特別編:女王の失冠と、怪物(葛貫真理子)の影の中で
「お稽古は、嘘をつかない」
幼い頃から、父と母、そして歌舞伎界の重鎮である祖父にそう教え込まれてきた。
朝5時に起きて発声練習。学校から帰れば日本舞踊、洋楽のボイストレーニング、そして何百冊という戯曲の読み込み。遊園地に行った記憶も、放課後に友達と駄菓子屋でジュースを飲んだ記憶もない。
私の人生のすべては、「完璧な演技」のためにあった。
神楽坂美羽、8歳。
四代目・神楽坂松十郎の孫であり、子役界において「絶対女王」と呼ばれる存在。
私が画面に映れば、どんな稚拙な脚本だって重厚な人間ドラマに化ける。大人たちは私を「平成・令和最高の天才」と持ち上げ、同年代の子役たちは私の前で息をひそめた。
それが、私の世界のすべてだった。
あの『葛貫真理子(7歳)』という異物(怪物)に出会うまでは。
1. 完璧な女王のプライドと、不快なノイズ
「美羽ちゃん、今日のオーディションは形式的なものだから気負わなくていいよ。監督もプロデューサーも、君を主演に据える前提で映画『境界の子供たち・劇場版』の企画を進めているからね」
サンライズプロのVIPリハーサルルームに向かう廊下で、マネージャーの男性がペコペコと頭を下げながら言っていた。
「形式的? ふん、気を抜くような仕事なんて私にはないわ」
私はそっけない返事をして、控室のドアを開けた。
そこにいたのが、彼女だった。
葛貫真理子。
最近、テレビのバラエティや深夜ドラマ、そして運動会(?)の変なニュースで話題になっている7歳児。
お母様である葛貫智恵子という女性が、メディアに出るたびに「うちのマコちゃんはノーベル賞級の天才科学者だ」とか「伝説のプログラマーだ」とか、耳を疑うようなハッタリを言いふらしていることで有名なお調子者一家だ。
(くだらない……)
私は、真理子ちゃんの前に立ち、あえて冷徹に言い放った。
「葛貫真理子……。あなたのその不気味な『演技』、すべて計算された偽物だってこと、私にはお見通しよ」
彼女の隣にいた白鳥咲良という子がビクッと震える。
だが、当の真理子ちゃんは違った。
完璧すぎるお辞儀。
乱れのない姿勢。
そして何より——私を一切脅威と感じていないような、どこか「社会人のベテラン上司」のような、異様なほど静かな瞳。
(なんなの、この子は……? 恐怖も、嫉妬も、プライドすらないというの……?)
私は胸の奥に芽生えた不快な苛立ちを隠すように、冷ややかに言い捨てて部屋を出た。
「このオーディションで、あなたの化けの皮を剥ぎ取ってあげる」と。
2. 至高の演技 〜私の積み上げてきた100点〜
オーディションが始まった。
「エントリーナンバー1番。神楽坂美羽さん」
名前を呼ばれ、舞台の中央へ進む。
照明の熱気。審査員たちの期待と緊張の視線。すべてが私の「ホームグラウンド」だった。
(見せてあげるわ。本物の芸が、どれほど気高く、美しいものなのかを!)
私は息を吸い込み、演目「崩壊する研究所での決別」に入り込んだ。
『——見ていなさい! 世界が私を拒もうと、私はこの手を解かない! 私の描く未来は、私が決めるのよ!!』
腹底から響かせる発声。
歌舞伎の「見得」の技法を応用した、視線のバチッとした決め。
指先の角度、声の振幅、涙を流すタイミング——すべてが私が毎日6時間の練習で磨き上げてきた「芸術の結晶」だった。
演じ終えた瞬間、審査員席の大人たちが息を呑み、歓声に近い拍手が湧き起こった。
「素晴らしい……! 流石は神楽坂くだ!」
「完璧だ。100点満点……いや、120点の演技だよ!」
(見たかしら、葛貫真理子。これが『本物』よ。あなたのお母様が語るハッタリのプロフィールなんて、この本物の表現力の前には何の役にも立たないわ!)
私は満足感に包まれながら、控室の端へ戻った。
勝負は決まった。誰もこの演技を超えることなどできない。私こそが、この映画の単独主演にふさわしい。
そう……思っていたのだ。
あのお母様(智恵子さん)が、またしても常軌を逸した「大風呂敷」をぶち上げるまでは。
3. 異変 〜大風呂敷が世界を侵食する瞬間〜
「あらぁ〜美羽ちゃんもお上手ねぇ〜! でもマコちゃん、気気後れしちゃダメよ〜!」
控室の隅で、真理子ちゃんのお母様がポリポリと煎餅をかじりながら呑気に叫んだ。
(なんなのあのお母さん……真剣なオーディションの場だというのに……)
私が呆れていると、真理子ちゃんが顔を真っ青にして「お母さん! 喋らないで!」と叫んでいた。
だが、あのお母様の口は止まらなかった。
「うちのマコちゃんねぇ! 『全世界の演劇史と心理学を完璧に修めてて、観客の脳波を直接書き換えるマインドコントロール級の表現力を持つ伝説の演出家』なのよ〜〜〜っ!」
(……は?)
私は耳を疑った。
観客の脳波を書き換える……? マインドコントロール……?
また始まった。いつものバカバカしいハッタリだ。そんな人間がいるわけがない。
……そう、笑い飛ばそうとした、その時だった。
ゾクッ……!!
背筋の毛穴という毛穴が、一斉に逆立った。
部屋の中の「空気の密度」が、物理的に変化した。
まるで、気圧が急激に下がったかのような耳鳴り。部屋の中の酸素が薄くなり、重力が数倍になったかのような錯覚。
その発生源は——真理子ちゃんだった。
彼女は自分の頭を押さえ、苦しそうに膝をついていたが……やがてゆっくりと顔を上げた。
(あ……あぁ……っ……!?)
私は息ができなかった。
彼女の「目」。
先ほどまでの静かな瞳ではない。
まるで、人類の歴史上に存在するあらゆる戯曲、心理学、人間の脳の構造、そして『どう演じれば人間がどう恐怖し、どう感動するか』という悪魔的な法則のすべてを理解してしまったかのような——底なしの知性と威圧感。
「……エントリーナンバー2番、葛貫真理子さん。前へ」
監督の声すら、どこか怯えているように聞こえた。
4. 怪物の降臨 〜脳波を書き換えられる恐怖〜
舞台の中央へ歩み出る真理子ちゃん。
彼女は、立ち止まった。
台本を開かない。立ち姿の型も取らない。発声の呼吸すら整えない。
ただ……そこに「立っている」。
(なになに……? なにをしようとしてるの……? 早く演じなさいよ……!)
心の中で叫ぶ私の期待を、彼女は一瞬で踏みつぶした。
シュウゥゥゥ……
彼女が、小さく息を吐き出した。
その瞬間——私は、自分の胸を強く押さえつけた。
(……息が……できない……っ!?)
ただの吐息のはずだった。
だが、その音の周波数は、人間の脳のα波を直接揺さぶるような特殊な振動を含んでいた。
彼女が息を吐いただけで、審査員席の大人たちも、私も、咲良ちゃんも……部屋にいる全員の心拍数が跳ね上がり、全身が金縛りに遭ったかのように動けなくなったのだ。
『……壊れるわ』
ぽつりと落とされた声。
小さい。なのに、その声は私の鼓膜を素通りして、脳の奥底に直接打ち込まれるように響いた。
『世界が壊れるんじゃない。……私の頭の中の、約束が壊れていくの』
真理子ちゃんが手を伸ばす。
その指先のわずかな震え。瞳の焦点のズレ。
(あ……あぁぁぁ……っ!!)
頭が割れるように痛かった。
悲しくもないのに、目から勝手に涙が溢れ出てくる。
脳が「葛貫真理子の演技」を認識した瞬間、強制的に絶望と愛おしさの感情を注入されているのだ。
これが……これが「観客の脳波を直接書き換える表現力」……!?
ハッタリじゃなかったの……!? あのお母さんが言っていた狂った設定は……全部、本当だったというの……!?
私の100点の演技。
毎日6時間、血の涙を流して積み上げてきた「美しい型」。
そんなものが、真理子ちゃんが放つ「人間心理の根源を揺さぶる悪魔的な波動」の前には、ただの「子どもおままごと」に過ぎなかった。
(勝てない……。こんなの……勝てるわけないじゃない……っ!!)
私は己の無力さに膝を折り、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で壁に手をついて耐えた。
演技が終わったとき。
オーディションルームには、静寂だけが残されていた。
審査員の大人たちは、涙を流したまま、ただただ呆然と真理子ちゃんを見つめている。拍手すらできない。自分たちが今、何を目撃してしまったのかすら理解できていないのだ。
5. 女王の失冠と、手渡された光
オーディションが終わった後の控室。
私は一人、暗い廊下の隅で拳を握りしめていた。
爪が皮膚に食い込み、血が滲むほど強く。
(悔しい……悔しい悔しい悔しいっ……!!)
生まれて初めての挫折。
「絶対女王」と呼ばれた私が、年下の7歳児に、手も足も出ずに完全敗北したのだ。
私は震える足で、真理子ちゃんが一人で座っている控室のドアを開けた。
「……私の負けよ」
声が震えていた。惨めで、情けなくて、逃げ出したかった。
「私の演劇は……『見せるための芸』だった。でもあなたの演技は……観客の心を力ずくで奪い去る『怪物』だったわ。お母様の言葉は伊達じゃなかったのね……あなた、本当に人間の心を操る天才なのね」
私は諦めの境地で、ただ彼女の返声を待った。
あざ笑われると思った。「私の勝ちですね」と見下されると思った。
しかし——。
「神楽坂さん」
真理子ちゃんは、静かに立ち上がり、私に向かって深々と頭を下げた。
「貴女の演技があったからこそ、私はあの領域(集中力)に達することができたのです。貴女の美しく計算されたお稽古の成果……心から尊敬いたしますわ」
「え……?」
私は目を見開いた。
彼女の瞳には、勝利の驕りなど微塵もなかった。
そこにあったのは、私の積み重ねてきた「6時間の練習の成果」に対する、純粋で深いリスペクトだった。
(この子は……私の演技を『子ども騙し』なんて思っていなかった……。私というライバルがいたから、あの極限の演技を出してくれたというの……?)
胸の奥で、固く冷たく閉ざされていたプライドの氷が、一気に溶け出していくのが分かった。
「悔しい……悔しいなぁ……! 同い年にこんな化け物がいるなんて……っ!」
涙が止まらなかった。
でも、それは惨めな涙ではなかった。
自分が目指すべき、遥かな高み(目標)を見つけた者の、熱い感動の涙だった。
私は乱暴に袖で涙を拭うと、真理子ちゃんの小さく温かい手をギュッと握りしめた。
「でも、次は負けないわ! 映画『境界の子供たち』……ダブル主演として、あなたを一番近くで追い越してみせるわ!」
「ええ、楽しみにしていますわ、美羽お姉様」
彼女が浮かべた可憐な微笑み。
私はその時、心から誓ったのだ。この「葛貫真理子」という怪物と共に、映画界の歴史を塗り替えてやるのだと。
6. エピローグ:女王、更なる異常の目撃者となる
その日の夕方。
映画の制作スタッフたちと、今後の撮影スケジュールについての打ち合わせが行われていた。
私も真理子ちゃんも、監督を挟んで並んで座っている。
(ふふ……ダブル主演としての第一歩ね。演技指導も、撮影の段取りも、私がリードしてあげなくっちゃ)
私が女王としてのプライドを少し取り戻し、張り切っていた、その時だった。
バタンッ!
「マコちゃ〜〜〜〜ん! 大変よ〜〜〜〜っ!」
真理子ちゃんのお母様・智恵子さんが、またしても派手な格好で飛び込んできた。
(またあの人……! 今度は何なの!?)
私が警戒すると、真理子ちゃんはまるで「この世の終わり」を見たかのような死んだ魚の目で、自分の頭を抱えていた。
「お母さん……お願いだから、もう新しい設定を増やさないで……私、体術と量子力学と演出論だけでもうお腹いっぱいなの……」
「やだぁ〜何言ってるのよ〜! さっきね、映画の海外現地プロデューサーさんから電話が来たんだけどね!」
智恵子さんは呑気に缶チューハイを傾けながら、またしても世界の理を破壊するような大風呂敷をぶち上げたのだ!
「『うちのマコちゃん、本当は古代から伝わる秘宝の解読もできる、世界最高峰の考古学者で冒険家』なのよ〜〜〜っ!」
(……はい?)
私は持っていたペンを床に落とした。
考古学者……? 冒険家……? 7歳の子が……!?
ズキュゥゥゥゥン!!
その瞬間——私の目の前で、信じられない光景が起きた。
真理子ちゃんの頭の上で、まるで空間が「歪む」ような次元の亀裂が生じたのだ!
「(あぁぁぁぁぁぁぁ!? 脳みそに『インディ・ジョーンズと歴代の考古学者』の記憶がダイレクトインストールされたー!?)」
真理子ちゃんが血の涙を流しながら、頭を抱えて床を転げ回っている。
そして次の瞬間、彼女がパッと顔を上げると——その瞳には、世界の古代遺跡の地図と解読不能な古代文字の解読アルゴリズムが、怪しい光となって浮かび上がっていた。
「マコちゃ〜ん! 映画で古代遺跡のトラップを解除するシーンも追加されるって〜!」
「オギャァァァァァァ(インディ・ジョーンズにするなー!!)」
私(神楽坂美羽)は、床で絶叫する「天才主演女優・葛貫真理子」の姿を見つめながら、開いた口が塞がらなかった。
(な……なになになに今の現象ーーーーー!? お母さんがハッタリを言うと、本当に知識が脳みそにダウンロードされてるのーーーーー!?)
私は察した。
葛貫真理子の「天才」の正体。
それは、お母様の狂ったホラが現実化してしまうという、この世のバグ(怪異)そのものだったのだということを。
(……私、とんでもない怪物とダブル主演を組むことになっちゃったんじゃないかしら……!?)
冷や汗をダラダラと流しながら、私はこれから始まる海外ロケ(古代遺跡での命がけの撮影)の恐怖に、ただただガタガタと震えることしかできなかったのであった——。




