21話 テスト期間 日常会
●主人公視点
はい。
目の前に、非常に嫌な紙があります。
柊圭斗です。
場所は、教室。
机の上に置かれているのは、今回の定期テストの範囲表だ。
数学。
英語。
国語。
その他、いろいろ。
先生は、提出する課題や試験の日程について説明している。
俺は、その声を聞きながら、紙の端を押さえていた。
「……広くない?」
思わず、小さくつぶやく。
隣の席から、同じようなため息が聞こえた。
どうやら、俺だけがそう思っているわけではないらしい。
よかった。
いや、何もよくない。
みんなで困ったところで、範囲は狭くならない。
「今回、数学やばいわ」
休み時間になるなり、佐伯が言った。
椅子をこちらへ向け、範囲表を机へ置く。
「柊、分かる?」
「どこ?」
「この辺」
指されたところを見る。
俺は、一度うなずいた。
それから、教科書を開く。
例題を見る。
もう一度、範囲表を見る。
「……確認してから答える」
「分かってないやつの返事じゃん」
「今、適当なこと言うよりいいだろ」
佐伯は笑った。
俺も笑った。
ただし、心の中では笑っていなかった。
これは。
そろそろ、本気でやらないとまずい。
◇
最近、ゲームの中では、できることが増えていた。
家がある。
薬草を育てる場所がある。
蜂蜜も採れた。
集落からの荷物を預かる棚もできた。
商隊は、新しい道を使って来るようになった。
俺は、その全部が気になっている。
次にログインしたら、あれを確認しよう。
これも相談しよう。
そんなものが、頭の中へ常に一つか二つある。
でも、現実のほうにも、ちゃんと次が来る。
今回の場合は、テストだった。
しかも、魔物と違って、斧で倒せない。
力を込めて紙を押さえても、答えが出るわけではない。
俺は、ノートへ式を書いた。
途中で止まる。
教科書へ戻る。
「……あぁ。ここ、抜けてるのか」
授業は聞いていた。
課題も、出していた。
ただ、それと、試験で自分一人で解けることは、同じではないらしい。
見れば分かる。
説明されれば、うなずける。
でも、何も見ないでやると、手が止まる。
非常に、嫌なやつだった。
◇
昼休み。
俺が弁当を開いていると、佐伯がスマホをこちらへ向けた。
「修羅、五十万人いったって」
箸が止まる。
画面には、俺のチャンネル。
登録者数のところに、五十万を少し超えた数字が表示されていた。
「……おぉ」
「反応、薄くない?」
「いや。すごいなって」
実際、すごい。
俺自身、昨夜、管理画面を見て固まった。
少し前まで、三十万だった。
それでも十分に多いと思っていたのに。
大侵攻の映像。
大会の映像。
普段の狩り。
それから、家のことをしている配信。
いろいろなところから、見に来てくれる人が増えているらしい。
「最近、蜂蜜のやつ見た?」
「……見た」
「蜂と相談してたじゃん。あれ、すごくない?」
「便利そうだよな」
俺は卵焼きを口へ入れた。
便利です。
でも、今欲しいのは、英単語を忘れなくなる何かです。
「この前、母親に飯おごるって話してたんだよな」
「……そうなんだ」
そこまで、見ていたのか。
「ちゃんと、お金入ったのかな」
佐伯が、画面をしまう。
俺は、何となく水筒へ手を伸ばした。
まだだ。
収益の画面には、見慣れない項目や数字がある。
説明も、聞いた。
でも、実際に振り込まれたという連絡は、まだ来ていない。
だから、実感は薄かった。
ゲームの中で荷物を売ったときみたいに、その場で財布が重くなるわけではない。
「……入ったら、うれしいんじゃないか」
俺が言うと、佐伯がうなずいた。
「だよな。初めて、自分で稼いだ金って」
俺は、弁当へ目を落とした。
その言葉が、少しだけ残った。
◇
家へ帰ってから、予定を確認した。
テスト前の期間。
試験の日。
提出するもの。
机の上へ、順番に並べる。
その横に、スマホ。
チャンネルには、今日もコメントが届いていた。
『五十万人おめでとう!』
『次の狩りも楽しみにしてる』
『蜂蜜、また採れたら見せてくれ』
俺は、それを読んで笑った。
うれしい。
本当に。
ただ、そのままネクサスへ手を伸ばす前に、机の上を見直した。
やることが、多い。
少しだけログインする。
そう思っても、たぶん、少しでは済まない。
薬草を見る。
蜂を見る。
荷物の確認をする。
誰かと話す。
気づけば、時間になる。
それで慌てて勉強を始めたら、どちらにも集中できなくなりそうだった。
「……一回、休もう」
口に出してみる。
少しだけ、寂しくなった。
でも、今は、そのほうがよさそうだ。
俺はスマホを取り、今日の配信のお知らせを書いた。
『今日は家の確認と、お知らせがあります。短めです』
投稿する。
それから、課題へ戻った。
最後の問題を終えてから、ネクサスを手に取る。
今日は、次にしばらく入れないことを、ちゃんと伝えよう。
◇
ログインすると、いつもの部屋だった。
体を起こす。
大きな手。
重い足。
見慣れた防具。
これをしばらく使わないのかと思うと、急に、どこかへ行きたくなる。
狩りへ。
山へ。
まだ歩いていない道へ。
「……駄目ですねぇ」
時間がないときほど、やりたいことが出てくる。
俺は、配信を開始した。
「はい。こんばんは。修羅でーす」
〈こんばんは!〉
〈五十万人おめでとう!〉
〈お知らせって何?〉
〈今日は短め?〉
「ありがとうございます。登録してくれた方も、いつも見てくれてる方も」
少し頭を下げる。
視界の端には、次々と文字。
俺は、それを見てから続けた。
「今日は、先にお知らせなんですけど。試験の準備があるので、少しの間、ログインと配信を休みます」
コメントが、一気に増えた。
〈試験か〉
〈頑張れ!〉
〈現実優先でいいぞ〉
〈勉強期間かー〉
〈いつくらいまで?〉
「終わって、予定が分かったら、改めてお知らせします。無理に途中で入ると、たぶん、気になってそっちばっかり考えるので」
〈自覚あるなら休もう〉
〈分かる〉
〈過去の配信見て待ってるわ〉
〈蜂の世話は大丈夫?〉
「今日は、その確認をします」
俺は食堂へ向かった。
リィナとイトにも、話さなければならない。
◇
「……しばらく、帰ってこないんですか?」
リィナの声が、少しだけ静かになった。
俺は、椅子へ座る。
「向こうで、勉強しないといけないことがあって。終わったら、また戻ります」
彼女は、少し考えてから、うなずいた。
「分かりました。こちらのことは、できるところを進めておきます」
「ありがとうございます。ただ、無理に増やさなくて大丈夫です」
薬草は、今の栽培を続ける。
調合も、残っている材料と、教わった範囲で。
新しい材料を大量に買う話は、戻ってから相談する。
蜂の点検は、次の便に合わせてエダさんが来る予定があった。
俺が不在になることは、先に連絡しておく。
その日は、リィナに立ち会ってもらう。
無理に採蜜しようとはしない。
必要なことがあれば、専門家の判断を聞く。
入口の誘引装置は、閉じたまま。
猪たちは、普通に家を守る。
素材の回収も、無理のない範囲。
集落の荷物は、今ある棚へ置ける分だけにする。
マルクへも、俺がしばらく不在だと連絡する。
一つずつ、確かめた。
その途中で、隣にいたイトが袖を引いた。
「しゅら」
「ん?」
「べんきょう?」
「あぁ。勉強」
イトが、少し首を傾ける。
俺は机へ置いてあった紙を指した。
「こういうのを読んだり、覚えたり。向こうでは、俺もいろいろ覚えないといけないんだ」
イトは紙を見る。
それから、俺を見る。
「むずかしい?」
「……結構」
正直に答えた。
コメントが、少し笑いで埋まる。
〈強敵なんだな〉
〈斧が通らない相手〉
〈修羅、頑張れ〉
イトはしばらく考えてから、小さくうなずいた。
「がんばる」
自分のことのように言った。
俺は、笑った。
「あぁ。頑張る」
◇
その日は、家をゆっくり回った。
栽培室。
養蜂室の外。
倉庫。
預かり品の棚。
迎撃室。
猪の背中を撫でる。
蜘蛛の待機場所を見る。
盾持蜥蜴兵にも、声をかけた。
「ちょっと、頼むな」
短い鳴き声。
俺は、うなずく。
家を空けるのは、初めてではない。
でも、今回は、俺がログインしない。
それは、少し違った。
〈意思疎通〉で感じる猪の様子は、いつもどおりだった。
俺が勉強するからといって、向こうが慌てるわけではない。
休んで。
水を飲んで。
入ってきた魔物がいれば、守る。
その暮らしがある。
俺は、もう一度だけ背中を撫でた。
「……帰ったら、また見るからな」
食堂へ戻ると、リィナが戸締まりの確認をしていた。
俺は、配信画面へ向き直る。
「じゃあ、しばらく休みます。また、戻るときに」
〈待ってるぞ〉
〈テスト頑張れ〉
〈ちゃんと寝ろよ〉
〈五十万人の節目で休めるの偉い〉
〈復帰回楽しみにしてる〉
俺は、少しだけ言葉を探した。
見てくれる人が増えたところだった。
だから、休むのが、ちょっと怖かった。
でも、流れてくる言葉は、思っていたより温かかった。
「……ありがとうございます。ちゃんと、やってきます」
手を上げる。
配信を終了した。
◇
現実へ戻ってから、ネクサスを机の横の棚へ置いた。
いつもの、すぐ手に取れる場所より少し奥。
別に、隠すわけではない。
ただ、布団へ座るたびに見える位置だと、考えてしまうので。
俺は、机へ向き直った。
教科書。
ノート。
問題集。
同じ机なのに、今夜は、随分と物が多い。
「……よし」
数学から始めた。
一問。
途中で止まる。
例題へ戻る。
もう一度。
解けた。
次の問題。
さっきと少し違う。
手が止まる。
「……似てるのに、違うのやめてほしいですねぇ」
誰に言っているのか分からない独り言が出た。
コメントは流れない。
当たり前だ。
俺は、水を飲んでから、もう一度、問題文を読んだ。
◇
翌日から、生活が変わった。
学校へ行く。
授業を受ける。
休み時間に、分からなかったところを聞く。
帰る。
飯。
勉強。
寝る。
ゲームへ入る時間は、なかった。
少しだけ。
そう思いかけることは、あった。
でも、今入ったら、畑を見る。
蜂も見る。
荷物も気になる。
俺は、そのたびに、棚から目を離した。
学校では、佐伯も同じように困っていた。
「ここ、どうやった?」
昼休み、ノートを寄せられる。
俺は、一昨日、同じところで止まっていた。
「まず、こっちをそろえて」
「あぁ」
「そのあと、これを移す」
「……何で、俺、最初からこっちやったんだろ」
「俺も、最初やった」
佐伯が笑う。
俺も笑う。
説明しようとすると、理解していないところが分かる。
そこは、少し面白かった。
代わりに、英語では俺が助けてもらった。
「その単語、昨日も間違えてたぞ」
「分かってる」
「分かってたら間違えないだろ」
「意味は分かる。つづりが出てこない」
「それ、分かってないって言うんだよ」
正しい。
非常に、正しい。
俺は、ノートの端へもう一度書いた。
◇
「修羅も、しばらく休みなんだな」
放課後。
鞄を持ちながら、佐伯が言った。
俺は、できるだけ普通にうなずいた。
「そうらしいな」
「試験って言ってたけど、何の試験なんだろ」
「さあ。いろいろあるだろ」
「まぁ、そうか」
そこは、深く聞かれなかった。
俺は、内心、少しだけ息を吐く。
「でも、ちょうどよかったわ。配信始まると、つい見ちゃうし」
「……勉強しろよ」
「お前もな」
お互い、笑った。
佐伯は、俺が自分の配信を休んで、今、隣で一緒にテスト勉強をしているとは思っていない。
俺も、言うつもりはない。
ただ、今のところは。
二人とも、目の前の試験で困っている。
それだけは、同じだった。
◇
夜。
机へ向かっていると、母さんが扉を軽くたたいた。
「お茶、いる?」
「いる。ありがとう」
置かれたコップから、湯気が上がる。
母さんは、棚のネクサスへ目を向けた。
「今日は、やらないんだね」
「テスト終わるまで、休むって言った」
「あぁ。配信も?」
「うん」
母さんは少し驚いたようだった。
「見てくれる人、増えてたんでしょう?」
「五十万人、超えた」
「……また増えたの?」
「うん」
俺も、まだ、よく分かっていない。
画面には、確かにそう出ている。
でも、五十万人と、百万人の違いを、ちゃんと想像できるかと言われると難しい。
教室にいる人数なら、分かる。
学校全体でも、何となく。
そこから先は、もう大きい。
「待ってるって、言ってくれたから」
俺が言うと、母さんは静かにうなずいた。
「じゃあ、ちゃんと終わらせて戻らないとね」
「……そうだな」
「夜更かししすぎないでよ。明日、起きられなくなるから」
「分かってる」
その言葉は、何度も聞いている。
でも、今日は素直に返事をした。
寝不足で、分かる問題まで分からなくなったら困る。
俺は、今日やるところへ印をつけた。
ここまで。
終わったら、寝る。
ゲームを休むと決めたのだから、その分を全部、夜更かしへ回すのも変な話だった。
◇
何日か、そういう生活が続いた。
ダンジョンには、入っていない。
蜂蜜の瓶が気になる。
青露草の葉も、増えたかもしれない。
リィナのポーションは、どうなっただろう。
猪たちは、怪我をしていないか。
考え始めると、いろいろ出てくる。
でも、任せると決めた。
全部を毎日自分で見ないと、何も進まない家にしたかったわけではない。
俺がいない間にも、みんなの暮らしはある。
そう思って、机へ戻った。
配信の管理画面は、告知や、急ぎの連絡がないかを見る程度。
新しい動画を作ったり、配信の準備をしたりはしなかった。
休止のお知らせには、時々コメントが増えていた。
『勉強頑張ってるかー』
『こっちは過去の猪戦見てる』
『復帰したら畑見せてくれ』
『自分も試験なので一緒に頑張る』
俺は、それを読んで、少し笑う。
同じように机へ向かっている人も、いるらしい。
返事を全部書く時間はない。
でも、見て、少し元気をもらった。
それから、画面を閉じた。
◇
最初の通知が来たのは、試験が始まる少し前の夜だった。
数学の問題を解き終えて、答えを確認していたとき。
スマホが、机の端で震えた。
佐伯だろうか。
今度は、どの問題だ。
そう思って、手に取る。
違った。
配信サービスからの通知だった。
【収益のお支払いについて】
俺の指が止まる。
画面を開く。
見慣れた管理画面。
そこに、支払いの案内が出ていた。
「……あ」
内容を読む。
何月分の、何が対象になっているか。
まとめられた明細。
支払いの状況。
俺は、一行ずつ見た。
そのあと、入金先のアプリも確認した。
新しい履歴。
そこに、数字があった。
二十八万四千七百六十円。
俺は、しばらく動かなかった。
「……え?」
小さく声が出る。
もう一度見る。
数字は、変わらない。
桁も、同じ。
俺は一度、画面を閉じた。
開く。
ある。
ちゃんと、ある。
「……本当に、入ってる」
レオンが言っていた。
何回も確認した、と。
俺は、笑ってしまった。
今、全く同じことをしている。
◇
机の上に、未記入のノートがあった。
俺はそこへ、日付を書いた。
入った額。
どの分か。
管理画面の明細も、保存した。
会社で教えてもらったこと。
マルクに言われたこと。
レオンたちから聞いたこと。
今は、少し役に立った。
ただ、手は、少し落ち着かなかった。
俺の配信で。
現実のお金が。
初めて、入ってきた。
大きな額だった。
少なくとも、俺にとっては。
ノートへ書いた数字を見て、もう一度スマホを見る。
その間に、頭の中へ、いろいろ浮かんだ。
新しいものが買える。
ネクサスのために、残しておける。
配信に使うものも、買えるかもしれない。
でも、その前に。
「……母さん」
俺は、椅子から立った。
◇
居間では、母さんがテレビを見ながら洗濯物を畳んでいた。
俺が顔を出すと、こちらを見る。
「どうしたの。休憩?」
「……ちょっと、見てほしくて」
スマホを差し出す。
母さんは、画面へ目を落とした。
少しの間、黙る。
俺を見る。
もう一度、画面を見る。
「……これが、配信の?」
「うん。最初の分」
「本当に、入ったんだ」
「入った」
俺は、うなずいた。
母さんも、少し驚いた顔をしていた。
「こんなに?」
「今回、まとめての分だから。毎回、同じとは限らないって」
説明を聞いたときのことを思い出す。
登録者の数だけで、毎月の額が決まるわけではない。
見られ方も違う。
過去に残した配信が、収益化を始めたあとに見られた分もある。
大会や大侵攻の映像も、まだ見てもらえている。
ただ、昔の視聴回数が全部、後からお金になったわけではない。
俺は、分かるところだけ、順番に話した。
母さんは、黙って聞いていた。
それから、笑う。
「……よかったね」
その言葉で、ようやく実感が増した気がした。
数字を見たときとは、また違った。
「うん」
俺も、笑った。
「それでさ」
少しだけ、言いにくい。
でも、前から決めていたことだ。
「テストが終わったら、飯、食いに行こう」
母さんが、顔を上げる。
「前に言ってたやつ?」
「うん。俺が出す」
母さんは、一瞬だけ、何かを言いかけた。
遠慮するのかと思った。
でも、少しして、うなずいた。
「じゃあ、ごちそうになろうかな」
俺は、少しだけ肩の力を抜いた。
「何、食べたい?」
「それは、テストが終わってから考えましょう」
「……はい」
正しい。
今、店を探し始めたら、たぶん、それで時間がなくなる。
◇
部屋へ戻った。
椅子へ座る。
問題集を見る。
数字が、目に入る。
でも、さっきまでと同じようには読めなかった。
「……集中しろ」
自分へ言う。
今日、入ったお金。
うれしい。
かなり、うれしい。
ただ、それで明日の授業がなくなるわけではない。
試験の範囲も、減らない。
俺はスマホを、机の引き出しへ入れた。
今日は、もう見ない。
少なくとも、今やっているところを終わらせるまでは。
ペンを持つ。
途中まで解いていた式へ戻る。
一行。
次の一行。
……あ。
符号が違う。
「……そこか」
消しゴムを使う。
書き直す。
答えが合った。
こっちも、ちゃんと嬉しかった。
◇
翌日、佐伯から聞かれた。
「何か、機嫌よくない?」
「そう?」
「昨日、分からん問題送ったら、返事、妙に丁寧だったし」
「……説明する練習」
「何の?」
「俺も、解けるか確認したかったから」
それは、本当だった。
ただ、少し気分がよかったのも本当だ。
言うつもりはない。
収入の話をすれば、何の収入か聞かれる。
そうなれば、説明が難しい。
俺は、いつもどおり教科書を開いた。
「こっちは?」
「そこ、まだ」
「じゃあ、一緒にやるか」
佐伯が椅子を寄せる。
俺たちは、休み時間の机へノートを並べた。
配信では、五十万人を超える人が登録してくれている。
会社へ行けば、修羅として話を聞いてもらえる。
でも、今、隣にいる友達は、俺の英単語の間違いを指摘してくる。
「それ、つづり違う」
「……また?」
「また」
俺は、書き直した。
たぶん、この時間も、結構大事だ。
◇
試験が始まった。
教室が、いつもより静かになる。
机の上へ、必要なものだけ置く。
配られる紙。
裏返したまま、開始の合図を待つ。
俺は、ペンを持ち直した。
ゲームの中で、強い魔物を前にしたときとは違う。
足元を見る必要はない。
逃げる方向も、ない。
ただ、時間は限られている。
「始め」
紙を返す。
最初の問題を見る。
……分かる。
手を動かす。
次。
これも、やった。
途中で、一つ止まった。
焦って、そのままにしない。
印をつけて、先へ進む。
あとで戻る。
そう決めていた。
教室には、ペンの音だけがしていた。
俺は時計を見る。
まだ、時間はある。
呼吸を整えて、次の問題へ目を移した。
◇
試験期間中も、ログインはしなかった。
一日目が終われば、次の日の科目。
帰って、飯を食って、机へ向かう。
少しだけ配信を見ようか。
そんな考えが浮かぶこともあった。
でも、他人の配信を見始めたら、俺も入りたくなる。
分かっていたので、やめた。
代わりに、風呂へ入る。
少し歩く。
水を飲む。
それから、戻る。
スマホには、時々連絡が来た。
レオンから。
『勉強、順調? 返事は急がなくていいから』
俺は、少し笑った。
『何とか。終わったら、また話そう』
短く返す。
それ以上、ゲームの話は広げなかった。
佐伯からは、別の連絡。
『今日の最後の問題、何?』
俺は画面を見る。
しばらく考えた。
『あれは、俺も自信ない』
『だよな』
そのあと、互いに明日の範囲を確認した。
ゲームの友達。
学校の友達。
今は、どちらも、ありがたかった。
◇
最後の試験が終わった日。
合図がかかり、俺はペンを置いた。
答案が集められる。
教室の空気が、少しずつ変わる。
誰かが、長く息を吐いた。
すぐ近くでも、同じような音がする。
俺も、椅子へ背中を預けた。
「……終わった」
その一言が、自然に出た。
佐伯が、こちらへ顔を向ける。
「どうだった?」
「分かるところは、書いた」
「それ、全員そうだろ」
「……できたところと、怪しいところがある」
「俺も」
二人で笑った。
すべて完璧だったわけではない。
見直して、間違いに気づいたところもある。
最後まで、自信のない問題もあった。
でも、何も手が出ないまま終わったわけではなかった。
机へ向かった分は、出せた気がする。
そこは、少しだけ安心した。
「今日、ゲームやる?」
佐伯が聞いた。
俺は、少し考える。
「今日は、ちょっと休む」
「え。俺、すぐやるつもりだった」
「昨日、遅かったから」
「あぁ……分かる」
急に気が抜けると、眠くなる。
今日は、無理に何かを詰め込まないほうがよさそうだった。
それに、俺には、もう一つ予定を決めたいものがある。
母さんとの、飯だ。
◇
家へ帰ると、母さんが台所にいた。
「終わった?」
「終わった」
「お疲れさま」
「……疲れた」
鞄を置く。
椅子へ座る。
何となく、肩が軽かった。
母さんが、お茶を置いてくれる。
俺は、それを飲んでから言った。
「週末、空いてる?」
母さんが、こちらを見る。
「ご飯?」
「うん」
少し笑って、うなずいた。
「空けておく」
「何、食べたい?」
今度は、止められなかった。
母さんは、少し考えた。
それから、駅の近くにある、小さな洋食屋の名前を言った。
前から、気になっていた店らしい。
「そこ、行こうか」
「いいの?」
「うん。俺も、食べてみたい」
母さんが、笑った。
「じゃあ、楽しみにしてる」
俺も、うなずいた。
最初に話したときより、その言葉が近く感じた。
まだ予定だったものが、ちゃんと日になった。
◇
週末。
俺は、母さんと並んで駅前を歩いていた。
会社へ行ったときとは、違う。
資料は持っていない。
名刺をしまう場所も、考えなくていい。
ただ、財布は、何度か確かめた。
入っている。
大丈夫。
それでも、また触りそうになる。
「さっきから、何確認してるの」
母さんに言われた。
「……財布」
「そんなに見なくても、逃げないよ」
「分かってる」
分かってはいる。
でも、今日は、俺が払う。
そう決めているので、何となく落ち着かなかった。
店は、駅前の通りから少し入ったところにあった。
派手な看板ではない。
入口の横に、料理の写真。
窓の向こうに、温かい色の明かり。
俺は、看板のメニューを見る。
肉。
魚。
シチュー。
……全部、うまそうだ。
「ここ?」
「そう。前に通ったとき、気になってたの」
「じゃあ、入ろう」
俺は扉を開けた。
◇
店の中は、落ち着いていた。
皿の触れる音。
厨房から聞こえる、小さな音。
ソースの匂い。
案内された席へ、向かい合って座る。
母さんと二人で外食すること自体は、初めてではない。
でも、今日、俺が出すと決めて来たのは、初めてだった。
メニューを開く。
母さんも、向こうで開いた。
「何にする?」
「迷うね」
「好きなのにして」
少しだけ、格好をつけた。
母さんが、こちらを見る。
それから、笑った。
「じゃあ、遠慮なく」
その返事で、逆に安心した。
遠慮されすぎると、俺も困る。
今日は、おごりたいと思って来たのだから。
母さんは、煮込み料理のセット。
俺は、厚めのハンバーグと、ご飯。
それから、食後に甘いものも頼むことにした。
「あなた、ゲームの中でも、こういうの作るの?」
注文を終えると、母さんが聞いた。
「……作れたら、いいけど」
「まだ?」
「今は、焼くか煮るかが多い。材料も、あるものを使うので」
「そうなんだ」
俺は、厨房のほうを見る。
香りだけでも、いろいろ入っていそうだ。
何を使っているんだろう。
そう考えていると、母さんが笑った。
「また、向こうで作ること考えてるでしょう」
「……ちょっと」
顔に出ていたらしい。
◇
料理が来た。
湯気。
濃い色のソース。
皿の上で、肉が少し揺れる。
俺は、思わず姿勢を正した。
「……うまそう」
母さんが笑う。
「いただきます」
俺も、手を合わせた。
切る。
中から、熱い肉汁が出る。
一口。
口へ入れた。
「……うま」
母さんが、向かいで少し笑った。
「何?」
「同じこと言うんだなと思って」
「何と?」
「配信」
俺は、ナイフを持つ手を止めた。
そうだった。
見られているんだった。
「……だって、うまいので」
「うん。おいしいね」
母さんも、自分の皿から一口食べた。
表情が、少し明るくなる。
俺は、それを見て、何となく安心した。
店選び、正解だったらしい。
こっちの家の食堂とは、違う。
椅子も、器も、匂いも。
でも、誰かが食べて、うまそうな顔をするのがうれしいのは、同じだった。
◇
しばらく、普通の話をした。
学校のこと。
テストで困った問題。
佐伯と勉強したこと。
夏休みが終わって、朝が忙しくなったこと。
母さんは、途中で笑ったり、呆れたりしながら聞いていた。
「ちゃんと、友達と勉強してたんだね」
「してたよ。俺が聞くほうも、多かったけど」
「いいんじゃない。分からないままより」
「……そうだな」
その言葉は、ゲームの中でも、最近よく考えていた。
分からないことは、聞く。
できる人に、見てもらう。
一人で全部できるようになるまで、何もしない。
そういうことでもない。
俺は、ご飯を一口食べた。
それから、少し迷って言う。
「テスト期間、全然入らなかったんだよね」
「ゲーム?」
「うん。やっぱ、気にはなった」
「畑?」
「……畑も。蜂も。家のみんなも」
母さんが、うなずいた。
少しだけ、言葉を探しているようだった。
「戻ったら、また教えてもらえばいいんでしょう?」
「……まぁ、そうだな」
「あなたがいなくても、向こうの人たちは暮らしてるんでしょう?」
「うん」
俺は、少し笑った。
「たぶん、俺が思ってるより、普通に」
「じゃあ、帰るのが楽しみだね」
そう言われて、胸の奥が少し軽くなった。
戻って、確認しなければ。
気になっていたのは、そればかりだった。
でも、何があったか聞くのも、楽しみにしていい。
俺は、うなずいた。
「……楽しみ」
◇
食事が進んだところで、母さんが言った。
「それにしても、あの配信がお金になるって、まだ少し不思議だね」
「俺も、そう思う」
「楽しそうにしてるのは、分かるんだけど」
「うん」
俺は、水を飲む。
最初は、配信されているかも、よく分かっていなかった。
コメント欄にも、すぐには気づかなかった。
それが、今は、五十万人。
学校の友達まで、見ている。
「誰かが見てくれてるの、うれしいんだよな」
俺は、皿へ目を落とした。
「何か作って、失敗しても、笑ってくれたり。分からないこと、教えてくれたり」
母さんは、静かに聞いていた。
「だから、最初は、それだけでよかったんだけど」
「うん」
「お金が入ったら……本当に見てもらってたんだなって、変な感じがした」
言いながら、自分でも少し不思議だった。
数字だけなら、何度も見ている。
コメントも、読んでいる。
それでも、現実の口座へ入ってきたときは、別の実感があった。
あの時間が、こっちへつながった。
そんな感じだ。
母さんは、少し考えてから言った。
「今日は、そのおかげで、私はおいしいご飯を食べてるね」
俺は顔を上げる。
母さんが、笑った。
俺も、つられて笑う。
「……そうだな」
「ありがとう」
その言葉が、思っていたより、胸へ残った。
俺は少しだけ目をそらし、水を飲んだ。
「……こちらこそ」
「何が?」
「会社、一緒に来てもらったし。普段も、いろいろ」
うまく言えなかった。
長く話すと、余計に照れそうだった。
母さんは、それ以上、聞き返さなかった。
ただ、もう一度笑って、ご飯を食べた。
◇
食後に、小さなケーキが来た。
母さんは、果物の載ったもの。
俺は、濃い色のチョコレート。
コーヒーの香り。
窓の外を、通り過ぎる人。
今日は、次の授業も、明日の試験も気にしなくていい。
そのことに、ようやく体が気づいた気がした。
「……終わったんだなぁ」
思わず言う。
「テスト?」
「うん」
「結果は、これからだけどね」
「……それは、今は置いといて」
母さんが笑った。
俺も、ケーキを一口食べる。
甘い。
うまい。
頭を使ったあとには、ちょうどよかった。
スマホへ手を伸ばしかけて、やめる。
配信のことを、今、確認する必要はない。
今日は、この席で飯を食べるために来た。
それを、ちゃんと楽しもう。
俺は、もう一口、ケーキを食べた。
◇
会計のときは、少しだけ緊張した。
伝票を持って、席を立つ。
母さんが鞄へ手をかけたので、俺は先に言った。
「今日は、俺」
「うん。お願いします」
その返事を聞いて、レジへ向かう。
合計は、七千二百六十円。
俺は財布を開いた。
用意してきたお金。
何度も確かめたので、あるのは分かっている。
それでも、取り出す手は、少し慎重になった。
支払う。
店の人が、金額を確かめる。
お釣り。
レシート。
受け取った。
「ありがとうございました」
言われて、俺も頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
店を出る。
母さんが、隣へ並んだ。
「おいしかったね」
「……うん」
「ごちそうさま」
俺は、少しだけ笑った。
「また、行こう」
言ってから、付け足す。
「……無理なく、行けるときに」
母さんが、声を出して笑った。
「そうしよう」
◇
帰り道、財布の中を確かめた。
使った分だけ、減っている。
当たり前だ。
でも、何となく、嫌ではなかった。
残りは、ちゃんと残す。
必要なことにも使う。
ただ、最初に使った分が、今日の飯だったのは、よかった気がした。
レオンは、何回も入金を確認したと言っていた。
セレネは、椅子。
ノエルは、本。
ロックは、机。
俺は、母さんとのご飯。
それぞれ、違う。
でも、たぶん、覚えているのだろう。
何を買ったか。
何に使ったか。
どんな気持ちだったか。
俺も、今日のことは覚えていそうだった。
◇
家へ戻ると、母さんは台所へ買ってきたものを置いた。
俺は、先に洗い物を片づけた。
外でご飯をおごったから、普段のことをしなくていい。
そういう話ではない。
皿を戻していると、母さんが言った。
「今日、ログインするの?」
俺は、時計を見る。
まだ、時間はある。
でも、先にやりたいことがあった。
「明日、戻ろうと思ってる。今日は、机の上片づけて、準備する」
「あぁ。あの山、崩すんだね」
教科書。
問題集。
ノート。
紙。
試験前から、かなり積み上がっている。
「……崩さないように、片づけます」
俺はそう答えて、部屋へ戻った。
◇
机の上を整理した。
返すもの。
残すもの。
次の授業で使うもの。
順番に、棚へ戻す。
収益の明細も、分けて置く。
今日のレシートは、ノートの間へ挟んだ。
金額だけでなく、何に使ったか。
忘れないうちに、一行書く。
『母さんとご飯』
それを見て、少しだけ笑った。
簡単な一行だった。
でも、そこへ来るまでに、いろいろあった。
最初の配信。
十人の登録。
大会。
大侵攻。
家造り。
会社の人との話。
みんなに聞いた、収益化のこと。
それから、今日。
俺は、ノートを閉じた。
◇
夜、チャンネルへお知らせを出した。
『試験が終わりました。しばらくお休みしていましたが、明日、時間を決めて配信を再開します。まずは家の確認から。』
送信する。
少しして、反応がついた。
『お疲れさま!』
『待ってた!』
『畑、どうなってるかな』
『蜂蜜増えてそう』
『まずはゆっくり見て回ってくれ』
俺は画面を見て、笑った。
お金の話は、細かく書かなかった。
ただ、もう一文だけ、足した。
『初めての収益も受け取り、家族とご飯へ行けました。いつもありがとうございます。』
投稿する前に、母さんへ声をかけた。
ご飯に行ったことだけ、書いてもいいか。
返ってきたのは、短い返事。
「いいよ。おいしかったって、伝えておいて」
俺は、うなずいた。
それから、送信した。
◇
しばらくすると、レオンから連絡が来た。
『試験、お疲れさま。ご飯も行けたんだね』
俺は、返した。
『行けた。うまかった』
すぐに、返事。
『よかった。最初の収益、何回確認した?』
俺は、しばらく画面を見る。
数えていない。
でも、少なくとも一回ではない。
『結構』
『やっぱり』
短い文字だけだった。
でも、声が聞こえる気がした。
俺は笑って、スマホを机へ置いた。
直後に、佐伯からも連絡が来る。
『修羅、明日復帰だって』
俺は、椅子の上で少しだけ固まった。
相変わらず、早い。
画面へ目を落とす。
『そうなんだ』
返す。
少しして、続きが来た。
『俺らとテスト終わる時期同じで笑う』
俺は、ゆっくり息を吐いた。
『試験って、いろいろあるからな』
『まぁな』
そこで話が終わる。
俺は、スマホを伏せた。
……危ないようで、まだ、何も知られていない。
たぶん。
◇
寝る前、棚からネクサスを取り出した。
久しぶりに、手へ持つ。
傷が増えたわけではない。
形が変わったわけでもない。
ただ、しばらく触っていなかっただけだ。
明日、これをつける。
そうすれば、向こうへ戻れる。
食堂。
リィナ。
イト。
猪たち。
薬草。
蜂。
いない間に、何があっただろう。
ポイントは、どれくらい増えただろう。
それも、少し気になる。
でも、最初に聞きたいことは、たぶん別だ。
元気だったか。
困ったことはなかったか。
何か、面白いことがあったか。
俺はネクサスを、いつもの場所へ戻した。
今日は、まだ入らない。
明日、ちゃんと時間を取って。
慌てずに、帰ろう。
布団へ横になる。
部屋の明かりを消す。
テストは、終わった。
最初の収入も、受け取った。
母さんと、ご飯にも行けた。
ここ何日か、机へ向かっていた時間を思い出す。
魔物を一匹も倒していない。
ダンジョンの壁も、掘っていない。
それでも、何もなかった日々ではなかった。
俺は、少しだけ笑った。
「……明日、楽しみだな」
返事は、ない。
コメントも、流れない。
静かな部屋で、俺は目を閉じた。




