1話 新学期
●現実世界・柊圭斗視点
夏休みが、終わりました。
どうも。
修羅こと、柊圭斗です。
現在、布団の中にいます。
目覚ましは、鳴りました。
止めました。
もう一度、鳴りました。
止めました。
そして今、スマホに表示されている時刻を見て、少しだけ現実と向き合っています。
「……学校か」
分かっていた。
昨日から、分かっていた。
鞄も用意した。
提出する物も、ちゃんと入れた。
イベント前に終わらせておいた自分は、偉いと思う。
でも。
起きたくない気持ちは、別だ。
布団から片腕を出し、スマホを取る。
通知が、いくつも並んでいた。
友達とのグループ。
配信チャンネル。
届いたメール。
その中で、見慣れたアイコンを開く。
数字が、表示された。
【チャンネル登録者数:306,418人】
「…………」
俺は、一度画面を閉じた。
もう一度、開いた。
変わらない。
三十万六千四百十八。
「……三十万人」
声に出しても、よく分からなかった。
大会の後に、十万人を超えた。
あのときも、随分驚いたと思う。
それが今は、三倍。
大侵攻の動画が、いくつも見られていた。
ガルムド戦。
進化した瞬間。
斧閃を覚えた場面。
公式放送の順位発表。
その間に、イトが焼き菓子を食べる動画も混じっている。
再生数を見て、俺は少し黙った。
「……よく、見つけますね」
あんな長い配信の中から、あの短い場面を。
コメント欄を少し読む。
『ガルムド戦から来ました』
『六本腕の人だと思って見始めたら、家具を運んでいた』
『イトちゃんとの会話が好き』
『村の職人さんとのやり取り、ずっと見ていられる』
俺は、布団の中で少し笑った。
嬉しい。
それは、間違いなかった。
ただ。
画面の上の時刻が、変わる。
「……やば」
俺は、布団を跳ねのけた。
三十万人に見られていても、遅刻はする。
◇
玄関で靴を履く。
片方の紐を結び、もう片方も。
立ち上がって、鞄を背負った。
軽い。
水も、薬も、干し肉も入っていない。
代わりに、教科書と提出物。
手へ斧を取ろうとしているわけではない。
そんな癖は、さすがにない。
ただ、玄関の横に立てかけてある傘が目に入って、少しだけ笑いそうになった。
長い物を持って歩く生活に、随分慣れてしまった。
「行ってきます」
家を出る。
朝の日差しが、眩しい。
まだ、暑かった。
道路。
電柱。
信号。
自転車の音。
昨日まで見ていた石の城壁も、角のある人も、ここにはいない。
でも、歩道を少し進んだところで、聞き覚えのある言葉が耳へ入った。
「ガルムドの最後、見た?」
俺は、危うく振り向きそうになった。
◇
前を歩いていた二人組が、スマホを見ていた。
同じ学校の制服。
一人が画面を指す。
「あの腕、増えるところ」
「分かる。最初、何起きたか分からんかった」
「修羅、あそこから普通に戻ってきたのすごくない?」
俺は、歩く速度を少し落とした。
近づきすぎない。
離れすぎるのも、変かもしれない。
いや、誰も俺のことなんて見ていない。
普通に歩けばいい。
「でも、あれ、初めて使ってるんだよな」
「前から二本は出してたじゃん。それが四本になった」
「俺だったら絶対、全部同じ方向に動かすわ」
俺も、最初はそうでした。
言いそうになった。
言わなかった。
口を閉じたまま、信号の前へ並ぶ。
隣で動画の音が少し漏れる。
『――今度は、もっと押せます』
俺の声だった。
ゲームの中の。
顔が、少し熱くなる。
信号が青になるまでの時間が、妙に長かった。
◇
教室へ入ると、久しぶりの声が重なった。
「おはよう」
「焼けた?」
「課題、持ってきた?」
いつもの景色。
席へ鞄を置き、椅子を引く。
その瞬間、後ろから肩を叩かれた。
「柊!」
振り返る。
友達の佐伯だった。
夏休み中も、何度かゲームの話を送ってきたやつだ。
「おはよう」
「おはよう、じゃねえよ。大侵攻、どこまで見た?」
いきなり、その話だった。
俺は、鞄から提出物を出しながら答える。
「……最後まで」
「だよな!」
佐伯が、隣の空いている机へ手をつく。
「修羅、一位だったぞ!」
「見た」
「やばかったよな!」
「……うん」
返事が、少し短くなる。
佐伯は、そんなことを気にしていなかった。
スマホを取り出す。
開かれた画面に、俺がいる。
阿修羅になった直後。
赤い腕。
傷だらけの防具。
大きな斧。
俺は、それを現実の自分の手の横で見た。
こっちの手には、包帯もない。
ただ、指先に少しペンの跡がついているだけだ。
「ここ! この戻ってくるところ、めちゃくちゃよくない?」
佐伯が言う。
「ガランが『また増えたか』って言うやつ」
俺は頷いた。
「……ああ」
「強くなったぞ、って長々説明しないで、そのまま行くんだよ。いいわ」
実際は、早く戻らなきゃと思っていた。
説明している余裕が、なかっただけだ。
でも、そう見えていたなら少し嬉しい。
「あと、ゼルガさん!」
佐伯の声が、大きくなる。
「戦槌、重すぎるだろ!」
「……重いと思う」
あれを目の前で見たときの音を思い出して、つい素直に答えた。
佐伯が、満足そうに頷く。
「だよな。お前も、ああいうの好きだろ」
俺は、少しだけ笑った。
「嫌いじゃない」
大好きです、とは言わなかった。
◇
気づけば、机の周りに何人か集まっていた。
ゲームをやっている人。
動画だけ見た人。
名前だけ知っている人。
「俺、王都にいた」
一人が言う。
「レオン、少し見えたぞ。遠かったけど」
「俺はヴァルグ。修羅は見えなかった。ずっと箱運んでた」
俺は、その人へ顔を向けた。
「……何、運んでたの?」
「水と、空の容器。地味だったけど、結構金入った」
「そうなんだ」
「次は、もうちょい戦いたいな。でも今回、裏方も悪くないと思った」
俺は、その顔を見た。
同じ街にいた。
もしかしたら、同じ水を飲んでいたかもしれない。
「……助かったと思うよ。前の人も」
言うと、そいつは少し照れたように笑った。
「だといいけどな」
俺は、目を落とした。
本人へ、言えた。
正体は明かしていない。
でも、お礼に近いことは伝えられた気がした。
その横で、別の友達が言う。
「柊もやってるんだろ? 何してた?」
心臓が、一度大きく動いた。
来た。
いつか聞かれると思っていた質問。
俺は、提出物の端を揃えた。
「……狩りとか。家、整えたり」
「へえ。拠点持ってるの?」
「まあ、少し」
「どこ?」
俺は、顔を上げた。
佐伯も、こちらを見ている。
一瞬、教室の声が遠くなった。
「まだ、内緒にしてる」
そう答えた。
変に細かい嘘をつくと、後で困る。
俺は少し笑って、続ける。
「見せられるほど、片づいてないから」
佐伯が、すぐに笑った。
「お前、部屋もそんな感じだったよな」
「……そこは、関係ないだろ」
話が、そちらへ流れた。
俺は、心の中で長く息を吐いた。
今度、ちゃんと片づけよう。
ゲームの家だけじゃなく、現実の部屋も。
◇
始業の時間になり、先生が入ってきた。
周りにいた人たちが、それぞれの席へ戻る。
スマホが、しまわれる。
代わりに、机の上へ紙が出た。
俺も、背筋を伸ばした。
予定の説明。
提出物の確認。
休み明けの、いつもの話。
その途中で、先生が教室を見渡す。
「夏休みの生活から、切り替えてください。夜更かししている人も多いでしょうけど」
何人かが、少し笑った。
俺は、前を向いたまま頷く。
耳が、痛い。
「特に、朝から眠そうな人」
先生の目が、こちらの辺りへ来た気がした。
俺は、目を開いた。
ゲームの夜なら、夜目があった。
現実の朝には、ない。
眠いときは、普通に眠い。
鞄の中へスマホをしまい直し、俺は予定表へ印をつけた。
今日、やること。
帰ってから、確認すること。
配信を始める時間。
最後の一つは、心の中だけで書いた。
◇
昼休み。
佐伯が、弁当を持ってこちらへ来た。
椅子を引き、机を少し寄せる。
「修羅、三十万人超えたって」
俺は、飲み物を持つ手を止めた。
「……そうらしいね」
「十万人になったの、そんな前じゃないだろ。伸び方やばいな」
別の友達が頷く。
「公式でもあれだけ出てたしな。阿修羅の動画、ゲームやってないやつも見てたぞ」
俺は、弁当の蓋を置いた。
朝の数字が、頭へ戻ってくる。
三十万人。
自分で見るだけでも不思議だった。
他人の口から聞くと、もっと現実味がなかった。
「でも、昨日の配信は普通に荷物運んでた」
佐伯が言った。
「総合一位の次が、お土産配り」
友達が笑う。
「見た。針と鋏買ってたな」
「強い装備買うのかと思ったら、ずっと誰に渡すか考えてんの」
俺は、卵焼きを口へ入れた。
話へ、入れない。
いや、入れる。
でも、入ったら余計なことを言いそうだ。
「……ああいう回も、いいんじゃない」
少しだけ答える。
佐伯が、こちらを見る。
「お前、結構見てるよな」
俺は、ゆっくり噛んだ。
飲み込む。
「……まあ」
「俺も、戦闘だけ見に行ったはずだったんだけどな。最近、家がどうなるか気になってる」
「熊だろ」
「そう! あの熊、いつ呼ぶんだろうな!」
俺は、お茶を飲んだ。
少し、熱かった。
まだ、呼んでません。
部屋を先に作ります。
言葉が喉まで出かけて、そこで止まった。
「……場所、要りそうだよね」
何とか、それだけ言った。
「だよな!」
佐伯が、楽しそうに頷く。
俺は、自分の弁当へ目を戻した。
この会話、何度も続いたら危ない。
でも。
好きで見てくれているのは、分かった。
それは、やっぱり嬉しかった。
◇
放課後、教室を出るときにスマホを確かめた。
通知は、また増えていた。
コメント。
登録者の節目を祝う言葉。
次の配信を待っている人たち。
それから、仕事の連絡先に届いた問い合わせもあった。
件名だけ読む。
すぐには返さない。
きちんと内容を見て、分からない物は調べてから。
今、歩きながら決めることではない。
「柊、今日ログインする?」
後ろから、佐伯の声。
俺は、スマホを閉じた。
「すると思う」
「俺も。今度、普通に遊ぼうぜ。イベント中、結局別々だったし」
俺は、少しだけ足を緩めた。
遊びたい気持ちは、ある。
友達と一緒に歩くのも、楽しそうだ。
でも、あの姿で目の前へ出たら。
さっきまで動画を見せてきた佐伯が、どんな顔をするだろう。
「……予定、見てから連絡する」
「おう。忙しかったらいいけど」
佐伯は、軽く手を上げた。
それ以上、無理には聞かなかった。
俺も、手を上げ返す。
正体を隠していることが、少しだけ申し訳なくなった。
でも、今すぐ全部話せるかと言われたら、まだ難しい。
学校でまで、毎日あの三日間の自分を求められたら。
うまく、できる自信がなかった。
ここでは、普通に過ごしたい。
寝坊しかけて。
友達と話して。
課題を出して。
たまに、先生に眠そうだと言われるくらいで。
◇
帰り道、駅前の大きな画面に広告が流れていた。
アビス・フロンティア・オンライン。
見慣れた文字。
世界大侵攻の、短い映像。
王都。
海。
空を飛ぶ龍。
その次に、赤い腕が映った。
俺だった。
「…………」
足が、止まりかける。
通りを歩く人は、ほとんどこちらを見ていない。
画面を見上げる人もいる。
でも、その下にいる俺へ目を向ける人はいなかった。
制服。
鞄。
普通の靴。
角も、斧も、ない。
俺は、少しだけ息を吐いた。
画面の中の自分が、大きな魔物へ走っていく。
あのときは、怖かった。
何度も、戻りたくなった。
でも、戻る場所を守ってくれる人がいたから、また前へ出られた。
映像が切り替わる。
俺は、駅の方へ歩き出した。
少しだけ、背筋を伸ばして。
◇
家へ着き、鞄を置いた。
まず、制服を着替える。
提出物の控えと、明日の予定を確かめる。
やることを一つ済ませてから、机の前へ座った。
スマホを開く。
【チャンネル登録者数:308,072人】
「……また、増えてる」
朝から、千人以上。
数字の大きさには、まだ慣れそうになかった。
でも、その向こうにいる人たちの顔は、少しだけ想像できる。
朝、道を歩いていた二人。
教室の友達。
ゲームの中で、一緒に箱を運んだ誰か。
同じ街を守った人。
遠くの都市で、戦っていた人。
俺は、配信の予定を開いた。
今日は、長くはできない。
明日も、学校がある。
だから、時間を決める。
『本日、夜から短めに配信します。帰宅後の片づけと、改築の相談をする予定です』
投稿する。
少しして、返信がついた。
『熊部屋会議ですか?』
俺は、声を出して笑った。
そのすぐ後、佐伯からメッセージ。
『今日、修羅配信するって』
俺は、天井を見た。
「……知ってる」
ものすごく、知っている。
スマホへ目を戻し、短く返した。
『そうなんだ』
嘘ではない。
いや、少しずるい返事だとは思う。
でも、今日はこれで許してほしい。
俺は机を片づけ、ネクサスを手に取った。
学校では、柊圭斗。
向こうでは、修羅。
どちらも、自分だ。
まだ、その間をうまく歩けているかは分からない。
けれど、どちらかを雑にするつもりもなかった。
明日のアラームを確かめる。
配信を終える時刻にも、通知を設定した。
「……よし」
横になり、ネクサスを装着する。
目を閉じた。
向こうでは、きっと二人が待っている。
片づける荷物も。
考えかけの、熊の部屋も。
夏休みは、終わった。
でも、あの世界での暮らしまで終わるわけではない。
今日は、少しだけ続きを進めよう。
明日、ちゃんと起きられる時間まで。




