第4話:4歳児、才能コンテストでベートーヴェンを殴打する 〜社畜の舞台裏政治と母の最終兵器〜
「エントリーナンバー4番! 葛貫真理子ちゃん、4歳! 演奏曲目は——ベートーヴェン作、『ピアノソナタ第23番 ヘ短調 作品57 《熱情》』!」
司会者の高らかなアナウンスが、収容人数二千人を誇る大ホールの重厚な空間に響き渡った。
眩いスポットライトが、ステージ中央に鎮座する漆黒のグランドピアノ——スタインウェイ&サンズの最上位モデルを照らし出している。
観客席を埋め尽くすのは、有名子役の親たち、芸能事務所の幹部、映画監督、そしてクラシック界の重鎮たち。
ここ『全国キッズ才能コンテスト』は、単なる子供の発表会ではない。優勝者には大手映画会社の主演オファーと、海外留学の権利、そして億単位のスポンサー契約が約束される、まさに「子役界の天下一武道会」だ。
(……なんで????? [本日二度目])
私は、ドレスの裾を引きずらないように注意しながら、トコトコとグランドピアノへ向かって歩いていた。
御歳四歳。身長約100センチ。
足元には、ピアノのペダルに足が届くはずもない私を見るに見かねて設置された、特注の足台がある。
私は心の中で、血反吐を吐く思いで叫んでいた。
(おかしいでしょ!! 4歳児が《熱情》って何!? ベートーヴェンの中でも最高難易度の一曲よ!? ピアニストでも手首壊すレベルの曲を、なんで幼稚園児の指で弾かなきゃいけないのよバカヤロー!!)
1. コンテスト裏のドロドロと、社畜の舞台裏捜査
時計の針を、コンテスト開始前の控室へ戻そう。
母・智恵子の「ピアノを一度も弾いたことがないのにベートーヴェンを完璧に演奏できる」という常軌を逸したホラ(現実改変バグ)により、私の脳内にはすでにベートーヴェンを含む古今東西のクラシック楽譜と、超一流ピアニストの打鍵技術が完全にインストールされていた。
だが、問題は「技術」ではなかった。
コンテストの舞台裏は、先日のキッズモデル撮影現場の比ではないほど、嫉妬と欲望が渦巻くドロドロの愛憎劇(社内政治)の場と化していたのだ。
「あら〜? あれが噂の『朝ドラの天才子役』ちゃん? ピアノも弾けるなんて、お母様がずいぶんと大風呂敷を広げていらっしゃるみたいだけど……大丈夫かしらぁ?」
控室で私を嘲笑うかのように眺めていたのは、コンテストの優勝候補筆頭・神条エレナ(9歳)とその母親だった。
エレナは3歳から名門音楽教室で英才教育を受け、コンクール荒らしとして有名な「本物の天才ピアニスト(小学生の部)」だ。
「エレナ、あんなタレント気取りの4歳児に負けるわけがないでしょう。クラシックを舐めないでほしいわね」
「うん、ママ! 私は『ピアノソナタ第14番 《月光》 第3楽章』で完璧に捻り潰してあげる!」
(うわぁ……ザ・嫌な感じのお金持ち親子……)
前世の社畜時代、コンサル会社から出向してきたプライドだけ高いエリート社員に「君たち叩き上げの現場組とは脳の構造が違うんだよね」と言われた時の不快感が蘇る。
しかし、社畜の洞察力を舐めてはいけない。
私は本番一時間前、エレナの母親が舞台裏でコンテストの審査員長(老高名な音楽評論家)に、何やら重たそうな厚みのある封筒を手渡している現場を、偶然(意図的に物陰から)目撃してしまったのだ。
『審査員長先生……今回のコンテスト、エレナの将来がかかっておりますので……どうぞ良きにご計らいを』
『ふむ……神条夫人、お気持ちは受け取りました。エレナちゃんの演技点には、格別の配慮をいたしましょう』
(買収だーーーーー!! 堂々と買収してやがる!!)
私は物陰で白目を剥いた。
完全なる出来レース。審査員は買収済み。
前世で言えば「すでに出来レースで落札企業が決まっている、出来レースの公共事業入札」と同じだ。
普通ならここで絶望するだろう。
だが、私は三十二年の社畜人生で「理不尽なコンペ」を幾度となく経験してきた女だ。
(審査員が買収されているなら、審査員の採点などアテにしない。会場全体の観客と、テレビカメラの前の数百万人の視聴者を完全に味方につけて、不正を揉み消せないほどの圧倒的『事実』を叩きつけてやる……!)
社畜の逆転勝利の方程式。
それは「上層部の忖度」を「圧倒的な現場の実績と世論の圧力」で粉砕することだ!
2. いざ、開演。4歳児の指が鍵盤を殴打する
「真理子ちゃん、どうぞ!」
スタッフに背中を押され、私は足台に登り、ピアノの椅子に座った。
小さな鍵盤の前に座る4歳児。客席からは「可愛い〜」「でも《熱情》なんて無理でしょ」「親の目立ちたがり屋の被害者ね」という、冷やややかな囁き声が聞こえてくる。
審査員席の中央で、買収された審査員長が退屈そうに眼鏡の奥の目を細めている。
袖では、出番を終えたエレナとその母親が「どうせ途中で泣き出して逃げるわ」と言わんばかりの嘲笑を浮かべていた。
(フッ……見下してなさい。今から見せてあげるわ……社畜の『怨念』と、ベートーヴェンの『怒り』が合体した、本当の音楽ってやつを!!)
スッと息を吸い込む。
私の脳内で、前世の社畜時代の記憶が駆け巡る。
深夜3時、終わらない仕様変更。
理不尽に激怒するクライアント。
「若いんだから苦労しろ」と言い放った五十嵐部長のハゲ頭。
タクシー代をケチって雨の中を走ったあの夜。
……そう、ベートーヴェンの《熱情》とは、運命に対する怒り、苦悩、そして絶望に対する反逆の曲だ!
これほど社畜の生き様と合致する曲が他にあるだろうか!?(ない!)
ズダン!!!!
静寂を切り裂き、私は鍵盤に両手を叩きつけた。
「……ッ!?」
会場全体に、地響きのような低音が轟いた。
4歳の小さな手から放たれたとは思えない、圧倒的な音圧。絶望的な重厚感。
ピアニッシモ(極めて弱く)から一転、爆発するようなフォルテシモ(極めて強く)へ!
私の小さな指が、鍵盤の上をまるで黒い稲妻のように疾走する。
タタタタタタタタ! ドカン!!
「な……なんだあの打鍵は!?」
審査員長が座席から身を乗り出した。
「指が……指が見えない!? 4歳児の運指じゃない!!」
音楽関係者たちが総立ちになる。
私の頭の中では、前世のキーボード高速打鍵(ブラインドタッチ・1分間500文字オーバー)の経験と、母のホラ(バグ)によって流し込まれたクラシックの技術が完全に融合していた。
(くらえ! これが残業時間月160時間の打鍵スピードだぁぁぁぁぁぁ!!)
鍵盤が悲鳴を上げる。
幼い身体全体を使って、体重を鍵盤に乗せる。足台を踏み鳴らし、表情は鬼気迫る「徹夜明けのエンジニア」。
可愛い4歳児の姿をした何かが、ピアノという楽器を使ってベートーヴェンの霊を呼び覚ましているのだ!
3. 圧倒的熱量と、審査員の敗北
第1楽章の激しい跳躍。第2楽章の静けさ。そして第3楽章の、狂気とも言える終曲へ!
客席の誰もが息を忘れていた。
失笑していた観客も、嘲笑っていたエレナも、冷やややかだった審査員たちも、全員が口ぐぐぐっと開けたまま、ステージ上の4歳児に釘付けになっていた。
この曲には「社畜の怒り」が込められている。
世の中の理不尽、理不尽な上司、買収された審査員、親の威光で威張る嫌な子供——そのすべてを鍵盤ごと粉砕するような、凄まじいエネルギーがホール全体を支配していた。
ジャン! ジァァァァァァン……!!!!
最後の和音が響き渡り、私は鍵盤の上に覆いかぶさるようにして静止した。
肩で息をする。4歳児の体力の限界突破だ。
シーン……。
ホール全体が、静寂に包まれた。
一秒、二秒、三秒……。
ドワァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!
次の瞬間、会場を揺るがすほどの爆発的な歓声と拍手が沸き起こった!
観客が全員立ち上がり、スタンディングオベーション!
「ブラボー!」「ブラボー!!」「なんてものを見せてくれたんだ!!」と、大人の音楽家たちが涙を流しながら拍手を送っている。
「バ……バカな……! 4歳で《熱情》を全曲……しかもあの解釈と表現力……! 怪物だ……本物の怪物だ!!」
審査員長が震える手で採点用紙を落とした。
袖にいたエレナは、自分の番が来る前に完全に心を折られ、膝から崩れ落ちて号泣していた。
「無理……無理よママ……! あんなの、勝てるわけないじゃないのぉぉぉん!!」
(よし……! 勝った!! 審査員の買収なんて関係ない! この会場の熱量が、すべての不正を吹き飛ばしたわ!!)
私はゆっくりと立ち上がり、足台から降りて、観客席に向かって深々とペコリとお辞儀をした。
その瞬間、再びホールが割れんばかりの拍手に包まれた。
4. 母の暴走と、さらなるカオス
結果は言わずもがな。
買収されていたはずの審査員長も、会場の熱気とテレビカメラの前で不正をするわけにはいかず、満場一致で私に「グランプリ(最優秀才能賞)」が授与された。
表彰式。胸に大きなリボンをつけられ、金メダルを首から下げられた私。
司会者がマイクを向けてきた。
「葛貫真理子ちゃん! 圧巻の演奏でした! 今のお気持ちを教えてください!」
私は4歳児の天使スマイルを炸裂させ、謙虚に答えた。
「えへへ、とってもたのしかったです! ピアノさん、がんばって弾きました!」
「素晴らしい! まさに未来の巨匠ですね! お母様、この素晴らしい才能をどうやって開花させたのですか!?」
司会者が、客席の前列で誇らしげに涙を拭いている母・智恵子にマイクを向けた。
(あ……ヤバい)
私の社畜アラートが、最大級の警戒音を鳴らし始めた。
勝った。コンテストには完勝した。ざまあも決めた。
だからもういい。お母さん、ここで「皆さんの応援のおかげです」と言って終わらせてくれ!!
しかし、母・智恵子の「見栄っぱり&ホラ吹き」は、グランプリ獲得という最高の舞台で、最高潮に達していた。
「いやぁ〜! 司会者さん! うちのマコちゃんを褒めてくださってありがとうございますぅ〜!」
智恵子は手をひらひらさせながら、会場全体に響き渡る声で言った。
「でもねぇ〜! マコちゃんの本当の才能は、ピアノなんかじゃないのよ〜!」
(……は?)
会場が静まり返る。私も固まる。
「えっ? ピアノ以上の才能……ですか?」司会者が困惑して尋ねる。
「そうなのよ〜! うちのマコちゃんね、実は『未来の株価』を予知できるのよ〜! 昨日の夜もね、『来月の〇〇社の株はバブルになるから全力買いよ!』って、お布団の中で叫んでたんだからぁ〜! おほほほほ!」
(ちょっと待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!)
私はステージの上で、本気で卒倒しそうになった。
言った! ついに言った!!
今まで隠しに隠し通してきた、私の「チートノート」の核心部分——『株価の未来予知』という最大の秘密を、母が全国放送の生中継でブチ撒けやがった!!
「えっ……? 株価の……予知……!?」
会場にいた経済界のパトロンたちや、芸能事務所の幹部たちの目が一斉にギラリと光った。
「おい、いま何と言った……!?」
「〇〇社の株と言ったか!? あそこは今、倒立寸前と言われている企業だぞ……!?」
「もしそれが本当なら……あの幼女は『歩く金脈』だぞ……!!」
(やめろー! 私を見るなー! ギラギラした目で4歳児を見るなー!!)
そして——。
ズキュゥゥゥゥン!!
私の脳内に、またしても強烈なバグが走った。
前世の記憶にある「今後の株式市場の全データ」が、世界線の改変によってさらに精密かつリアルタイムに更新され、脳内に強烈なインジケーターとして表示され始めたのだ!
(うわあああ! 脳内で株価チャートがリアルタイムで乱高下してるー!?)
「マコちゃ〜ん! 優勝おめでとう〜! 帰ったら〇〇社の株、買い占めようね〜!」
能天気な笑顔で手を振る母・智恵子。
「あーうー!(お母さんのバカー! 隠れ金持ち計画が完全に『世界の投資家から狙われる命がけのマネーゲーム』になっちゃったじゃないのよー!!)」
全国キッズ才能コンテストを圧倒的な演奏で制し、見事グランドスラムを達成した葛貫真理子(4歳)。
しかし、母の放った「最後のホラ」によって、彼女の人生はついに芸能界を飛び出し、世界の金融市場を揺るがす大騒動へと突入していくのであった——




