1話 三代将軍
文禄元年六月。天下人・織田信長がこの世を去り、朝鮮の地より日本軍の多くが帰陣し、大坂には諸将が集結。織田幕府三代将軍・信孝より労いの言葉が掛けられた。
「さて、此度は皆々、幕府のためによう戦ってくれた。父上と兄上に代わり、厚く礼を申すぞ」
信孝が座上より言葉を投げると、居並ぶ諸将は一斉に平伏した。
ただ一人、不遜な面持ちで頭を上げている者を除いて。
「……おのれ……天下を簒奪しておきながら、何を尊大に……」
忌々しげに毒づいたのは、織田信忠の嫡男・三郎信久である。
「三郎殿……。聞こえれば厄介なことになりますぞ……」
傍らに座す北畠信雄が必死に嗜めるが、信久は止まらない。
「叔父上は悔しくはないのですか! 本来ならば、叔父上とてこの場で見下ろされるようなお立場ではありますまい!」
「お二方、上様の御前であるぞ。お控えあれ!」
秀信が声を荒らげると、信孝の側近・岡本良勝が信久を鋭く睨みつけた。
「黙れ! 俺はお前らのような者の天下など断じて認めぬ。父上が亡くなり、心を病まれた祖父上を唆して天下を盗み取ったのであろうが!」
「そのお言葉、安土宰相様とて聞き捨てならぬ! 心中はお察し申し上げるが、口が過ぎるぞ!」
秀信の後ろに控えていた徳川家康が、地を這うような声で怒鳴りつけた。
「まあ待て、皆の者。そう憤るな。三郎はまだ若さゆえの血気がある。いずれ独り立ちできると見定めれば、跡目を譲ってやらんこともない」
信孝は鼻で笑い、寛大さを装った。
しかし、この新将軍を内心で認めていない者は、座に満ちていた。
その日の夜。
「兄上があのような有様では、今後の織田家はどうなることやら……」
深い溜息を漏らしたのは、羽柴左近衛少将秀勝。
信長の四男にして、羽柴秀吉の養子となった男である。
「総見院(信長)様も、先代様が亡くなられてからは、あのような御様子であったからのう……。やはり我ら大老が、柱となって支えねばならぬか」
そう答えたのは織田幕府大老の一人、羽柴侍従秀吉である。
「ですが、未だ九州の諸将は皆が国元に戻れたわけではございませぬ。長岡、蒲生らは未だ対馬の守りに拘泥され、帰国すらままならず……」
「そのことじゃがな……。お主に鎮西探題と、羽柴家の一切を任せようと思う。ワシは大坂に残り、上様をお支えする」
「なっ、なんと……。されど、某は未だ若輩の身にございます」
「案ずるな。弥兵衛(浅野長吉)と権兵衛(仙石秀久)を付ける。それに総見院様の御子たるお主であれば、荒武者どもも上手く纏められよう」
「畏れ入り奉ります……。されば、大老衆は皆、大坂に留まられるということでございますか?」
「うーむ、そこがわからんのじゃ」
信長は没する前、信孝から信久への円滑な家督譲渡を期して、五人の有力大名を大老に任じていた。
その面々は、東海三カ国を領する徳川家康、北九州を治める羽柴秀吉、播磨・淡路の池田恒興、丹波の織田信澄、そして越後の柴田勝豊である。
かつての宿老・柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益らは既に亡く、勝豊は柴田家の後継として、信澄は光秀の婿として、恒興は滝川家嫡男・一忠が幼少であったがゆえの繰り上げ人事であった。
彼らはそれぞれ地域ごとに強力な派閥を形成しており、朝鮮出兵を経てその結束は皮肉にもより強固なものとなっていた。
「勝三(恒興)殿と七兵衛(信澄)様はともかく、徳川様ばかりは腹の内が読めぬ。伊介(勝豊)は、犬千代(前田利家)と内蔵助(佐々成政)が脇を固めねば、何もできぬ飾りも同然よ」
「その伊介殿で、三介(信雄)兄上を補佐しきれるのでしょうか」
「ゆえに、北陸の要は柴田ではなく前田に据えたいのじゃがな……。柴田は上様と入魂の仲。一筋縄ではいかぬ」
本来、信忠の跡を継ぐべき地位にあった信雄は、織田家による奥州仕置の際、一揆勢相手に無様な醜態を晒して信長の逆鱗に触れ、奥州探題という名目のもと、陸奥大崎へと事実上の左遷に処されていた。それ以来、彼からは天下への野心という光は潰えて久しい。
「とにかく、金吾(秀勝)殿。早急に筑前へ戻られよ。島津の動向に、寸分たりとも目を離すでないぞ」
羽柴父子が密かに今後を論じている頃。大坂城の天守閣では、信孝派閥による宴が催されていた。
「三郎め。誠にこの俺が、天下を易々と手放すと思うたか!」
「左様、左様! 上様は朝鮮においても全軍を采配された、天下一の武功者! 鼻垂れ小僧に、この国が治まりましょうはずがございませぬ!」
信孝から賜った盃を掲げ、中川清秀が上機嫌に囃し立てる。
「いやはや、中川様と池田様が控えておられれば、織田の世も安泰というもの」
信孝の筆頭家老・長尾一勝が追従を述べると、池田恒興が不満を剥き出しにした。
「しかし、奉行衆の面々め。この場に顔を出さぬとは、上様を軽んじている証左か!」
「全くだ。これでは纏まるものも纏まらぬ。……誰がこの国の真の主であるか、思い知らせてやる必要があろうな」
そう口にした信孝の唇には、冷酷で不敵な笑みが刻まれていた。




