30話 決勝トーナメント4回戦
●主人公視点
舞台へ上がったヴァイスは、一度だけ客席を見た。
白い耳が動く。
俺は手を上げた。
目が合ったかどうかは、分からない。
それでも、彼の尾が軽く揺れたので、見えたことにしておこう。
反対側から、ユズリハが現れた。
紫の模様がある腹。低く構えた八本の脚。
イトを見慣れているせいか、俺は最初、その歩き方を目で追ってしまった。
けれど、顔の近くで牙が動いた瞬間、少し背筋が冷えた。
配下と、対戦相手。
同じ蜘蛛でも、随分違って見える。
『続いて第四試合! 白狼ヴァイス選手と、小型蜘蛛ユズリハ選手の対戦です!』
中央の舞台には、石柱が四本立っていた。
高さは、俺の背より少し上。
柱の間隔は広いが、糸を張るには十分そうだ。
「……走る場所、残りますかね」
俺が言うと、ロックが柱の配置を見た。
「張り終える前に、近づきたいですね」
ヴァイスも、同じことを考えているのかもしれない。
前脚が低く沈む。
ユズリハは腹を少し持ち上げ、柱のほうへ体を向けた。
【試合開始】
白い影が、床を蹴った。
◇
速い。
予選で見たときより、迷いがなかった。
ヴァイスはまっすぐユズリハへ向かい、最後の数歩で横へずれた。
牙が、脚の付け根へ。
ユズリハが体を沈める。
前脚が、白い頬を払った。
ヴァイスは噛まずに離れた。
着地。
すぐに、反対側から入る。
今度は、腹の横。
牙が届く直前、ユズリハの体が柱へ逃げた。
脚が石をつかむ。
地面を歩いていたときと同じ速さで、その側面を駆け上がった。
「……あそこ、登れるんですね」
壁歩き。
紹介にはあった。
でも、実際に見せられると、思っていたより厄介だ。
ヴァイスは柱の下で止まらなかった。
そのまま外を回る。
ユズリハの腹から、細い糸が伸びた。
柱から、床へ。
一本。
振り返ったヴァイスの鼻先へ、前脚が動く。
糸の束が飛んだ。
彼は横へ跳んだ。
床へ、白いものが広がる。
『ユズリハ選手、柱を使って最初の攻撃をしのぎました! そして、すでに糸が張られています!』
ヴァイスは、柱の上を見ていた。
飛び上がれば、届く高さかもしれない。
ただ、その間は逃げられない。
俺も、あそこでは跳びたくなかった。
◇
ユズリハが、柱の裏へ回った。
姿が隠れる。
ヴァイスは少し離れた位置を歩き、鼻を床へ近づけた。
白い耳が、左右へ動く。
柱の向こうから、糸。
彼は首を引いた。
鼻先をかすめた糸が、後ろの床へ貼りつく。
そこへ、ユズリハが下りてきた。
細い糸に体を預け、途中から跳ぶ。
ヴァイスの背中へ。
白い体が、横へ抜けた。
着地したユズリハへ、牙が向く。
脚を一本、つかんだ。
鋭い音がした。
ユズリハの体が揺れる。
しかし、腹がすぐにヴァイスへ向いた。
白い糸が、肩へ絡みつく。
ヴァイスが口を離した。
一歩、下がる。
その前脚へ、ユズリハの牙が触れた。
ほんの、一瞬だった。
ヴァイスが後ろへ跳ぶ。
白い毛に、細い傷。
その周囲へ、薄い紫の色が広がった。
〈毒入った?〉
〈脚狙われたぞ〉
俺は、思わず膝へ手を置いた。
ヴァイスは前脚を一度浮かせ、それから床へ戻した。
立てている。
でも、走る相手の脚に傷。
しかも、毒。
「……嫌なところ、入れますね」
俺の声に、ロックが小さくうなずいた。
◇
ヴァイスは、すぐには攻めなかった。
肩へ絡んだ糸を、床へこすりつける。
全部は取れない。
白い毛が引かれ、皮膚が少し見えた。
ユズリハは、その間に次の柱へ移っていた。
歩いた跡へ、糸が残る。
床から柱。
柱から、隣の柱。
客席から見下ろしていると、薄い線がいくつも光った。
でも、地面近くからなら。
俺は、ヴァイスの目の高さを想像した。
石床の色と、向こうの柱。
その間にある、細い糸。
全部は、見えない。
ヴァイスが右へ動いた。
ユズリハの顔が、そちらへ向く。
さらに一歩。
床へ、前脚を置く。
その瞬間、糸が引かれた。
ヴァイスの脚が、止まる。
柱から、ユズリハが動いた。
「来る……!」
俺が言ったときには、彼も引き返していた。
絡んだ脚を強く引く。
糸は切れない。
ユズリハが近づく。
牙が、首へ向いた。
ヴァイスは逃げるのをやめた。
低く沈む。
体をひねり、近づいてきた前脚へ噛みついた。
ユズリハが脚を引く。
白い狼の体が、少し前へ運ばれる。
張られていた糸が、柱の角で強く擦れた。
細いものが、はじける。
脚が、抜けた。
ヴァイスは口を離し、転がるように距離を取った。
その背へ、また糸がかかる。
でも、今度は止まらなかった。
柱の外へ抜け、振り返る。
肩で、息をしていた。
『ヴァイス選手、脱出! ですが、脚には毒、体には糸が残っています!』
ミナの声が、少し張った。
『ユズリハ選手は追いすぎません! 自分の糸がある場所へ、相手を呼び込んでいます!』
俺は、唇を一度なめた。
追うと、罠。
待つと、毒が回る。
時間を使うほど、狼のほうが苦しい。
◇
ヴァイスが、顔を上げた。
ユズリハを見る。
柱を見る。
それから、床。
ゆっくり歩き始めた。
さっきまでとは違い、同じところを通る。
自分が走った跡。
ユズリハが、糸を飛ばした。
ヴァイスは避けた。
大きくは動かない。
すでに踏んだ場所へ、戻る。
もう一度、糸。
今度は首を下げ、それが頭上を越えるのを待った。
「……道、覚えてますね」
俺が言うと、ロックが身を乗り出した。
ヴァイスの足は、狭い範囲を行き来している。
何もないと分かっているところ。
そこから、ユズリハを見ていた。
柱の上で、蜘蛛の脚が動く。
糸が、また一本増えた。
ヴァイスの耳が、ぴくりと立つ。
鼻先が、わずかに上がった。
そこで、白い体が走った。
◇
「〈疾駆〉!」
声が、会場へ届いた。
ユズリハのいる柱へ、一直線。
脚の毒を感じさせない加速だった。
蜘蛛が、腹を向ける。
糸が飛んだ。
ヴァイスが、横へ動く。
糸の束が床へ落ちる。
その進路に、別の細い糸。
低く張られた、足止め。
ヴァイスは、そこで跳んだ。
高くはない。
前脚が越えるだけの、短い跳躍。
着地した場所は、さっきユズリハが歩いていた道だった。
柱のすぐ下。
俺は、息を吸った。
ユズリハが、上へ逃げる。
ヴァイスは、その背を追わなかった。
柱の周りを回る。
速い。
ユズリハも、反対側へ回り込もうとする。
その後ろへ残った、一本の糸。
腹から、床へつながっている。
ヴァイスが、口を開いた。
糸を、くわえた。
「……え?」
そのまま、走った。
糸が張る。
柱へ脚をかけていたユズリハの腹が、後ろへ引かれた。
石をつかむ脚が、一度ずれる。
ヴァイスが、さらに体を低くした。
四本の脚で、床を蹴る。
引いた。
ユズリハが、糸を切り離す。
けれど、その一瞬で体勢は崩れていた。
柱から、落ちる。
ヴァイスは、口を離した。
白い脚が、方向を変える。
落ちてくる体へ。
◇
ユズリハも、ただでは落ちなかった。
前脚を広げ、牙を向ける。
ヴァイスの顔へ、糸。
白いものが、片目を覆った。
彼の首が、わずかに振れる。
それでも、走る方向は変わらない。
「〈鋭牙〉!」
牙が、脚の付け根へ入った。
ユズリハの体が、床へ押し倒される。
ヴァイスは、上へ乗らなかった。
噛んだまま、横へ引く。
蜘蛛の腹が、こちらへ向いた。
糸が、床へ広がる。
ヴァイスの後脚が、絡まった。
止まる。
ユズリハが体を起こそうとした。
牙が、白い肩へ。
刺さる。
ヴァイスの体が、大きく震えた。
「……離れろ」
俺は、小さく言った。
でも、彼は離れなかった。
噛んだ脚を放し、首を引く。
ユズリハの牙が、肩から抜ける。
その下へ、顔を入れた。
脚と脚の間。
硬い外側を避け、体のつなぎ目へ。
もう一度、噛む。
ユズリハが、ヴァイスの体へ脚をかけた。
白い毛に、細い爪が食い込む。
狼が、前脚で床を押した。
肩から血が落ちる。
紫の色が、首元へにじむ。
それでも、顎は開かなかった。
ユズリハの脚が、一本、床から離れた。
続いて、もう一本。
光が、二匹の間から広がった。
【ユズリハ選手、戦闘不能】
【勝者:ヴァイス】
◇
合図が鳴っても、ヴァイスはすぐには立てなかった。
噛みついていた場所から顔を離し、そのまま前脚を折った。
肩が、上下している。
糸が消える。
毒の色も、光の中で薄れていった。
ようやく顔を上げたとき、会場の歓声が一気に大きくなった。
『勝ったのは、ヴァイス選手! 糸に追われ、毒を受け、それでも最後の接近を通しました!』
ミナの声が、熱を帯びる。
『速さだけではありません! 張られた糸まで利用して、柱の上の相手を引きずり下ろしました! 白狼、ベスト8進出です!』
俺は、立っていた。
いつから立ったのか、覚えていない。
手をたたく。
そのたび、胸の奥に残っていたものが少しずつほどけた。
〈勝った!〉
〈最後、毒やばかったぞ〉
〈糸くわえるの怖すぎる〉
〈ヴァイスおめでとう!〉
「……あそこ、見てたんですね」
柱と、床をつなぐ糸。
ヴァイスが見上げたとき、俺は相手の位置を見ているのだと思った。
違った。
足止めの糸。
飛ばしてくる糸。
その中から、引けば相手が動く一本を見つけた。
ロックも、拍手をしていた。
「自分の武器じゃなくても、使えるんですね」
「……ですね」
俺は、思わず笑った。
ガドに聞かせたら、何と言うだろう。
きっと、当たり前だという顔をする。
◇
回復を終えたヴァイスが立ち上がる。
舞台の端へ転送されたユズリハも、元の姿へ戻っていた。
脚が、ゆっくり動く。
二匹の距離が、近づいた。
「……口、べたべたにならない?」
ユズリハの声が拾われた。
思っていたより、柔らかい声だった。
ヴァイスが、鼻先を少し振る。
「なった」
「でしょうね」
「もう、くわえたくない」
ユズリハの前脚が、小さく動いた。
笑っているらしい。
「私も、引っ張られたくないな」
ヴァイスが、前脚を上げる。
ユズリハも一本、伸ばした。
触れる。
すぐに離れた。
さっきまでの、牙と糸の戦い。
その後に見ると、ずいぶん静かな挨拶だった。
俺は最後まで拍手を続けた。
◇
頭上の枠が、埋まる。
【準々決勝】
【セレネ 対 ヴァイス】
火と氷。
それを抜けて走る、白い狼。
また、難しそうな相手だ。
そう考えたところで、目の前に通知が浮かんだ。
【第五試合・出場選手へ】
【準備エリアへの移動をお願いします】
俺は、しばらく文字を見た。
来た。
自分の番だ。
斧を持ち上げる。
背負い紐へ通そうとして、やめた。
もう、すぐ使う。
両手で持っていこう。
ロックが立ち上がった。
「修羅さん」
顔を上げる。
石の手が、差し出されていた。
「今度は、俺が見てます」
俺は右手を斧から離し、その手を握った。
少しだけ、強く。
「……行ってきます」
◇
通路へ入ると、客席の音が遠くなった。
石壁の間に、自分の足音が響く。
舞台へ続く曲がり角で、白い影と会った。
ヴァイスだった。
顔を見た瞬間、俺は足を止める。
「おめでとうございます」
「ああ」
短い返事。
少し間があって、彼が俺の斧を見た。
「次か」
「はい」
白い耳が、前へ向いた。
「風、追いかけすぎるなよ」
ノエル。
風の魔法使い。
岩から岩へ、浮くように移動していたエルフ。
俺は、柄を持ち直した。
「……捕まえられるところ、探します」
ヴァイスが、鼻を鳴らした。
「なら、行ってこい」
すれ違う。
背後から、小さな声がした。
「あと、口で糸を切ろうとするな」
俺は振り返った。
白い狼は、もう歩いていた。
「……参考にします」
少し笑えた。
それが、ありがたかった。
◇
選手用の扉の前へ着く。
係員に案内され、斧を持ったまま待つ。
向こうでは、舞台が動いていた。
低い振動が、靴底へ伝わってくる。
俺は片手を開いた。
閉じる。
大丈夫。
動く。
装備も、そろっている。
〈修羅、頑張れ!〉
〈焦らずいこう〉
〈まず相手見るんだぞ〉
「……はい」
返事が、いつもより小さくなった。
俺は、もう一度息を吸う。
ノエルは、近づかせたくないと言った。
俺は、近づきたい。
それだけの話だ。
ただ、その間に風がある。
『続いて第五試合!』
ミナの声が、扉の向こうから響いた。
『風を操り、相手を寄せつけないノエル選手! 対するは、十九撃破の大戦斧、修羅選手です!』
金具が鳴る。
扉の隙間へ、明るい光が差した。
俺は、顔を上げた。
斧の重さを両手で確かめ、一歩、前へ出た。




