22話 復帰後配信
●リィナ視点
食堂の机を拭き終えて、椅子を戻す。
一脚。
もう一脚。
最後に、修羅さんの椅子。
ほかのものより大きく、頑丈に造られた椅子は、ここしばらく動かされていなかった。
その隣に、イトが座っている。
机へ両手を置き、通路のほうを見ていた。
「イトさん。お茶にしますか?」
声をかけると、白い頭がゆっくりこちらへ向く。
少し考えてから、うなずいた。
器を用意する。
熱くなりすぎないようにして、目の前へ置いた。
イトは両手で器を持つ。
けれど、すぐには飲まなかった。
「……きょう」
小さな声がする。
私は、手を止めた。
「はい」
「しゅら、くる?」
その問いを聞くのは、初めてではなかった。
昨日も。
その前も。
寝室へ続く通路を見て、同じように尋ねていた。
修羅さんは、戻る前に知らせると言っていた。
マルクさんからも、今日、戻られる予定だと伝言があった。
だから、今日は違う返事ができる。
「はい。今日は、帰ってくる予定ですよ」
イトの顔が上がった。
器が、少し揺れる。
私はそっと手を添えた。
「慌てなくて大丈夫です。まだ、少し時間があるかもしれませんから」
イトは器を机へ戻す。
そして、また通路を見た。
さっきより、背筋を伸ばして。
◇
●主人公視点
目を開ける。
見慣れた天井だった。
石の壁。
棚。
置いてある防具。
窓はない。
ただ、照明の柔らかい光が、部屋の中を照らしている。
「……あぁ」
俺は、ゆっくり体を起こした。
久しぶりだ。
手を開く。
大きい。
腕を動かす。
重さも、動かせる範囲も、ちゃんと戻ってくる。
足を床へ下ろすと、靴が、いつもの場所にあった。
誰かが少し、向きをそろえてくれたらしい。
俺はそれを履き、立ち上がった。
「……ただいま、ですね」
まだ、誰にも聞こえていない。
なので、独り言だった。
その前に、今日も活動報告が開く。
未確認の件数が、いつもより多い。
俺は一度だけ内容を見て、死亡や大きな損傷がないことを確かめた。
細かいところは、あとで読もう。
まずは、顔が見たかった。
配信画面を開く。
開始。
少し待つ。
視界の端へ、文字が流れ始めた。
〈きた!〉
〈お帰り!〉
〈待ってたぞ!〉
〈試験お疲れさま!〉
〈こんばんはー!〉
俺は、思わず笑った。
「はい。お久しぶりです。修羅でーす」
声に出した途端、戻ってきた感じが増した。
「試験、終わりました。お休みの間も、お知らせ見てくれたり、コメントくれたり、ありがとうございました」
〈お疲れ!〉
〈ちゃんと寝たか?〉
〈ご飯行けたんだな〉
〈まず家を見てこい〉
「はい。家族と、ご飯にも行けました。うまかったです」
〈知ってたw〉
〈絶対うまいって言っただろ〉
〈よかったな〉
「言いました」
笑いながら、寝室の扉へ向かう。
手をかけて、開けた。
◇
通路の向こうに、食堂の明かりが見えた。
少し歩く。
器の触れる、小さな音。
その次に。
椅子が、動いた。
食堂へ顔を出すと、イトが立っていた。
両手を、机の縁へついている。
こちらを見ているのに、すぐには動かなかった。
俺も、足を止めた。
「……ただいま」
声をかける。
イトの目が、少し大きくなった。
それから、椅子の横を回る。
小さな足音。
だんだん、速くなる。
「しゅら」
「おう」
「しゅら」
もう一度。
今度は、さっきより近い。
俺は、しゃがんだ。
次の瞬間、胸の辺りへ、柔らかいものがぶつかった。
イトだった。
前掛けではなく、俺の服を。
両手で、ぎゅっとつかんでいる。
「……ただいま。遅くなったな」
背中へ、そっと手を回す。
白い頭が、俺の胸元へ寄った。
返事はなかった。
その代わり、つかむ指へ、少し力が入った。
〈ああああ〉
〈イト!〉
〈待ってたんだなぁ〉
〈これは寂しかったやつだ〉
〈お帰り、修羅〉
コメントが、随分と速く流れている。
でも、今は読むより先に、イトの背中を撫でた。
リィナが、少し離れたところから歩いてくる。
「お帰りなさい、修羅さん」
「……ただいま。留守の間、ありがとうございました」
「はい。皆さん、元気です」
その一言で、肩の力が抜けた。
リィナは、俺の服をつかんだままのイトを見る。
少し笑ってから、言った。
「ここ何日か、食堂で待っていることが多かったんです。寝室の扉が開く音がすると、見に行って」
俺は、イトへ目を落とした。
白い髪の向こうに、顔は見えない。
「……そうだったのか」
小さく、うなずく動き。
俺は、背中をもう一度撫でた。
「向こうの用事、終わった。今日は、ちゃんと時間あるぞ」
イトの顔が、ようやく上がった。
「いる?」
「あぁ。今日は、いる」
その返事を聞いてから、少しだけ手の力が緩んだ。
〈今日は一緒にいてやってくれ〉
〈レベル上げは今度でいい〉
〈もう今日はこれだけでいいわ〉
〈家主、これは帰ってこないと駄目だ〉
俺は、少し困ったように笑った。
戻ってきたら、確認することがたくさんある。
そう思っていた。
でも、最初に確かめたかったのは、確かにこれだった。
みんなが、元気かどうか。
俺は、もう一度言った。
「ただいま」
◇
食堂の椅子へ座ると、イトも隣へ上がった。
いつもの席。
ただ、今日は、椅子が少し近い。
俺が机へ手を伸ばすと、袖をつかんでいた指が動いた。
離す。
また、少しつかむ。
俺は気づかないふりをして、活動報告を開いた。
「じゃあ、今日は留守の間の確認からですね。リィナ、気になったことがあったら、教えてください」
「はい。こちらも、まとめてあります」
紙の束が置かれる。
俺は、一瞬、黙った。
現実では、やっと試験の紙から解放されたところなんですが。
こっちでも、紙。
……いや。
内容は、かなり楽しみだ。
〈宿題が待ってた〉
〈復帰初日から報告書〉
〈でもこういうの見るの好きだろ〉
「好きです。何があったか、知りたいので」
まずは、ダンジョンの活動記録。
牙鼠。
黒牙走狗。
ほかにも、以前から来たことのある魔物。
魔石の誘引装置は、休止中ずっと閉めてある。
それでも、自然に入ってきたものはいた。
討伐した個体。
獲得した経験値。
ポイント。
配置した魔物の状態。
俺は、一つずつ見た。
死亡は、なし。
大きな怪我もない。
猪が一度、前脚を擦った記録がある。
リィナが確認し、そのあと、かばう様子はなかったと書かれていた。
「あとで、俺も見ますね」
「はい。今日は、普通に歩いていました」
切れた糸。
少し傷ついた扉の縁。
小さなことも、残っている。
俺は、記録を閉じずに、しばらく眺めた。
俺がいない間も、ここは動いていた。
当たり前だが、それが、少しうれしかった。
◇
ポイントは、増えていた。
ただし、何でも造れるほどではない。
自然に入ってくる魔物だけで、急に大金持ちになるわけではなかった。
「……うん。でも、ちゃんと増えてますね」
〈熊の部屋に近づいたか〉
〈留守番組、ありがとう〉
〈素材も結構残ってる?〉
「ありますね。処理した分と、まだ確認する分が分かれてます」
すべてが、自動で素材になっていたわけではない。
回収したもの。
使えるところを分けたもの。
そのまま交換したほうがよさそうなもの。
リィナの記録へ、ガドが手伝った分も書かれていた。
「ガドも来てくれたんですね」
「はい。近くを通ったときに。大きいものだけ、一緒に見てもらいました」
俺は、うなずいた。
あとで、礼を言いに行こう。
小鬼の集落から預かった荷物も、一覧がある。
来た日。
数。
持ち主。
商隊へ渡したもの。
まだ棚にあるもの。
マルクが受け渡しの記録を残してくれていたので、そちらと見比べる。
合っている。
「……ちゃんとしてますねぇ」
思わず言うと、リィナが少し笑った。
「修羅さんが戻ってから、分からなくならないようにしたかったので」
「ありがとうございます。すごく助かります」
俺は紙を、丁寧にそろえた。
その横へ、イトが小さな木札を置く。
「これ」
前に、箱へつけていた札だった。
集落の人の印。
紐も残っている。
「荷物が出た分?」
イトがうなずく。
「なくさないように、取っておいてくれたのか」
もう一度、うなずいた。
俺は、その頭を軽く撫でた。
「ありがとう。これも、次に使えるな」
イトは、札を箱へ戻した。
今度は、少し得意そうだった。
◇
迎撃室へ行くと、猪が鼻を持ち上げた。
俺を見る。
鼻が鳴る。
ゆっくり、近づいてきた。
「……久しぶり」
俺は、斧を持たずにしゃがむ。
鼻先を押しつけられ、少しだけ体が揺れた。
強いな、お前。
背中へ手を置く。
〈意思疎通〉を通じて、馴染みのある感覚が届いた。
警戒ではない。
俺を確かめている。
それから、いつもの場所へ手を動かすと、少し力が抜けた。
「……そこは、相変わらずですね」
〈お帰りの肩もみ〉
〈猪も覚えてる〉
〈みんな普通にいるの安心する〉
前脚を確かめる。
擦った場所は、もう、よく見なければ分からなかった。
歩いてもらう。
違和感はない。
俺は、ようやく安心した。
「うん。大丈夫そうだ」
壁のくぼみには、蜘蛛。
少し位置が変わった糸もある。
イトが壁を指し、俺を見る。
「あっち、かえた」
「糸?」
うなずく。
俺がいない間に、通り方を見て変えたらしい。
すぐに全部は分からないが、前より猪の進む場所が空いていた。
俺は、入口から部屋を見直した。
「……ちゃんと、考えてたんだな」
イトが、前より少し大きくうなずいた。
寂しかった。
それは、あったのだろう。
でも、それだけで毎日座っていたわけではない。
ここで、できることをしていた。
俺は、そのことも、ちゃんと見ておきたかった。
◇
倉庫の確認を終えるころには、思っていたより時間が経っていた。
ただ、急ぐ必要はない。
今日は、そのために戻ってきた。
厨房の食材。
水の容器。
使い終えた道具。
必要なものを一通り見て、俺は食堂へ戻った。
「じゃあ、次は畑と、ポーションですね」
そう言うと、リィナが少し姿勢を正した。
俺は、その顔を見る。
「……何か、進みました?」
「はい。見ていただきたいものがあります」
その返事で、ちょっと楽しみになった。
〈きた〉
〈ポーションどうなった?〉
〈休止前より増えたかな〉
〈リィナの報告待ってた〉
俺は立ち上がる。
イトも、すぐ隣へ来た。
今日は、移動するたび、一緒についてくる。
俺は、特に何も言わず、その歩幅へ合わせた。
◇
栽培室は、前より緑が増えていた。
青露草。
最初は、土の間に小さな点があっただけだ。
それが今は、ちゃんと葉の形になっている。
植えた枠の中へ、いくつも。
「……おぉ」
声が出た。
〈育ってる!〉
〈一気に変わったな〉
〈ずっと見てないと分かる〉
〈最初の芽、どれだ〉
「俺も、分からなくなってますね」
リィナが、札の近くを指した。
「最初に出たのは、こちらです」
俺は、しゃがんだ。
あった。
ほかより少し大きい。
あの、小さく曲がっていたやつ。
俺はしばらく、葉を見ていた。
「……ちゃんと、育ったんですねぇ」
「はい。まだ収穫するものではありませんけど、今のところは」
リィナの声も、少し嬉しそうだった。
薄葉草のほうも見る。
こちらは、苗によって違いが出ていた。
よく育ったもの。
少し遅いもの。
葉の向きが違うもの。
記録も、その分だけ増えている。
「こちらは、メルナさんに見ていただいたとき、一部だけ収穫しました」
「来てくれたんですか?」
「はい。前に相談していた便で。修羅さんがお戻りになる前でしたけど、予定どおり、見ていただけて」
俺は、うなずいた。
来てもらう相談は、していた。
俺がいるかどうかだけで、全部を止める必要はない。
「どうでした?」
「育て方は、まだ比べていくところがあります。ただ、使える状態の葉はあると」
リィナが、乾燥棚へ目を向けた。
そこには、日付の違う札。
分けて置かれた薬草。
俺は、部屋の奥まで見た。
苗を植えた場所が、材料を作る場所へ変わり始めていた。
◇
作業台へ、小さな木箱が置かれた。
リィナが蓋を開ける。
瓶が、並んでいた。
一本。
二本。
それだけではない。
日付ごとに分けて、六本。
俺は、思わず顔を上げた。
「……増えましたね」
「はい。ただ、最初のほうは、また濁りが強くなってしまったものもあって」
彼女は、別の記録を開いた。
全部が、うまくいったわけではないらしい。
材料をそろえたつもりでも、違っていた。
火を調整するのが遅れた。
途中で迷った。
それを、一つずつ書いている。
「メルナさんに、記録と、できたものを見ていただきました。そこから、同じ手順で作る練習を続けて」
リィナが、六本のうち、後の日付のものを示す。
「この四本は、前より落ち着いて作れました」
俺は、瓶を手に取らず、まず目で見た。
色が、そろっている。
薄い赤。
前に見たような強い濁りも、少ない。
「じゃあ、鑑定しますね」
リィナがうなずいた。
最初の一本。
【粗製回復ポーション】
【品質:低】
【効果:服用時、HPを少量回復する】
「低、です」
次。
同じ。
もう一本。
こちらも、同じ。
最後まで見る。
四本とも、品質は低だった。
「……そろってますね」
俺が言うと、リィナは少しだけ目を閉じた。
それから、息を吐く。
「よかった……」
〈安定してきた!〉
〈四本とも同じ品質か〉
〈ちゃんと練習したんだな〉
〈おめでとう!〉
品質そのものが、急に高級になったわけではない。
でも、前の一本が、たまたまよかっただけではなくなり始めている。
同じものを、また作れる。
それは、結構大きなことだと思った。
「すごいですね。俺がいない間も、進んでた」
そう言うと、リィナは少し笑った。
「戻られたら、見ていただこうと思っていました」
俺は、瓶へ目を戻す。
最初の一本。
最低品質。
それも、まだ別に残っている。
そこから、ここまで。
俺は、ゆっくりうなずいた。
「……見られて、よかったです」
◇
残りの二本も、鑑定した。
片方は、最低品質。
もう片方は、低。
日付は、四本より前だった。
リィナが結果を書き加える。
品質が低かったものも、記録から外さない。
全部が、今の作り方につながっているのだろう。
「これなら、使う分を少し置いておけますね」
俺が言うと、彼女がうなずいた。
「はい。保存の様子も、引き続き確かめます。売る分は、もう少し相談してからにしたいです」
「それでいいと思います。まず、うちで使うものを、ちゃんと作れるようになれば」
狩りへ行くたび、必要になるものだ。
いつも買うだけだった。
それが、家でも用意できるようになる。
俺は、瓶を見ながら少し笑った。
「……ますます、帰ってくる理由が増えますね」
〈補給拠点になってきた〉
〈最初は寝る場所もなかったのにな〉
〈家で薬を作れるの、大きい〉
リィナは、棚の空いている場所を示した。
「こちらへ、常備する分を分けたいんです。研究用のものと、取り違えないように」
「いいですね。札もつけましょう」
俺は、すぐに答えた。
増えたから、適当に置く。
それでは困る。
誰が見ても分かるようにする。
今日は、その話が自然にできた。
◇
畑の確認を終え、養蜂室へ向かう。
リィナが、途中で記録の紙を替えた。
「蜂のほうも、エダさんに見ていただいています」
「予定してた点検ですね」
「はい。巣の状態も確認していただいて、採れる分を少しだけ」
俺は、足を止めた。
「……採れたんですか?」
リィナがうなずく。
「はい。こちらです」
先に、食堂の棚を見せてもらった。
瓶があった。
日付の札。
エダさんと採蜜したこと。
残した状態についての記録もある。
俺は、瓶を見た。
前回のものだけではない。
俺がいない間に、また、採れたのだ。
「……蜂たちも、頑張ってたんですね」
〈増えてる!〉
〈ちゃんと世話してくれてた〉
〈収穫の間隔ができてきた感じか〉
「毎日、同じ量が採れるわけではないですけど。何回か続けて採れるようになってきたのは、うれしいですね」
俺は、札へ目を向けた。
いつ。
どれくらい。
誰が見て、どう判断したか。
それが、残っている。
俺一人がずっと見張っていなくても、世話を続けられる。
少しずつ、そういう形になっていた。
◇
養蜂室の外側を、先に見た。
蜂の出入り口。
枯れ葉は、引っかかっていない。
庇の下も、問題なし。
蜂が、戻ってくる。
そのまま、穴へ入った。
少しして、別の一匹が出ていく。
「……いつもどおりですね」
〈お帰りの蜂〉
〈こっちも元気そう〉
〈女王の様子は?〉
「今、確かめます」
部屋へ入る前に、準備する。
手袋。
防護具。
扉。
道具。
久しぶりだからこそ、一つずつ。
前に教わったことを書いた紙も、見直した。
自分で扱っていい範囲。
迷ったら、止めるところ。
何でもスキルで判断するわけではない。
俺は、部屋へ入った。
羽音がする。
馴染みのある音。
女王とのつながりへ、意識を向ける。
少しだけ、胸の奥に感覚が届いた。
落ち着いている。
でも、それだけではなかった。
俺の気配へ、確かめるような反応がある。
「……久しぶり」
小さく言う。
俺が留守にしていたことを、人間と同じように理解しているかは分からない。
寂しかったかと聞いて、返事が来るわけでもない。
ただ、知らない相手が来たときとは違う。
そのことは、何となく分かった。
俺は巣箱へ近づきすぎず、しばらく見た。
「戻ってきた。今日も、よろしくな」
穏やかな感覚が、続いていた。
◇
今日、どこまで見るかは、リィナと先に相談していた。
エダさんが残した記録もある。
前回の点検からの様子。
気をつける場所。
無理に触らなくていいところ。
俺は、それを確かめてから、教わった範囲の確認を始めた。
リィナは少し離れた位置で、記録を持っている。
イトは、外側で待っていた。
狭い場所へ、全員で入る必要はない。
俺は、手を動かす前に、女王へ意識を向けた。
今から、少し見る。
壊すためではない。
終わったら、閉じる。
言葉だけでなく、やろうとしていることを、なるべく単純に伝える。
返ってきたものに、強い拒否はない。
それでも、動きはゆっくりにした。
巣の中を見る。
前に見たところと、比べる。
「……ここも、変わってますね」
小さく言う。
俺の留守中に進んだところがあった。
記録の内容とも、大きく違わない。
蜂が、動いている。
その中で、女王から伝わってくる感覚も変わる。
こちらは、残したい。
こちらには、少し余裕がある。
前に覚えた違い。
久しぶりでも、消えてはいなかった。
◇
「……今日も、少し分けてもらえそうです」
俺が言うと、リィナが記録へ目を落とした。
「前回、見ていただいたときの場所とも、合っていますね」
「はい。ただ、全部じゃなくて」
瓶の大きさで考えない。
欲しい量から、決めない。
先に、残す分。
そのうえで、分けられるもの。
俺は、女王とのつながりを確かめた。
まだ、余裕はある。
でも、だからといって全部取る気はない。
「少しだけな」
声にする。
作業を進める。
手順は、教わったとおり。
前より慣れたところもあるが、急がない。
器へ、蜜が落ちた。
琥珀色。
ゆっくり、底へ広がっていく。
〈採れた!〉
〈おお、今回も〉
〈家主、だいぶ落ち着いてる〉
〈初回は器持つ手まで緊張してたな〉
「今も、結構、慎重にやってますよ」
小さく返す。
手元を見る。
蜂の動きも見る。
伝わってくるものも、確かめる。
以前なら、蜜が落ちてくることばかり見ていたかもしれない。
今は、それ以外にも見るところがある。
少しずつ。
やがて、分けられる感覚が、弱くなった。
俺は手を止めた。
「……ここまでですね」
リィナも、器と記録を見比べる。
「はい。今日の分は、残しておきましょう」
片づける。
巣を確かめる。
閉じる。
そのあとで、静かに離れた。
今日も、全部を空にしたわけではない。
必要なものは、向こうに残っている。
俺は、そのことを、もう一度確かめるように意識した。
女王から伝わるのは、少しのざわつきと、その奥の落ち着き。
俺は、小さくうなずいた。
「ありがとう。また、様子を見るからな」
◇
部屋を出ると、イトが立ち上がった。
俺の手元を見る。
器の中。
少し、光が映っていた。
「とれた?」
「あぁ。今日も、少し」
イトが顔を寄せかけて、途中で止まる。
勝手に触らない。
それも、覚えている。
俺は笑って、食堂へ運んだ。
瓶へ移す。
日付。
量。
今日の状態。
リィナが、記録をつける。
俺は、前に採った瓶と並べた。
一回目。
二回目。
留守の間に、エダさんが見てくれた分。
そして、今日。
全部を満たした、大きな瓶が並んでいるわけではない。
使ったものもある。
少しずつ、分けて残したものだ。
それでも、もう、一度きりではなかった。
「……採れるようになってきましたね」
俺は、しみじみ言った。
〈うん〉
〈最初は、いつ採れるかも分からなかったもんな〉
〈少量でも続けて採れるの、大きい〉
〈生活の中に収穫が入ってきた感じ〉
リィナがうなずく。
「採れた分を比べられるようになりましたね」
俺は今日の蜜を鑑定した。
【琥珀蜜蜂の蜂蜜】
【品質:並】
【用途:食材】
品質は、今回も並。
でも、それは、悪い意味ではなかった。
食材として、ちゃんと使える。
同じ群れから、また、用意できた。
「……うん。これなら、少しずつ相談できますね」
俺は、マルクへの連絡事項へ、一行書き足した。
◇
すぐに売る分を決めたわけではない。
家で食べる分。
記録として残す分。
これからの採れ方。
そこを、先に見た。
リィナと、瓶を数える。
量も確かめる。
その結果、今ある分から、小さな瓶一本なら、試験的な取引へ回せそうだった。
「最初は、これくらいですね」
「はい。次も同じ量をお約束するのは、まだ早いと思います」
「ですね。採れて、余ったら相談する形で」
蜂蜜と引き換えに、ポイント交換用の素材を持ってきてもらう。
前に話していたことだ。
その一歩目が、ようやく見えてきた。
俺は、メッセージをまとめた。
留守中、荷物を見てくれた礼。
受け渡しの記録を確認したこと。
蜂蜜を一本、相談に出せそうなこと。
ポーションも、品質がそろい始めていること。
送信する。
すぐに返事を求めず、画面を閉じた。
〈いよいよ蜂蜜が資材になるのか〉
〈自家用を残してるのいいな〉
〈全部売ったらイトが悲しむ〉
俺は、隣を見た。
イトは、瓶を見ていた。
でも、手は伸ばしていない。
俺の視線に気づき、首を傾ける。
「食べる分は、残してあるぞ」
伝えると、ゆっくりうなずいた。
「うん」
やっぱり、気にはしていたらしい。
◇
食堂で少し休んだあと、リィナから声がかかった。
「修羅さん。もしお時間があれば、もう一度、調合してもいいですか?」
「もちろん。今日作る予定だったんですか?」
「はい。今回は、こちらで育てた薄葉草を、一部使ってみたくて」
俺は、顔を上げた。
自分たちの畑で育ったもの。
まだ、大量に収穫したわけではない。
でも、使える葉が、少しある。
メルナさんにも状態を見てもらい、乾燥と保管の記録も残していた。
「……見たいです」
即答した。
〈自家栽培の材料きた〉
〈畑からポーションへ〉
〈今日は盛りだくさんだな〉
「ですねぇ。帰ってきた日に、いろいろ見せてもらってます」
俺は、器を片づけた。
イトも立ち上がる。
ただ、今回は一緒に作業台へ近づきすぎない。
火も使う。
見る場所を決め、そこへ座る。
リィナが、いつもの道具を並べ始めた。
◇
作業は、以前より滑らかだった。
材料を見る。
分ける。
量る。
記録を確かめる。
その間に、何度も手が止まることはない。
もちろん、確認はしている。
ただ、迷って立ち尽くすのとは、違った。
俺は、横で水を用意する。
使い終えたものを受け取る。
今日は、それくらいだ。
勝手に鍋へ手を出す必要はなかった。
「……慣れましたね」
小さく言うと、リィナは手元を見たまま答えた。
「同じところを、何度か間違えたので」
少し笑いが混じっていた。
最初に、火が強くなりすぎたところ。
濾すときに、止まったところ。
そういうことを、覚えているのだろう。
作業台の横には、必要なときに見られるよう、記録が開かれている。
手順そのものを全部、紙へ頼っているわけではない。
でも、忘れたくないところは、ちゃんと残してある。
俺は、黙って見た。
途中で、イトがこちらへ顔を向ける。
俺も見る。
声は出さず、少しだけうなずいた。
二人で、リィナの手元へ視線を戻した。
◇
瓶へ、液体が移された。
淡い赤。
濁りは、少ない。
栓をする。
リィナが、手を離した。
「……できました」
俺は、瓶を見る。
すぐに鑑定した。
【粗製回復ポーション】
【品質:低】
【効果:服用時、HPを少量回復する】
「今回も、低です」
伝えた瞬間、リィナが息を吐いた。
そのあと、目の前の何もない場所へ視線が動く。
俺は、その反応を知っていた。
「……何か、出ました?」
彼女が、こちらを見る。
少し驚いた顔。
それから、ゆっくりうなずいた。
「〈調合〉のレベルが、上がりました」
「お」
「二に、なりました」
〈おめでとう!〉
〈ここで上がった!〉
〈自分で育てた薬草で成功したのいいな〉
〈リィナ、頑張ったなぁ〉
俺も、思わず笑った。
「おめでとうございます」
リィナは、瓶へ目を戻した。
手を伸ばす。
持ち上げる前に、作った日を書く札を確かめた。
それから、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
品質が、スキルの上昇と同時に、急によくなったわけではない。
今日の一本も、低。
でも、その一本を、同じように作れた。
材料を見て。
違いを確かめて。
失敗を残して。
それを続けてきた先で、二になった。
俺は、その様子を、ちゃんと見られてよかったと思った。
◇
片づけの途中、イトが椅子から下りた。
机へ近づく前に、リィナを見る。
彼女がうなずくと、少しだけ前へ出た。
瓶を見る。
リィナを見る。
「できた」
「はい」
「つよく、なった?」
リィナが、少し考える。
俺も、黙って待った。
「作るのが、少し上手になったみたいです」
そう答えると、イトがうなずいた。
「すごい」
リィナの顔が、柔らかくなる。
「ありがとうございます」
俺は、道具を洗うために持ち上げた。
今日は、祝うことが多い。
帰ってきた。
みんなが元気だった。
畑が育った。
蜂蜜が、また採れた。
ポーションが、そろって作れるようになってきた。
それから、スキルも上がった。
俺自身のレベルは、変わっていない。
でも、少しも物足りなくなかった。
◇
マルクから返事が来たのは、片づけを終えたあとだった。
『お帰りなさい。お戻りをお待ちしておりました』
その一文を読んで、俺は少し笑った。
続きには、預かり品の記録についての確認。
次の便の予定。
そして、蜂蜜の取引について。
『小瓶一本から、ぜひご相談させてください。次の便で、交換候補の素材を少量お持ちします。量と状態を見比べて、双方で決めましょう』
俺は、リィナへ内容を伝えた。
彼女もうなずく。
「いよいよ、ですね」
「はい。まだ、小さくですけど」
ポーションについては、まず見本と記録を、メルナさんやサネンさんへ見せるところから。
いきなり大量に売る話にはしない。
俺は、そこも含めて返事をした。
使える物が増えた。
その中から、家で使うものと、外へ出すものを分ける。
少し前まで、全部を自分たちで使い切っていたのに。
「……ちゃんと、続くものになってきましたね」
俺は、机の上の瓶を見る。
蜂蜜。
ポーション。
一度だけの成功ではない。
また、用意できるようになってきたものだ。
〈生産拠点になってきた〉
〈初めての収穫を待ってたころから見ると、感慨深い〉
〈安定してくると取引の話ができるんだな〉
「ですね。ただ、作れるからって、無理に全部増やすつもりはないです」
俺は、リィナを見る。
「今の畑と、道具でできる範囲から」
彼女がうなずいた。
そこで、イトもなぜか、うなずく。
たぶん、同意してくれている。
◇
夕飯の前に、今日の確認を整理した。
魔物たち。
怪我なし。
迎撃室。
大きな損傷なし。
回収した素材。
残す分と、交換する分を確認済み。
預かり品。
記録と実物が合っている。
薬草。
成長中。
ポーション。
直近の作業で、低品質のものを続けて作れている。
調合は、二へ。
蜂。
群れの様子に大きな異常なし。
採蜜の記録が増え、今日はまた少量を分けてもらえた。
俺は紙を見て、息を吐いた。
「……確認すること、終わりましたね」
〈お疲れ!〉
〈いっぱいあったな〉
〈復帰初日にしては働いた〉
〈家のみんなもお疲れ〉
俺は、隣へ目を向けた。
イトは、椅子に座っている。
朝よりは、落ち着いていた。
でも、俺が立つと、まだ少しこちらを見る。
俺は、笑って尋ねた。
「今日、ずっとついてきてくれてたな」
イトが、俺を見る。
少しだけ、間。
それから、小さな声。
「……いなく、なる?」
俺は、口を閉じた。
リィナも、手を止める。
ゲームの中では、ログアウトする。
俺にとっては、機械を外して、現実へ戻ることだ。
でも、イトから見れば、また、しばらく会えなくなることもある。
俺は、椅子へ座り直した。
「今日は、あとで向こうへ帰る。でも、次に来る予定は決めてる」
イトは、じっと聞いていた。
「これからも、向こうの用事で、入れない日はある。ただ、長く空けるときは、ちゃんと伝えるようにする」
できない約束は、しない。
毎日、絶対戻る。
そう言えば、今は安心してくれるかもしれない。
でも、それができない日もある。
俺は、ゆっくり続けた。
「今日は、もう少し一緒に飯食おう。片づけも、そのあとで」
イトが、少しだけ顔を上げた。
「いっしょ」
「あぁ。一緒」
小さく、うなずく。
俺は、その頭へ手を置いた。
今度は、すぐに離さなかった。
〈ちゃんと話してくれるのいいな〉
〈毎日来るって、簡単に言わないのも〉
〈イト、今日は一緒に飯だぞ〉
〈もう今日はゆっくりしてくれ〉
俺も、そうしようと思った。
◇
夕飯は、煮込みとパンだった。
いつもの器。
いつもの席。
久しぶりなのに、変わっていないものもある。
俺は、椀を持ち上げた。
「いただきます」
リィナとイトも、食べ始める。
一口。
温かい。
肉と野菜が、軟らかい。
「……うま」
声が出た。
〈お帰り〉
〈これ聞くと戻ってきた感じする〉
〈現実でもそれ言ったんだろうなw〉
「言いましたねぇ」
俺は、少し笑う。
家族と食べに行った飯も、うまかった。
今、ここで食べている飯も、うまい。
どちらかがあれば、もう片方は要らない。
そういうものではなかった。
向こうでは、学校へ行く。
課題をする。
家族や友達と話す。
こちらでは、家へ帰る。
みんなと暮らす。
やることは、多い。
でも、今日は、それがあまり重くなかった。
俺がいない間にも、リィナは調合を続けた。
イトは家を手伝った。
猪も蜘蛛も、守ってくれた。
俺も、向こうで、やることを終わらせてきた。
それで、また、同じ机へ戻れた。
俺は、もう一口食べた。
◇
食後には、蜂蜜を少しだけ出した。
今日の分。
前に採ったものとも、香りが違う。
パンを小さく切る。
薄く塗る。
イトへ渡すと、両手で受け取った。
見る。
食べる。
しばらく噛む。
それから、俺を見る。
「あまい」
「甘いな」
俺も食べる。
少しだけ、花の香り。
久しぶりに、うちで採れたものを食べた。
「……これも、うまいですね」
〈語彙が帰ってきた〉
〈いつもどおりで安心する〉
〈今日は甘やかしていい日〉
リィナも、少し味を見る。
それから、記録へ何か書こうとして、手を止めた。
俺は、笑った。
「あとで、一緒に書きましょう。今は、食べてからで」
彼女も笑い、紙を少し遠ざけた。
今日、調べることはたくさんあった。
でも、食べる時間まで全部、作業にしなくていい。
俺は、椅子へゆっくり背中を預けた。
◇
配信の終わり。
俺は、食堂から視界の端へ目を向けた。
いつものコメント欄。
今日は、最初から最後まで、よく流れていた。
「復帰したばかりで、確認することが多かったですけど。付き合ってくれて、ありがとうございました」
〈お疲れ!〉
〈楽しかったぞ〉
〈リィナの成長見られてよかった〉
〈蜂蜜の取引、次が楽しみ〉
〈イトも今日は安心して寝られそう〉
俺は、隣を見る。
イトは、椅子の上で、少し眠そうだった。
朝から、待っていたのかもしれない。
今日は、ずっと一緒に動いていたし。
「……今日は、みんなの顔が見られてよかったです」
俺は、素直に言った。
「これからも、入れない日や、短い日はありますけど。できる範囲で、続けていきます」
〈それでいい〉
〈学校も仕事も生活もあるからな〉
〈また次、待ってる〉
俺は、少し頭を下げた。
「ありがとうございます。次は、今日まとめた話を進めつつ、外にも行きたいですね」
そう言うと、すぐに文字が流れた。
〈久々の狩りも見たい〉
〈まず家で一日終わると思ってた〉
〈知ってた〉
〈お帰り、修羅〉
最後の言葉を見て、俺は笑った。
「……ただいま、です」
手を上げる。
配信を終了した。
◇
文字が消えたあと、食堂は静かになった。
リィナが器を集める。
俺も立ち上がり、手伝う。
イトは、椅子の上で目をこすっていた。
「眠いか?」
聞くと、少し迷ってから、うなずく。
「先に寝ても、大丈夫だぞ」
イトは、俺を見る。
また、少しだけ不安そうな顔。
俺は、洗った器を置いてから、そちらへ戻った。
「寝る前に、部屋まで行くか」
手を差し出す。
小さな手が、俺の指をつかんだ。
通路を歩く。
今日は、いつもよりゆっくり。
イトの部屋へ入り、寝床を整える。
人の姿のまま、しばらく座っていたが、やがて蜘蛛の姿へ戻った。
白い腹。
黒い脚。
寝床の端へ、少し体を寄せる。
俺は、その隣へしゃがんだ。
「留守番、ありがとうな」
前脚が、ゆっくり動く。
俺の手袋へ触れた。
〈意思疎通〉を通じて、薄い感覚が届く。
眠い。
落ち着く。
そして、近くにいてほしい。
言葉で聞かなくても、今日は少し分かった。
俺は、すぐには立たなかった。
寝床のそばへ座り、しばらく待つ。
脚の動きが、少しずつ静かになる。
俺の手に触れていた前脚も、ゆっくり下りた。
「……おやすみ」
小さく言う。
今度は、返事はなかった。
◇
部屋を出ると、リィナが通路の先にいた。
手には、今日まとめた記録。
「眠りましたか?」
「はい。たぶん」
俺は、少しだけ声を落として答えた。
彼女も、同じように小さくうなずく。
「お戻りになって、うれしかったんだと思います」
「……俺も、戻れてよかったです」
リィナは、柔らかく笑った。
食堂へ戻る。
机の上には、片づけられた紙。
棚には、蜂蜜。
栽培室には、育っている薬草。
作業台には、品質がそろい始めたポーション。
俺がいない間にも、ちゃんと増えていたもの。
それを、今日は一つずつ見られた。
俺は、巻いた図面を棚へ戻した。
壁は、掘らなかった。
レベルも、上がっていない。
でも、帰ってきた日に見るものとしては、十分すぎるくらいだった。
「次に、マルクさんが来るのも楽しみですね」
俺が言うと、リィナがうなずいた。
「はい。見ていただきたいものが、ありますから」
俺は、棚の瓶をもう一度見た。
蜂蜜も。
ポーションも。
少しずつ、続けて用意できるようになってきた。
この家で生まれるものが、増えている。
そのことが、今は、何よりうれしかった。




