、光へ包まれた。
【ヴァイス選手、戦闘不能】
【勝者:セレネ】
◇
俺は、立ったまま動けなかった。
牙が、届くところにいた。
最後まで、前へ行こうとしていた。
それでも、光が消えた後には、誰もいなかった。
セレネが、杖を床へつく。
膝が、ゆっくり落ちた。
左手で脇腹を押さえたまま、長く息を吐く。
『決着です! セレネ選手、ベスト4進出!』
ミナの声が響いた。
『ヴァイス選手の速度を前に、何度も接近を許しました! ですが、最後は着地する場所まで氷を残し、その一瞬を攻め切りました!』
拍手が、少しずつ大きくなる。
俺も、手を上げた。
たたく。
ゆっくりだった。
隣で、石の手が鳴った。
ロックも、舞台を見ていた。
〈惜しかった〉
〈ヴァイスよくやった〉
〈あと一回、噛めれば〉
〈セレネも限界だったな〉
「……はい」
返事をしたら、ようやく息が出た。
セレネは、しばらく立ち上がらなかった。
俺は、白い狼が最後に踏んだ場所を見ていた。
凍った床。
低い柱。
そこへ足を置く前から、セレネは作っていた。
速くても。
見えていても。
着く場所がなければ、次へ行けない。
◇
回復したヴァイスが、舞台へ戻ってきた。
白い毛は、元に戻っている。
傷も、焼けた跡もない。
それでも、一度だけ前脚で床を掻いた。
セレネが、近づく。
二人の間で、少し沈黙があった。
「……最初から、あそこへ落とすつもりだったか」
ヴァイスが聞いた。
セレネは、首を振った。
「最初は、分かりませんでした。二回、抜けられたので」
「三回目が、なかったな」
「三回目は、残したくなかったです」
ヴァイスが、短く息を吐いた。
笑ったようにも見えた。
「次は、後ろまで嗅ぐ」
セレネが、少し目を丸くする。
それから、笑った。
「……次までに、別のことも考えておきます」
差し出された手へ、白い前脚が触れた。
会場の拍手が、また強くなった。
◇
俺は、通路へ出た。
ロックも、隣にいる。
さっき、彼を待っていた場所だった。
今度は、白い狼。
少しして、足音が近づいてきた。
ヴァイスは俺たちを見つけると、歩く速さを緩めた。
「……見てたか」
俺は、うなずいた。
「はい」
「負けた」
短い言葉だった。
俺は、すぐに何も返せなかった。
ヴァイスが、壁際へ腰を下ろす。
前脚をそろえ、その間へ鼻先を向けた。
「最後、腕は見えてたんだ」
俺も、隣へしゃがんだ。
「……届きそうでした」
「届いた。浅かったけどな」
黄色い目が、床へ落ちる。
「その後、脚を置くところを見てなかった」
白い爪が、石を一度擦った。
客席の声が、壁の向こうから聞こえてくる。
拍手は、もう落ち着いていた。
次の試合を待つ、人の声になっている。
ヴァイスが顔を上げた。
「もう一歩、踏めると思ったんだがな」
俺は、その前脚を見た。
今は、ちゃんと床についている。
でも、あの瞬間には滑った。
たった、それだけで。
「……次、踏めるようにしましょう」
言うと、彼の耳がこちらへ向いた。
俺は続けた。
「俺も、さっき浮かされました。近づくことばっかり考えると、足元、抜けるんですよね」
「お前は、押し通っただろ」
「結構、無理しました」
「見てた」
少し間があった。
それから、ヴァイスが鼻を鳴らした。
「お前のやり方は、俺には無理だ」
「俺も、糸くわえて走るのは無理です」
ロックが、横で小さく笑った。
ヴァイスも、口を少し開いた。
呼吸が、さっきより穏やかになっていた。
◇
通知が、浮かんだ。
【準々決勝・第三試合】
【修羅 対 バルド】
【準備エリアへ移動してください】
俺は、文字を見た。
自分の番だ。
立ち上がると、ヴァイスも顔を上げた。
「行くのか」
「はい」
斧を、両手で持ち直す。
バルドの盾。
その向こうにある体。
押しても動かないなら、足を見る。
さっきロックが教えてくれたことを、頭の中でもう一度繰り返した。
ヴァイスが立ち上がった。
俺の前へ来る。
白い前脚が、少し持ち上がった。
俺はしゃがみ、その足へ手を添えた。
「……頼んだぞ」
何を、と聞く必要はなかった。
俺は、うなずいた。
「行ってきます」
手を離す。
ロックが、横から言った。
「盾だけ、見ないでくださいね」
「はい」
俺は、二人を見た。
どちらも、ここまで戦ってきた。
今は、俺を送り出してくれている。
柄を握る手へ、少し力が入った。
通路の奥で、扉の金具が鳴った。
俺は、そちらへ歩き出した。




